49話は色々微妙

第49話は、ノベライズを読んだ時から「こ、これは感想を書きにくいな~」と困っていた回でした。会津好きとしては「これをどう受け止めればいいのか」感が、そうちょうど「薩摩の女学生」みたいで。

というのは今回、覚馬によって「前半の会津編全否定」ともいうべきテーマが出されるんですよね。さらにはそれが最終話まで引き継がれるという。ええっそれって「今年1年かけて言いたかったことはこれですよ~」ってことですよね!?まさかの会津編全否定が今年のテーマだったとは

まあ役者さんを通して見ると、印象が随分変わること多々だし、と、ちょっとハラハラドキドキしつつ見てみたわけですが。
思ったより全否定っぽく見えなかったです。役者さんのパワーってすごいわ~ まあ先読みしてたので耐性ついてたってのもあるでしょうけどTVで見ると「覚馬は、会津うんぬんよりもそれを通して日清戦争を止める方法はなかったのか考えてたんだな」というのが、ノベライズ時よりスーッと伝わってきて。

もちろんノベライズで感じた根本的な違和感は変わらずありました。
「勤皇の志は薩長も持っていた。国の見取り図もあった」うむ、それはわかります。前半でもそう描かれていました。しかしそこから「戦をせず、国を滅ぼさない道もあったはずなのだ」「会津は間違っていたというのですか!?」という流れになるのが、すべての違和感の発生源です。
「どちらにも義はあった」それはよくわかる。別にそこにケチつけたいわけじゃない。私がケチつけたいのは、「どちらにも義=理由があった結果としての戦争なら、その戦争責任だってどちらにもあった」なんじゃないのかってことです。なのになぜ両方の義は認めるのに、結果としての戦争だけは「会津が受けて立ったのが悪い」いわば「敗者側の自業自得」になるのか。まったく「薩摩の女学生」と同じ構図です。これじゃ「強者は戦争を仕掛けても何してもOK」という「強者の論理」を後押ししてるだけだと思うんだけど。そういう人がいくら卒業式で「弱い者の盾になってください」と演説しても、おっかさまみたいに泣けるほど感情移入はできないのよねん 「忠勤を尽くした大殿と会津の人々を貶めるのか」「亡くなっていった人たちを思ったら、会津が間違っていたとは言えない。これは理屈じゃない」と、健次郎君&八重ちゃんみたいに弱い者、この場合は会津の側に、あんつぁまが感情面で立ってないから。

いやまあ現実世界は「強者の論理」で動いてるんでしょうけど。だから弱者としてはせいぜい知恵を絞って戦を避けるしかしょうがない。覚馬が感情面で寄り添うんじゃなく、現実として弱者に処世術を施すことで弱者を救おうとしている人だというのも、だからよくわかりますよ~。わかるけど、強者が戦争を仕掛けてくることには何も言わず、弱者が負けたら自業自得で済ませてオシマイって、それが「反戦平和」なの?現実では役に立たないだろうけど、せめて言論として、あるいは教育者として、「強者が力を盾に戦争を仕掛けてくること」への異議申し立ても同時にして欲しかった。
(「現実では役に立たない」と書いたけど、しかしまったく役に立たない絵空事とも思いません。「戦争を仕掛けること」への戒めが共有されてるから、あの手この手で仕掛けられる側の理由を作るのが開戦の常ですし。だからこそそんな仕掛ける側の理屈に安易に乗って欲しくない)。
これはドラマの覚馬へというより、このドラマ全体への違和感です。ぶっちゃけ、「強者の論理」で抗弁してくる薩摩の女学生(としか私には見えなかった)に、会津の八重ちゃんが謝るシーンはあっても、「攻めていってすまなんだ」と薩長の誰かが謝るシーンはなく、「負けてうれしかったことは初めてだ」と会津の八重ちゃんが笑っても、「勝って悲しかったことは初めてだ(なんじゃそら でも描きようもあったと思いますよ。大山と捨松あたりで)」と悔いる薩長の誰かはいず。当たり前ですけどね 薩長は「あの戦は仕方なかった」とは思いこそすれ、戦をして済まなかったなんて、思いも寄らぬことでしょう。だから見事な応戦をした会津に、心ある人は「敵ながらあっぱれ」とも思ったわけで(あの磨きぬかれた開城後の鶴ヶ城とかね)。

余談ですが、海のおかげで鎖国することで領土を守れてきた日本と違い、戦って領土を広げてきた西洋では基本、戦って勝つことは「正義」以外の何者でもなく。というか「正義だから勝ったのだ」という意識すらあるそうです(あくまでも「そういう傾向がある」程度ですが)。
日本はまあ敗戦ショックもあるのでしょうが「勝った方が正義」と、若干の皮肉も込めて思ってるとこがありますよね。「勝てば官軍」なんてそれこそ戊辰戦争の頃から言われていたそうだし。
これはもう、どっちが正義かよりも「場」を重視する日本の伝統と、キリスト教的一神教的価値観が根付いてる西洋の伝統、そういう身に染み付いた伝統の違いでもあるのでしょうか。西洋はもう「勝者の論理」が身にしみついてるというか。

鎖国で国を守ってきた日本は一転、ロシアなど海外の脅威に対抗するため、いわば「日本を守るために海外を侵略する」という膨張政策を、この時代に取り始めますが、これはつまり「勝者の論理」に乗ったとも言えるわけですね。そして私思うに、これは明治政府が戊辰戦争で「勝者の論理」を手に入れてた勝者側だかからじゃないかと(なので会津側も勝ってたら同じようにしていたかもしれません)。戊辰戦争を戦い、勝ち、そうした自信と「正義は我にあり」感が次の日清戦争への推進力となり・・・そうして繰り返し膨張していった先に、1945年があった・・・とも言えるんじゃないかと。
「戦は始まるだろう。知恵や知識じゃ戦は止められないのか」と覚馬は嘆きますが、そりゃ無理でしょう。覚馬が自国のために他国を侵略する「強者の論理」を後押ししている以上、「清や朝鮮は弱かったから自業自得」どまりなわけで。ドラマの覚馬のような人なら、こういう考え方、もっとも忌み嫌いそうですけど、ドラマの覚馬(を作った人)はその矛盾、どう思ってるのか?

現代はしかし覚馬が望んだとおり、「人間の知恵や知識(を授ける教育)で戦は止まってる」ようにも若干見えますね、経済の力で。
人間の知恵や知識が経済を発展させ、国同士がお互い繋がりあったために、もう戦争なんかリスクが大きすぎて(今んとこ)できない。んがその知恵や知識が、おそらく覚馬やジョーが夢見たような「「戦争をやめよう」という人間の理性や道義心」といった崇高なもんじゃなく、もっと現実的な、例えば「もっといい暮らしをしたい」といったような自分本位で即物的なもんの賜物であることが皮肉です 「助け合い」という崇高な理念を前提とする共産主義が、その崇高さを維持するあまり強圧的な監視社会となりダメになっちゃった一方、人間の下種な欲望大肯定の資本主義が、結果的に国同士が相互扶助する世界を作っちゃうんですもんね~ あくまでも「結果的に戦争できなくなった」だけで、根本は戦争と変わらない、むしろ代理戦争みたいなもんでもありますけど。それともこれから、覚馬やジョーが夢見たような世界になっていくのかな?その時は下種な欲望の源泉である「生存本能」はどうなるのかな??

おっと妄想が膨張してしまいました
「望んで戦をしたわけじゃない。敵がご城下に土足で踏み込んできたから」と、会津の心情を代弁する八重さんに、覚馬は「大君の義」。
この時思わずという感じでズザザと土下座してしまう健次郎&八重がよかった 洋服を着ていても洋学を専攻していても、身についてる江戸時代はそうそう取れないという感じがとってもグーです。洋服着た明治人がこれなんですから、そりゃもう当時の「大君の義」の重さときたら。
この「会津はご家訓に引きずられた」というのは、後世の目から見てまさにそうで(ただし家臣たちはもちろん、殿も再三断って断って、でも結局は貧乏くじとわかっていながら引き受けたってのは念押し)、前半・会津編でもそれはしつこく描写されてましたね。
だからそのとおりなんだけど、「でも理屈じゃない。亡くなった人たちを思ったら間違いだったとはとても言えない」というのも、またそのとおりで。こういう、理性と感情の対立みたいなことはよくあって、どっちかをどっちかに無理やり従属させてオシマイにすると、反動が来てエライことになるというのも、またよくあることだと思います。覚馬が言ってた「近代化を推し進めてきたことに対する揺り戻し」というのも、この構図に当てはめることができるのかもしれませんね。

この「大君の義」問題(!?)を本家本元にぶつけてみましたというシーン、殿&山川兄弟。
ここでの山川浩、よかったーーー。ほとんど「八重の桜」に浩がいてよかったーーーーーと同義です
「あの時、会津までが徳川を見捨てていたら、この国にまことの武士はいなかったことになります」
そうです!!そのとおり!!司馬遼太郎さんと同じこと言ってる浩ですがいいのそれを言って欲しかったの
こういう「会津魂」が、後の皇民化教育に一役買ったことも事実ですが、しかし江戸時代の武士っていうのは、やっぱり良くも悪くもそれが「正義」だったわけで。それをひたすら忠実に守ろうとしたのはやっぱし、どう考えても「悪」とは言えず、そう納得して死んでいったなら、それを「間違い」とも言い切れないというか、言っちゃいけないんじゃないかという気が、個人的にはしてならず(というか、納得できないことを「これは正しいことだから」と納得させるのが「正義」とも言えますね)。
もっともこれは会津に肩入れしながら見ているからに他なりません。特に放映決定時「大河の舞台が会津!?マジで!?」と喜んでいた私とかは、「会津が舞台になる=会津へのシンパシーを描いてくれる」と思い込んでいたところがあったわけで 
それが、どうもそうじゃない、「会津のあそこが間違ってましたここが間違ってました。この過ちを繰り返さないようにしましょう」という教材にされてしまったのか?っていうのは、理性としてはわかるんだけど、感情としてはやっぱり寂しいんですよね この言葉あんまし好きじゃないんだけど、もうちょっと「寄り添って」ほしかったというかね。
もともと私とかは「フランス式に幕政改革をしていた慶喜のもと、一致団結して公武合体の道もあったんじゃないか?」「江戸は避けられたあの内戦は、本当に必要だったのか?」等々を今でも疑っていて、「しかしそんなことを言ってもしょうがない。それもこれもひっくるめて「時の流れ」だった」と思うことで、薩長会津どちらも悪くないと思ってるので、よけいにね~
というわけで、この作品の中でそこら辺の思いを引き受けてくれる浩は、ほんとによかった!個人的には上の司馬遼な浩と、その前、健次郎が「薩長にも義が・・・」とか言った途端「・・・なにい?」とあくまでも静かーーに言う浩が「That's HIROSHI」という感じで最高でしたコワカッタヨ

と、「思ったより全否定ぽくなかった」と言いつつも、散々あれこれケチつけてきたわけですが。
思ったより全否定ぽく見えなかったのは、上記のように「役者さんの力」「ノベライズ先読み済」というのもあるのですが、もう1つ、「戦をせず、国を滅ぼさない道もあったはずなのだ」のところで、あれっ?と思ったからなんですよね。
確かここ、ノベライズでは「会津は戦をせず~」になってたはず。そこで「会津は」を抜くとこのシーン、直前で薩長のこと話してたんで、「薩長は戦をせず~」というふうにも取れたんですよね。(その後を八重ちゃんたちが「会津のこと」ととして受けていたので、「それよ覚馬にそれを言ってほしかったのよ」というセリフにはなりませんでしたけど)
で放映後、改めてノベライズを見返してみたら、うわ~~~~あのセリフもこのセリフも削られてる~~~!!しかも「どうしてこれを削るよ」っていうセリフ、最大限に被害妄想をたくましくすれば「会津側に立つフリしてとことん腰が引けてんな」と思ってしまうセリフの削り方してる!
もっともこれは今に始まったことじゃなくて、会津編でも「なぜそこを削るか」というシーンやセリフはいっぱいあったそうです(私の記憶が確かならば、降伏式と、神保&土佐の切腹シーンでの「あんなお殿様に仕えることができて我らは幸せだ」みたいなセリフが、痛恨の2大削除
なので、今更目くじら立てることでもないのでしょうが、ノベライズ見直してみたらその削られっぷりに寂しさ2割増というか単純にビックリだったので、一挙ご紹介して鬱憤晴らし(と言いつつ記憶に頼ってるテキトーさなので「このセリフは言ってたよ」という記憶違いがあったら平にご容赦をm()m)

・まず最初、教育勅語のところで「内村鑑三先生は、教育勅語への礼拝をためらったために一高を辞職に追い込まれた」というセリフカット(wikiによると実際は「礼拝はしたが最敬礼をしなかった」とのこと。それで辞職するしないという大事件に)

・浩が「京都守護職始末記」を書く決意をしたのは、尚さんの「会津戦記」を引き継ごうという思いと、「もう1つの理由は政府が作った「復古記」」だった。「復古記」は王政復古史観が基調になっており、薩長の明治維新に功労があったものを顕彰するためにまとめられ、会津は逆賊として扱われていた」のくだりが全カット。

・浩が健次郎に対し「京都守護職始末記」を書く決意を語る中で「殿には、尾張松平家ご相続のお誘いもあったのだ。それを、会津を捨てて己一人の栄達を望むことはできぬとお断りになられ、朝敵の汚名を着せられたまま、亡き家臣たちを弔い続けておられる」のセリフカット

・「文久3年8月・・・」から始まる覚馬の回想、「三条が箱根で幕府討伐の兵を挙げようとしていると聞いて覚馬びっくり」のシーンがカット(これは私が見落としただけかも)

・八重と健次郎が角場の思い出話をして「女物理学者になったかも」と冗談で笑いあうシーンカット

・覚馬が八重に「学問など無駄なのか」と弱音を吐くシーンで「憲法ができ、議会が開かれても、それが人を守り、自由にするのでなければ何の意味があるんだ」のセリフカット

・続いて教育勅語をつかみ八重に渡して「「一旦緩急アレハ、義勇公に奉シ」この一文が人を縛りかねない」と覚馬が言うシーンカット(ここから「人を戦に駆り立てる力を止めねばならない。だが俺は無力だ」に続く)

・覚馬の臨終シーン「言い残すことはそこに書いた」と遺言状を示すシーン及び「遺言状には、残る資産の一部を旧会津藩主・松平家のために使って欲しいと書かれていた」のくだりカット。

・なぜご宸翰を世に出さなかったかと浩に問われた殿が、八重の思い出語りをするところカット。

・「会津を死地に追いやった」と自責する殿に浩が言う「会津に生まれ、殿にお仕えできたことは、我が生涯の誉れにございます」のセリフカット(以下「あの時会津までが徳川を見捨てていたら~」に続く)

・殿の最後の言葉「(会津がいかに誇り高く戦ったかを訴え)死んでいった者たちの名誉を回復せよ。ただし一国を滅ぼしたわしの過ちは(再び同じ道をたどらぬための戒めとなせ)」の部分カット。

・清国への派兵を決定する閣議で、伊藤の「やるにせよ、日本から仕掛けちゃならん」カット(これは私の見落としかも)

・徳富蘇峰の「これは、朝鮮を清国の支配から独立させる、正義の戦いたい」カット

・地の文「欧米流の文明を取り入れた日本が文明のための戦争をする、と捉えている知識人も多かった」カット
(これは大山と対峙する時の「それが文明というものではないですか?」という八重のセリフにつながってたはず)

・巌を説得する捨松の「(看護婦たちはよく訓練をつんでいます)会津の戦の時のように、女たちの手がきっと役に立ちます」のセリフカット

たぶん他にも見落としがあったり、逆にちゃんと放送されてたのに勘違いでここに入れちゃったのもいくつかあるかもしれませんがm()m 録画した方、もしよろしかったら見比べてみてくださいませ
まあねえたぶん尺が足りないから、言わなくてもわかるセリフや、論議を呼びそうなところはもうバンバン削られるのは致し方なし。八重ちゃんがらみも削っちゃっていいや、主役だけど
ただなーんか、教育勅語や明治政府や清・朝鮮などに対する配慮なのか遠慮なのかという腰の引け方、そのくせ会津=殿に配慮したセリフは遠慮なく削る(会津の話なのに!)と感じてしまうのは困ったもんです
まあこう感じてしまうのはたぶんに被害妄想でほとんどは尺の問題なのだろうとは思ってますが、しかし寂しいんですよね。会津や八重を描きはしても、会津や八重に愛情はないんだなとしみじみ感じられることが。そもそも主人公・八重の描き方からして、「従来の悪評」をくつがえしちゃるという義侠心というか「愛」はなく、おそらく善意のつもりでスルーまたは正反対に描くことで、結果的に「従来の悪評」そのものを固定化している印象が、一貫してこの大河にはあったのですが、会津に対しても同じように感じてしまいます。「愛情のない善意」がどんなにハタ迷惑か、そういや311以来よーく目にしたよなあとか、あさってのことまで思い起こしちゃったりして
何よりも、会津目線からするといっちばん大事なところ、すなわち「この時代は、故郷=会津=殿であり、会津の再興と殿の名誉回復はほとんどイコールだった」とか「会津が一貫して訴えていたのは、戦前も戦後も「会津は逆賊じゃねえ」。すべてはここに繋がるといっても過言ではない」とか、そういうなんというか「根幹」の部分にあまり注意を払わない(ように見える)というのがね。「わかってない」感が増してしまって。根幹部分を美化しろってんじゃなく、根幹を根幹として描いてくれ、当時のことを伝えようとするならっていう。
少なくとも会津編ではそれが根幹として描かれていた気がします。だから最終回目前のここに来て、それにまつわる部分を削除しまくり(に見える)っていうのが、どうも割り切れない

被害妄想が嵩じるあまり、気づけば長々と文句ばっか書いてしまいましたが
覚馬の臨終シーン「会津に帰れるな」は、そうは言ってもやっぱしうるっと来ちゃったし(おっかさまの「長いことご苦労だったな」に泣かされたー)、続く殿の、一目見ただけで「あ、もう長くないな」と思わせる迫真の演技は、覚馬臨終シーンの時に、一目見ただけで「あ、やっぱヘタだな」と思わせるツワモノ久栄ちゃんとかいたもんだから、ますます目が釘付けだったりと、色々心に残る名シーンはあったのですが、予想外に長くなっちゃったのでこの辺で

あっもう1個心に残る名シーン、ジョーの幽霊
あれノベライズでは声を聞くだけで、「ありがとう・・・ありがとなし」といった、あんなに長くも感動的なシーンではなかったんですよね。これはドラマの方が圧倒的に良かった
(他に、ノベライズだと最後大山が八重の肩をポンと叩くシーンだったのが、ドラマでは長々と握手するシーンに変更されてましたが、これは長すぎな上に、腕相撲とか早く忘れたい私には逆効果でした あそこはもうちょっと削ってもよかったであろうに。あそうそう、「日本から仕掛けちゃならん」の前に、ロシアの脅威としてシベリア鉄道に言及するセリフも、ドラマでは追加されてましたね)
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コメント

No title

こんばんは。
八重ロスって言葉が身に染みてます。実を言うとドラマとか映画とか余りに感情移入しちゃうと最後まで観ないって心情が根底にありまして(自分でも最近気づいたんですが)DVDボックスなんかを購入してもこの話が終わるくらいならもっと「後にとっとこ」って仕舞い込んじゃうものもあります。
だからと言って八重の桜は最後まで観ますよ~。最近録画で観てるのもその辺のおかしなクセがあるからかもしれませんけど。
さてさてさすがK&Uさん。見落としどころかノベライズとの相関がよく表されていていつもながらすごいな。むしろK&Uさんの主観で脚本した八重の桜が観てみたい。どこぞで企画しませんか~。なんつって。
ご宸翰に関しては里見白虎隊をなぞると頼母に託すなんて場面もあるんですが史実はどうなんでしょうね。日光東照宮で容保が宮司で頼母が禰宜だった時に容保に返還したなんてのがやりすぎながら好みではありますが。
最終回が迫ってまいりましてちょっとこの大河では宙ぶらりんの頼母も登場となるようですね。しっかりオンタイムで鑑賞したいと思います。八重ロスとK&Uさんの講評ロスが目下の不安です。

Re: No title

こんにちは~♪
八重ロス、確かにですね~。私も、なんだかんだ文句たれつつ、1年間見続けたドラマっていうのは何十年ぶり!?って感じなので、終わっちゃうのは皮膚感覚で寂しいです(内容も寂しくなってきましたけど(^^;))
なるほど録画に移行したのは、その寂しさをまぎらわすためでもあったんですね!そのお気持ちはわかる気がします♪私も好きな話だと、続きの分量がどんどん少なくなるのを感じながら「早く終わりまで見たい!でも終わりを見たくない!」って思っちゃいます(>▽<) そう思える話ってめったに出会えないですしね~
私は物語はまったく作れないくせに文句つけてるのでアレですが(^^;)願わくばしよりさんの八重を原作に作って欲しかった!!!最初も思いましたけど、今はほんっとにそう思います。そうなってたらおそらく今のモヤモヤはかな~りなくなってたはず。
てかノベライズ、あの削除っぷりはどうでしょうと。なんで会津age、殿ageのところを狙ったかのように削るかな~と残念でたまりません(><) 非常~に飛躍した感想だとは重々承知ですが、弱者の味方になってるつもりで、本当の意味で味方になることは決してない、311以降よく見てきたサヨクへのがっかりぶりが、今回の大河でも見せつけられた気がしてしょうがないです;;(なまじ復興大河なんて言われてたから余計にってのもあるかもですが)
ご宸翰、どうなんでしょうね?私は身内の方が死後「そういえばいっつも携帯してたこれは何?」と開けてビックリ(>▽<)という逸話(うろ覚え)が大好きなので、願わくばそうであってほしいです。でもどっかで山川兄弟に伝わったのは確かなんですよね。
いよいよ最終回、頼母も出てきますね~♪ どうせ出すなら容保との邂逅も描いて欲しかっですが、それだと本格的に尺が足りなくなっちゃうでしょうか;;(最終回だけでも60分拡大版なのはうれしいです!)来週は念のため、タオルも用意して見るつもりです(>▽<)

壮大な大河解説ストーリーもクライマックスだない

こんち~♬
いやぁ感想が最終回を前にすごいですな!私は画面2つ開いて(本文とコメント)書いてます。スクロール無精で・・

私さぁ~K&Uさんの解説を読むまでは、会津魂の否定ということが真に迫っていなかったんだよね。読んで「そう言われればそうなんだ」と思ったというか・・・つまりは、あんつぁまの言い分がベストだというふうに思っていたからであり、K&Uさんとも「会津と薩長は似ているよね~」「危険派と安全派も似ているんだ~」、というようなことで盛り上がったからかなあ・・・でもK&Uさんは、薩長側にそれを知らしめる機会が無しってところにひっかかったのだね。ほんとだね。気がつかなかったよ。それを解説で読んで納得しています。

え~と・・・ごめん話おもいっきしそれる。

こんなツイがあったんだ。「私が2年半前に菊池誠氏の取り巻きに集団リンチされたのは「鼻血」「野呂さん」というキーワードを発したから。即座に「子供の鼻血を気にする無知な母親」というレッテル。私が伝えたかった想いや意図などお構いなしに、というか、それを説明しても聞く耳を持たない人たちから攻撃。」と、延々と続くんだけどね。

ねえこれってさ、私が反原発の人たちに攻撃される気持ちと一緒だと思わん?でこの人は「他人の言い分を聞いて・・」みたいなことを言っており、なら、私とも議論ができるじゃないか?とか希望を持ったけど(実行には移していない)

で、そういうところから、薩長側は全く免れており、さらに会津魂に一目置いていた、っていうところよね。

薩長が主力の政府が太平洋戦争を起こしたってのも炯眼だよね。つまりは会津の敗戦に学んでいなかったということだし。。。しかし、前、東北閥がどうこうとか言っていたけど、そこはどんなかんじなのかい?

だから私にはガオの良さがよくわからないのよね・・・。というかガオこそが会津魂の体現者というところが、よくわからないんだよね・・・・・。武士がなくなってしまうみたいなところとか言い分はよくわかるんだけど、そもそも、武士の時代って、戦国時代の上がりなわけで、それは正しかったんだろうかというのが根底に私はあるからだろうか?それともやっぱりガオの役者が、武闘派にしか見えないからかなあ・・・。

八重ちゃんの叫びはよくわかる。今の福島と重なる(って言ってはいけないんだろうけども)。でも、今の福島ももしかして過去を振りかえって、もっと布石とか、何かしておけばよかったことってあるんじゃないのかなとは思ってるのよね。例えば、主な首長選ですべて落選するような首長をどうして選んでしまっているのかとか・・・まあ知事は言わずもがなだけど・・・

でもそんなのは後出しじゃんけんで、歴史を振り返って言えることであって、それを糾弾しようとかそういうことではないんだけど(わかってもらえるかなああ・・)
今のままでは、「哀れまれる存在」で終わってしまうんではないかという危惧があるからなの。私。

私がこの回を見ての感想(というか、前も含めて)だけど、会津戦争で敗れ去ってもみんな立ち上がって、教育に関連する立場にあるということ。それから、本当は、そこをもっと描いてほしかったということ。だって、敗戦からの復興の姿をもっと見たいんだよ。だから、八重ちゃんだって、ジョーの死後の看護婦の仕事をもっと見たかったの。

やっぱり、最初が長すぎたと思う。あとは尚さんを書きすぎた弊害も、ジョーのシーンが嘘くさく見えたファンも多いと思う。後が短くなって削除しまくりというふうになっていると思う。

あんつぁまは死ぬときやっと眉間のしわ取れたね。お疲れ様・・・(はよう結婚せい)



No title

会津は戦争を仕掛けられたという面もあるとおみますが、積極的に戦争を仕掛けた面もあると思います。

よかったらこの記事を見てください

会津戦争に至までのプロセスが細かく書かれてます。

http://www10.plala.or.jp/yageki/aidu-geiin2.htm

Re: 壮大な大河解説ストーリーもクライマックスだない

Kさnこんにちは~♪
なんか予想外に感想が長くなっちゃって;;これでもあのジョーの幽霊のとことか、もっとじっくり書きたかったのに削ったのよ~(^^;)

私が文句ぶーぶー言ってばっかしなのは、やっぱし私が「会津好き」ってことで偏ってるからなのかも。ほら「左から見れば中道も右」とか(逆もまた真なり)とかあんな感じで(^^;)
なので、特別会津好きでも薩長好きでもない、Kさんみたいにニュートラルな人が「会津魂の否定には見えなかった」というなら、それが一番喜ばしいんだわ。私はとにかく「容保公が死んどけば会津助かったのにね」「上が我が身かわいさのあまり会津を滅ぼしちゃって、会津気の毒」みたいな、同情の仕方が的外れみたいなのが、このドラマで払拭されるどころか強化されちゃったら悲しいわっていうのがまずあって(お身内が軍人だったKさんなら、この悲しはきっとわかってもらえると信じてる(^^;))。会津はなんたって「先人感謝祭」だからね~;;負け戦を戦った人に感謝してる町だからさ~。

おおなんとタイムリー!反原発について思うことを、ちょうどさっきつらつら書いてたのをアップしたんだ♪相変わらず乱れた長文なんでアレだけど、よかったらお時間ある時に見てみて~(^^)

「薩長主力の政府が」っていうより私的には、「そういう成功体験を積み重ねた代々の政府が」ってことかな。成功体験の呪縛って、けっこう大きいもんよね。もちろんそういう精神論がすべての原因じゃなくて、あくまでも「一因」というくらいだけど。
東北閥っていうのはたぶん「めんどくさい責任は全部東北に押し付けちゃおう」という思いが先にあるがゆえの色眼鏡だと思うよ。「犯罪者の大多数が朝パンを食べてる→パンは毒」みたいな恣意的統計と似てる。軍官それぞれの上層部を見れば、東北出身も薩長出身もその他出身も入り乱れてるとしか。

武士はたぶん、太平の世・江戸時代になって、本質がちょっと変わっちゃったんだよね。いや本質が純粋エキス化されて宗教になっちゃったと言うべきか?基本、太平の世では存在価値ない人たちだからさ~。その人たちが社会の上に立つために、その社会を成り立たせてる宗教的価値の体現者になったみたいな。あくまでも宗教的価値観の体現者=象徴だから、実際の生活で社会を成り立たせてる庶民には、「象徴としてそこにいるだけ」みたいなもんで、実際の関係はあんましないだろうけど。もっとも一言で武士階級って言っても、そういう「自分は価値観の体現者だ」なんていう思いは人によって違うだろうし、下級武士と上級武士じゃまた違うだろうしね。「八重」に出てくる人たちは、一見庶民風だけど、あれみーーんなもれなく超セレブだから(>▽<)
でも確かに、ガオは武闘派にしか見えないよね(^^;) 最初、大蔵が優等生設定だった頃「なんでこんなヤンキー風味な人を大優等生役にしたんだろう」と思ったけど(キメ顔するたびに眉間にしわがよるのがもう)、今はもうガオ以外に考えられない(>▽<) たぶん実際の大蔵もガオみたいな感じだったんじゃないかという説得力があるよ。同時に「会津の知恵山川」でもあったそうだけど(@o@)

うんわかる。「こうしたらよかった」と後悔するのと、「こうしなかったあんたが悪い」と糾弾するのは違うんだよっていう。
会津好きとしては、前者が後者に摩り替わって伝えられるんじゃないかという(「容保公が死んどけば」みたいなね)、それだけが不安で。なので後悔→糾弾へ行かないよう、その間に「でも敵の存在をお忘れではないか」っていうのを念押しとして入れておきたいという。ほとんど小林よしのりの「戦争論」なんだけど(^^;)
もしかしたら言い方の違いに過ぎないのかもしれない。「会津の義はわかる。でも薩長の義もわかる」というのと、「薩長の義はわかる。でも会津の義もわかる」というのとじゃ、同じこと言ってるのに、なんとなく前者は薩長側、後者は会津側に立ってるように見えちゃうじゃない?これは単なる目くらましなのか、それともその順番に本音がもれてるのか、どっちだーみたいな(^^;)

> 今のままでは、「哀れまれる存在」で終わってしまうんではないかという危惧があるからなの。私。
ああ~~それ沖縄の人も言ってた。「反基地」とか「日本の捨石になった」とか、それはもちろんそのとおりなんだけど、今までのような言い方でそればっか言ってると、腫れ物扱いになって、議論が全然オープンにならない、そのうち見捨てられるんじゃないかっていう危惧があるってね。すごくよくわかる!と思ったけど、どうすればいいのか、難しいなと。まったく何の助けにもならないけど、こんな意味でも「基地」と「原発」って似てるな~とかも思って。

そうね~~。というかそうなるもんだとばかり思ってたのよ;;「会津編」「京都編」として描くってことはね。>敗戦からの復興の姿をもっと見たいんだよ
やっぱり尺が足りなかったのかな~??私は会津編好きだから、最初が長すぎとは思わないんだけど、あの幕末京都でのゴタゴタのあたりは、もうちょっとスッキリ描いても、会津藩の苦悩は十分伝わった・・・のかもね?
尚さん人気はNHK、良くも悪くも誤算だったかもね(^^;) でも無名で死んでいった人たちの代表として、この大河で尚さんの名誉が回復されたのは、ほんとよかったと思う。でもそれが京都編での弊害になったことも否めない;;

余談だけど、尚さんのことは純粋な誤算だろうけど、この脚本家さん?製作スタッフ?の考え方ってすごく共感するんだわ。「一見いいことが、いい結果として終わらない、人間世界の皮肉というか悲喜劇」みたいなもんがすごく気になって、そういう視点ですべてを見たい、みたいなとこが似てるんじゃないかとか勝手に思ってて(*^^*)
だから、体質的に「八重の桜」の描き方自体は嫌いじゃないし「わかる」のよね。ただそれが、会津好きという眼鏡をかけると、また違って見えるっていう。311以降にこっちに引っ越してきたら、サヨクがまた違って見えたっていうのと同じような感じかも、とか。

そう、あんつぁまのシーンも、もうちょっと長々感想書きたかったんだわ。でも色々書いてもつまりは「長い間、ご苦労だったなし」という、その一言だね~(T_T) 覚馬にも西島さんにもね。

Re: No title

T.Nさんこんにちは~♪

記事のご紹介、ありがとうございますm()m
じっくり読んでみますね~
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