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八重の桜と御薬園

こないだKKの小学校からもらったプリントにいわく
「全校朝礼で「八重の桜見た人~?」と聞いたら、2/3が手を挙げた」
とのこと
てことはうちの小学校的には、初回の視聴率60%強!さすが地元
もっとも先日の2回目は、公式視聴率18.8と下がったようですが けど時間帯視聴率で見ると、他局のスペシャル番組を6%以上離して堂々第1位なので無問題かなと。連休でお出かけの人が多かったんでしょう(たぶん
ちなみにノベライズを読んだ感じでは、まだまだ手堅く行くので「いきなり見せ場多々でブレイクスルー」を期待する層には当分肩すかしかなと。だんだん、じわじわと真綿で追い詰められていく流れが、個人的にはたまらないのですが

さてその八重の桜2回目♪
八重の父母の諭しがよかった、吉川晃司が違和感なくて驚いた、あの和歌のシーンはなんぞ等々、断片的な感想はあるものの、基本ストーリーはノベライズで堪能してしまってる私 TVの方はもっぱら「会津の風景」を堪能するために見ていると言っても過言ではありません
例えば子八重と子大蔵が道端で言葉を交わすシーン、片側に白壁があって片側が土手みたいなあのロケーション。「あっこれ絶対鶴ヶ城だよ♪」とか 初回にも出てましたけど、あの土手や石段の感じがもう絶対鶴ヶ城!あそこら辺に白壁セット作ってたしね♪

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↑こんな写真しかなくてスミマセンがm()m この看板の向こう、土手を挟んで向かい側に白壁がズラ~リと組まれていました
この白壁は茶室麟閣までぐる~っと続いていて、八重の家から白壁が見えるなんてシーンは、おそらくこの茶室から撮ったのではと(黒い屋根が茶室、木の柱で立ってる壁がセットの白壁(の裏)です)↓

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あるいは覚馬が猪苗代湖&磐梯山を見て、会津に帰ってきたことを実感するシーン。
おお磐梯山が左側に見えるあたり、崎川浜かな?山がもうちょっと近い気もするから、別の浜かな??
(湖水浴もできる猪苗代湖ですが、デカいだけあって浜もいっぱいあります 写真は崎川浜)

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また、若かりし容保と照姫の初対面シーン。
あの池と緑の感じ、これはもしや御薬園!?そういや「御薬園でロケ」情報もあったしな~♪
(ちなみに読みは「おくすりえん」ではなく「おやくえん」です

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しかし少年時代の容保、こんな広い芝生じゃなく、今にも池に落ちそうな狭い坂に立ってた気が。
そんなとこ御薬園にあったっけ?と記憶を辿ると、おおあったあった向かい島に♪↓

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うわ江戸藩邸ちっちゃ(ほんとにこの場所があのシーンかどうかは定かではありませんがm()m)
この写真は、上写真の御茶屋御殿から撮ったものです。てことは対岸の江戸藩邸(?)から撮ると、ちょうど池の向こうにこのお茶屋が映るはず(確かそんなシーンがありましたよね?)

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ちなみにこの写真は、おととし撮ったものです→レポこちら
この御薬園、「秩父宮勢津子妃ゆかりの場所」ということでも有名です。
ご婚儀前、東山温泉で泊まった宿「重陽閣」がこちらに移築されているとのことで、中には皇室関係の白黒写真が飾られていたり、その名も「プリンセスチチブ」というバラが植えられていたり。
しかしなぜ御薬園に?東山温泉に残しておけばよかったのに、と思っていたら、なんとこの御薬園、勢津子妃の父=容保公の四男=松平恒雄氏が、ご幼少のみぎりご両親とともに3年間ほど住んでいたのだそうで 御薬園から行人町の小学校まで、雪でも歩いて通ったのだそうです。
へ~~それじゃ確かに「秩父宮勢津子妃ゆかりの場所」とも言えるわね~。しかしお父上、実際に会津っ子だった時期があったとは!

勢津子妃が皇室に入った時は、「逆賊の汚名が晴れた」と、そりゃもう会津あげての大盛り上がりだったそうですが、「会津の血縁」というだけで、基本東京住まいの方々だし、そんなに中身は会津関係ないだろうと、私勝手に思ってたんですよね まあ地縁血縁の強かった時代だから、当時は「容保公の直系子孫」ってだけで充分「会津人」だったんろうとは現代人にも察せられますが。

しかし勢津子妃のエッセイ「銀のボンボニエール」を読んでみたら、そんな生ぬるいもんじゃなく。
「あ、この人たちって思った以上に根っから「会津人」だったんだ」
と知らせる記述がドサドサ(上の「御薬園在住」情報もこの本にあったものです)。
そもそも勢津子妃の時代が、現代人のように太平洋戦争(の敗戦)という価値感上での大転換期がなく、明治維新から一直線に続いている大正~昭和初期ですからね~。戊辰戦争の記憶は今じゃ想像できないくらい、色濃く残っていたことでしょう。
そして子供たちの養育係として長年仕えた人が会津人。新島八重と同じく旧会津藩士の娘で、戊辰戦争をくぐりぬけ、日露戦争の時にはやはり従軍看護婦として召集されたという経歴の持ち主だったそう。
勢津子妃は幼い頃から折に触れ、彼女「たか」から鶴ヶ城の落城や斗南での生活などを聞いて育ったのだそうです。
「会津から立派な方がたくさん出たのは、下北半島の会津藩士に対する明治政府の仕打ちがあまりにも酷かったので、その反発からでございますよ。気概のある人は会津魂を燃やして、いまに見ておれという気持ちで踏ん張ったのでございます。女とてその志は同じでございます。山川捨松女史をご覧あそばせ」
なるほど~単なる地縁血縁以上に、「会津人」としてのアイデンティティを育む環境だったんだな~

お父上・松平恒雄氏は
「父容保のために会津藩は多くの犠牲者を出し、今もなお旧会津藩士というだけで有為の人々が世に出ることを阻まれている。そんな彼らに申し訳ない」
との理由から爵位を辞退し、一介の平民として生きることを決めた方なのだそうですが、少女時代の勢津子妃が、お父上が刀を眺めているのを「怖い」と言ったら
「会津の血が流れている人間が、刀を見て怖いなどと言うものではない!」
と叱られたのだそうです。会津アイデンティティすごいな~
「会津の落城の時は、お前くらいの年端の行かぬ娘でも、立派に母親や弟妹とともにお祖父様のために自刃して死んだのだ。お祖父様のご無念や会津の人々が苦労したことを忘れてはならない」
その言葉を受けて勢津子妃いわく
「私はその時、普段は見せることのない父の心の底の会津魂にじかに触れた思いがしたのを、今もはっきり覚えております」

降ってわいたような秩父宮とのご成婚の話に、食事も取れないほど悩み、泣きに泣いた勢津子妃。
周囲の、そしてたかの説得にしだいに心が定まってくるものの、最後の大きなわだかまりが
「たか、私が宮家に上がれば、弟妹だって今までのように自由に暮らすことはできなくなる。お父様やお母様だって、お立場が難しくなるし、色々大変だと思うの」
時代は昭和初期。現代でさえ皇室に入ると本人も周囲も何かと大変なのに、近年もっとも天皇の神格化が激しくなった時代ですからね~。
「するとたかは、突然、ぽろぽろと大粒の涙を流しておりましたが、しばらくしてそれをぬぐうと、申しました
「皆さま、会津魂をお持ちでございます」
たかの口から「会津」と聞きました瞬間、なぜか私は何年か前の夜、抜き放った刀身をじっと見つめていた父に思わず「怖い」と口走って叱られた自分を思い浮かべているのでした。
すると、私の心の中から、なんとも知れぬ強い力がすっくと立ち上がったのを感じ、やがてそれは「皇太后様のご意志をお受けしよう」という決意になっておりました。このとき、「会津」の二文字が、垂れ込めていた黒い雲の間から差し込む光のように、私の行くべき道を照らし出してくれたことは事実でした」


なるほど~これは会津あげて大喜びにもなるわ。そういえばあの新島八重もご成婚によせて和歌を詠んでるものね。
ちなみに昭和天皇の弟嫁は、秩父宮妃の会津松平家をはじめ、高松宮妃の祖父は徳川慶喜、三笠宮妃が幕臣と、「嫁が三人寄ると、なんだかみんな、賊軍の娘ばかり@高松宮喜久子妃」というお家柄。これはやっぱり、そういう方針があったのでしょうかね~
というわけで思いがけず会津が頻出する本「銀のボンボニエール」だったのでした。
御薬園にご旅行の際は、ぜひこちらもご覧になってみてください♪会津好きには浸れると思います
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テーマ : 大河ドラマ - ジャンル : テレビ・ラジオ

コメント

No title

こんちは!御薬園、友達が勤めてるよ!おととしの夏、会って来たんだ~いいところだよね==(もしかして同じころ??)

そういうくだりがあったのね・・・勉強になったわ。行ったとき予定ぎちぎちで、とってもゆっくりみてるひまなくて「ゆかり」なのね の③文字で納得しまった私です。

しかし、昨日県民性の本を図書館でぱらっと読んでて、まじめでストイックな「会津」と、明るい「中・浜」対照的ってあって、「中通り出身の西田・中畑は会津魂とは対極にある明るいのんびり大らか人間。会津は、保科公の長野の影響を多分に受けている」と書いてあったんだけど・・・・。

私これに激しく同感したわよ。
長野と会津は似てるのよ。ほんとに。ほんとーーーーに。

で、2話、八重があんなに天井裏に勉強を隠していた、ってのが、あれがキモだったなーーー。これなんだよね。ならぬものはならぬをも溶かすものは、こういうちりも積もればの世界観だよ。

ここに、中通りの私だけど、風評に撃たれても踏まれても、コツコツと人知れず、歯を食いしばって積み上げていく、日々の暮らしを続けていく福島人のイメージが重なって、泣いてしまいましたっす!!





Re: No title

こんにちは!おひさです(^^)
え~おととしの夏!?じゃあどっかですれ違ってたりして??
御薬園の庭園は気持ちいいよね~。抹茶もおいしかったし♪
次は重陽閣でアフタヌーンティーセット!って思ってるんだけど、まだ行けてないんだ~(って食べることばっか(^^;))

長野の影響か!それはありそうだね~
ていうか、個人的には長野はもちろん、会津の人もそんなに深くは知らないんだけど、海と山とで気質の違いは絶対ありそうな気がする。前いた村上も城下町で、どっか「小規模な会津」という雰囲気な町なんだけど、同じ村上でも海沿いの瀬波温泉の方はもうちょっと豪気っぽいというかね。お祭りとかも激しいの、瀬波の方は。

八重の桜でも出てくる家老たちとかも、保科公の時代から付き従ってきた家系が多いらしいのよね。
てことはたぶん、彼らが一丸となって「会津松平家」の家風を作って守ってきたのかもしれないね。
蒲生氏とか上杉氏が続いていたら、「会津の気風」はまた違ってたのかも?
甲賀町だったか馬場町だったか、やっぱり蒲生氏に付き従って日野市からやってきた家臣団が住んでた一画もあるらしいんだけど、松平家の時代が長かったから、特色みたいなもんは消えちゃっただろうしね~

うん、私も、箇条書きで「新島八重」を知った頃は、「単に鉄砲がうまい人で、女性として当時は珍しかったから(普通の腕でも)伝説になったんだろう」って印象だったんだけど、こんな小さい頃から毎日そればっかし考えて10年以上やってれば、なるほど実際に近所の子に教えたり、戦場で活躍するくらいになるよな~って、説得力あったわ。捨てずに取っておくお父さんも、愛情だよな~とか。
と思いつつ我が家では思わず笑ってしまったあのシーンだったけど、そうか、そういう見方もあるよね。作者もその思いを込めてたのかもしれないと、Kさんのコメントで思ったよ。
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