八路軍あらわる

ソ連軍が進駐してまもなく、通称「八路軍」と言われる集団が進出してきた。
正式名称は「東北人民自衛自治軍」という長ったらしい名前の、毛沢東指揮下の共産党軍である。当時、中華民国を代表するのは蒋介石の率いる国民党軍で(一名「正規軍」とも言われた)彼らから見る共産軍は「匪賊」とされていた。
当時の日本人は、八路軍を一般に字のとおり「パーロ」と呼び、この「パーロ」には大分苦しめられた。「時計と女」専門のロスケに対し、こちらパーロは金品専門だった。
もっとも山東あたりから出てきた本物のパーロ、即ち毛沢東から直接薫陶を受けた連中は、規則も厳しく統制も取れ、おそらく悪事は働かなかったと思う。彼らは戦闘中といえども決して農民の田畑には足を踏み入れなかったという。戦いも勇敢で強かったと聞く。始末の悪かったのは、終戦を機に一般から応募した速成のにわか兵だ。日本人に接していた奴らで、かつての恨みや、一挙に解放された成り上がりからの空威張りだった。
本物のパーロは質素で、風采も上がらぬ田舎丸出しの連中だったが、真面目で純朴だった。面白いのはゲートルを足の細い下部の方に2~3重余分に巻き、足の上下とも同じ太さにするもので、これが格好良かったものらしい。この巻いたゲートルの内側に箸2本差し込んでおくのを常としていた(携帯箸)

格好と言えば進駐当初のソ連軍も、変なおふれを出した。
「帽子のつばを取れ、ゲートルは巻くな、歩くときはばらばらに歩け」
戦時下の日本人は、一歩戸外へ出るときは必ず帽子(戦闘帽)をかぶり、通勤はもちろん、散歩・遊興でも必ずゲートルの着用を常とした。道行くときも、団体・グループ時はもちろん、ある程度頭数がまとまれば隊伍を組んで整然と歩いた。それらのクセが抜けきれない日本人が、ロスケやパーロの気に召さない、どうも日本陸軍人を連想するらしい(当時の着装具は頭のてっぺんから足のつま先までカーキ色一色だった)。
脚絆も巻かず三々五々、チャランポランと歩くのは気が楽で大賛成だが、帽子のつば除きには参った。つばを取り除いた戦闘帽は奴らソ連軍帽そっくりで、鼻が高く顔がゴツく大柄な奴らには粋な格好だが、日本人がコレを横っちょにかぶるとなんともサマにならん。さながら「支那手品」か「南方系コソ泥」然として締まらないことおびただしい。こればかりは勝手が悪く、早々にやめてしまった。

ソ連軍が引き揚げた後、しばらくは八路軍の天下が続いたが、半年後、徐々に形勢逆転し、いよいよ政府軍の鞍山市内への突入が目前に迫った。
市街戦でもおっぱじまったらコトだと一様に気をもんでいたが、作戦か予定の行動か、パーロの方が一戦を交えず順次前方の東方連山越えに総退却した。
ソ連軍引き揚げ後から、国・共双方とも、お互い相手に対する神経は、一方ならぬ異常なもので、道路の要所要所に検問所を設け、厳重な尋問、ボディーチェックなどを行っていた。すべて中国人が対象で、日本人はお構いナシだったのは有難かったが、日本人の間では、それとわかると質のよからぬ中国人からの被害を受けると警戒して、満服(中国服)を着て、あるいはなるべく粗末な格好をして変装するのが流行していた。
しかし政府軍が市内総攻撃の開始に際し、その前日、蒋介石御大の命令として、日本人に対し
「我々の敵は共産匪賊にある。日本人に対してはなんら危害を加えるものではない。従って日本人は日本人らしい格好をすること」
との通告があった。「中国人と間違われ、あらぬ疑いや被害を受けぬよう」との忠告である。
蒋大人の寛大な処置に感謝し、安心して中国服を脱ぎ戸外へ出て、東方連山麓をチョコマカ逃げ惑うパーロ兵に、追い討ちの大砲がドカンドカン破裂する様子を、拍手しながら見物した。

やがて無血入場してきた政府軍(国民党)の統治下となる。彼らはアメリカ方面からの援助の被服や装備で、すごくハイカラな連中から、わらじ履き半ズボンの土民兵もどきの集団と、服装はマチマチだった。しかしさすがは正規軍を名乗る手前、統制は取れ、ロスケやパーロと違い、日本人には好意的だった。

この期間中に引き揚げ移送が開始され、我々も21年8月、満州を後にするわけだが、引き揚げ後、再度共産軍が盛り返し、やがて全土を制圧し現在に至っている。
鞍山市は大会社があったため(ソ連軍の方針で)治安は比較的良く、国・共戦の渦中に巻き込まれることもなかったのは、不幸中の幸いだった。

ソ連兵の暴行や(その後連行された日本兵に対する非人道的な扱いを含め)八路兵の非行に鑑み、一部右翼方面の人たちが、ソ連(ならびに共産諸国)を忌み嫌う気持ちはうなずける。対照的に、国府軍が示した対応に蒋介石御大をトクとしている引揚者も多い。憎しみを超えた彼の温情に、一部の右翼のみならず、政府・有力者が台湾政府に好意を示すのも理解できる。

引き揚げに際し、心ある中国人が
「敗戦でも平和になった君たちは幸せだ。我々はこれからまた戦争だ(国・共戦)」
と、意味深に語った言葉が、妙に印象に残った。

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