ウヨサヨ雑感その1

折に触れ考えるんだけどいつまでたっても答えが出ずすっきりしない個人的命題・ウヨサヨ。
ほんとどーでもいい命題ですみません
なんでこの命題がこんなに気になるのかと言えば、それはもちろん「戦争」を避けたいから
日本が戦争になりそうかどうか、空気が戦前に似てきてないか、それをいちはやく察知し、反対側へ行くことで、戦争になだれ込まないよう、バランス取るおもりの1つになりたいから。

と、青臭くも突拍子ない考えですが、本人わりと真剣にずーっとそう思っていて ここら辺は「一度戦争を喜ぶ流れができたらもう遅いのよ。治安維持法とかが次々できて反対できないようになるんだから」というはだしのゲンのかーちゃんの言葉が効いてます。
で、そうすると必然的にウヨサヨ考察になってしまうのでした。私にとってウヨ=戦争を喜ぶ流れを作り出す人たちだから
ですが考えれば考えるほど、ジャングルの奥地へ分け入って自分がどこにいるのかもよくわからん状況に

そもそも「ウヨクとは、サヨクとは」っていう初歩の定義で早くもジャングル遭難。
個人的な体感だと、ざっくり言ってウヨク=体制、サヨク=反体制っていう大前提が抜き難くあるんですが。
体制=時の政府ってのももちろんありますが、価値観みたいなものもね。例えば家父長制とか「君に忠、親に孝」みたいな、ま戦前風な価値観というのかな?体制を維持するための善悪や約束事がはっきり決まってて、それに従うのが正義であるといった感じの。いわばメインカルチャー。
てことは反体制は、それら「正義」とされたものに反発する、いってみればサブカルチャー。フェミニズムとか基本的人権とか個人の自由とか、ま戦後民主主義な、体制側の正義からこぼれおちる一寸の虫の五分の魂をカバーする役割というような。
(てことはやっぱり右翼・左翼の言葉通り、両方合って初めて離陸できるもんなんですけどね)

私が小中学生だった頃=昭和50年代って、まだまだそうした時の政府(に代表される権力)と戦前風価値観がイコールで結べるような感じで。
金八先生の腐ったミカンシリーズとかありましたけど、あれ見てわかるように、教師=そうした正義をビシビシ叩き込む権力の手先、みたいな見方が(実態はともかく)まだ残ってたんですよね。ま荒谷二中の体育教師はちょっとデフォルメされすぎですけど だから金八先生みたいな「警察(という公権力)を学校に入れるなー」とか「生徒の立場に立って」なんて先生はサヨク的な理想像で、それが非常にシンパシーを呼んだ。

サヨク的理想像が共感を呼び、それが現実目標となり、同時にメインカルチャーはサブカルチャーに駆逐されて(だってメインってつまんないんだもん)、早幾年、今や時の政府(に代表される権力)=サヨクという逆転現象が。

今、政府や教師という体制側を叩くのは、サヨク(反体制)なのか?それとも政府や教師というサヨクを叩くから、ウヨク(体制)なのか?
ほんとどーでもいい話ですいません
しかし、「反体制=サヨク」という図式が根強くある私は、「ネトウヨはウヨクなのかサヨクなのか」っていうのがどうしても位置づけられなくて。やってることはサヨクなのに言ってることはウヨクというのが。
いやネトウヨ=極右と思えばそれもわかります。極右と極左って同じことしますから。
で今まではそれで納得してたんだけど、薄甘いサヨクが主流だったのが、小林よしのりの戦争論でひっくりかえって以来、特に若い層は全体的に薄辛いウヨクになってるような気がする現在、反原発デモが盛り上がるというのが、よくわからなくて。
だって反原発デモなんてのは、私の中ではサヨク的な最たるものですから。

いえこれまた私の刷り込みによるもので 私の学生時代は「サヨクなら9条護持で原発反対だろ」ってもう「トーストにはマーガリン」くらい当然の関係でしたから(他にもリアルタイムではなかったけど「ダム反対」とか「空港反対」とか、とにかくそういう巨大な施設は全部反対。集団の利益のために住民という一寸の虫を無視する行為だから)。
反対=闘争なわけで、なので「反原発デモ」なんていうモロな行動を起こしたりするのは、ああこりゃ真性サヨクだという思いが無条件に。
そんな真性サヨクが、サヨクが主流だった一昔前よりも、右傾化した今の日本にうじゃうじゃ。なぜ?

「なぜってそりゃー原発事故があったからさ。だいたいウヨサヨなんて関係ないっつーか遅れてるよおばちゃん。俺らはただいいと思うことをやってるだけさ
みたいな意見もあるだろうと重々承知してますが、しかしおばちゃんしつこいからどーしても「やってることも言ってることもサヨクなのにそうじゃないとはこれ如何に」としか思えないのよね。だっておばちゃん的には「デモに参加する」っていうのは心理的にものすごい高い階段で「これを上がったらもう引き返せないな」的な、「自分はサヨクだ」と自他共に刻印する的な、従って真性サヨクって感じなんだけど。
そんでそれなのに「でも中韓は嫌い」とか「サヨクは信用できない」とか言うじゃない?(え?言わない?)言わないならごめんなさいだけど、「中韓嫌い」とか「サヨクはダメ」みたいなのって私から見ると「かなり振り切ってるウヨク」だから、いわば真性サヨクと真性ウヨクが簡単に同居してるって感じで、それがよくわかんないのよねーーー

おばちゃんやっぱりウヨサヨにこだわりすぎですかね?
確かに「反原発したいならサヨクにならなきゃいかん」なんてことはないわけで、「自分はどっちかったらウヨだけど、でもあの事故見たら原発だけはカンベン」っていう人が今多数出てきたっておかしくはないんですけど。
ただ大元の「反原発」っていうのは、「サヨク的思考回路」という土壌で咲いた花の1つで、例えば「9条絶対」とか「戦争責任」とか「人権」なんていうのと根っこは同じわけで。
てことは、「デモに参加するのも厭わないくらいの反原発なら、そりゃ他の花にだって賛同して当然だろう。根っこは同じなんだから」と思っちゃうんだけど。それとも今の「反原発」は、違う土壌に咲いた似た花なんでしょうかね。だとしたらそれはいったい?
デモも昔と今じゃ意味合いが変わって(特に原発デモは)、軽~くおしるこ食べるような気持ちで政治的デモにも参加できるんでしょうけど。うんそれは決して悪いことじゃないのよね。私もミーハーなんで「ちょっと参加してみよっかな♪」という気持ちもわかる。わかるがしかし。

なんか違和感が残るのよねー。「ウヨクとサヨクのボーダーライン」じゃなく「振り切ったウヨサヨ」が簡単に同居してるということに。
振り切ったウヨサヨが簡単に同居できるって、私には「単なる情報として刷り込まれてるから」としか思えないんですが。自分にとってどうかとか、こうなったら自分がどういう立場に置かれるかとか、そういう「自分」とは関係ない、単なる「情報」として見栄えするものを取捨選択してるだけだからそうなるんじゃないのっていう。
んで、ボーダーライン上にいれば、多少傾くことはあっても比較的ボーダーラインに戻りやすいけど、振り切ったウヨサヨが(しかもそれにあんまし違和感を覚えず簡単に)同居してたら、ちょっとどっちか向けの、見栄えのいい情報が入ったら、がたーーっと簡単にどっちかに傾いてしまいませんか?その傾きにも違和感覚えることなく。そんなことありませんか??
それってまさに私の嫌いな「流れを作り出す」ってやつで。だからなんだか違和感なのよね~
もっとも、デモに参加している人は多数いるから、その人たちすべてが「振り切ったウヨサヨが簡単に同居してる人」ではないのでしょうが。むしろ表面に出てる人はやっぱり「従来のサヨクっぽい」と思える人多々ですが(てことは今まで書いたこと半分以上パーーー

なんでこんなにウヨサヨにこだわってしまうかというと、原発事故でちょっとサヨクに幻滅してしまったからなんですよね。
今まで「サヨクなんてダメだよ。保守じゃないと」みたいな若い人の意見をネットとかで見るたび「サヨクのどこが悪い。保守って何よ」と開き直り、「どうせ小林よしのりとかにカブれてるんでしょ。サヨクが主張する「自由」とか「人権」を否定しながら、当たり前のようにそれらをムダ遣いしてるくせに」とずーーーっとニガニガしく思ってた私が。
原発事故以降「サヨクなんてダメ」という言葉が実感としてつかめた気がして、「そうか、だからみんなサヨクが嫌いだったんだ」とわかった気がしたと思ったら、なんと不可解なことに、それまでの私から見れば「ウヨク」だった世論は、原発事故以降なんだか「サヨク」優勢になってる感じで。な、な、なんで?あの原発事故でサヨクのダメっぷりがわかったってのに。

果たして私はサヨクなのか、そして反原発してる人たちはサヨクなのか。どこが同じでどこが違うのか。
というのを知りたいな~と。たぶんこれは「差別」が1つのネックで、そこら辺についても書きたいんですが、今回同様、書いても書いても結論見えなそう;;
なんかね、頭に色んな糸クズが絡まってモヤモヤしていることを、結論つかないながらもとりあえず書いて外に出すと、頭はその分カラになってスッキリするんですよね。
ただし書くことで頭が「これでもう終わり」と判断してそれ以上糸クズが絡まらず、深まらない&書くことで、その糸クズの一部でしかない片手落ちな考えが頭に固定化されてしまうのが困りものですが

というわけで内容ないわりに長くなってしまったので、次に続きます。
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テーマ : ひとりごと - ジャンル : 日記

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