スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

不登校の本やネット

突然放射能の話になりますが。
我が家は2011年の4月、あの大震災&原発事故の1ヶ月後に福島県民になりました。
当時は放射能のことで、TVやネットでも危険だ恐怖だと大盛り上がりだったわけですが、実は個人的には、そこまで不安を感じてなかったんです(まあだから引っ越したわけですけど)。福島ってっても原発直下の町からほど遠い会津だしねってのもあったし、何よりも
「目に見えないから怖い」って、見えるじゃん数値で。
「よくわからないから怖い」って、わかるじゃん物理の法則で。
とどっかで思ってたんですよね。「そう思って安心したいだけなんじゃないか自分?」「素人ゆえの思考停止ってやつじゃないのかこれは?」という自分への疑いもありつつ、でもやっぱりどうしてもそうとしか思えなかった。

だって結局は「モノ」でしょう放射能って。
「今日は放射能が怒りのあまり20マイクロシーベルト上昇しました」なんてことはない。「今日は気分がいいから、側溝から飛び出て空を漂ってみようかな@放射能」なんてこともない。水や落ち葉やホコリが風で飛ぶのと同じように、地面に落ちるのと同じように、濡れたものにくっつきやすかったり、ふきだまりに溜まりやすいのと同じように、そして水や太陽や動物や植物やe.t.c.は、人間が生存する上で必須だけど、多すぎたり少なすぎたりしたら人間の命を奪う事にもなるのと同じように。すべては単に物理の法則に従って動いているのみ。って、KKがやってた中3理科の試験問題すら解けなかったヤツが物理の法則とか言ってますがさておき

なので、放射能について議論百出する狭間で「何を信じたらいいのかわからない!!」と嘆く声をネットなどで見ると、「相手は「モノ」なんだから、物理の法則どおりの動きしかしないんだから、むしろわかりやすいだろうに」「何でこんな言説を信じるんだ。恐怖を煽って何かを押し付けようとしているだけなのは、この口調からでもバレバレじゃないか」と思って、すごく違和感でした。繰り返しますが、放射能の知識がない故の楽観論かもしれないと、自分をどっかで疑いつつも。

ところが子供が不登校になって、不登校関連の本やネット、読みまくり漁りまくる日々になったら、そうしたネットの人達とまったく同じことを思って嘆いてました。「何を信じたらいいのかわからない!!」

だって相手は「モノ」じゃない、「ヒト」なんですもん。
感情で動く生き物で、しかもその感情は1人1人違うんですもん。
物理の法則みたいな、わかりやすい法則に従って動いてるわけじゃない。同じことをされても、人によって各々違う感情が生じて、違った結果が生まれる。「現在の悲しみ度8マイクロシーベルト」というふうに感情を数値で測って、「この数値の時はこうすればいい」と対策することもできない。何にどれくらい悲しんで、怒って、喜んでるのか、すべてを手探りで、この思い込み激しく空気を読むのすら苦手な、主観だらけの自分が判断しなきゃならない。

ぶっちゃけ私には、放射能より人間の方が、よっぽど難しくてわからないです。
人の心はわからない。ましてや自分の子供だと、他人のことよりも「自分」が入っちゃって必死になるせいか、より一層わからない。この状況をどうしたらいいのかもわからない。しかしこの状況からは絶対に、一刻でも早く、抜け出したい。
そういう状態の時に不登校関連の本やネットを大量に読むと、本当に混乱しました。「すごくいいことを言ってはいるんだけど。でもこれじゃ果たしていつ抜け出せるのか・・・」から、真逆の「「今~しないと一生このままですよ」という脅迫めいた口調がすごく怪しい。でもそれで行けるようになるなら・・・」まで、合間には自己啓発とかスピリチュアルめいたキーワードが頻出したりして、「こういうの苦手なんだけど・・・でもこれも信じなきゃいけないのかしら」とか。

あのころ「何を信じたらいいのかわからない」と嘆きながら放射能恐怖症に陥った人たちは、抱えきれない不安感の中でこういう状態にあったんですね、きっと。
放射能については相変わらずのスタンスで、よって放射能に必要以上に怖がる人たちへの違和感も相変わらずなんですが、今になってようやく「ああ、あの人たちもこういう思いを抱えていたのかな」と、やっとちょっと「同じ人間」みたいなシンパシーを感じました、ふっと。

もっとも、そうした本やサイトを浴びるように読みまくったのは、半年間くらいだったかなあ?
KKの不登校が定着し、図書館に置いてある関連本もほぼ読み尽くした頃にはあの、すがる杖を探すような情熱を持って本を読むこともなくなりました。さすがにこれだけ読むと、杖として信じられるかどうかとかはともかく、どんな本やサイトにも書いてある共通点、すなわち「良いところを見る」「意見を押し付けずに傾聴する」「子供を信じる」e.t.c...も見えてきて、とりあえずそこだけ心に留めとけばいいかという感じになってきて。(そしてこれらがなかなか、実践すると難しかったりする

そんな中で、個人的に「これはなんだか信頼できるな」としっくり来た、そして今も時々読み返したりして心に残っている本やサイトを紹介してみます。
サイトなら、まずはここ!
子育てブログ~不登校・ひきこもり育児
専門家及び元・不登校ひきこもり育児経験者、あるいは元・不登校本人、そして今まさに経験中の同志たちが集うブログ村です。本当に「同志がいる!!」という感じで、励まされます。
ちなみに同じブログ村には、現役不登校高校生たちによる高校生不登校ブログ村もあって、子供の気持ちを知りたい親としてはこちらも時々拝見させて頂いてるのですが、励まされることが多い親ブログとは違い、こちらは読んでると胸が苦しくなります。。。皆いい感じの子達なのに、なんでそんなに苦しい思いをしているの、どうしたら助けになれるの、という悲しみとやりきれなさが。

そして、この「不登校ひきこもり育児ブログ」の中でも、私が一番しっくり来ているのがこちら。
「不登校・ひきこもり」と向きあった日々
「私たちは不登校・ひきこもりを体験した子どもたちをもつ保護者の集まりです。
「先の見えない不安や苦しさ」「相談できない孤独」「わかってもらえない悲しさ」 このような中で自分と向きあってきた日々をつづります。」
と、あるとおりの内容です。いやー皆さん、壮絶な不登校との戦いを経て今ここにいる!という感じで。
この方たちの体験談を読むと、うちはまだまだ甘ちゃんだと思えて頑張る気力が沸いてくるくらいです。
基本「見守り」を貫く方針なのですが、こういう「見守り」系って、私から見ると、ちょっと宗教やスピリチュアル入ってきちゃってる、って思えてしまうことも多々(そこも「何を信じていいのかわからない」の要因の1つになってしまってる)。ですがこちらの体験談ブログは、紙一重でそこに陥ってない、という信頼感を個人的に持てて、継続的に読んでいます。
ちなみにこちらの方々は、こちらの方を師匠としているグループのようです。こちらのブログも、実践編という感じで参考になります。

また、直接的な不登校ブログではないのですが、しっくり来たのが
スカイのブログ
ひそかにアスペルガーの気があるんじゃないかと思ってる自分としては、「ああ~わかるわかる」「すっごいタメになる」満載のブログです。この方のとことん論理的&客観的な、そして「定型」を徒に「無理解な人々」とシャットアウトするんじゃなく、発達障害者としてその中で共生していくために、という視点が貫かれているのも、とってもしっくりなんですよね。
ちなみにブログでは「定型」と「発達障害」をきっちり線引きして分析されてますが、でも中身は意外と普遍的なこと多々だとも思います。要は「人にはそれぞれ個性や特質があり、それをもってどう社会と折り合いつけて生きていくか」ということですよね、障害の有無に関わらず。

本でも同じような内容のものはいっぱいあるんですけど、ネットの場合、同志たちのコメントや、またそのコメント欄から数多くの同志ブログを拝読させていただいては心強くなれることが魅力ですね。

不登校本で印象に残っているのは、こちら。
「不登校 ひきこもり こころの解説書 ~僕がひきこもりだったときに言えなかったこと~」著者:金馬 宗昭
著者は、ECCの通信制高校、『ECC学園高等学校』の教頭先生だそうです。
20代半ばでひきこもって以来、ECCの先生になるまで、そしてそこでの試行錯誤という、実際の体験談が書かれています。
中高生の不登校ひきこもりとは年齢も違うので、直接参考になるというわけではありませんが、ひきこもりになっていく過程とか、その渦中の心境とか、とってもよくわかる気がしました。「一発逆転を狙ってしまう心理」とかね。
本人たちの体験談をルポルタージュ風にまとめた本とか、或いは先生という立場から書いた本とか、他にも似たような立場からのものは何冊も読みましたが、しっくり来た点ではこちらがピカイチでした。なんだろうな、語り口なんでしょうか考え方なんでしょうか、直接役に立つマニュアル本という類ではないのですが、とても誠実で、信頼できる本だという気が個人的にしました。
感情を煽って、つまりは脅して、何かしら恣意的な結論に導こうとする本やサイトではない、というのが個人的信頼ポイントでしょうか。

最後に、不登校とは全く関係ないにも関わらず、不登校児の親目線でも非常に共感で、折に触れ読み返す本というかマンガ。
1つは、前々回の記事でも書いた、「おたんこナース」。
「今の痛みは10のうちどれくれいですか?」と、まさに状態を数値で捉えようとするエピソードなんかもありますが、不登校親として一番「答えをもらった」感があったのが、アルコール中毒患者の話である「命の水」(第5巻)。
アル中看護未経験の主人公のもとに、なかなか断酒が成功しないアル中患者が入院してくる。婦長さんから主人公へのアドバイスは、「偏見を持たない」「必ず治ると信じる」
未経験ゆえに予断や偏見もなく、患者さんの言葉も全面的に信じようとする主人公ですが、「飲んでない」と嘘をつく、確かめようとすると「疑うのか」と責める、「疑われたからガッカリして飲んでしまった」と他人のせいにするe.t.c...といったことを繰り返す患者の言動に、いつしか「あんな人じゃ治るはずない」「呆れました。そうまでして飲みたいのかって」と、いつの間にか偏見と不信感を募らせていくが・・・
という話です。
「信じる」というのが、宗教にしろ他人にしろなかなか苦手な私には、不登校本に頻出する「子供を信じる」というのが、どうも体感としてわからなくて。
というか、たぶん怖いんですよね、「何かを信じる」っていう行為が。信じる=盲目的になる、言いなりになるってことなんじゃないの?としか思えなかったり、信じて裏切られるくらいなら、最初から信じておかない方がいいんじゃないの?とガードしてたり。
よって以前はこの話を読んでも、「ん~何かわかりそうでわからない」という感じだったのですが、子供が不登校になって、この話を読んだら、そうか婦長さんの言う「信じる」っていうのはそういうことじゃなくて・・・と、何か前よりわかった感が。
最後の方、「・・・まだ・・・私が治るような気がしている?」とおそるおそる聞く患者さんに、「そう確信しています」と答える主人公と、それに対し「ありがとう」と答える患者さんのシーンは、今読むと泣けて泣けてしょうがないです。「お酒が命の水じゃなくなることを一番望んでいるのは、大星さん(患者さん)だと思います」という〆も、不登校や引きこもりの子と重なっちゃって。
(なお「信じる」については、続く「適材適所」(第5巻)でもちょっとベースに)

「海街diary」作者:吉田秋生
拙ブログでも以前1~2度書きましたが、何度でも書きたいくらいタメになるマンガです それぞれのキャラが、自分なりの「相手への思いやり方・接し方」と「自分との折り合いのつけ方」を見せてくれて。
落ち込んでる時でも感情をぶつけないとか、何かあったのかなと察しても相手が言ってくるまで放っておくとか、相手が考えを言ってくれた時は「そう」「わかった」と受け止めるだけとか、何か重大な話をしなきゃいけない時は甘いもんでも食べながらとか、しかし時には考えをぶつけ合って喧嘩するとか、それを「猫の喧嘩は引き離すに限る」くらいに受け止めるとかe.t.c...
あるいは不登校について話しているわけじゃ全然ないのに、セリフが私に向かってのアドバイスになってること多々だったり。これぞ私的・名作か否かの分かれ道。すなわちすごく汎用性が高い=普遍的なことを描いている。
以下、そういうセリフをずらずらっと挙げてみます(便宜上、時々略したり言葉を付加したりしてますm()m)

「監督しているサッカーチームの子が、足の手術を受けて復帰したんだけど、やっぱり技術力は以前とは歴然として衰えていた。でもチームのキャプテンに相談するまで、彼が別な面で努力しているなんてまったく気付かなかった」
「僕は理学療法士ですから、病気やケガの後遺症で体が不自由になった人が、懸命の努力を重ねて動けるようになった例を何度も見ています」
「なのに彼を信じてなかった」
「彼自身が自分の可能性を信じているのに、俺は彼のマイナス面ばかり見ていた。それが何より情けなくて・・・指導者失格ですよね。マジへこみました」

「人はそう簡単に変わらないわ。人は信じたいものだけを信じて、見たいものだけを見るのよ。別の何かがあるなんて思いもしないのよね」

A「(負債を抱えたお客さんが、こちらも色々手を尽くしてそのことは解決したと思っていたのに、自殺してしまった。最後に会ったのは自分だった)
何がいけなかったんだろう。できる限りのことはやったつもりだった。その人もありがとうと言ってくれて、少しでも役に立てたと思ったんだ。なのに」
「僕はどこで間違ったんだろう。もっと別の方法があったんだろうか。僕にはできなかった何かが。そうしたらもしかしたらあの人は」
B「あなたは間違ってなんかいない。ありがとうって言ったその人の言葉も嘘じゃない。でもそのことと死ぬことはきっと別なの」
「その人は覚悟して出て行ったのかもしれない。でも家を出るときはいつもの散歩のつもりだったのかもしれない。それは誰にもわからない。答えはないのよ」

「患者さんの容態は日々変わる。そのたび家族も患者さん本人も一喜一憂する。いくら説明し尽くしたと思っても、その時の状況次第で気持ちはまた揺らぐ」
「それでいいんだよ」

A「当事者に寄り添おうとするのと、当事者になるのとでは、天と地ほども違いました。
少しでも患者さんの心により添えたら・・・と思っていたつもりでしたけど、しょせんひとごとだったんですね」
B「ひとごとでかまわんのとちゃう?看病するもんが病人と一緒にヘタれてしもたら、困るのは病人や。
しょせん代わりに痛い思いをしてやることも、死んでやることもできひんのやし」

「先回りして世話を焼くことばかりがいいとは限らないんですよね。患者さんのリハビリでもそうなんです。手を出しちゃった方が実は簡単なんです」
「障害の程度が同じくらいでも、その人の性格や考え方でリハビリの進み具合は大きく異なります。健康な俺たちが不運なハンディを負った人たちの本音を理解するのは、正直不可能です」
「だからせめてずっと見守ってますよって。それぐらいしかできないし、自分に出来ることなんかその程度だって、そう思ってたほうがいい気がするんです。何より傲慢にならずに済みます」

「人を心配するのって難しいな。俺やっとわかったぜ。お前たちの気持ち」
「何ができるんだろう。何もできないんじゃないか。でもなんとか力になりたい。そう思ってくれてたんだなって」

「悩めるのはいいことなんじゃない? 時間と選択肢があるってことだから、それは幸福なことだと思うよ」
「そやな。時間も選択肢もないモンは、悩む余地もあらへんからな」

「安心して進路について悩める場所が、今すずちゃんにはあるんですよ。
やっと見つけた居場所から出ていくことに不安があるんじゃないかな。
悩んだり立ち止まったりできる場所が今はある、それは決してなくならない、それがわかれば、きっとまた前に進めます」

A「僕がリハビリを担当していた患者さんが亡くなったんだ。自分で歩いてトイレに行こうとして転んで・・・
一生懸命リハビリして、解除があれば歩けるまでに回復したんだ。それなのに、むしろ歩けるようになったから無理しちゃったんじゃないかと思うと、なんだかやりきれないんだ」
B「じゃあ、いっそ歩けないままのほうがよかったかもって思うわけ?」
A「そんなこと思わないよ!可能性があるなら少しでも自分で歩けたほうがいいに決まってる!」
B「でしょ?その人は歩きたかったのよ。歩いてトイレに行きたかったの。
私たちはその思いをできる限り受け止めて、サポートしていけたらと思ってるの」

こんなにいっぱいになっちゃったけど、これでもほんの一部です
こちらが「不登校についての解決策」とか、意識しないで読んでるとこに、これらがふいに現れるので、よけいに琴線触れまくりなんですよね。
人により立場により、別の琴線触れまくり場面も数多く出てくると思うので、機会があったらぜひ一度。

といった感じの、本やサイトご紹介でした。
スポンサーサイト

テーマ : 不登校 - ジャンル : 学校・教育

コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。