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泣き笑いビンボー暮らし~悟り

小学校も半ば過ぎ、過酷な我が家の経済状態がわかる年頃になった俺は、ひとつの悟りに達した
「家計は苦しい、親父は惨め-これ以上の苦しみは見るに忍びず
という殊勝な心がけになった。以来
人を羨まず金をせがまず、欲しがりません勝つまでは(?)」
だった。

祭りがきても花見になっても、小遣い金にはありつけない。たまに一銭か二銭もらったが、いくら子供でも一銭や二銭では物の用に立たず、飴玉買ってほおばるしかなかった。またこの飴玉という奴が、なめていても味も素っ気もなく、ガリガリ噛み砕くのが常だったが
「噛んだらダメだ。なめていろ」
と怒られる始末だ。経済効果を狙ったアドバイスだ
当時、村では2軒ばかりの駄菓子屋があったが、甘いものなどまったく無縁の存在だった。使い走りの駄賃としてもらう物は、きまってトンカチで叩き割った黒砂糖のひとかけらだった。

田んぼがない我が家では米を買ったが、まともな米は食えなかった。
「政府の払い下げ米」と称する、今で言う古古米専門だったが、噛めば噛むほど味が出てきて貧乏人向きだった
「貧乏人は麦を食え」とヌカした総理もいたが、土地柄で、さすがに麦は食わず、ボロボロ米ながら米飯だけはたらふく食った。
もっとも麦だって決して嫌いではなかった。貧乏人とはよくしたもので、昔も今も固い物、歯ごたえのある物が最上で、食パンも真ん中より耳の方をうまいと感ずる。

飯はともかく、おかずときたら何もない。しかたなく、生ネギに味噌をつけて食ったり、南蛮を焼いて醤油をつけ、その辛いつゆをチビチビ吸っておかずとしたことも度々だった。オカラや醤油の実(醤油の搾りかす)などは良い方だった。
冬の夜は雑炊と決まっていた。残り味噌汁に残り飯を混ぜただけの、経済効果100%の貧乏人向け食い物だった。
雑炊は嫌いでもなかったが、なにせ子供の舌には熱すぎて、味も加減も有らばこそ、胃袋の催促についてゆけないモドカシサには参った。

幼少時の式日(祝祭日)にはカスリの着物など着せられたが、中高年ともなると一応洋服を常用した。祝日も平日もない、年中一枚きりの着たきり雀だ。
3年生頃の夏の朝、登校に際し上着はあるがズボンがない。当時体の小さかった俺は、ひざまである大きな白パンツをはいていたのだが、親父は
「そのまま学校へ行け」
と言う。
「見た目は半ズボン姿そっくりだから差し支えなし」
とする大人の都合よい理屈。が、子供は正直だ、いくら長くともパンツはパンツであって半ズボンではない。半裸体での登校など出来ぬ相談だった。そこでグズる。更に悪いことには、男児連中は既に出発した後で、女児の一団がまだ残っている。
「まだ大勢いるではないか。一緒に行け」
と叱られ、またグズる。
当時は「男女7歳にして席を同じうせず」の時代だ。女児と一緒に遊ぶの歩くのなどの破廉恥行為は許されない。ここにも大人の目と子供の感覚の差があった。
なだめてもさとしてもグズりとおす俺に、堪忍袋の尾を切らした親父は、強烈な一発を見舞った。
5,6米吹っ飛ばされた俺は、びっくりしたのが先に立ち、痛みは感じなかった。
その後のことは覚えてないが、たぶんしぶしぶ学校へ行ったものと思う。
俺がグズって反抗したのも、親父が怒ってぶん殴ったのも、記憶にある限り後にも先にもこの1回きりだった。
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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