泣き笑いビンボー暮らし~入学はしたけれど

物心ついて見る我が家は、貧乏のどん底だった。
それでも我が幼少時は、親父も人並みとはゆかぬまでも、それなりの養育に努めていたようだった。
実際はかなり惨めなものだったが、まだ世間が見えぬ年頃だった。
小学校も中ごろになると、放任の度合いは一段と高まった。
放任主義と言えば聞こえはいいが、完全なほったらかしである。これはある意味では大変有難かった。幼い子供が夜遊びなどしようものなら、コッぴどく叱られるのが普通だが、うちの親は叱らなかった。真逆、酒やタバコは呑まなかったが、何をやってもお構いなし。まして殴ることなどまったくなかった。
更に有難かったのは「勉強しろ」「偉くなれ」など大それたことは、一言半句口にしなかったことだ。学期末の成績が上がろうと下がろうと一切無関心、ノータッチ、ノーコメントだった。
この理解ある態度をトクとした俺は8年間、教室以外での勉強などした覚えがない。もっとも親父にしてみれば「言ったところでしょせん無駄」とわかりきっていればこそ-の温情だったのかも知れぬ。

しかし物事には表と裏がある。これが金銭面、物質面でも「お構いなし」となると、いささか深刻な面もないわけではない。ただしあの状態の中、親父も精一杯の踏ん張りではあった。
更に悪いことには、親父の職業柄についてまわった「手なぐさみ」が、元の貧乏に輪をかけた。
定収のない者が「苦しいときの神頼み」で、一攫千金の夢を見たとしても気持ちはわかる。しかし「悪銭身につかず」、バクチで儲けて裕福になったとか、華々しく成功した話は聞いたことがない。

戸外における肉体労働はもちろん、それなりの商才もあり、何事も至極器用にこなした親父は、百姓一筋の土地柄にあって、善悪併せた異色の存在だった。
「仕事も上手、金儲けもうまい。バクチやるのが玉に瑕。それさえなければいい男」
とは、近所の人の一致した見方だった。
ご当人もそれはトックと承知で、晩年、風雪に耐えてきた生き様を述懐していわく
「俺は何でもやった。而して何でも上手だった。ただ、金残すのが下手なだけ-だった」
もっとも下のくだりだけは俺も受け継いだから、血は争えないもんだ。

「不自由を常と思えば不足なし」
と家康は言ったが、物心ついてから不自由の中で育ち、慣らされてきた俺は、当然のことと観念し、人が見るほど悲惨な思いはしなかった。
が、その中にあっても、支払いが出来ず、借金取りにペコペコと頭を下げている親の姿を幾度となく目の当たりにするのは、子供心に辛かった。
分けても暮れともなれば賑やかなもので、次から次へと入れ替わり立ち代り、借金取りが現れる。親父はいち早く隠遁の術を使って身を隠す。応対に出た俺に対し、威高々の詰問だ。「知らぬ存ぜぬ」の一点張りに業を煮やし、悪口雑言を浴びせて引き返す借金取りの顔は、さながら地獄の鬼に見えた。
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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