大河ドラマにドラマあり~前編

もうすぐ師走。早いですね~。
会津では初雪が降り始めました
年が明けたら、いよいよ会津が舞台の大河ドラマ「八重の桜」が放送開始です♪

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「大河ドラマ館」も着々準備。平成25年1月から1年間オープンだそう。

しかし我が家の日曜8時は「イッテQ」なので、「平清盛」は1回も見たことなし。それどころか「江」も1回も。「龍馬伝」は総集編をちらっと。「天地人」は新潟が盛り上がっていたにもかかわらず「ガクトが出たらしいね」「紅白にも出たらしいね」というガクト情報を知っているのみ(と思っていたら「天地人」じゃなく「風林火山」だったそうですね というわけで「天地人」も「風林火山」も見たことなし)。

今でこそこんなテイタラクですが、子供の頃は毎週のように見てました
そもそも昭和の家庭には「日曜8時は大河ドラマ」という不文律がどーんとあって。
一家に2台以上のTVもゲーム機もなかった子供は、逃げ場なく親と一緒に見ざるを得なかったんですよね 大河ドラマに別れを告げて一人自室でTVを見るようになったのは「天才・たけしの元気が出るTV」の頃だったかな~

そんな大河挫折者も「八重の桜」のおかげで、再び大河ドラマに思いを馳せるようになった今日この頃(思うだけで相変わらず見ちゃいませんが
折りしも会津図書館で「大河ドラマの50年」という本を見つけました。
これがま~、懐かしさと驚きがテンコモリ!もはや大河ドラマの歴史自体が、一つの大河ドラマのごとし。

そもそも、初めて大河製作の大号令を出した「長澤親分」ってのがすごい人で。
なんたってNHK入社が2.26事件の年。報道部の駆け出し時代は、日独伊三国同盟締を締結して帰国した直後の松岡洋右に単独インタビュー成功。太平洋戦争中は陸軍宣伝班でシンガポール攻略戦に従軍。有名な山下中将「イエスかノーか」の会談にも立ち会ってたという。終戦記念日には宮内庁から届けられた玉音放送の録音盤を、スタジオまで運んだ1人。
この、主役にすればそれだけで1本の昭和史大河ドラマができそうな、濃い経歴の持ち主・長澤泰治氏が、昭和37年・テレビ放送10周年にあたり
「映画にも負けない日本一のTVドラマを作って、日曜の夜に全国の視聴者をこっちに向けよう」
と考えたのが、今に続く大河ドラマの始まりだったのだそう。
「俺は芸能には素人だから、お前らの好きにやれ」
と言いつつ、自分が知ってる映画スターを列挙して
「思いっきり派手にやりたいから、今言ったの全部連れてこい
という無理難題とともに

なんでも当時は「五社協定」てのがあったんだそうです。すなわち東宝・松竹・大映・東映・新東宝による「劇場用映画はTVで放送させない」「映画会社の専属俳優はTVに出さない(=ための許可制)」という。
TVがまだ「電気紙芝居」と蔑まれていた頃。当の俳優さんからも「顔がゆがんで映るTVには出たくない」と言われていた時代。ゆがんでたんですかTV映像 そういや「編集」という作業がなかった頃は、ドラマの「時間が止まる」シーンでは、皆コントのようにぴたっと動きを止める中、背景の壁時計がチクタク動いてたなんて伝説を聞いたことあるなあ 今じゃ信じられない、TV創世記。

無茶にもほどがある長澤親分の厳命に
「素人は怖い。できっこないよ」
と当時のプロデューサー(という言葉もその時はなかった)は恐れおののきつつも
「映画を電気紙芝居が見返してやる」
との信念を胸に、渋る映画会社や俳優のもとをかけずりまわり、毎週のように佐田啓二の家に通いつめ、幼い息子の遊び相手などをつとめつつ、ついに主演OKを勝ち取ったのだそうです。
それが第1作「花の生涯」。ちなみに当時1歳だった息子の中井貴一も、後に大河ドラマ「武田信玄」で主役をつとめます。

それから「赤穂浪士」「太閤記」と、最初の3作で既に現在の骨格ができていたのに驚かされます。娯楽大作時代劇、あるいは歴史ドラマ。さらに「順撮り」ではない「抜き撮り方式」など、今なら当たり前だけど当時にはありえなかった工夫の数々。現代の映像や解説などを挟むのも、「太閤記」で既にあった手法だったとは。
そういや「赤穂浪士」の音楽とか、生まれる前なのに知ってるもんなあ。当時の大河ドラマってエポックメイキングだったんだな~

そうそう「太閤記」の配役の決まり方も面白かったです♪
「秀吉=サル顔の役者」という条件のもと、田中邦衛やジェリー藤尾が候補に上がるも、「新国劇に有望なサル顔の若手がいる」との噂を聞きつけ、その若手には理由を言わずに笑った写真を撮らせてもらい、NHKに戻って写真を見せたら即決したという、緒方拳
とある俳優の付き人が非常に堂々としている=信長にぴったりとのことで、正式決定しないまま、NHK局内の部長会にその付き人を連れて行き、彼が「信長です。よろしくお願いします」と一礼したら、その堂々とした態度に思わず拍手が起きて決定したという、高橋幸二。放映時の人気はすごくて「信長を死なせないで」という女性ファンの声が殺到し、本能寺の回は2ヶ月遅れになったとか。
当時まだ慶大生だった石坂浩二にいたっては、「頭が良さそうに見えるから」と写真だけで三成役に決まったという
こういうのを「古きよき時代」と言うのでしょうか

「竜馬がゆく」では、演出家が途中降板。和田勉と交代という前代未聞のハプニングが。
和田勉ってのもまた昭和人には懐かしい名前ですが、そうかNHK出身だったのね。
演出家の降板理由は「(撮り方が)脚本家と合わなかったから」なようですが、同時に「このドラマのために大阪から単身赴任してきた演出家と、東京のスタッフたちとの意思疎通も充分ではなかったよう」。
ああこういうの、ありそう~~。歴史上の人物が引き起こした出来事あれこれも、意外とこういう見落としがちな、感情の積み重ねみたいなことが史実の裏に存在していて、今や知る人もないまま重要なキーポイントになってること多々なんじゃないかしら?

「幕末モノは当たらない」というジンクスを作ってしまった「竜馬がゆく」の後、大河ドラマの人気を回復した、カラー第1号の「天と地と」。
ここで出てくる「川中島の合戦」、ロケ現場はなんと福島県相馬市だったそうです!もちろん相馬野馬追いがあるから♪
この「天と地と」の人気の裏で、視聴率競争を繰り広げる他局の番組は苦戦を強いられ、コント55号は「裏番組をぶっ飛ばせ!!」というなりふり構わぬ公開番組を始めたものの、そのあまりにもなりふり構わない内容に良識派から集中砲火を浴び、1年後に撤退したとか。う~むそんな大河ドラマ、今では考えられん

「勝海舟」の時は、脚本家の倉本聰が降板という事態に!
「僕が直接、役者さんと出演交渉をするもんだから、演出人の一部は「越権行為だ」と面白くなかったんじゃないか。民放で書くときと同じく、本読みには必ず参加し、色々注文を出したが、それも反感を買ったようです。僕の居ないところで勝手にセリフを変えられ、何度も不愉快な思いをしました」@倉本聰
そういえば三谷幸喜が
「TVドラマの時の脚本家は、自分の劇団のように演出からすべて手がけたい人と、できた脚本はTV側にすべてお任せする人の2タイプあり、どちらがいい悪いではないが僕は後者」
て言ってたなあ。特にNHKなんかプライド高そうだから、倉本タイプはなおさら受け入れられなかったんだろうか。
ここら辺の製作側との軋轢が女性週刊誌で報じられてしまい、信頼していたNHKドラマ部長とともに謝りに行くも、NHKのスタッフルームで「まるで糾弾集会」と語ったほどのつるし上げ状態となり、打ちのめされた倉本さんはその足で、羽田空港から北海道へ向かったのだそうです。悔し涙をサングラスで隠して
そのまま北海道で脚本を書いてNHKに送るというスタイルを続けましたが、結局体調を壊し入院したところで降板。
しかしこうした事件があった後、NHKは脚本家との関係及びドラマ部門の体制改善をめざし、また倉本さんも自身がいつの間にか傲慢になっていたことに気づかされた北海道に本格的に移住し、双方次々ヒット作を送り出す結果に。
「東京にいたら周囲にチヤホヤされて天狗になり、いずれは自滅していたことでしょう」
「NHKと衝突し、降板した事件が大きな転機になりました。多少の皮肉も込めて「今の自分があるのもNHKのおかげ」という気持ちですよ」@倉本聰
う~むこれまた、大河ドラマにドラマあり!

ああ~~また長くなっちゃった
実はここからが一番書きたいところで というわけで続きます。
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テーマ : 大河ドラマ - ジャンル : テレビ・ラジオ

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