家庭内民主主義

クリスマスも無事終わり。
子供たちがなかなか寝ないので、車に隠したブツを取りに行くタイミングがつかめないままサンタさん寝てしまい、「じゃあ私の車に乗って取りに行きなさい(←見知らぬ人)」「ああ~~もうすぐ子供たちが起きてくる時間だ~」といった、旅行前に必ず見る焦らせ系悪夢(「チケット忘れた」とか「飛行機に間に合わない」とかね。あれ本当に心臓に悪い夢ですよね)にうなされてやっと目覚め、無事プレゼントを渡すことができました。もっとも上の子はさすがにサンタさん信じてないですが、とりあえず上下ともに大喜びで何より♪

子供といえば、下の子が生まれた時
「男兄弟は、小さいうちは喧嘩ばかりで当たり前。甥っ子たちなんか足がぶつかっただけで喧嘩してたぞ」
と、優しい気質の姉妹に挟まれておっとりと育ったダンナが言ってて。
これまた一人っ子につき「喧嘩」というものを知らずに育った私は
「ええ~~~なんでそんなことで喧嘩になるの???」
と、不思議でしょうがなかったのですが。足がぶつかるなら「ごめんね」「いいよ」っつって、足どかせばいいだけじゃんと。
しかしダンナいわく
「足をどかすという選択肢がない。時にはわざとぶつけたりする。そして殴り合いになる。けれど次にはまた懲りずにくっついて座ったりする」
わから~~~ん。その謎の行動が一人っ子にはさっぱりわから~~~ん

と思って早幾年。小6&年長男児になった2人ですが、今やほんとに足ぶつかっただけで喧嘩してます(大笑い)
ていうか「足がぶつかったから」ならまだ正当な理由ってくらいで。歌歌ってたら一緒に歌われて腹が立ったとか、描いてる絵を覗いたとか、頭に触ったとか、前を歩いたとか後ろを歩いたとか、「微笑ましい兄弟間のコミュニケーション」がすべて火種!まるでヤクザの因縁のごとくどんなことでも理由になる!そして文句言われても引き下がらない(どころか2倍増しでやる)ところも予言どおり!
で「へばーかばーかばーか」「うざい!兄ちゃんうざい!」「ああそうですかーキモキモキモ」「兄ちゃんウンチーー(ボカスカ)」「(ビシバシ)」やめなさ~~~~~い

「下の子が生まれた時、上の子を大事にするのが足りなかったかしら」
「もっと言動をきめこまかく躾けるべきだったかしら」
と、親としての反省点がテンコモリに浮かんでくる日々ですがそれはさておき。さておくな。いやなんかもうめんどくさくて
そして、一人っ子につき、こういう兄弟喧嘩とは無縁だった私には、なんというか目からウロコみたいなとこもあって。
「悪いことしないのに殴られることがある」「悪いことしなくても暴言吐かれることがある」
こういう理不尽さを日常として受け止めてる子(主に下の子)は強いなーと。私が理不尽だー理不尽だーと人一倍気になりつつも乗り越えられない「この世に当たり前の顔して存在する理不尽」がほんとに当たり前で、更にそれに「対立してもいい」となってるところがね。私とかは理不尽さに折り合いつけようとするあまり「そういうもんだ」とあきらめちゃいがちだから。

そう、私「対立」ってのが苦手なんですよね。
これは一人っ子だからかなと思ってたんですが、司馬遼太郎さんいわく
「日本人は競争はするけど対立は避ける」
と対談集で言ってて、じゃあ日本人全体がそういう傾向なのかしらと。
いやうちの男児たちだって日本人ですけどって思う反面、けど確かにそういう傾向はある気がするんですよね。こないだ山田風太郎さんも「「もう帰ってくれませんか」が「お茶漬け食べていきませんか」になる」と言ってたけど、この「対立を避けてふわっとやりすごす」ってもう、「日本人論」としてはスタンダードになってる気がします。
そういえば坂本龍一さんも「朝鮮半島までは金属音で来るのに、日本に入って時間がたつと角が取れて基音が強くなってくる。言葉も、朝鮮半島の濁音、鼻濁音いっぱいふくんだものが日本語になると平準化される。どうもそういう傾向が日本にある」と言ってました。音ですら丸くしてしまうとは、おそるべし「和」の国。

「基本的に農業の国だから、農業に欠かせない協調性・集団性を維持するためにそうなった」
「島国で、異民族に征服されたことがないからそうなった」
等がその理由としてよく言われてますが、まあ納得です。戦いなんかそりゃ誰だって気分悪いし、それをしなくて済むなら越したことは無いわよねえ。で日本の場合は幸いにも、海が砦になってくれたおかげで戦わなくても済んだ、むしろ戦いなんて農業やる上では害悪でしかないという長い歴史の蓄積が。もちろん武士という戦い専門員もいますけど、あれはやっぱり日本の構成員の中では特殊な上位数%かと。あんまり他国に侵略されたされないといった兄弟喧嘩の経験が少ないあたり、日本=世界の一人っ子みたいなとこがあるのかしらん?

昔の村落共同体では「寄合」という制度があったそうで。村のことはそこで話し合って決めるという。
それがまたえっらく長い話し合いだったそうで。皆が合意に達するまで、下手すりゃ昼夜ぶっ続け、2日くらいかかっても話し合い続ける。途中ご飯食べに帰ったり、手弁当持参してまで合議を続けるという、時にはそういうえらく気の長い話し合いになったみたいです。どっかで読んだだけのうろ覚えなので確証ないですが。

私これ読んで「ああ日本の民主主義って別に戦後の憲法で始まったわけじゃなく、根っこにあったんだな~。ある意味欧米より民主主義に関しては先進国だったのかもしれないな~」と目からウロコで。
でもそうなんですよ。「自分と同じ権利を持っている、自分とは違う他人とうまくやっていく」てのが民主主義の基本だと思うんですが、ある意味それは日本すごい上手なんじゃないかと。正面切って対立せず、ふわっとやりすごしたりするのも、長く培われてきた技法の1つで。「日本に民主主義をもたらした」ってことになってる欧米だけど、けっこうジャイアンでうちの兄弟みたいなことしてる欧米もこういう民主主義を見習えばいいのにとか

なんで日本はこういうふうにできるかというと、やっぱり他者への「信頼」があるんかな~と。
寄合にしろ何にしろ、その民主主義的な場に集まってるのは基本「同じ村の人間」という信頼が前提にあって、そこから生じる「どんなに時間がかかっても、いずれはわかりあえる」という信念のもと、2日でも3日でも話し合っていられるんじゃないかと。
そうした村落共同体につきものの「余所者に冷たい」なんてのは、その「信頼」の強さを裏側から表してるもんだと思います。共同体への信頼が強いからこそ、そこに属さない者は信頼できないという。
じゃあなんで「同じ村」なら信頼できるのか。うーんやっぱり「言葉が通じる」からかなあ。つまりベースの価値観というか。
その共同体を成り立たせるための約束事みたいなものを、その共同体成員なら当たり前のように共有しているから、その盤に乗って議論できる。その上で、手段とか利害とかそういうものだけ調整すればいい。盤を壊すようなことは、同じ共同体なら絶対しないだろうという安心感、信頼感。

翻って欧米はどうかというと、なんか出発点が違というかベースがもう全然違うような印象が。
盤を共有しない者同士で、いかに議論を出発させるか。そういう、日本とは違うかなりシビアな状況から生まれてきたのが欧米流の「自由と民主主義」という気がします。価値観も共有してない、信頼なんてもちろんない、そのままなら戦争になっちゃうような相手と、なんとか戦争をしないために決めたルール、それが欧米の民主主義。

言い換えれば、ベースに必ず「対立」を抱えているのが欧米流の「民主主義」って気がするんですよね。
日本では「和」の象徴というか、「戦争なんかやめてみんなで仲良くやろうよ」というのが民主主義って気がしますが、欧米の民主主義は戦争の代理手段というか、「いつでも対立準備オッケー」的な闘志が底にある的な。

と思ったのは、大河ドラマ「山河燃ゆ」についての話を読んでた時。
これについては前にも書いたのですが、「こんなドラマを放映されては困る」という声が日系アメリカ社会から挙がり、NHKはそれを受けて前代未聞の「アメリカにおける放映中止」を決定。
それに対してやはり日系アメリカ人の声の1つとして
「まずは放映するべきだ。そしてそれを見た上で批判なり次に生かすなりすればいい。それが言論の自由であり、私たちはそのために戦ったのだ」
という意見があって。
けっこう驚いたんです私 「すごいな~。何か「信頼」があるんだな~」と。
放映して、意見を戦わせた方がいい結果になるという、その方法への信頼みたいなもんがあるんだな~。その方法が「戦って勝ち取った」ものだから余計にそう信じられるんだろうな~という。
私からすると、放映してなんか取り返しのつかないような悪い結果になったらどうすんのと。それくらいなら封印しちゃった方がいい。そうして何もなかったようにやりすごせば、あとは時間が解決してくれるという感じで。

私の考え方は明らかに「日本人こうあるべき」の見本市です さっき「日本は他者への信頼がある」と書きましたけど、本当はこういうふうに、全然「信頼してない」んです。というか、信頼してるのは話が通じる人たちだけ。民主主義が成り立つのはそういう「信頼している人たち」の間だけ。「こんなドラマ放映されたら困る」というような、盤をぶちこわしかねない反対意見を出す「純正の他者」は、もう「反対意見を出す」って時点で信頼できないんですよね。だから「議論したってかえって関係悪化するんじゃ」とか心配してしまう。そんで対立をやり過ごす。対立=「失敗という終着点」だから。自由を許すあまり失敗に行き着くくらいなら自由はいらない、自由よりも対立しないことの方が重要。
「戦争も外交の一手段」という言葉、私には非常~~に違和感で「何をどっかで聞きかじったようなこと偉そうに言ってんだ。戦争になったらそれは「失敗という終わり」だろうが」としか思えないのですが、これは別にサヨクの専売特許ではなく、案外モロに日本的な考え方なのかも?

けれど「放映しなきゃ始まらない」という欧米にとっては対立=文字通り「出発点」であって。
「自由を認めるから対立する。それが何?なんでそんな当たり前のことを言ってるの?」みたいな。
「日本人はよくわからない」という印象には、これも一役買ってるのかもしれません。「なんで嘘ついてまで対立を避けるの?」とか。いやそんな印象あるのか実際は知らないで言ってますが。
けどこれはかな~り大きな違いですよね。「自由」や「民主主義」といった具合に、なまじ名前が同じで「なんとなく良いもの」という価値観も共有しているだけに、違いがわかりにくくていっそう始末が悪い。
私は上でも書いたように「日本の民主主義(=和の精神)って最高じゃん。欧米も見習えばいいのに」と本気で思ってますが、しかし日本でそれが成り立ってるのは出発点をネグって、最高の終着点になるよう調整された盤の上で民主主義してるからだという思いもぬぐえず。そりゃ「最高の民主主義」になるわよね。欧米が目指す民主主義の到達点だけがあるんだもの。すごろくのゴールからスタートしちゃってるような感じ。

出発点をネグって「民主主義の理想の到達点」を成り立たせる盤、それがすなわち自民党改憲案などにある「公益、公の秩序」なんだろうと思います。
「公共の福祉」には「皆が盤の上に乗っていい。そこから秩序を作っていこう」という、欧米流の姿勢がありますが、自民の改憲案は「公益・秩序」によって盤の上に乗れる人を制限し、その上で民主主義を行うという。必然的に「根本的な対立」なんかは生まれませんね、その秩序を受け入れた人だけが民主主義に参加しているんだから。
問題は、その盤に乗れない人はどうすんのかという。「公益」に値しない人は参加の権利なし、ってすっごく残酷な切捨てですけど。「公益に値しない」って言い換えれば「お前の存在価値無いよ」です。そんな残酷な宣言を、さらに恐ろしいことに「秩序」として正当化。「公益」に基づく「公の秩序」ってわかりやすく言えば「存在価値ない人が自分の権利を言い立てるのはルール違反、迷惑」ってことですから。ああ~でもなんか、よくある言い草ですね~こういうの。生存競争で頑張ってるのは切り捨てる側も切り捨てられる側も変わらないのに、片方は「公益・公の秩序」によって守られ、片や「公益・公の秩序」によって切り捨てられる。しかもそのことに文句も言えない。
もっとも欧米流の「公共の福祉」すなわち対立前提で全員が盤に乗れるっていうのも、残酷であるとは思いますけど。日本流の残酷さとはまた別種の。

で、日本にしっくり来るのはどっちかというと、やっぱり自民党改憲案なんだろうなと思うんですよね。
ず~っと、不文律的にそれでやってきて、役割分担という盤がグラついてなかったのが、戦後「自由と権利、民主主義」みたいな流行がやってきて、それが混じったから今その盤がグラグラしてるんだと思いますもん。中途半端に「空気読み」で、中途半端に「個人主義」で。
と同時に、あっさり「自由と権利、民主主義」に塗りかえられず、中途半端までしかいかないっていうのがまた、いかに日本流「秩序重視」が根深いかという証かと。それほど根深い(もしかしたら聖徳太子にまで行き着くかもしれん)日本的な体質を、人工的に変えようとしたらどっかに無理が出るだろうから、そんなら無理せずそっちに戻った方がいいんじゃないか、ゴタゴタも減るだろうし、とかね。何より日本方式だと「どうやってこのお互いの違いを乗り越えればいいのか」とか考えなくていいんでラクですから。いざとなったら「そう決まってる」と秩序を持ち出せばOK。

「だから日本はぶらさがり民族になるんだ。同調圧力だけ強くて異論を認めない。そんで戦時中もあんなことになったじゃないか」
という思いが、戦後民主主義を歓迎し、受け入れた根っこにあると思うんですが、しかしやっぱりいいとこどりはできずゴタゴタになってしまったんですね。欧米流の「自由と民主主義」って、日本人の体質である「対立しない」をリセットしないとマネできないですもん。そしてマネしたからって果たしてそれがバラ色かと言うと決して。「民主主義すごろく」のいまだ途上なんですから、うちの兄弟げんかみたいなのが頻発するだけで。それならなまじそんな本格的なやり方を、体質改善という無理をしてまで目指すより、出発点が違うおかげでゴールに近いというこの状況を守った方がいいのかも。

けどね~。ゴタゴタを解消するために、日本の良さへ反動回帰すればそれで済むかって言えば・・・う~んやっぱ双手を挙げて賛成できないわ~~。堂々巡りだけど、でも本当に、日本の良さって上のような悪い面と表裏一体だから(まどんなこともそうだけど)。ゴタゴタを解消するために人工的に日本の良さを注入したら、そのゴタゴタのためにかえって悪い面だけが浮かび上がっちゃうかもよ。

って、長々書いてきましたけど、「日本人とひとくくりにできるのか」「欧米っていうけど欧と米はかなり違うだろ」「つーか欧の中だってずいぶん違うだろ」といった具合に、しょせんは穴だらけ、主観だらけの印象論に過ぎませんm()m
ただ、自民党の改憲案を見て
「せっかく戦後に勝ち取った・・・じゃなくて負け取った素晴らしい理念なのに、現状だけ見てあっさり捨てるのは、いかにも「豊かさの中で生まれたから豊かさの弊害だけを知っててありがたみを実感したことない子供」みたいだな」
と思ったのと
「しかし日本ならではの良さと、自由民主党・・・じゃなくて自由・民主主義は確かに相容れない部分もあるんだよな。自由・民主の良さや、日本ならではの良さみたいな「いいところ」って「悪いところ」と表裏一体だから、片方の悪いところをもう片方の良いところで打ち消せればいいんだけど(そのつもりで戦後受け入れたのでしょうが)、悪いところを消すと大抵おおもとの良いところも消えちゃうのが困ったもんだ」
と思ったのを言いたかっただけなのが、こんなに長くなってしまったのでしたm()m
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