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八路軍入隊!?

終戦を迎えた昭和20年(満18歳)の、そろそろ寒くなりかけた10月下旬ごろ、八路軍が日本人に対して入隊の募集を行った。
魂消たものだが、後で進出してきた国府軍も同様のことをした。

このころ日本人のほとんどは、会社も閉鎖され収入の道も閉ざされ、たけのこ生活だった。
たけのこ生活のできる人はまだいい方で、剥ぐ物のない者は、中国人の経営する小規模な町工場や農家などへの出稼ぎで、細々と飢えをしのぐ有様だった。

匪賊集団の兵隊になど、心底なりたいわけもなく、ましてや共産主義に同調したわけでもない。第一共産主義などと言うものはまったく知らない。ただ食うための方便と面白半分で、同僚同輩20数人と応募した。
同じような身の上の人がけっこういるもので、血気の若者のみならず、かなり年配の人も含めて、総勢7~80人くらい集まった。
面接もなければ検査もなく、何かの大広間で歓迎会か入隊式か(?)の席に臨み、フルコースの中国料理をご馳走になった。

翌早朝、30人くらいずつグループに分散された。我々は貨車(無蓋車)に乗せられ、連れて行かれたのは宮原の兵工部だった。
大きな学校か何かの空屋に駐屯していた兵工部という連中だが、何人くらいいたのか何をやっていたのか全然わからない。およそ軍隊などと言うには程遠い、野合の集団だった。
隊長(?)は李という若い男で、日本語を話し、少々インテリ臭かったが、我々には好意的だった。その下に旧日本軍人崩れの中年男がいて、すべてその男の指示で行動した。
パーロとは寝食・作業などまったく別々で、元々食うだけが目的だった我々グループには大変好都合だった。

肝心の食い物といえば、大きな五右衛門風呂風鍋に、白菜、ネギ、豆腐に支那ソーメンと言われるシラタキ風のものなどに豚肉を入れ、さらに油を混入し岩塩でしょっぱくグタグタ煮た、汁とも煮付けともつかぬものがドンブリいっぱい、明けても暮れてもこれ一式である。
最初のうちは油のギトつきでうんざりしたが、慣れるに従いけっこういけた。だいいちそれよりほかに食う物もなく、食うや食わずやのこの時代、何を食ってもうまかった。
何よりもボロボロ飯ながら、まじりっけなしの白米を何杯でもおかわりできたのは幸いだった。当時の平均的日本人は、まじりっけなしの米飯に肉を毎日食っていた人など、そうはいなかったはずだ。

仕事と言えば別に決まったことをやるわけでもなく、その場その場の雑役だった。
最初のうちは大きな学校跡と思われる部屋に、旧日本軍が使用したと思える軍用品が山のように積まれていて、その整理などをさせられた。
軍用品と言っても武器はなく、めぼしい物は八路が使用し、残ったものは一山いくらのガラクタだけだったが、ただ木箱に詰められた弾丸だけはぎっしり山積みされていたのには驚いた。小銃弾をはじめ、サイズも大小色々、名称も知らぬ弾でかなりの量だった。

ある日この中に一丁の拳銃を発見した。
拳銃と言えば格好いいが、実は鞍馬天狗が持って現れそうな「種子島」然とした奴で、砲身が30センチもあり、手動6連(?)発の短銃で、お世辞にもスマートとは程遠い、無粋なシロモノだった。
こいつをちょっと失敬したが、大きすぎて拳銃の弾ではマにあわない。小銃弾を入れたところこれがドンピシャリである。
パーロや中国人に見つかるとヤバいので腰のベルト(ズボンの内側)に装着し、時折人目のないのを確かめ空に向けてぶっ放したが、これがまた何とも痛快だった。拳銃の「ターン、ターン」という玩具の音とは違い、「ズドーン、ズドーン」と手ごたえが違う。小銃弾だから音量も迫力も一枚上で、ある種の溜飲を下げるにはいくらかの効果があった。

この種の火炎銃砲などというものは、あれば一度は見てみたい、見れば一度は手にしたい、手にすりゃ一度はぶっぱなしたい-の図式は、野郎なら大方の一致するところだ。
「専守防衛」だから良いの合憲のとワメいている連中も多いが、一旦コトがおっぱじまれば、攻撃も防御も区別のつかないのが戦争だ。軍備も自衛隊も、無いに越したことはないのだが--。

「じーちゃんの昭和」目次
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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