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月9も捨てたもんじゃない

先週最終回を迎え、とっくに旬は過ぎたと思われる話題ですが、どうしても書きたい月9ドラマ「デート~恋とはどういうものかしら」。
いやもう最終回を見て以来、「頭の中は「デート」のことでいっぱいだ~アハハハハ」@鷲尾くん状態で なんでも鷲尾くんによると、ノートに思いを吐露すると落ち着くそうなので、裏磐梯ホテルレポを一時中断して、今回は「デート」への賛美を
(あれ鷲尾くんが言ってたのは「ヤなことをノートに書き出す」だったような

さて連続ドラマ視聴習慣なし、というかむしろドラマ嫌い、一番最近リアルタイム視聴したのは2年前の「八重の桜」オンリー・・・
という、ドラマ好きじゃない私が、うっかりハマってしまった今季月9「デート~恋とはどういうものかしら」。
1話目の、船の中での主人公2人の議論っぷりが琴線に触れて、以来たびたび(←毎回ではないあたりが基本ドラマ嫌い)見ていました。

このドラマの主人公は、「八重の桜」の前夫だった尚さん=ニート(本人曰く「高等遊民」)である「巧くん」、杏さん=かつて「人の心がわからないと14人に言われた」高学歴高収入理系女子である「依子さん」。ともに「恋愛不適合者」という自覚を持つ2人、というより「恋愛」というものを軽蔑すらしている2人です。
この2人が、巧は寄生先を親から配偶者に乗り換えるべく、依子は30歳の誕生日までに独身卒業すべく、という身も蓋もない理由で結婚しようと、八重のおとっつぁまやおっかさまなど周囲も巻き込んで色々悪戦苦闘するうちに・・・という、ちょっと捻くれたところから出発するラブコメ。
もともと私自身が「恋愛不適合者」と自覚しているので、マンガでも映画でもラブコメ嫌い、ひいてはこの「ラブコメ嫌い」が「ドラマ嫌い」に通じてしまったのだと思いますが(前にも書きましたが、私の青春時代のTVドラマといえばトレンディドラマで、トレンディドラマ=「誰と誰がくっついて別れてっつーラブコメ」という、「恋愛なんてくだらないby巧&依子」としか思えなかったもんだったので)。
そんな私にとっては、1話から「同感です。恋愛なんて暇人にまかせておけばいい」と主役2人が意気投合し、そこに「いや恋愛っていうのは素晴らしいものですよ!」と割って入る恋敵を「ほらこういう奴」とバッサリ切って捨てるドラマは、もうひたすら面白くて
と同時に、いかに恋愛不適合者でも、寄る年波で「(恋愛の基礎感情である)人情」や「結婚生活」などは「やっぱり悪いもんじゃない」としみじみ思い至るようになった昭和オババとしては、「今はこう言ってる固い蕾のような2人が、これからどう変わっていくんだろう」という楽しみもあり。

という根本テーマもいいのですが、そのドラマを成り立たせる膨大なセリフが何より面白かったのが、私的「デート」の最重要ポイント
正直、「デート」の中の誰と誰がくっつこーがどーでもいいという姿勢で見ていた私にとっては、このドラマの楽しみは、膨大なセリフにちりばめられたくすぐりや小ネタの数々や、それを猛烈なスピードで応酬する役者さんたち、すなわち「秀逸な喜劇を見る」という楽しみが第一義でした。
(ていうか、どう見ても最初の頃から巧と依子は気が合ってたし、反対に鷲尾くんや佳織ちゃんとのデートは「無理してる」としか見えなかったから、巧と依子がくっつく以外の結末はありえなかったもんね。オババになると「無理は続かない」ってのが骨身にしみてわかるから

私はドラマや演劇って、ラブコメじゃなくても台詞回しや動作、ストーリー進行などに特有の嘘くささを感じてしまうところが苦手なのですが、三谷幸喜さんだけは好きで、その三谷さんを知った「やっぱり猫が好き」や「12人の優しい日本人」などを彷彿とさせる空気が「デート」にはありました。舞台が固定されている室内劇で、登場人物も限定していて、セリフだけで話が進んでいって、なのにすごくドラマチック。話を作るんじゃなく、話が転がっていく、その転がり方が面白くてたまらないという。

三谷さんは「座付き作者だったから、一座の役者全員にスポットライトを当てたいという思いがある」とおっしゃってました。
私これにすっごく共感して。と同時に「三谷脚本の面白さのポイントはこれだ」と思ったものです。
「12人~」なんてまさにそうで、あの12人の中には「脇役」がいない!もちろん出番の大小による「主役/脇役」はありますが、あの中に欠けてもいい人は1人もいない。「話の都合上」で動かされる人もいない。限定された室内での、限定されたテーマをひたすら話し合う内容でありながら、その膨大なセリフの応酬から1人1人の、決してドラマに都合良く作られたわけじゃない(と見ている人に思わせる)性格・価値観が、大げさにいえばそれまで生きてきた歴史・生き方までがうっすら浮かび上がる。誰か1人欠けたり、別人だったりしたら、同じ話にはなりえない。
つまり、登場人物すべてが「かけがえのない人」なんですね。

人間を、人間が生きている社会を愛するには、「誰もかけがえのない人だ」と思えるかどうかにかかってる気がします。すごく大風呂敷広げた気もしますがまあまあどうか
で、この「デート」からも、三谷作品に共通して根底にあるこの思いを、毎回受け取ってた気がするんですね。実際は何回か見逃しましたが、見れば必ずそう思えて、なんかこの世にいることを安心できるような。
しかしこれを真正面から声高にセリフで説教しちゃうと、「恋愛とは素晴らしいもんなんです!」と同じで、心を打たないんですね。「感動させよう」というお涙頂戴的な意図の方がまず伝わっちゃうから。あくまでもコメディ、真摯で上質のコメディだから、そこに隠された真っ当な思いがじわじわと心に残るんです

いつも「世の常識」を心底正しいことと信じて従う真っ当さと、いつもそれを巧依子にぶった切られる可笑しさを兼ね備えた鷲尾くん。どんなに依子にフラれても、ひたすら追いかけ、しかし必ず依子を尊重し。やむなくクローゼットの中に隠れながら、依子が彼の恋敵・巧に迫って拒否されかけると「受け止めてやれよ!!!」と泣き叫びながら飛び出してきたシーン、依子にフラれて外でくすんくすん泣いているのを恋敵・巧に見られて、だっと駆け出す後ろ姿e.t.c....もう爆笑でした笑うなー。いや決してその人をあげつらう笑いではなく、「悲劇は時に喜劇である」という、このドラマが上質の喜劇であることを体現しているが故の笑い。

あるいは小学校時代からずっと巧に恋していた元ヤン佳織ちゃん。依子から巧へのクリスマスプレゼントが、「ニートから脱出するための資料どっさり」だったという(ここでも爆笑)、「人の心がわからないにもほどがある」ようなシロモノだった時、そこにびっちり書き込まれた依子のメモ、及びそこにこめられた恋敵・依子の真情に、いち早く気づいて巧に教えたのも佳織ちゃんでした 私的には佳織ちゃん=尚さんのEXILEダンスを引っ張り出してくれた功労者ですが そうそう佳織の兄ちゃんもいい味出してましたね。「脇役」がいないこのドラマでは、比較的「狂言回し」の役割を負った脇役らしい脇役でしたが、それでもこれまでの個人の歴史が垣間見えるようなキャラで、決して「ストーリーに都合よく作られたキャラ」という感じがしないのはさすがです

巧母=尚さんの義母=風吹ジュンさんも忘れられません。そもそも私が「ニート」じゃなくて「デート」を「あれ?このドラマ面白おかしいだけじゃないぞ」とはっきり認識したのが、前にも書きましたが、このお母さんがニート息子への思いを述懐するシーン、及びその述懐を聞きながら、ニート息子が膝を抱えているシーンでしたから。。。
息子がニートであることを、決して肯定も否定もしない。もちろん「(経済的に自立してくれたら)お母さん助かるわ~」とか、「うちの息子働いてませんけどいいんですか?」「あんな子でいいの?」とか、ニートという現実は現実としてけっこうシビアに受け止めてはいますけど、それを過剰に絶望もしない。なぜなら息子は昔のままの優しい息子として変わらず目の前にいるだけだから。なので自分も変わらず、元夫の世話を焼き、生活を楽しみ、いつも大らかで、しかしここぞって時には35歳のニート息子に009の完璧再現衣装を作ってやったり、息子が好きになった子が肩こり持ちなのを見てとって、宝物の肩たたき券をこっそり息子から渡すように仕向けたりe.t.c...
親としての目配りというか行動というか、「信じて遠くから見守る」距離感が絶妙で、個人的にとっても「お手本」になったお母さんでありました。「自分勝手に思いつめて、子供を(ひいては他人を)追い詰める必要なんてないのよ~」って、同じ境遇のお母さんへ、言葉じゃなく佇まいで示してくれてたような。
そうそう元夫=巧のお父さんが、個人的に好きな日本映画ベストテンに入る「蒲田行進曲」のヤスさんなのも、ツボでしたね~~~ 原作では早稲田で真面目に(=ネクラに)演劇を学んでいたという過去を持ち、人情の人でありながらどこか歪んでいて自己破滅型のヤスさん、巧父にぴったり♫

そして何より、八重のお父さん=依子のお父さんであるマッチゲさん このドラマ、半分はこの人を見るために見ていたと言っても過言ではありません 自分とはまったく違うから理解できない娘をひたすら案じ、しかし「こうした方が幸せになるぞ」なんては決して押し付けない。本音ではその役割を果たせそうな鷲尾くん一押しでありながら(だから鷲尾くんって、依子を尊重しつつどっか支配的)、ニート巧も「娘が愛しているなら&娘を愛しているなら」と受け入れようとする。娘に隠れて「ほんとはサンタさんやりたかった」と泣いたり、お雑煮のレシピを改ざんしたりと、あまり表に出さない愛情がことあるごとにダダ漏れになるのが、なんともお茶目なおとっつぁま。最終回でも「(巧と依子は)夫婦漫才みたいじゃね」という言葉に、「夫婦漫才とか言うなああ!!!」といち早く激高したり(←爆笑しました)、「いや困っちゃうよなあ若すぎるだろ」と喜び溢れる笑顔で困ったりと、八重のおとっつぁま=依子のお父さん=マッチゲさんの魅力全開でした

そんな愛すべき「かけがえのない人たち」が集まっての最終回。
私的には、「誰と誰がくっつこうとどうでもいい(恋愛不適合者ですから)。最後にあの壮絶なセリフの応酬が見れるのが楽しみ」というつもりで臨んだのに。
やられました。
泣かされました、2人の告白シーンに。
そこに至るまではまさに私の待ち望んでたセリフの応酬で、ま最終回につき、内容が今までの振り返りだったのと、ちょっと始まると周りが止めるので(「夫婦漫才とか言うなあ!!!」)、私がハマった1話目の船での議論よりは薄味だったのが残念でしたが、それでもそういう応酬しながら話がどんどん転がっていって。
そうまさに話が「作られる」んじゃなく「転がって」いくという、このドラマの面白さは最終回でも健在!
どこに着地するのかわからない、というか着地するまでのさまが面白くて目が離せないという緊張感。奇をてらって=「こういう着地点なら視聴者は驚くだろう」という作為が前面に出るが故の、決まった着地点に向かわせるがための無理やり感や、逆に考えなしに話を広げていくんじゃなく、緻密に積み上げて積み上げていった結果、「作りごと」なんて視聴者が思うヒマも隙もなく、話が転がっていく体感に身を委ねられるという。昔「やっぱり猫が好き」という、やっぱり三谷幸喜が脚本の1人として参加した上質な室内劇がありましたが、固定した室内でも、または殺人だの不倫だのとショッキングで目を引く題材がなくても、「スリリングな展開」っていうのは作れるんだなという感動が、この「デート」にも。ま「やっぱり猫が好き」を「スリリング」と言ったら異論噴出かもですが
(しかし目を引くショッキング題材を、あくまで興味本位の「題材」としてしか扱わず、そのくせ深刻ぶって目を離させない作りにするのに比べ、何でもないことを描いて目を離させない作りにするのは、ほんっとーーーーにすごいことだと思います。これ私がドラマ嫌いになった一因でもある脚本家・野島伸司に向かって言ってます

「デートは楽しかったです!!あのサッカーだって・・・」と必死にデートの思い出話をすればするほど、「それはサッカーについてだ。鷲尾くんとの話を」「早く鷲尾くんを出せ」と巧に突っ込み入れられる結果になる依子 依子のボケに対し、巧の言うことが的確なツッコミになってるのがまず笑えるのですが、純粋な助け舟のつもりの巧のツッコミが、地味に鷲尾くんのHPを削っていく結果にもなっているという、この残酷な笑い。まさに「悲劇と喜劇は同じもの」。
しかしそこで最後の力を奮い起こす鷲尾くん。指輪を取り出し依子にプロポーズを。ああもうどうなるんだか。依子は受ける気満々。いいのか依子。ここでおそらく全視聴者が「おおっ」とどよめいたであろう、伏線をはり巡らせた脚本の妙を感じる展開に。

と、一つ一つシーンを上げていくと長文になってしまうので(え?もうなってる?)、いっちばん感銘を受けたところ。それがここからなだれ込む2人の「魂の叫び」シーン。
多数決で決まった2人の恋人関係に、涙ながらに訴えていわく
「依子さんは恋をしたいんだ。鷲尾くんに恋することで依子さんはすごく変わった。あの不器用な人がすごく努力してたんだ。なのにその相手が僕じゃ依子さんがかわいそうだ」
「せっかく佳織さんと付き合って仕事もするようになったのに。巧さんはすごく繊細な人。「心がない」と14人に言われた私では、またきっと巧さんを傷つけてしまいます」
そして2人揃って土下座して「どうか巧さん/依子さんを幸せにしてあげてください。お願いします。お願いします」(セリフ意訳)

もう何も言うことありません。ただひたすら、2人の思いに打たれて目が熱く。ああもうダンナの前で涙目になってしまったのが照れくさい ちなみにダンナも最終回一緒に見ていて、けっこう笑ってたのが「よっしゃ」でした。男衆にもウケたぞ「デート」♫
そうそう途中、経過を見ていないダンナに「こいつはニートで」「なんでニートになったの?」「最初はアーティスト希望だったのが、挫折して就職面接言ったら、お父さんのこと言われてさ」みたいな説明してたら、横からU@小2が「お父さんのこと言われて、一緒に笑っちゃったんだよね。それがショックだったんだよね」と、本質を掴んでる発言を そういう類のショック、子供にもわかるんだ~~!!子供って侮れないな~~

もう1つ、最終回で印象に残ったのが、「実は子供時代、巧と依子は出会っていた」というワンシーン。
詳細はいかんせん長くなったので省きますが、これはぶっちゃけおまけみたいなエピソードで、おそらくなくてもストーリー上はまったく差し支えないエピソード。「運命」を補強する働きこそありますが、こんないかにも後付けのエピソードに頼る必要ないくらい、これまでの描写でこの2人の関係成立は無理なく受け入れられているから。
にも関わらずあえてこのエピソードを入れたところに、「洒落たドラマだな~」と感心してしまいました。
昔の、例えばヘップバーンやジャック・レモンといった時代のハリウッド製ロマンチックコメディ風味というのかな?(これは子役巧の演技によるところも大!まだ子供なのに、よくあんな一昔前の洋画みたいなくっさい仕草を、板についてかっこよく見せられるもんだと)  「夢見る頃を過ぎた大人向けに、ちょっとだけ夢を見させる仕掛けと、大人だからこそのテレが醸し出す洒落が詰まった映画」みたいな。
入れる必要もないのに、あえて入れた「2人は子供の頃に出会っていた」エピソードは、制作側の「視聴者に、ひいては自分たちの作り上げた世界に夢を」という愛情みたいなもんをすごく感じます。

そして何より、この思い出を2人がまったく覚えていない、てのがポイント てことはおそらく未来永劫2人がこのことを知る時は来ず、間違っても「あなたがあの時の人だったのチャララ~ン」なんてウザ臭いシーンが生まれることはまずなく(野島伸司ならきっとそういうベッタベタな話にするに違いない)、そういう事実は事実としてあったまま、時は流れていく・・・てところに、夢見る頃を過ぎた大人であるが故のテレ=含羞を感じます。
この「恥の感覚」こそが、「洒脱」や「粋」、「ドラマ上のバランス感覚」を生み出す元じゃないかと思うんですよね。自分がこういう「洒脱」や「粋」から程遠く、一から10まで恥もなく書き連ねたい性分なので、余計に「そういうのは恥ずかしい」と思ってしまって。このドラマ賛美の感想に「良質」「上質」という言葉が散見されるのも、また個人的にはドラマの好き嫌いを決めるのも、たぶんそこらへんじゃないかしらんと。

洒落てるといえばもう1つ。このドラマ、最終回になっても「すべてがすっきり白黒決着」ではないんですよね。
一応2人は恋人同士になったとはいえ、いわばこれは2人でやっとスタートラインに立った状態。佳織ちゃんと始めた「営業活動」=「ニートからの卒業」もどうなるかわからないし、その香織ちゃんや鷲尾くん、お兄さんと元妻、依子父や巧母のそれぞれの恋愛模様などなど・・・「これからどうなるのかしら」「ほんとにこれでいいのかしら」と未だ迷う思いと、「ここからはじめよう」という未来への希望とが、本人たちの中に同時に共存していて、それが汲めど尽きせぬ余韻となって「夢見る頃を過ぎた視聴者たち」を包みます。このドラマ、設定やセリフがぶっとんでいでゲラゲラ笑えるにも関わらず、どっか地に足がついているリアリティを感じるのも、たぶんこの「現実はそんなはっきり割り切れない」という、現実世界なら当たり前の、シニカルな視点が根底にあるからかもですね。

と、長々吐き出して、ようやく頭もすっきりした気が
ここまで長々賛美を連ねましたが、しかしこのドラマ、決して「後世に残る」とか「人生が変わる」とか、そんなご大層なドラマではありません。道端の花にふと気がついて、「ああきれいだな」とちょっと思えて、またすぐ忘れていく、でもその幸せ感はちょっとだけ心を満たしてくれる、そんな数ある「いい映画・本・ドラマ」の1つ。
視聴率は芳しくなかったそうですが、そんな素敵なドラマを届けてくださった「デート」制作側の方々に、これを含めた膨大な「GJ」という返事が届くことを祈って。
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テーマ : テレビドラマ - ジャンル : テレビ・ラジオ

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