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八重の桜・京都編

離婚数種、斗南描写と、エピソード盛りだくさんだったらしい先週分は結局見れなくて昨日ひっさしぶりに見た気がする「八重の桜」第32話。

いやあいいじゃないですか 相変わらず緊迫感あって面白いですよ!

第一の衝撃・植村さんってああいう人だったんでしょうか 「怪演」という言葉がぴったりの、アクの強い、個性の強い植村さんでしたね。「舞子さんを揚げてどんちゃん騒ぎだ(意訳)」と言いながら踊り出すに至っては、たまたまチラ見したU7歳児が「キモイー」と言ったくらいです 後にあんつぁまたちと袂を分かつんでしたっけ??

彼らが進めてる京都博覧会、そういえば「八重の桜」展で、この時の外国人ゲスト向けに覚馬が作った京都ガイドブック(もちろん英語)も展示されてましたね~。「三条大橋は京都の起点で、「京都から何キロ」みたいなのは、ここから測った距離である(うろ覚え)」みたいな、現代人の私にも「へ~そうなの」と通用するような文章を覚馬が作って、八重たちが写植の文字を1コ1コ拾って作ったという。ほとんど独学に近かったんでしょうに、すごいな~~と感心しました(ちなみに私の記憶が確かならば、この時に印刷で一役買ったのが、ぽっぺんとスペンサー銃をくれたあのレーマンだとの説明もありました。まだ交友関係が続いていたんですね!)

この植村に対し「長州・・・?」とちょっと引いたり(ていうか長州じゃなくても、あのキャラじゃ引いちゃいますけど)、西郷隆盛と会って会津藩消滅の恨みを爆発させたり、そういうところが「うんうんそうだろう」と、我が意を得たり!って感じでした。あの戦争を体験した人が、たった数年で、そんな簡単に「自分たちが悪かったんだ。敵にも事情があったんだ」なんて、他人事みたいに物わかりのいい心境になれるわけないだろう、というのがリアルで。

で私、あんつぁまは物わかりのいい会津人の筆頭で、それは八重ちゃんが思いの丈をぶつけてたように「あんつぁまは会津戦争の渦中にいなかったから」だと思ってたんですよね。
でも、それ「だけ」じゃなく(けどそれは絶対あるとやっぱり思う)、「会津が復興するには人材が必要だ。ハンデを背負ってしまったのは事実だから、そのハンデを教育によってカバーするしかないんだ」という信念があったのですね。
実際、八重さん捨松さん二葉さん、あれ女ばっかしだなえ~と柴兄弟や山川兄弟や、ハタから見るとハンデを感じさせない会津出身者はいっぱいいますね。これは本人の出来が元から優秀だったってのも大だと思いますが、「教育が重要」っていう考え方も絶対あったと思います。そういえば前にも書いた気がしますが、昭和の時代でも例えばビートたけしの孟母・北野サキさんは「貧乏から脱出するには勉学しかない」という信念を持っていました。いつの世も、逆境から脱げ出すための普遍的な手段なんでしょうね。

そう思うと、特に女だと尚更、「今こうして義務教育が行き渡ってるのはなんとありがたいことか」と、学校の先生が言いたいようなことを思っちゃいますが、悲しいかな理想が行き渡って、現実として皆がそれを甘受できて当たり前の世の中になると、ありがたみが半減してしまうんですよね もったいないことだけど、「行き渡る」「裾野が広がる」っていうのはそういうことでもあって。その中で頭一つ飛び出すためには、八重ちゃんの時代も今も、ごっつい努力を強いられるのは変わらないんでしょうねきっと。

つまりあんつぁまの、そして八重ちゃんの「教育」に対する熱意は、「日本のため」とか「新時代に向けて」とか「だけ」ではなく、「(あの戦争により滅んだ)会津のため」という個人的な感情から出ているんですね。個人的な感情って強いですもんね~。生半可なイデオロギーの刷り込みなんかより、よほど核というか芯になると思います、個人の体験から出たものって。

懐かしの金戒光明寺で、空の上座に向かって、在りし日のように拝礼するあんつぁま&八重ちゃん。
ここの回想シーンはしみじみしました~。殿はまだ殿としてそこにあり、田中土佐や神保父や、そうそう修理もいたな、かつて帝のため徳川のためそして会津のため、必死に戦った、今は亡き人たち。。。
まだチョンマゲだったんですよねー ほんの数年前のことなのに、すごく過去の時代に思えます。ま私にとっては実際大昔ですけど、チョンマゲ時代なんて

またまた太平洋戦争でごめんなさいですがm()mあの戦争の時も、戦後はがらっと変わったそうです。価値観も、ファッションも(まその前は戦時体制でしたからねそっちの方が不自然だったわけですけど)、町も。特に都市部は焼け野原だったので、自然、一から新しく作られるものも多く。
そうした中で迎えた高度経済成長。これまた前にも書いた気がしますが、これは決して上昇気流気分「だけ」があったわけじゃなくて。決して80年代のバブルから今に至る「景気がよくなる=生活が豊かになる」だけじゃなくて。
底には、あの敗戦から立ち上がろうとする思い、すなわち「日本の精神主義が欧米の科学に負けた。これからは科学じゃないとダメなんだ」という、悔しい、無念な、察するにあまりある思い、そして八重ちゃんも言ってた「殺し合うような戦争はもう嫌だ。しかしこのまま踏みにじられたままなんて、そんなのも我慢できない。だからもう1度勝つために」という、強い思いがあったのだと。もちろん国民全員がそうだったなんて言うつもりはありませんが、そういう思いも確かにあったと。
何かの本でちらっと読んだだけなのでうろ覚えなんですが、「ああそういうことだったのか!ただ「安楽な生活をしたい」とか、そういうレベルじゃなかったのか」と、目からウロコだった記憶があります。そうそう福島原発とかもこの時期なんですよね。「未来を背負う新エネルギー」というキャッチコピーは、ただ「未来♪新時代♪」と浮かれていたわけじゃなく、そういう思いを底に秘めて在る言葉だったんだと思うと、何か胸に来るものが。

今回描かれた八重ちゃんあんつぁまの思いは、この時の日本人と同じだったのかもなと、相変わらず思ってしまって、そこがまた印象に残った回でした。
「会津を朝敵として踏みにじられたまま終わらせない」という、そしておそらくその中には、会津のために死んでいったあの人この人たちのためにも、という強い思いがあって、「学問」という武器を手にした彼らですが、しかし実際のとこ、「会津は朝敵」というのが払拭されるには、昭和の勢津子妃ご成婚まで待たなければならなかったんだろうなあ。
同時に、今後出てくるはずの徳富蘇峰たちによる、会津≓会津魂の再評価が、戦争へと向かう時代の空気の中で最大限に高まって。
しかしその戦争にも負け、時代は形を変えた戦い=高度経済成長へ。
人間の歴史は、姿を変え形を変え、しかしどことなーーく似たようなものを根底に秘めながら、どこまでも続いていきますね~。

他にも、フォーマルが異様に似合う木戸ミッチーとか、みねちゃん時栄さん、ジョーに捨松と、印象に残った人たちは多々でしたが、とりあえずこの辺で
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テーマ : 大河ドラマ - ジャンル : テレビ・ラジオ

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