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ウヨサヨ雑感その2

自分が納得するためだけの長文ウヨサヨ雑感です。

そんなわけで、体制/反体制がひっくり返ったのでウヨサヨがよくわかんなくなった、という実感があるのですが。
もう1コウヨサヨがわかりづらくなる理由。それは好みの社会体制が絡むから。
すなわち小さな政府がいいか大きな政府がいいか。自由主義か共産主義か。
サヨク=共産志向という刷り込みが、これまた個人的には抜き難くあるのですが、しかし自由主義=リベラル=サヨクという感じもするしな~。
もっとも経済的な自由主義と、価値観的な自由主義では意味が全然違って、リベラル=サヨクはたぶんに後者のことを指してるのだろうとは思いますが、取るべき経済政策を価値観が決めるってこともあるだろうし。と思うとなんか混乱しちゃって。

で、とりあえずx軸とy軸を原点oで交差させて、xプラスを体制(家父長→国家→大和民族と一直線に繋がってるような、戦前的価値観)、xマイナスを反体制(個人を重視する戦後民主主義的価値観)に、yプラスを小さな政府(~自由主義)、yマイナスを大きな政府(~共産主義)にして考えてみると、自分の中でウヨサヨがちょっとだけ整理される気が。

まず1。X軸プラス・y軸プラス=これが私的にはネトウヨですね。家父長的価値観と新自由主義ミックス。橋下さんとか石原さんとか、いわゆるタカ派の人は全部ココ。私タカ派って嫌いで イメージ的にはx軸が右に行けば行くほど頑固親父系に、y軸が上に行けば行くほど急進的(タカ)になるっていう感じで。

対する2。x軸マイナス・y軸マイナス=これが私的には真性サヨクですね。社民党や共産党が言ってることは全部ここ。「子供を守ろう。命は大切。国はそのためになんとかしろー」という、戦後民主主義的大きな政府を希望する反原発ももちろんココ。x軸が左に行けばいくほど個人主義に、y軸が下に行けばいくほど革命志向になるって感じで。

その上3。x軸マイナス・y軸プラスは・・・アーティスト系かな。いや2のサヨクにもアーティストはいっぱいいますが、3にいるアーティストはもうちょっとアナーキーというか刹那的というか。「自分で稼いだもんを自分で使ってどこが悪い!私は国に助けてもらったことなんかないぞー!」という信念のもと「脱税できるかな」に体を張った西原理恵子さんが私の中ではイメージされてます 原点oから離れるほどリバタニアンかな?

しかし考えてみると、じゃあ高倉健なんてのはどうなのか。いやあの人そのものじゃなく、あの人がよく演じるような人、すなわちめっちゃ「一国一城の主」な個人主義だけど、「義理と人情」的なしがらみを重視する戦前価値観も根強いぞみたいな人は果たしてネトウヨかアナーキーか。
そういや西原理恵子もね。骨がらみ義理と人情の人なのにリバタニアンに入れちゃって悪かったな~。ていうかどっちかってたらリバタニアンの方がネトウヨっぽいよな。しかしそうするとサイバラは、石原・橋下・櫻井よしこの同類か??いや違う!どっかが決定的に違うという確信だけはあるぞ。

てことはこの表にもz軸という「第3極」が必要なのか? xプラスにしちゃってる「義理と人情」の「人情」だけを独立させるとか?確かにxプラスを好きな人は、その「共同体制度」が好きなだけかもで、「共同体成員への愛情」が伴うかどうかは、また別だもんね。

とか考えていくと、ここで既に「あれ?グラフ化失敗?」って感じですが、さらにその隣4。どうもここがわかりません。
私の感覚ではこの4が保守???って感じなのですが(しかし「保守」ってのもわからん定義だなー。それこそこのグラフのどこに位置づけていいのかわからん)、しかし戦前の価値観&共産志向なら、これこそ戦前の真性左翼=国家社会主義なのではあるまいか??これが保守か???
この4は、縛りがきつそうだな~~。x軸プラスで各種共同体に縛られ、y軸マイナスで共産理念に縛られ。だいたいx軸プラスもy軸マイナスも、原点から離れるほど全体主義に近づくものだし。そういや小林よしのりは4に入りそうだな~。
しかし「共産主義=悪」みたいな風潮が今ありますけど(戦前か)、2みたいに、x軸マイナスの「個人の自由」とかで薄めれば「北欧風福祉国家」って感じになる(はず)なので、それほど毛嫌いするもんでもないと思います。贅沢できないし病院にもかかりづらくなるけど
それとも逆に、「個人の自由」でバラバラになっちゃうのを防ぐために、「思想の統一」が強化されたり?4の方だとその役割を「共同体」が受け持つけど。思想で人と繋がるのが2なら、縁と属性が力を持つのが4みたいな。北欧福祉国家と失敗した社会主義国家を分けたものはいったい。
 
うーんこの4は、ウヨなのかサヨなのか??そもそもウヨサヨの区切り目は、x軸なのかy軸なのか??てことは、わかりやすくなるかとグラフにしてみたけど、結局意味がなかったんじゃないか??

そういえばたまたま私の目に映った範囲内では、ですが、分類2に入っていた団塊前後の文化人が、年を重ねるごとにわりと戦前風の価値観をよしとする傾向がある気がして。思いつくのは中野翠とか橋本治、西部邁もそうかな?赤瀬川原平や大島渚も??って全然「団塊」じゃないかもしれませんが、つまり若い頃学生運動などサヨク的思想の洗礼を受け、年取ってから「日本の美意識」みたいな方向にアンテナがのびるパターン。
「単なる年寄りの懐古趣味だろう」と思えなくもないのですが、この人たち文化人だけあって、美意識が高い。どうもそこら辺がポイントな気もします。培われた個人主義は手放さず、わりとそれとは真逆な「伝統」とかを賛美する。自分は決してそっち側を担うつもりはないけど、美術品として残って欲しい=自分以外の誰かが残して欲しいみたいな。「隣の芝だからキレイに見えるだけじゃないのかね?」とも思ってしまいますが
しかし同時に「個人主義が行き過ぎた」という反省もあるのかなとも思います。そしてそれならわかります。若い頃は分類2にいたけど、だんだん分類4になってくるっていうなら。
けど美意識の問題なら、ほんとはxマイナスにどっしり安住しているくせに、xプラスを無責任に(と見える)崇拝しているってことで。つまりxマイナスとxプラスが分離して同居してるのは、よくわかりません。なんかこう、根っこはどこなんだい?表面の美しさだけをいいとこどりかい?みたいな。ま橋本治とかは専攻が国文科だから、xプラスが根っこにある気もしますが。赤瀬川原平も若干違う印象かな~

とここまで考えて、このグラフがカンペキに失敗だったことに気づきました
xマイナスとxプラスは、原点から右左に分離してそのどっちかに点(=人)が打たれてるんじゃなく、プラマイ内包しつつ個人の中に存在しているんだなと改めて確認され。
対立関係=補完関係であること多々ですが、これもそうで、片方があるからもう片方も存在できるといった類で。イメージ的には、原点=個人で、そこからxのプラマイ、yのプラマイのどこからどこまで線を描けるかっていう、十字の数直線みたいな。
ただ、x軸上のあれこれを、例えば中野翠みたいに自分の生活から切り離された情報として仕入れてしまう(ように見える)と、それが数直線にならず点々になってしまって、それがなんだか「いいとこどりかい?」みたいな印象を与えることに。ま~あの人は感覚でしか言わないからそう見えちゃうってとこもあるんだけど(人のこと言えない)。橋本治も基本同じなのにそう見えないのは、あの人は理屈付け=線の引き方がめっちゃうまいから。赤瀬川翁が数直線になってるように思えるのも、なんでも自分の半径5mの物理現象に結び付けて考えるからかも。急いで言い訳ですが個人的には、中野翠さんの書評や映画批評は大好きです

だいたい、x軸もy軸も、先に行けばいくほどどれも嫌いなのよね。y軸プラスは「金持ち以外は皆砂粒」だし、y軸マイナスは「権力者以外は皆砂粒」で、どっちにしても私は砂粒にされちゃう。てかこれ同じこと言ってないか?(サヨクとしては「いや共産主義ってほんとはそういうもんじゃないんだよ、それは失敗した結果であって」と弁護したいとこですが、しかし失敗しない共産主義が人間社会に出現できるかは不明)
x軸プラスも先にいったら、また「女は学校へ行く必要なし」とか復活するでしょ。社会の仕組みとして砂粒が必要で、その砂粒の自覚を持てっていうのがx軸プラスだもん。偏見?x軸マイナスはそれに対抗して「俺は砂粒じゃない」だけど、進行すると「俺様以外は皆砂粒」で、結局どこ行っても、極端になれば等しく砂だらけなのよね。

xマイナスとyプラスなんても、個人の自由ってことでは同じだし、xのプラスとマイナスじゃ「家族愛」なんかはどっちに位置づけていいかわからない。いや「家族愛」自体はxプラスだろうと思うんですが、その体現でもある反原発のテーマ「こどもを守ろう」は、どうしてもxマイナスの方向性しか感じられないし。
まあ意地悪な言い方すれば「「こども」も「自分」の延長線上なんでしょ」ですが、しかし親子とか家族ってそもそもそういうもんですしね~。「家庭=自分と他人を重ねることを学ぶ場」みたいな。

たぶんxプラスの「家族愛」は「家族の皆」への愛なんですよね。家族という「1つの共同体」への愛。
反対に「こどもを守ろう」は、「うちの○○ちゃん」という子供に対する、個別への愛情。
xプラスの「家族愛」はメンバー個別への愛じゃなく、例えれば「うちの○○ちゃんやパパママジジババが揃ってご飯食べてる、その時に漂う空気」みたいなもんへの愛。xマイナスは具体的な個々のメンバーを守りたいんであって空気を守りたいわけじゃない。しかしそれがある種の空気となって、別なとこで個人を圧迫しているのは皮肉ですが。
この空気って、「こうあるべき」といった約束事に転化します。実体のない蜃気楼のようなもんですけど、約束事が広く薄く覆う。
実体のない蜃気楼ごときを守るために実体のある子供を犠牲にするのはバカげてるので、その点「こどもを守ろう」それ自体はOKなんですが、しかしこの蜃気楼のような約束事があるから世の中「信用」で廻ることができるわけで、そう思うとなかなかあなどれないです。濃すぎると全体主義、なくなると不安だらけ。いや不安だらけなところに「奥さんお困りでしょう」とニコやかに現れるのが全体主義かな?ここでもまた対立=補完。

うーむ「個人の信頼」なんていう個人で質量ともに違うものを、上からシステムとして一律にはりめぐらせようという共産主義はやっぱり無理があるかな~。逃げ道ない感じ?
私は共産主義的な理念は大好きだけど、そんで個人個人が自主的に共産主義的に生きれば全体的にかなり幸せになるんじゃと思うけど、やっぱしそういうのは「正直者の島」と同じで、一人うそつきが現れたら、皆がよっぽど個人主義的な共産主義者(すごい対立=補完物件キターー)じゃない限り崩壊するもんね。そして困ったことにこの「うそつき」は他人じゃなく、1人1人の中に質量違いつつもれなくあるわけで。さらに困ったことにそれは、どうも「生存本能」という必要不可欠なものが変身した姿じゃないかと思えるわけで。

いや「信頼」とかの「美しい」っぽいものも「生存本能」という土壌から生まれた花には違いなく。
その証拠によーく見ると、「信頼」もなんだか「エゴ」の一種として出回ってる場合多々。けっこうグロテスクな美しさになってることもあるぞ。
いや別に美しくないもの=悪ってわけじゃないですよ。美しいもの=善ってわけでも決してないし。だって大元の「生存本能」は善悪関係ないですからね~。だから一見それぞれ美しく見えるx軸やy軸も、極端に行って本能ムキダシになればみんな砂になっちゃう。ここら辺は原発事故以降たびたび思う「差別」に関わってきますが。

それはともあれ、xもyも極端に行けば皆砂粒。これは確実。
てことは、xのプラマイ、yのプラマイは、紙の両端にあるんじゃなく、裏側に廻って見たらくっついてる、って図にもできるんじゃないの?2次元のグラフじゃなく、球体みたいな感じで。
元の原点oが「自分が砂粒ってとこから出発しよう」を現してるとしたら、その対極にある新たな原点(裏)は「俺様以外は皆砂粒」から出発してる。
ああこう考えると、なんかもちょっとスッキリするわ♪少なくとも、今までは4面しかなかったのが、砂粒ダークサイド側にももう4面できるし。極左とかは皆こっちへドゾーー。みんな「サヨク」って十把ひとからげで嫌ってますけど、戦後民主主義サヨクと、赤軍派みたいな肝の据わった真性サヨクはもう昼と夜くらい違いますからね。球体だから地続きではあるけど。私の嫌いな石原とか橋下とかもみんな、ダークサイドへ堕ちるがいいフハハハ
サイバラとの違いはたぶんここです。自分を砂粒と規定しているかどうか。石原さんはたぶん自分を砂粒と規定したことはないでしょう。常に支配者か被支配者かのどちらかを規定して来て、その構図自体を嫌だと思ったこともないでしょう。

それは石原さん系ウヨに限らず、左翼側もそうで。左翼の「反体制・反権力」は、「自分にはない権力を持っている奴を憎む」という極めて私的な感情から出ている場合もあって(ここら辺憎む方向がネトウヨと真逆だけど同質)、その結果、いったん権力者を転覆させたら、今度は自分が、あれだけ憎んでいた権力者に嬉々としてなってしまうという構図が往々にして。「市民運動」とかをしている真性サヨクが、けっこう肩書きとか世俗の権威に弱いことがあるのはこのせいですね(話題の「福島人権宣言」とか、「沖縄を返せ」みたいなとこから始まって、最後に「賛同者には数多くの大学教授・准教授の方々が~」の一文があるのを見て「あ、この人たち「活動家」だ」と確信してしまいました

坂本龍一が昔対談で「支配するのもされるのも嫌だ。そういう強い思いがある」と言っていて、「それはまさに戦後民主主義だね」と返されてたのが印象深いのですが、サイバラもこっち側ですね。もう体質的に、特に支配することが嫌だという(支配されるのが嫌だってのは普通ですから)。
「支配」って「自分に都合のいいように他人を動かす」ってことですね。これは社会生活上ある程度必要なスキルだとは思いますけど、あまりにもそれが強いのは、つまり本気で他人を駒としか思ってないとか、思い通りに他人を動かすこと自体が快感だまで行っちゃったりするのは、明らかに「支配者体質」だと。支配と権力は相互作用だけど、人を動かせるだけの権力持ってる人でも支配者体質じゃない人もいれば、権力持ってないけど支配者体質の人もいますね。革命志向の左翼とか。

しかし石原と橋下も、同類扱いしてますけど、本質的なとこがちょっと違う気も。どっちも支配者体質で他人を砂粒としか思ってないのは同じなんだけど、石原は例えば「家父長制」といった共同体を成り立たせるシステムを、ひいては共同体自体を信じている、橋下は信じてない、みたいな(だから橋下がいくら「身勝手な人間が増えた」「岩手を助けるのが当然」とか言っても「人気取り」としか思えないのよね。基本的に「家長として救う義務アリ」なんて思ってないでしょ。「自力で生きられない弱者は共同体にとってムダ」としか思ってないでしょって)。よくわかんない単なるイメージですけど。私やっぱし橋下の方がヤだわ。ここら辺は原点や軸からの距離の違いでしょうか。
そもそも政治家を「支配者体質だからヤだ」ってのもね 「人を思うように動かすのが好き」なんて、政治家には「お仕事頑張ってますね」って誉め言葉だし。

そしてその反対面にいると思われる、教授やサイバラ、橋本治とかもそうだけど、この人たちもなかなか強力な個性、つまり「オレがオレが」という強ーー烈な自我を持ってるんですよね。それこそ「愚民どもを支配してやらなければ」と思ってる橋下・石原に負けないくらいの。決して「ダークサイドの対極=フンワカ穏やかで人格最高」って意味にはなりません。
う~んやっぱりこの図解は、グラフでも球体でも失敗だな。なんだかすごく片手落ちで歪んでる上に、新たな発見があまりない。まあ思う存分言ったから、頭のモヤモヤは多少スッキリしたけど。
しかし懲りずに次は「差別」について吐き出したいと思います。
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テーマ : ひとりごと - ジャンル : 日記

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