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会津vs.長州

引っ越してきて以来ずっと疑問なのが
「会津の人って実際のとこ、戊辰戦争をどれくらい根に持ってるんだろう」
ということ。

東日本大震災の時「山口県萩市から義援金が届いた!」って新聞の会津ローカル面に載ってるのを見て「新聞ネタになるのか!」と驚いたことから始まり、毎日「やってはならぬやらねばならぬ!ならぬことはならぬものです!」と唱和する小学生の姿を見て度肝を抜かれ、町を歩いていて史跡なんかに出くわせば、会津=戊辰戦争=リメンバー・パールハーバーな構図を感じて恐れ入り。
しかし人の方は、少なくとも周りの幼稚園や学校ママさんなんかは、それほど「薩摩長州許せない」なんて怒りは持ってない気がするんですよね。ま明治維新の話ですしね。
実際のとこはどうなのか、ママさんたちに聞いてみたいのはヤマヤマなんですが、いきなり「ところで薩長のことどう思います?」って聞くのもなんか変な人 だいたい戊辰戦争の話題がまず出ないし
私が直接聞いた中ではただ1人、推定50代超のおじさんが、会津のことを色々教えてもらった時に「少なくとも私らから上の世代は、今でも許せないと思ってますよ」と断言してたことがあって、「まだリアルなのか!」と、かなりびっくりでした(てっきり「そんな人今はいないよ」と笑われるかと思ってたので)

そんな折、時々ブログにお邪魔させていただくKさんご推薦の本「女に生まれてみたものの。」を読んだら、これまたびっくり。
著者は会津生まれの女性、私はこの方とほぼ同年代なんですが、まさにそのおじさんと同じ感覚で(ついでに著者の友人・会津在住の方もそうらしく)。
・・・話題にならないだけで、意外と普通に残ってるのかな?戊辰戦争の怨恨は。

ともあれこの本は、そんな著者がどういう因果か長州生まれの担当さんと、ともに角突き合いつつも「いい女になるための女修行」をし、さらにはお互いの故郷を、つまり会津人が長州を、長州人が会津を、訪問しあうという内容です。このお互いの訪問レポが、私的には白眉!

著者いわく
「子供の頃から聞かされた歴史は、存外重い。あそこには散々な目に遭わされたよと、年寄りの語りとDNAが私を引き止める」
推定50代超のおじさんが断言した時、「なんでだろう?おじさん世代の会津の学校教育は気合入りまくりだったのか?」とか思ったんですが、そうか会津もやっぱり沖縄戦みたいに、そういう口伝の歴史があったのか!しかも驚くべきことに、それは私世代まで受け継がれてるのか!?(江戸末期の話なのに!?
それともこの人が少数派なのかな?あるいは武士の家系とか??

それにしてもしみじみ思うのは、自分たちの歴史を大切にするって、こういうことでもあるんだろうかなあ。
すなわち「やられた方は忘れない」という。

そういうDNAにより(?)山口への出発前「行きたくない・・・」と暗くなる著者・会津娘に、しかしながら担当・長州娘が送ったしおりときたら。
「長州の者ども、戊辰戦争のこと「勝った」としか認識しておりません。会津でどのようなことがあったか、ぜーんぜん知りません。維新やったね、偉いねうちら、としか思っておりません」

じ、自分たちの歴史を大切にするって、そういうことでもあるんだろうかなあ
「やった方は忘れる」という。

会津の子たちが、白虎隊のような会津っ子宣言を唱和するように、山口の子(の中のとある小学校)は、吉田松陰の教えを全員で唱和する。
子供たちだけじゃなく、萩の人たちが皆、基本的に「維新をなした郷土」に誇りを持っている。会津の人が会津に誇りを持つのと同様に。
立場はまったく逆だけど、郷土愛、誇り、その質はたぶん同じ。

長州を旅して、それらに触れる会津っ子著者は、しかしどうしても「・・・受け止めきれない・・・」という思いが消えません。
その萩への郷土愛・誇りを理解し、立派だと肯定しつつも。
「ただ知っていて欲しい」
「知ってて欲しいんだよね。長州文化を誇る萩の人に、会津で何があったのかを」

お互い知ることは出来る。でもお互い理解しあえることは・・・なんのわだかまりもなくなることは・・・あるのかな?
同じ郷土愛を持っていて、だからこそお互いの気持ちもわかって・・・でも、だからこそ、「わかりあえない」ってことも・・・あるんじゃないかな?だってその場合、「わかる」=「自分の郷土愛を若干薄める」ってことだもの。
人間同士が本当の意味でわかりあい、ゆるしあえるのはもしかして、同じ境遇を味わった時、または、愛憎=歴史が風化した時、だけなんじゃなかろうか??たまにわかりあえる「気がする」ことはあっても。

この「長州紀行」編に出てくる、山口の郷土史家の方は
「(会津娘・著者&長州娘・担当は)わかりあう必要なんかない。大いにもめたらいい。歴史を風化させてはいけない」
とおっしゃいます。
風化しないまま友好関係を築くことが出来るのか、風化することで友好関係を築く方がいいのか、ここら辺はず~っと考え続けていて答えが出ないテーマです。「会津vs.長州」に限らず、個人でも国同士でも。
(一つの答えとして、風化しなくても「共通の敵」が現れれば友好関係を築くことが出来るというのがありますが。やっぱり「敵」がいないとダメなのか。平和主義者としては打ちのめされる答えですね~

この「長州紀行」でもう1つ印象に残ったこと、それは「海の有無が関係あったんじゃないか」ということ。
お城から海が見えるくらい、海がすぐそこにある長州。だから幕末、黒船に乗ってやってくる外国の脅威は身近であり、長州が動かなければならなかった。
翻って会津は、ご存知の通り盆地。KKの小学校では「会津は海がないので、海は憧れです。だから修学旅行も海に親しめる松島に行きます」というくらい(海への憧れを持ったことがない新潟出身者としては「へ~~~」とカルチャーショック)。
地理が違う。そこから来る環境も、感覚も、気質も違う。これは「歴史を時系列で理解しようとする」時にはこぼれ落ちてしまう点だけど、「歴史のその場その時を知りたい」時にはリアルな手がかりになるなと。
「雪深い会津は、海からも遠く、今を守る、ことを守り通して、どこかで勝っても、どこかで負けたのだろう。そういう国なのだ。時代に追いつかなかった」「(戊辰戦争での会津は)愚直であったかとは、思います」
誰がどう良かった悪かった以前に、良くも悪くもその時代にそういうふうに存在したという、自分ではどうにも出来ない「宿命」みたいなもんも、確かにこの世にはあるんでしょうね。。。

だからこそ「望むのはただ知っていて欲しい、忘れないで欲しいだけ」という敗者の側の、消えていく側の思いが、切なるものとして伝わってきます。

さてそんな会津に、今度は長州娘がやってきます
会津に肩入れしながら読む側としては
「さあ「うちら維新やったね」としか思ってない長州娘よ。これら会津の史跡を見て廻った感想は如何」
と、ある種サドっぽい期待を持ってしまうわけですが。
しかしその期待は裏切られます。
長州編の時はまさしく「苦労した会津vs.その苦労を知らない長州」だったこの紀行、会津編はしかしその復讐にはなりませんでした。
もはや会津も長州もむなしく、「苦労した過去の人=当事者vs.その苦労を知らない現代人=著者や担当(や読者)」という視点に、圧倒的な犠牲を記す史跡の前で、いつしか自然と。
会津だ長州だと担当さんとことあるごとにぶつかっても、それはどこか本気ではなかった。いや
「長州の人にひとこと「ごめんねうちらやりすぎたね」と謝ってほしい」
という気持ちは本気であっても、それは自分のことではない。自分が戊辰戦争で戦ったわけじゃなければ、担当さんが会津にひどいことをしたわけでもない。心の底ではそれがわかってる。
そういう欺瞞(と言ったら言葉が過ぎるかな?)が、飯盛山や西郷家墓所、武家屋敷などで、死者に対峙するとはっきりと認識され、と同時に、では自分のこととして考えようとすると必然的に「現代から過去を見ることの難しさ」になってしまうわけです。現代から過去を見て、あることは都合よく、あることは忘れ、何もできないまま、わかったような気になってしまう、現代人としての視点を認識させられてしまう。
「何が出来たわけでもないのに、間に合わなかった、止められなかったと申し訳なく思いました。でもそれは私が長州の人間だからじゃなくて、人死には私の中で悲劇でしかないからだと思います」
「私は美しいことだと、誤解していた。少年兵の死も、兵糧の枷になるまいと自決した人々の志もその行いも、美しいものだと・・・思っていました。あなたとこの町を廻るまでは。でも、戦争には事実しかなかった」
あれだけ会津vs.長州とやりあってた著者と担当が、「過去の現実」の前では、ともに無力で傲慢な現代人として同じ地平線に立っているという。

・・・自分とは切り離された「過去のこと」にならないと、人は同じ地平線には立てないのかな、やっぱし。

余談ですがこの本とは別に、逆の立場、つまり「いくつかの間違った言説に基づいて、悪い悪いと責められ続ける長州」側の反論・考察も、あわせて読んだりしたのですが・・・そしてその立場には純粋に「そうだよなあそれも切ない立場だよなあ」と思ったりもしたのですが・・・しかしなぜか読むほどに会津としての被害者意識が(しかも私は会津生まれでも何でもないのに)感情的に嵩じてしまうのは困ったもんです 相手に対してお互いが「わかってほしい!」と思っている限りは決してわかりあえないという構図。
会津に肩入れする側としては、100万言の「仕方なかったんだorそんなことしてないよorそっちだってしたじゃん@長州」を聞けば聞くほど、寝た子を起こされたような気分になるのですが、長州の地蔵堂で白虎隊が今も供養されている事実を知ると、ふっと「長州さんも大変だったろうになあ」という気もちになるような。

本の口調は、軽やかで明るく、読みやすいです。
歴史上の有名人が倒幕の密談をしたという「維新の湯」に「漬かってしまったーっ!」という感想を抱いて入ったり、史料館で山口出身の総理大臣7人の資料を見ては「なぜ権力にしがみつく・・・」とつぶやいてみたり
会津編でも、担当さんが鶴ヶ城に入ったとたん「尽きぬ恨み!」とスピーカーから流れてきたとか
「「柴五郎の「ある明治人の記録」を読むと、恨むのも仕方がないと思います」「女たちを切らねばならない長州もやりづらかった」(←先述の山口の郷土史家のお言葉)等々、印象的なエピソードが他にもいっぱい紹介されてます。会津や長州、またはスパリゾートハワイアンズや、突撃レポみたいなのに興味ある方はぜひどうぞ♪アーンドKさんこの本教えてくれてありがと~
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コメント

相互理解

そこへいくと、
新潟県長岡市とハワイのホノルルは偉いですね。
片や真珠湾攻撃の指揮をした山本五十六長官の出身地で米軍の空襲被害にあった長岡市、片や長岡市出身者の指揮をとった山本長官の真珠湾攻撃で被害にあったハワイ・ホノルル市。
数年前から怨執を越えて、相互理解の為に平和交流をして来ました。そして今は、互いの加害者・被害者の立場を理解して、正しい歴史を学ぶ為に、お互いの戦争資料館に資料を相互交換展示や、未来を担う青年達を平和交流の一環として相互派遣しています。
近年は、姉妹都市になったそうです。

こういうのって良いですね(^^)

Re: 相互理解

こんにちは!コメントありがとうございます!
え~~本家パールハーバーと長岡がそんな交流を!
新潟出身としてはうれしい話です♪(名前を拝見すると、越後さんも新潟の方でしょうか?)
特に「お互いの戦争資料館に資料を相互交換展示」っていいですね。
世の中、何かに対する批判は、その何かの背景を知れば解消するっていうのが半分くらいあるんじゃないかと常々思うんですよね。(あとの半分には、こじれきって今更知ってもどうにもならないっていうのもありそうですが(^^;))

会津と長州も、いつか友好都市になれるといいんですが。
というか、若い世代はもう「怨執を忘れて」る感じもするので、友好都市になれそうな気もするんですが。
ただそれは「怨執を越えて」とは違うんですよね;;

すばらしい書評を・・・

でおくれました!
やっぱりK&Uさんが読んでもらうのが作者(と編集者)にとっても本望ではないかな~と思っていたので、(この記事、作者にメールでおくったったら?喜ぶと思うよ)
読みこんで下さってよかったです。

それにしても、会津と長州の海の有無は鋭い指摘だと思います。私今、海沿いに住んでいるけれど、海のない長野県と全く文化が違うんですよね。これはデカイと思う。会津の子は猪苗代湖を見て「海だ~」って言うっていうから(長野生まれのうちの双子も、諏訪湖を見て「海だ」と言っていましたが、いまはすっかりそれは過去のもの)
長州・薩摩の結の張本人、坂本龍馬の世界観も、海が色濃く反映していたと(これは大河ドラマを見て感じただけだけど)思うし。

会津の八重の今度の大河の前に、保科正之を大河にっていう運動があったよね。私、高遠にいって署名した来たことがあるんだけどさ、やっぱ、会津と長野って似ているんだよね。風景が。で、人も似ているの。夫が会津に2年間住んでいたことがあったって前に言ったけど。夫は会津とか長野の、山に囲まれた風景はダメだったみたい。私は福島市で盆地育ちだから、結婚で国立住まいになったときに「山がない・・・」ってすごく心もとなかった。で、次に八ヶ岳のふもとに引っ越して、「福島に似てる!」って思ったのよね。

人も似ていると思う。会津三泣きっていうけど、私の住んでいた茅野市の田舎は閉鎖的で・・・ほんとになじむの苦労した。けど、出て行くときに引きとめられたなあ~・・・あれもほんと疲れたよ。

浜松は風の町で、東海道がすぐそこで、やっぱり人間関係が風とおりがいいかんじがする。もちろんもともとのヒトのしがらみとかもあるとは思うけどね。

だから長州の人が、会津がそんなにしびらっこく思っているなんて、想像もできないと思うんだよね。海の波の風の文化圏の人には・・・

なーんて、K&Uさんの書評を読んでなんとなくおもったことだけどね。

韓国とかも、そういうふうに思っているかなあって思うよ。(ああ~・・でもこの話になるとK&Uさんとは意見が違う気がする!だからここはスルーで!!)

でもこういう本が出たのはよかったと思った。うちの夫もヒットでしょ?こんな本を見つけてくるなんてね。

ほんと、作者に送ってやりなよ!

Re: すばらしい書評を・・・

ほんとに面白い本を紹介してくれてありがとう!会津の人たちがどれくらい作者みたいに思ってるかはわからないけど、その思いのリアルなとこがちょっぴりわかった気がしたよ。何より長州が「維新やったね」としか思ってないってとこは・・・びっくりっていうか、なるほどな~っていうか。

海の有無はね~、ほんとこの本読んで初めて「あっそうかも!」と。
「篤姫」とか読むと、徳川からの視点なこともあって「ほんとに長州しょーもねー。会津がやったことは幕府に対しても朝廷に対しても全然間違ってないじゃん」っていう気分になるんだけど、なんで長州がそうせざるを得なかったか、どれほど危機を、会津や江戸城とかより身近に感じてたか、この本で気づけたみたいな。

ええ~すごい!署名してきたの!?(ありがたい・・・)鶴ヶ城でも「保科を大河に」ってパネルがあったけど、もうお江で出てきちゃうしな~(めっちゃ脇で)とあきらめてたよ(^^;)
私は長野って行ったことないんだけど、会津と似てるってなんかわかるような気も。。。ていうのは、新潟の高校生だった頃「隣県・長野じゃコンサート禁止令が出てる」って噂があったんだよね(^^;)。長野はすごい教育熱心だから、子供はコンサートなんかに行っちゃダメっていう風潮があるみたいな。そんで長野の高校生が署名集めてミュージシャンを呼ぼうとしたとか、うそかホントかわからないけどそういう噂が(^^;)
会津はそういう禁止令みたいなのはない(と思う)けど、教育熱心、ひいてはそういう風土に誇りを持ってる、プライドがあるようなとこは、似てるのかもな~ってKさんのレスで思ったよ。
そもそも同じ福島でも、会津は会津って感じがするもんね。中通りから会津に避難してきてる人もいるんだけど、その人によると「会津より山形に行く人の方が多い」っていうし。距離的にも心理的にも、同じ福島の会津より、山形の方が近いのかな?浜通りに行くともう同じ県とは思えないほど気候が違うし(^^;)。
気候が違えば生活様式が変わるし、生活様式が変われば価値観も変わってくるもんね。

けど同じ山地でも、群馬や栃木って、また違うイメージがあるんだよね。ていうかここら辺、高速で通過する程度でよく知らないんだけど、なんかこう「上州のからっ風」とか「国定忠治」とか「いろは坂でダウンヒルバトルだぜ」とか(^^;)、そういうちょっと「反骨」なイメージが;;歴史の違いかな~?

そうか~浜松とかは昔から旅人の要所だし、海にも出られるしだから、情報も早いし柔軟な考え方なのかもね。
会津や長野みたいに、何か一つの価値観を信じて守る、っていうのは盆地っぽい(!?)のかも。

>だから長州の人が、会津がそんなにしびらっこく思っているなんて、想像もできないと思うんだよね。海の波の風の文化圏の人には・・・

あ~~なるほどね~~~!!!それは目からウロコ。確かにそういう気がする!「(やった方だから)忘れた」とかじゃなく、そもそも「その感覚が理解できない」みたいな。お互いに・・・

いや、実はこの上に書いたコメント(こじれきって、今更知ってもどうにもならない、理解しあえない)のこと、韓国とかを思い浮かべながら書いてた(^^;)。なんかこう、アフターケアが悪かったっていうかさ。「お互い理解しあいましょう」ってなる前に、差別とかそれへの反撃とかそれに対する嫌悪感とか憎悪とか、なんかもう色々積み重なりすぎちゃって、今更底の方をほじくりかえして「悪かった」とか「実はこうだった」とか言っても「もうそんなの関係ないよ」的な。ヘタすりゃ「言い訳する気か」って火に油を注ぐだけになったりしてさ(^^;)。そこに性格の違い=考え方や受け止め方の違いが加われば、そりゃもうね~~;;理解しあうのに大切なのは「こういう事情があった」っていう「事実」とかより、「こういう受け止め方をしてしまいます」っていう「性質」を知ることなのかもしれん、とか思ったり。

うん、ダンナさんヒットよ! てか一番気になったのは、なんでダンナさんが「女に生まれてみたものの」なんちゅータイトルの本を目に止めて、なおかつ買ってみようなんて思ったのかだったりする(^^;) 女子高生が「おじさん図鑑」を立ち読みするようなもんかしらん?

No title

何が言いたいのか不明な文章だが
とりあえず管理人は会津観光史学洗脳者でOK?
長文で何が言いたいのか不明って
発信する側からしたら致命傷では?
とりあえず簡潔にまとめてくんない?
柴五郎のやつは負けた側の感情で書かれてる日記だから。
それ読んで現代人が「恨むのも解る」とか頭イカれ過ぎだよ。
本当、何が言いたいのか不明なんだわ、あんたの文章。

言っとくけど「なら読むな」は無しだからな。
ネットは不特定多数が見て反応するもんだし。
それが嫌なら発信するなって話になるからね。

とにかく何が言いたいのか簡潔にまとめてね。

あとさ、会津vs長州なんて書いてるけど、んなもんないから。
会津観光史学による一方的な中傷だよ。会津の嘘はもうバレました。

No title

あとこれは質問です。

苦労を知らない長州とは何を根拠に発言したのか?

長州の人にひとこと謝って欲しいとは?
違う時代、しかも会津観光史学で現代人に謝れとか
気は確かなのか?

物凄く気持ち悪い。スルー出来ない気持ち悪さだよ。
新潟なのか福島なのか知らないけどさ、無知と
女特有の偽善が満ちてて物凄く気持ち悪い。

ならさ、会津の蛮行を受けた地域に会津人は
時空を超えて謝れよ。どこに謝っていいか解らないなら
教えてあげるよ。薩長の蛮行は、会津系作家や
反官な作家の「作品」にしか載ってないが
会津の蛮行は史料にきっちり掲載されてますので。
知りたいのなら私が知りうる史料を全て掲載しますよ?

反論、楽しみにしてます。ただし、簡潔に願います。

No title

失礼。ハンドルネームを記載してませんでした。
沖倉といいます。質問の返答、楽しみにしてますので。

No title

質問を追加します
コメントに長州しょうもねーとありますが
これは何を根拠にしょうもねーと?

次に会津のやったことは朝廷にも幕府にも間違ってないとは?

あなたの文章は具体的に何なのか書かれてないんですよ。
具体的に書かずに長州しょうもねー、会津は間違ってないって
コレじゃ何なのか解らないし、たんなる悪口ですよ?

あなた、昨年2月に会津が天皇領をドイツに売ろうと企てた事が
東大教授などにより発表されたのはご存知ですか?
時期的に勝海舟が江戸を戦地にしないように奮闘してる時期ですよ。
そんな時期に幕府を見捨てて、薩長と戦争するために天皇領を売って
ドイツの後ろ盾を得ようとしたのが会津です。
90年代には、すでに会津による売国の証文が発見され
昨年まで裏付け作業が行われてたんですよ。
そんな会津の何が間違ってなかったんでしょうか?
ドイツが受けてたら、新潟と北海道が外国になってたんですよ?

反論は受けますが、個人的な見解や感情は止めてくださいね。

No title

沖倉さんこんにちは&コメントありがとうございます。
なるべく簡潔にレスするよう努力しますが・・・また長くなってしまったらすみません。

コメント1に対して。
「なら読むな」なんて思いません。むしろ読みにくい文章を読んでいただいて、その上不快な思いをさせてしまって申し訳ないと思います。
わかりにくいのは私のブログの場合、特に写真がない記事では、人に伝えたいという気持ちよりも「自分はこう思った」ということだけを吐き出してスッキリしたいがために書いているためだと思います。そしてそれ以上に文章力がないためと。
前者は直す気はないし(個人ブログはそういう使い方をしてもいいと思ってます)、後者は(特に写真のある、旅行記などでは)直そうとしてはいるのですがなかなか直らない。
特に今回の記事は本の感想文なので「私の感想」だけをひたすら書いています。その結果どう思われようとある意味放念です。不快にさせてしまって申し訳ないとは思いつつも。
面白かったりタメになったりする情報が、読み手のことを考えてわかりやすく書かれたブログは、やっぱり人気がありますよね。
私のような文章ベタで独善的な吐き出しブログは、やっぱり大勢には見てもらえません。チラシの裏じゃなくネットで発信するからには「見てもらいたい」という欲求が第一にあるはずなのですが、独善的な姿勢でいる限り、その欲求は満たされない。あるいは不特定多数の反応が芳しくない。
そうして罰を受けることになるというか、きちんと因果関係ができているものだと思います。
それが嫌なら沖倉さんのおっしゃるとおり、書き方を見直すなり発信をやめるなり、対策を取ればいいわけですが、私は今のところ現況がちょうど心地よいので、変える気はありません。ま文章力はつけたいですが。今後も時々、こうした書いてる本人のみスッキリしている意味不明な長文を書きたくなったら書くだろうと今のところは思ってます。

柴五郎の本を読んで「恨むのもわかる」と言った現代人は、「女に生まれてみたけれど」という本に出てくる山口の歴史家さんです。
この方がそう思ったということに文句をつけられてもな~、です。
また、柴五郎の本が、負けた側の感情で書かれてる日記だというのはそのとおりだと思います。「それの何がいけないの?」とすら思います。
いわゆる「会津観光史学」も、負けた側の感情を代弁するのがまず第一義なのでしょうね。そのためにあることないこと書くのはどうかとは思いますが、しかし負けた側の思い、負けた側の感情がそれほどにも強いのだということが伝わってきて、私は目くじら立てる気にはなれないのが正直なところです。ただあることないこと書かれて恨みを一身にぶつけられる長州の立場も辛いなあとも思います。つまり薄っぺら言い方で恐縮ですが「どっちの気持ちもわかる」です。ただ私の場合、今会津に住んでいるので、会津の感情に同調したい思いが、長州への同情より若干強いという感じです。

コメント2に対して。
「苦労を知らない長州」とは、主に戊辰戦争後の歴史に対してです。
戦前~戦中は長州も多大な被害・犠牲があったと思います。しかしこれは会津も同様なのでプラマイゼロ。
しかし戦後は、勝った側はその勝利によって、それまでの苦労がむくわれる面があると思うのです。
対して負けた側にとって、犠牲は犠牲のまま。名誉が挽回されることもなく、さらに斗南藩での苦労という「泣き面に蜂」状態が上乗せ。
そういう意味で書きました。しかし長州が味わった苦労をまったく無視する言葉になってしまったのは申し訳ありませんでした。

長州に謝ってほしいというのは、これも「女に生まれてみたものの」の作者の、直接的には長州出身である編集に対する言葉・思いです。
「存分に会津を知ってもらい、「ごめんねうちらやりすぎたね」と、一言謝ってもらいたい」
という作者の思いから、お互いの故郷を訪問しあうという企画が始まったのだそうです。
気は確かなのか?という感想ももちろんアリだと思います。沖倉さんが長州の方ならなおさらです。
違う時代の人間に対して、ということについては、記事後半で触れた会津訪問記で、「謝ってほしい」と思っていた作者自身そういう認識になったように書かれています。
(ここら辺を記事で書いたつもりだったのですが、文章がわかりにくくてすみませんでした。
この記事で「」で括られている言葉は、基本的に本からの抜書きです。一言つけくわえるべきでしたね)

郡山など、会津兵による被害が大きかったところは各地にあるそうですね。
自分たちが被害者であることばかり過剰に言って、加害者であることには目をつぶるというスタンスは、私もあまり好きじゃないし、本当に申し訳ないと思います。
同時にここでも、負けた側の恨み・感情はそれだけ強いのかと思ってしまいます。
勝ったという誇りがない場合、負けた側としての感情に執着することがすなわち「誇り」となってしまうのだろうかとも。

コメント4について。
長州しょーもねーは、「天障院篤姫」を読んだ時の長州征伐に対する感想です。
あの物語はご存知のように、徳川家の嫁として、しかも江戸城奥深くにあって世情に疎い人間としての視点から「瓦解」までを描いた作品です。
その視点に感情移入しながら読むと、長州は徳川や天下に反抗して困らせる存在のように見えてしまうわけです。
しかし「女に生まれてみたものの」を読んだら、長州がそうせざるを得なかった背景も実感できた気がする・・・と、その感想が薄らいだことも書いたつもりなのですが。

帝=朝廷も長州に困って、幕府に征長を命じますね。孝明天皇の信任篤く、幕府への忠誠心も強かった会津は、このころの価値観のまま戊辰戦争まで行ってしまうわけで。
朝廷や幕府への忠誠を、そのまま忠実に示し続けていたら、時の流れで賊軍になってしまっただけ。という意味で「会津は朝廷にも幕府にも間違ってない」と。

ドイツに天皇領を、というのは知りませんでした。
で検索してみたのですが、天皇領ではなく、幕府から与えられた藩の領地ではありませんか?
当時の最新武器は外国なくして手に入らず、いかに外国の力を得るかが勝敗の鍵だったので、これはやっぱり「幕府を見捨てて」というより「新政府軍と戦うため=幕府のため」だとしか思えません。同じ「国のため」にも右翼と左翼の考え方があるように、和平派とは手段は違っても「幕府のため」という思いは同じだったと。
確かに、異国打ち払いを掲げているのに、ドイツとは言え異国に領地を売ってまで戦おうというのは、視野狭窄・本末転倒だとは思います。が同時に、そんなことを考えるほど切羽詰ってたのか、と実感できたような思いもします。いずれにしても現代人としては「ドイツが断ってくれてよかったー」だけですね。

「個人的な見解や感情は止めてくださいね」とおっしゃいますが、このレスも「私はこう思う」が大部分で、しかも文章ベタなので申し訳ないです。
しかしこのブログはまさにそれを書くためのブログなのです。私がブログに書きたいことや、世の中や歴史で興味あること、理解したいことはそういう「何かに対する(当時の)個人の見解・感情」なので、どうしてもこんな感じになってしまいます。
と書くとなんだか投げやりみたいですが(←ここら辺が文章ベタ)、

以上長々と書いてしまいましたが、私から沖倉さんに伝えたいことはただ1つ。反論ではなく、冒頭にも書いたとおり
「こんな読みにくい文章を読んでいただいてありがとうございます。なのに結果的に不快な思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」です。
(もし沖倉さんが長州の方ならもう1つ。どこにもぶつけられない恨みが全部長州に向かってしまっている会津について、会津在住の1人として申し訳なく思います。
なのに長州のとあるお堂では、白虎隊が今でも地元の方によって供養されているそうで、これも会津在住の1人として頭が下がる思いです。ありがとうございます)

No title

本文とコメントの差から、あなたが悪者になりたくない為に
必死で言い訳してると感じました。あなたは偽善者です。

あなたは、基本的に小説や個人の著作物、つまり個人的な主観を
ソースにしてますね。そして会津に住んでるからという理由だけで
会津に肩入れしている。前回の都知事選にも東京生まれで会津に越した人間が
出馬してたので調べましたら、やはり会津観光史学に傾倒した発言をブログでしていました。
やはり会津には、そういう土壌があるんでしょうね。

長州が戊辰戦争後に苦労してないとは何を根拠に?
名誉挽回されない云々言ってますが、会津は明治政府により
名誉回復してますから。長州人による妨害などとよく言われますが
むしろ山口の士族は会津救済に乗り出してるんですよ。
それを現代で長州人に妨害されたとか反日特亜レベルです。

「ごめんね」と一言謝れは、当事者でない現代人が
求めることでも進んでやる事でもありません。頭がイカれてる発言です。

私を長州人ではないかと思う時点で、あなたが会津観光史学洗脳者である証拠ですよ。
そもそもあなたは、長州って何の意味だか解って使ってますか?

長州しょーもない発言のソースは小説でしたか。納得です。
あなたは歴史を創作で見てるんですね。実に典型的ですね。
そして会津が国土を売った史実には、現代人として客観的に見るわけですか。
凄まじく都合がいいんですね。会津に住んでるから会津より。
長州でしょーもない。会津の売国行為には現代人として客観。

会津が忠誠心が厚く帝の信頼が高いなんて会津観光史学そのままですね。
本当は福井だったんですよ。京都守護職は。それを福井が断ったので
会津に廻って来ただけです。あなた、星亮一読んでますね
歴史とは個人的な感情で見るものではありません。
ましてや創作を真に受けて特定の地域をしょーもないなどと
発言するのは言語道断なんですよ。

あなたの文を見てると言い訳してるようにしか思えないし
帝が長州に困ってた云々の所なんか、さらりと長州批判して
バランス保とうとしてるのが見え見えです。
そもそも質問してないのに発言してるわけですしね。

そういえば、震災時に萩市から4000万円の義援金が
会津に届いてますよね?前若松市長の対応、あれ何ですか?
日本からODAを貰いながら反日体制を崩さない韓国と
変わりないなと思いました。いい加減で会津観光史学
会津恨文化、止めるように動いたらどうですか?

No title

失礼。義援金は2200万円でした。

ところで、あなたは新潟なの?
新潟は味方の会津から散々やられたんだけど?
その辺りは都合よく現代人として客観視するの?

あとさ、誤解して欲しくないんだけど
私が遺憾に思ってるのは、会津観光史学や
会津観光史学を鵜呑みにして恨み節になってたり
旧官軍地域の人に罪の意識を植え付けようとする
バカや、会津観光史学を創作してる作家や
それに乗っかるバカだからね。

歴史ってのは人が作るもの。
だから良いことも悪いこともあって当たり前。
それを現代人が鬼の首をとったように
指摘して優越に浸るのはキチガイだと思ってるから。
過去ってのは変えようがないんだから
現代人が相手を叩く為に利用しちゃダメでしょ。
それをやってるのが会津観光史学なわけ。
会津観光史学は地域分断工作になるしWGIPになるの。
だから会津は叩かれ始めたんだよ。
ま、悲劇の会津がネットの普及で嘘だってバレて
嫌われだしたってのもあるだろうけどw

私は会津の歴史は否定しないよ。
善し悪しは当たり前だから。
それを現代人が指摘しても現代の会津人には関係ないないからね。
あんたみたいに小説をソースに「しょーもない」なんて言いませんから。
それが史実でもね。現代人が生きてない時代のこと
しかも悲劇をでっちあげたり、証拠もないのにアレコレ発信する
会津観光史学は叩きますよ。

もし、新潟が会津にアレコレやられたって史料やなんかが
知りたいのなら言ってね。コピペするから。
あと、もし良かったら、田中悟の会津という神話読んでみて。
会津系作家の自称研究本と違って本当の学術書だから高いけどw

No title

偽善者と思われるのは構わないのですが、「会津にそういう土壌がある」かはわかりません。
会津に引っ越した人すべてが「薩摩長州許すまじ」なんてなるわけはないし、どちらかというと個人の趣味や性質その他が決める部分が大きいんじゃないでしょうか。
記事にも書いたとおり、私の周りの人で、そういった「恨み」は今でも持っていると明言した人は1人しかいません。

「長州が戦後に苦労していない」という意味ではなく、「それまでの苦労がむくわれた」という意味で言ったのです。
もちろん成功者としての苦労だってもちろんあったでしょうから、「苦労してない」という言葉が不適切だったことはお詫びします。
しかしそれを敗戦側の会津に言われても、感情的に受け止めきれないのも無理はないとも思うのです。

明治政府下で要職についた会津出身者が多くいたのは知っています。
同時に、勢津子妃の皇室入りが決まった昭和初期、会津の感激は並々ならぬものだったそうです。
つまり昭和に至ってやっと「賊軍の汚名が晴れた」という感情が当時確かにあったということです。
しかし前にも書きましたとおり、濡れ衣という形で恨みをぶつけられる長州には申し訳ないと思います。

「ごめんね」に関しては作者もそういう思いに自然と至ったと、これも前に書いたはずです。

沖倉さんの一連のレスは、長州を思うがゆえ、つまり「郷土愛」に非常に近いものだろうと受け止めました。
その思いなら会津も同じで、理解できますし。
長州=山口県の、主に萩などの地方という意味で使っていました。

そうですね、私は特別歴史好きというわけではありませんし「当時の人たちの様々な思いを知りたい」という趣味があるので小説にハマりやすいです。
小説を読んでいる間の感想は自由だと思います。そして今回の「海の有無」のように、ある時まったく別な視点があることを知って、それまでの感想が変わることもたくさんあります。
人の感想は止められません。白虎隊を「偉い」とする感想もあれば「バカだ」とする感想があるように、長州征伐について「長州しょーもない」という感想も「長州偉い」という感想もあっていいはずです。感想と事実は違います。感想は時により立場により変わります。
会津がドイツに領地を売ろうとした感想も同じように書いたつもりです。「視野狭窄・本末転倒」と「そこまで切羽詰ってたのか」と。
個人的には、「会津に住んでるから会津より」というのは、今回の原発事故があったのも関係しているかもしれません。
いずれにしても「会津は正しかったか間違っていたか」じゃなくて、会津のことを知りたい、理解したいのです。

経緯はどうあれ、その廻ってきた京都守護職を会津はきちんと受けて職務を果たしましたよね。
そして孝明天皇からその働きに対し、手紙や御製も賜ったそうですが、これも小説の捏造でしょうか?
歴史とは個人的な感情で見るものでないのは百も承知です。だから色んな立場からの思いを知りたいのです。
歴史は事実の積み重ねですが、しかしその事実は当時の人たちの感情の積み重ねでもあるからです。
それが「言い訳しているようにしか思えない」ように見えるのならば、それはそれで仕方ありません。
「帝が長州に困ってた云々の所なんか、さらりと長州批判して」というのはよくわかりません。だから長州征伐を幕府に命じられたわけで、長州批判なんて次元ではありません。
「質問していないのに発信している」というのもまたよくわかりません。「会津は朝廷的にも幕府的にも~」という質問の答えとして書いたのですが。

あれはびっくりしました。私の会津・戊辰戦争への本格的な興味はここから始まったようなものです。
これで友好的な関係になれるとよかったのですが、そうすると賊軍の汚名を着せられて死んでいった人たちを無視することになる・・・という感情もあるのでしょうか。
それなら個人的に理解はできますが・・・。実はあれは表面上のパフォーマンスで、裏では手打ちしている、というバックステージを期待したいところです。

私は上に書いたとおり、今は会津のことを知りたい、理解したい、それには戊辰戦争にまつわる会津の思いを知るのが欠かせない、というところにいます。その途上です。
いわゆる「会津観光史学」も思いを知るための手段の1つで、「思い」に「正しい」も「間違っている」もありません。それだけが正しいと喧伝する気もなければ、間違っていると断罪するつもりもありません。
ただ違う視点も容れて、「これだけが正しい」とならないよう、バランスを保つようにはしたいですけどね。
止めるように動きたくなったら動きます。会津=敗者の感情について書きたくなったらまた書きます。

No title

そうですね、あまりピンときませんね。あまり「恨み」として代々伝わってないので。
会津は伝わっている、新潟は伝わっていない。そんな印象を受けます。もっとも新潟も上中下越でけっこう違うので、厳密にはわかりませんが。
私の実家は新潟の新発田市で、会津を裏切っちゃった側なので、歴史に詳しい友達などはむしろ「会津旅行に行くと肩身が狭いよね」なんて冗談交じりに言ったりします。
(念のため、その友達(に限らず他の友人たちも)は何度も会津旅行していますので、純粋な冗談です)

中段は同意見です。
あの記事だってそもそも「女に~」という本を読んで、「同世代にもいわゆる「会津観光史学」そのままのような価値観の人がいるんだ」という驚きから派生した感想を書いたつもりですから。
記事でもいわゆる「会津観光史学」にあることを「事実」として書いたところはないはずです。
前にも書きましたが「長州しょーもねー」も、小説の単なる感想であって、「長州はしょーもないところです。これは事実です」などと喧伝しているわけでもなければ、その感想に固執しているわけでもない
むしろ「そう思ってたけど海という理由があったのか」と、「女に~」を読んで長州側の思いも理解できた(ような気がした)、それまでの「しょーもねー」とは違う感想を抱いた、と書いているのです。

「会津という神話」は、以前どなたかのブログでの紹介を読んで、面白かった記憶があります。
上で「(恨みが)会津は伝わっている、新潟は伝わっていない」と書きましたが、なるほど太平洋戦争を挟んだからな~と、そのブログの紹介で目からウロコだったことなど覚えています。時間があったら買ってみます(で膨大な感想文を書きたくなったらまた書きます)

No title

一人でもいることが異常事態だと何故理解出来ないの?
143年前の事で当事者は一人も生きてはいません。

敗戦側の会津って、いつまで敗戦気分なのよ?
ピンと来ないんじゃなくてムカついてるだけでは?
普通は勝敗関係なく苦労は察しがつくはずだよ?


山口側が会津観光史学で嘘をぶつけられてる事で
何であなたが謝るの?あなた当事者ですか?
だから偽善者だってーの。

郷土愛云々言ってるけど私は山口県民じゃないってば。
会津観光史学を遺憾としてる者。何を勝手に納得し
会津も同じだとしてるのか不明。
全部あなたの脳内で解決されてるじゃんwww

長州って律令制の長門国の略称で山口県の北西部のみ。

小説の感想が長州しょーもないですか?
それをブログに載せて発信したら嫌な思いをする人が
いないかな?とか、反感を買わないかな?とか
思わないわけですか。表現の自由を掲げて
言いたいことを言えばいいってもんでもないでしょ。
それに会津の事なら客観的に理解を示し
長州の事なら小説でしょーもないと発言し
感想なんだから自由って何なの?凄い好都合だね。

あなたが知りたい会津って何?作家が誇張した会津ですか?
それとも史実の会津ですか?話の感じだと前者でしょうね。

聞かれてもない話を突然始めたのはあたなよ?
解らないはないてわしょ。それに誰が天皇が労を労った
ことを否定したの?聞かれてもない話、しかも長州が
帝に迷惑をかけたなんて言い出すんだから
バランス保つために批判展開したと思われてもしかたないでしょ。
で、帝の誰が長州は迷惑だって公言して
史料として残ってるの?もしかしてあなたの察し?
苦労の察しがつかないあなたが、帝が長州に困ってた
なんて察しはつくんだねwww

だから、現代人に手打ちも糞もないでしょ。
143年前の事なんだよ?異常性に気づいて。
当事者はいないの。いい加減にしてくださいね。

歴史を偉いバカで見る奴がバカだし
それをありとするあんたも同類だよ。
歴史は善悪、偉い偉くないで見るものではありません。

そもそも会津を討伐したのは鹿児島と高知を主力にした
軍勢で、政府に恭順した東北の36地域だったかな?
が、討伐したんだよ。会津観光史学洗脳者だから
私を山口の人間だと勘ぐったり、長州長州言っちゃうんだよ。

会津=敗者の感情になったら?やれやれ自分で自白してらw
結局感情論なんだよね。だから歴史の話が出来てないんだよ。
切り返しが言い訳がましいのは感情論だからだよ。解らない?
歴史は感情論じゃなありませんよ。

No title

新発田が会津を裏切ったとは?
だから、何で現代人のあなたが、当時の新発田の方針を
裏切ったと言ってのけるわけ??????
あなたは会津にだけ客観視するんだねwww
もし新発田の人が会津で肩身がせまいなら
それは会津観光史学のせいですよ。

だから、感想だろうが何だろうが
しょーもないなんて感想をもたれ発言されたら
嫌に思う人だっているでしょ。
そもそも小説を読んで「これは間違ってるな」という
判断が出来ないレベルのあなたがしょーもないんだよ?
あなたは会津観光史学洗脳者だよ。だから小説でも
長州ならしょーもないって感情になるんだよ。
はっきり言って山口の人に失礼だし、山口の歴史に失礼。
歴史を語る資格なし。ジジイが小説読んでその気になってるレベル。
会津の売国行為は客観視出来るのに長州なら小説でも
しょーもないと発信する神経が都合良い。

太平洋戦争は関係ないよ。会津観光史学は商売が基本だから。
私はね、観光史学自体は反対はしないよ。
でも、会津の観光史学は、地域分断工作になるしWGIPなる。
だから遺憾としてるの。会津観光史学は会津に恨を根付かせ
文化になるの。既に会津はそういう所だよ。
外に敵を作りここまで拗らせてるのは日本じゃ会津だけよ。
どこぞの国もそうだよね。外に敵を作りナショナリズムを
煽ってる。解るよね?

幸楽苑知ってるよね?
ここの社長は、みやぎ会津会で鹿児島、山口への恨みを公言してるよ。
復讐するんだってさ。ね、こういう人間を作っちゃうんだよ。

そんなに被害者認定欲しい?ねえ?そうしなきゃやってけない?会津は。
日本にこういう地域があるのは、腹立たしい反面凄く寂しい。

No title

連投ばかりで悪いんだけど
何でタイトルにVSつけてるの?
VSの意味解ってるよね?
星亮一にでも影響されてるの?

No title

あとさ、文章が長すぎる。
事故弁護したいんだろうけど
長文すぎるし、聞いてない話まで
盛り込みすぎだよ。
こっちスマホだからさ、読み難いんだよ。
こっちもスマホで誤字が出るのは悪いと思うけどさ。
簡潔にしてね。

じゃ、今日はこの辺で。

No title

会津観光史学Q&A

Q会津観光史学って何ですか?
A会津を独善的に正義の被害者と位置づけ、薩長土肥を何の証拠もないのに悪の加害者だと位置づける中国や韓国の反日政策に類似した被害者商法です。

Q会津恨文化ってなんですか?
A会津観光史学をベースに土着した日本で唯一、会津地方のみに根付いてる文化です。

Q会津が京都守護職に就いたのは、会津が誠実で正義感溢れる土地柄だったからというのは本当ですか?
A嘘です。まず、京都守護職に推されていたのは福井です。天皇が直々に指名しただのなんだのは会津観光史学による誇張です。そもそも何を根拠に任命した側が、会津=正義感があり、誠実だと判断したのか不明です。どこにもそのような史料はありません。

Q会津は京都守護職に就いて何をしましたか?天皇を護っていたというのは本当ですか?
A会津は新撰組などを使って志士の惨殺を行ったり、新撰組の内ゲバ(芹沢鴨等の殺害等)を内密に処理したりしていました。会津は天皇を護っていたのではなく、新撰組などを使い、京都の市街地を警備してたに過ぎません。天皇の身辺を警護してたわけではありません。会津観光史学による誇張です。

Q池田屋騒動は天皇を拉致する山口の企てであり、その企てをキャッチした新撰組が成敗したというのは本当ですか?
A嘘です。まず新選組は、そのような情報をキャッチしてはいません。たまたま発見した会合であると新撰組の永倉の手記に記されています。山口の木戸の日記にも、新選組に捕縛されている滋賀の古高を救うために集まった会合だと記されています。経緯は以下の通りです。屋敷に武器を隠していた古高が新撰組に捕縛され天皇を山口に連れ去る画策を尋問されますが、古高が否定したので、新撰組の土方が五寸釘を使い古高に拷問を加えます。逆さづりにされ、脚を五寸釘で刺しまくられた古高は拷問に絶えかね天皇の拉致計画を認めてしまいます。が、これは拷問自白ですので本当ではありません。天皇を山口に連れ去るという企ては、古高の拷問自白以外に明確な根拠は、幕府側にも尊攘側にもありません。直ぐに永倉が古高の自白通りに行動しますが、1人の浪士に出くわすこともなかったので、片っ端から旅籠を捜索してます。が、結局何も出てこないので諦めて帰ろうとした時に偶然池田屋に浪士が集結してるのを発見し、その後踏み込んでいます。池田屋と四国屋で張っていたというのも創作です。

Q会津が天皇と幕府の忠臣だというのは本当ですか?
A嘘です。まず、会津は公儀に近い大名領でありながら贋金を製作したりシナと密貿易を行っていました。次に会津は、徳川幕府が崩壊しそうになると、ドイツに対して国土(新潟・北海道)売却を条件に後ろ盾になるように打診しています。会津が天皇と幕府の忠臣だったという嘘は、会津観光史学以前の会津名誉回復運動から言われだした嘘です。

Q恭順を示してる会津に薩長がなだれ込み会津戦争になったのは本当ですか?
A嘘です。新政府は、奥羽・北越に対して和平交渉から入ってます。交渉に応じなかった地域が反政府として討伐されました。会津が恭順を示していたのは嘘で、前途でも述べた通り、ドイツに国土を売ってまで戦争しようとしたのは会津ですし、奥羽・北越の同盟も、戦争に躍起な会津・仙台等について行けない東北の小さな地域が次々に離脱しています。会津戦争は、新政府との和平を蹴った会津から白河や今市に侵攻して勃発しています。

Q会津戦争では薩長が蛮行を働いたといわれてますが本当ですか?
A嘘です。鹿児島・山口が蛮行を働いたという史料はありません。あるのは会津系作家や会津贔屓でアンチ薩長の作家の著作物だけです。逆に会津の蛮行は、北関東・東北・北越・道南の史料に掲載されていますし、外国人の報告書にも会津兵による蛮行が記されています。また、会津を討伐したのは、鹿児島・高知を主力に新政府に恭順した東北の地域です。山口は北越に主力を送っています。

Q白虎隊士中二番隊の自刃は史実ですか?
A飯沼貞吉が老年の時に証言した以外に何の証拠もありません。

Q会津の家臣が斗南に行ったのは山口が決めたのですか?
A会津の家臣団のみで会議され会津の山川が決断しました。山口の木戸は、猪苗代を推していました。

Q斗南に行った会津家臣団は、復興に尽力し、鳩侍と恐れられていたのは本当ですか?
A嘘です。怠けてたので斗南の領民から馬鹿にされていました。そもそも恐れる対象に鳩を持ち出すでしょうか?拾い食いをしてたので鳩みたいだと軽視されていたのが史実です。

Q会津は名誉回復されましたか?
A明治政府によって回復されました。松平は華族になってますし、有能な人材も活躍の場が与えられ、斗南に行った家臣も2年で解放されています。また、松平の長男は山口の女性と結婚してます。本当に賊のままなら嫁がせないはずです。

Q会津戦争時の会津兵の死体は、見せしめに埋葬されなかったのですか?
A埋葬されました。会津兵埋葬禁止は会津観光史学による嘘です。歴史家の大山先生が論破してますし、会津若松の市役所などでも嘘だとしています。また、2008年に会津士族の判の手記が発見され、新政府に金銭を貰い死体を埋葬したと記されていました。そもそも残ってる史料には、どの死体にも触るなというものであり、会津兵の死体を放置せよなどとは記されていません。

No title

会津の蛮行史料

会津藩の搾取ぶりを聞いていた旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達にこれまで通り代官所による統治の据え置きを望み、代官に会津藩による支配に反対する建白書を出す事になる。「会津藩は、奥州若松から七、八十里も離れた魚沼の村々を守ってくれるとは思えない。越後が戦闘になったら小千谷・小出島・蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って、会津口を固めるため撤兵するとのことだ。その上、預地となれば調達金や夫役を課せられ、私どもの村々は立ち行かなくなるだろ」、以上がその建白の内容だが、いざ北越戦争が始まると越後の領民が危惧した通り、越後の民衆は会津藩兵の蛮行に苦しめられること事になるのである。
(十日町市史通史編3)

京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した会津藩は慢性的な戦費不足から、近視眼的に進駐した各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
 旧幕領を接収した会津藩兵がまず行ったのは、戦費調達の為に各村々への御用金の名の元での搾取だった。この会津藩の御用金の割当は旧幕領の各地に及び、旧水原代官領での千唐仁村十八両、浮村一五七両、野田新田十八両を始め、前述の小千谷陣屋領での割り当てや、後述する新潟町での御用金の取りたて等、枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻)

またこのような組織だった徴発だけではなく、個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。初期においては新潟町で強盗を働いた会津藩士数人が町民によって捕らえられて処刑されたなどした。
武器を持ち民衆を恫喝する会津藩士や衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる。
(新潟市史通紙編3)

「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、或いは乱暴等いたし候。」
金銭や食糧の徴発以外にも、小千谷等の戦場が近い村々では、農兵の取立てが行われた。半ば強制的に行われた徴募では貴重な労働力を強引に奪われただけでは済まず、農兵の食料までもが村々から取り立てられ、村々は二重の負担に苦しむ事になる。
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)

会津藩兵による草莽の志士への襲撃も行われた。殆どの草莽の志士は会津藩の進駐を聞き、身の危険を感じて故郷から脱出した。しかし旧水原代官領に住む草莽の志士三浦杏雨は剛腹にも、会津藩兵が進駐して来ても留まっていたが、三月に会津藩兵の襲撃を受けて殺害されてしまう。
(水原町編年史第一巻)

越後の民衆に対する蛮行は会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく、会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍によっても搾取や略奪は行われた。「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の脱走兵五七〇人余が相次いで新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら、各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。幕府の倒壊によって支配機能停止の状態に陥った新潟奉行所はこうした行動を停止出来なかったから、民衆の恐怖と憎悪は高まった」を始めとして、新政府よりの新発田藩や与板藩の城下に乗り込み、軍資金を強要する等の蛮行を行った。尚、この衝鋒隊や水戸脱走軍の乱暴・略奪について「越後での略奪は会津藩士ではなく衝鋒隊が行った」との会津贔屓の主張があるが、衝鋒隊にしろ水戸脱走軍にしろ会津藩の指揮を仰ぎ、補給を受けており(もっとも殆ど現地調達だが)、会津藩士によって書かれた「会津戊辰戦史」に衝鋒隊も水戸脱走軍も会津藩兵の一部と記述されているのだから、会津藩兵と同一視するのが妥当だろう。何より衝鋒隊に略奪された越後の民衆が会津によって略奪されたと記録しているのだから、衝鋒隊と会津藩は無関係と主張する会津贔屓の主張は詭弁と言わざるを得ない。

会津藩の搾取略奪に苦しんでいた越後の民衆もまた、かつての越後の支配者である米沢藩兵を慕った。「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず、各自が荷物を背負ってきた。米沢様は別段のものだと衆人が感服した。それにひき比べ、会津は異形はなはだしいゆえか、衆人不服で負け戦の話をきくと婦女子までがよろこんだ。」
(新津市史通史編下巻)

越後の民衆が会津藩を嫌い、米沢藩を慕った一例として、会津藩によって徴募された出雲崎代官領の農兵隊が、会津藩の支配を嫌って米沢藩の家来になる事を懇願して許された事が挙げられる。この農兵隊は後に米沢藩から精義隊と命名され、米沢藩の指揮下に入り最後まで米沢藩兵と共に新政府軍と戦う事になる
(新潟市史通史編3)

 田中が新潟町に帰還した時、新潟は既に会津藩の占領下にあり、その蛮行略奪により「市中之もの共殊之外動揺いたし、最寄最寄江家財取片付、惑乱一トならす」と言う無政府状態になっていた。
(新潟市史 資料編5)

米沢藩参謀甘粕継成の日記に、六月頃から会津藩の批判が目立つようになる「時に越地の人民会津を悪みきらふ甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て味方する者なし。是を以て大面在陣以来、村民を雇て篝火を焼せ死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども、家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民自ら火を家々にかけて我が軍を追出し、賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より忠信出、早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば遖れ御大事なるへしと云う」。これは六月一日の記述だが、「略奪を行なう会津藩兵と一緒に行動するのなら、もはや米沢様には協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を訪れて訴えたのを受けて、今は民衆に慕われている米沢藩だが、会津と行動を共にするのを続ければ、民衆の信頼を失いかねないので会津とは別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の任にある甘粕が考えていたのが判る。
(甘糟備後継成遺文)

庄内藩兵を率いる石原多門から次のように語られている「当地へ出張以来会の将佐藤折之進等表裏の所業甚しく危険の場へは必我庄兵を差向け、己は後へ廻りて分捕等を掠むる工夫を事とし一向義を重んじ信を守るの志なき故、我士卒いづれも不平を抱き元より越地出兵は会を援くる為なるに、会人の作業如斯にては何ぞ尽力する栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく数十日空く日を送れるなりと云」。甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より、「会津を助ける為に越後に出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は激戦地に庄内藩兵を送り、自分達(会津藩兵)は安全な後方で民衆からの略奪に狂奔しているので、庄内藩兵の士気が下がっている」と不満を述べられている。
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって、越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
(甘糟備後継成遺文)

「会津・長岡両藩、越地人民ノ心を取失候上」や「会兵と御離れ、仕事を別申て、御兵は越地鎮撫醜類掃除之御本位をいつく迄も御示被遊、御仁恤を御下し被為在候様無之候ては、危急此事ト奉存候」
(米沢藩戊辰文書)
新潟奉行所の役人から米沢藩に送られたと思われる書状にも、会津藩との別離を勧めるように書かれている。
(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿)

米沢藩総督である千坂高雅が国許に送った書状にも次のようなものがある「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ、其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)
会津と庄内がこのままでは新政府軍に滅ぼされるから助けて欲しいと言うのなら大軍を差し出しもするけれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを前線に送り、正規軍は三百程しか前線に出兵させないようなら話にならないと、米沢藩兵の総督である千坂自身が、会津藩兵に反感を抱いていると書かれた書状を送る時点で、会津藩と米沢藩の確執は限界に達していたと思われる。
総勢千名余とされる越後戦線の会津藩兵だったが、実際に中越戦線の最前線で戦っていたのは佐川官兵衛の朱雀士中四番隊、土屋総蔵の朱雀寄合二番隊、木本愼吾の青龍士中三番隊と言った一部の兵だけで、越後に出兵した会津藩兵の大半は、戦場から遠い後方で民衆から搾取略奪を行い、これにより民衆の心は同盟軍から離れていったと言うのが実情だろう。
そして大半の会津藩兵が後方で搾取略奪に狂奔している間に、前線では折角奪回した長岡城と、重要な武器補給港である新潟港の双方を新政府軍に奪取された事により、米沢藩兵も長岡藩兵も力尽き、越後における同盟軍の戦線は崩壊してしまったのである。

>幕末の戊辰戦争では、戦火が北上するにしたがい会津兵の放火や略奪による大きな被害を受けました。
2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号
http://www.city.koriyama.fukushima.jp/youran/2004/06.html

会津兵による蛮行
慶応4年
4月28日駒屋 守屋などで放火
5月10日中山村放火
5月10日中山村 竹ノ内村に放火
5月31日八幡村 富岡村に放火駒野村を襲撃
6月1日下守屋の民間を襲撃 金品強奪
10月7日亀ケ城に放火
会津戦争詳細年表より


>「若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた
>会津の人民がいっせいに『世直し』一揆に蜂起した。
>10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで
>2か月近く、全領内で、しかも、まだ、政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。
>政府軍は、この2か月におよぶ『世直し』一揆の波を、手をこまねいて見ていた
家永三郎編『日本の歴史4』より

会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。

慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史

駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書

・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様 に聞かれた
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を 乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ
・会津藩降伏後、会津の領民は護送される会津藩主一行を 冷ややかな態度で見送った

明治2年5月11日
旧幕軍(会津)が函館市内に放火
900の家屋が焼失
函館戦争年表より

最後に 「白河以北一山百文」について。
この言葉は福島を差別する言葉で、山口の人間が使ったなどと言われているが
実際は、原敬や河北新聞がスローガンとして使ったものであり
差別用語でもなければ山口の人間が、福島を蔑む為に使った言葉ではない。
江戸時代からある言葉だ。それを司馬などの作家が
差別として引用したのが発端。星亮一も司馬を参考にして
この言葉を差別だとして使ってる。
負け組みシンパの強い日本では、こういった嘘は浸透しやすい。今回たくさんコピーを貼ってすまなかったが
管理人さんにも会津観光史学がどのようなもので、実際の会津がどうなのか
知って欲しくて貼らせて貰った。会津観光史学は会津にも旧明治政府地域にも日本にも良くない嘘だと知ってくれ。
創作を鵜呑みにして他所の地域にしょうもないなんて感想を持たないで欲しい。

http://aoimon.blog7.fc2.com/blog-category-278.html
これは白河云々を検証したサイトだ。読んで欲しい。

No title

反対さんに付け加えるなら白虎隊は少年兵じゃないんだよな。
侍は15歳で元服するわけだし。それを悲劇を煽りたいのか
現代人目線で少年と位置づけてんだよ。時代背景は都合よく無視。それが会津観光史学。

飯沼貞吉も喉を二回突き刺したなんて証言してるらしいけど
死ぬつもりで喉を二回も刺したら相当な後遺症だろうし
生きてるのが不可解なんだよな。死ぬつもりで喉を
二回も突いたら普通死ぬだろ。
飯沼がその場にいたなんて確証はないわけだしな。
証言者もいないんじゃなんとども言えるわけだし。
つかさ、この飯沼は山口士族に保護されて山口にいたんだろ。
大変可愛がってもらってたみたいで飯沼が日清戦争に行くのも
山口士族は引き留めてたって話じゃん。それでも行ったんだろ?飯沼は。
喉を死ぬつもりで突いたわりには戦争に参加できんだなWWWWWW
おかしいよな。死ぬつもりで突いてんだから相当なケガだよ。
死んでるのが普通だよ。でも引き留めるのも聞かないで
戦地に赴くなんてWWWWWW

嘘臭さ満載だよな会津観光史学はWWWW
管理人よ。思案橋事件検索してみ。この時点で会津と山口は
既に連携みせて明治政府に反発した者がいんだよ。
小説読んで長州しょうもないとか浅いブログ書いてんじゃねえっての。

No title

沖倉さん
何度も言いますが「長州しょーもねーと思ってたけど、この本を読んだら長州がそうせざるを得なかったのがわかった気がした」と言ってるんですよ。
「福島しょーもねー」だったらカチンと来るかもしれませんが、「福島しょーもねーと思ってたけど、これを知ったら福島がそうせざるを得ない心情もわかった気がした」だったら、まったく気にならないばかりか、むしろ「わが意を得たり」「よくわかってくれた」と思います。「「しょーもねー」と思ってたのは、それだけよくわかってなかった証なんだね」と。

こちらが考えたいこととあなたが問題にしたいことがまったくズレているので話にならない気がします。それでも記事の大意を汲み取っていただければまだ救われるのですが、書いたことを読み取ろうともせず、ただ気に入らない言葉狩りをするだけ。それではこちらも最初のレスから今まで書いてきたこと、及び記事に書いたことを、更に言葉を変えて繰り返すだけになります。お互いにとって徒労としか言いようがありません。しかも雨後のタケノコのようなコメントまで出てきて、いい加減うんざりしました。これ以上の不毛な応答を繰り返したくありませんので、大変残念ですが以後コメントを承認制にし、これであなたとのレスのやり取りは終わらせていただきます。

「VS.」をつけたのはこの本の、特に会津・長州紀行の章が、半分冗談でありつつもそういう様相を示しているからです。そしてこの本に出てくる山口の郷土史家が、それに対する答えでもあるかのように「大いにやりあいなさい」とおっしゃrシーンも出てきます(これも記事に書いたはずなのですが)。

どうか記事を、そして記事で紹介したこの本を、1度お読み下さい。私も著者も登場人物も、長州はもちろんいわゆる「会津観光史学」についても、否定も肯定もしていません。問題にしたいことが、テーマが違うのです。それが読み取れないなら不幸だと思います。

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はじめまして。私は、福島県二本松市の者です。といっても、先祖は二本松市の者ではなく、県内の農家の家です。

記事は勿論、コメント欄に書かれたものも読ませて頂きました。
戊辰戦争で会津と共に戦った二本松では、山口県や鹿児島県の方々に対する遺恨をあまり聞く機会はありません。城下町特有?のよそ者を受け付けない風土は残っており、祖父は相当苦労したようですが、会津に対しても「白虎隊はいいなー。二本松少年隊は有名になれないでいるっていうのに…」みたいなことを言ったりしてるかな?ぐらい。あとは、県内にある某町を「裏切り者」と半ば冗談で言う人はいますね。

ただし、これは家系によってまちまちだとも思います。
武家の血筋だったり、戦の時に強奪の被害を受けた商家を先祖に持つ人は、やはりいい気分はしないものなのだと感じたことがありました。

よく歴史を元に「会津は嘘ばかり」と罵るような記事を目にします。
確かに、残っている歴史の資料を盾にしてしまえば、嘘偽りが目につくかもしれません。それも致し方ないことです。
でも、史実として残されていない、表に出てきていない、一族の歴史というのは確実に存在するものとも思います。
例えば、先程、私の祖父はよそ者故に苦労したということを記しましたが、それを立証しろと言われても、難しいものです。いささか乱暴な気もします。そして、よそ者だと嘲笑われた時の悔しさをバネにして起業した祖父の話を聞いて、「自分も負けじと頑張らねば」と思うことが不純であるとは思いません。

山口県や鹿児島県に対するルサンチマンを何代も持ち続けることは、日本と反日活動に必死の隣国との関係に似ていて、気持ちが悪いと感じます。ただ、表には出ない一族の歴史を元に、逆境を跳ね除けた先祖を手本としようとすることは悪いとは思いません。

震災後、萩市の皆さんの温かさに触れた。「八重の桜」では、鹿児島県出身の稲森いずみさんが照姫を演じている。これは「私の知る限りの話でしかない」のですが、稲森さんを批判する会津出身者(各々、一族に伝わる戊辰戦争の苦労話があります)はいません。今までの遺恨を溶かすことはとても難しいことです。でも、少しずつその雪解けを感じることができていることは、ご理解頂けたらと思います。

乱文失礼いたしました。

Re: タイトルなし

はじめまして。読んでくださってありがとうございますm()m

ああ、やっぱり二本松でもあまり遺恨は表れていないのですね。私の印象では、会津も同じような感じです。
>県内にある某町を「裏切り者」と半ば冗談で言う人はいますね
というのは、とってもニュアンスがわかる気がします。会津の「遺恨」も、たぶん似たようなものじゃないかと思うんですよね。「今更本気で怒るわけがない」「しかし歴史を忘れない」というのを両立させようと思ったら、冗談=ネタ扱いにするしかないのではと。
これを(主に外部の人が)善意かつマジメなあまり、うかつに騒いだりして大事にすると、かえってこじれるんじゃないかという気がします。

>史実として残されていない、表に出てきていない、一族の歴史というのは確実に存在するものとも思います。
>それを立証しろと言われても、難しいものです。いささか乱暴な気もします。
同意です。口伝の歴史というのは確かに、最初に語った人の主観が入るし(同じ場所で同じ体験をしても、受け止め方が違うのが人間ですしね)、記憶違いも入るし、それがさらに時間がたてば、口伝違いや口伝者の主観も多くなって、二重三重に信憑性は薄くなるのは間違いないと思いますので、「口伝の歴史」=「証拠」とできないのはよくわかります。が!!!だからといって「立証できない=その話はウソッパチ。そこから何も汲む必要はない」ではない、と思います。なぜそんな話が伝わっているのか、個人がそれを伝えたいと強く思うような何かはあったのではないのか。と思ってしまいます。少なくとも、その個人にとってそれはすごくリアルな、大きなことだったのだろうと。

>よそ者だと嘲笑われた時の悔しさをバネにして起業した祖父の話を聞いて、「自分も負けじと頑張らねば」と思うことが不純であるとは思いません。
同意です。歴史というのはそういう感情の積み重ねでできているものであり、「歴史を知る」というのはそうしたことを知ることだとも思います。

私は会津に親戚がいるわけでも、従って老人たちから戊辰戦争の話を聞いたこともない転勤族であり、同世代のママさんたちとの日常会話で戊辰戦争が出ることもほぼナシです。なのでよけいに「会津の遺恨」みたいな話を聞く機会は少なく、そのためかもしれませんが、「会津の遺恨」って言われるほど残ってるのかなあ?というのが正直な印象です。それこそなおさんのおっしゃるように、家系とか一族によって伝わっているかどうか程度なんじゃ?とも。
「遺恨」をなくすのにもっとも有効なのは、「なかったことになる(=忘却・風化)」なのではないかと思います。これは時に任せれば、自然とそうなると思います。
しかしなかったことにはしたくない、しかし遺恨も持ちたくないという時にはどうするか?これが「二本松と某町の冗談」とか、あるいは「会津と萩」みたいなものだと思うんですよね。ヘタにいじるとヘンな遺恨につながりかねないので、とても高度な、取り扱い注意モノですが、「風化させずに遺恨を溶かす」ための装置。この高度さ、取り扱い注意度を一番わかっているのは当事者=現地の人で、いじり方を知らずフィードバックも責任も被らない私のような転勤族とか外部の人は、基本的にはそういうネタに関して不用意に口出しできることじゃないと思ってます。ネタを見ては「遺恨発見!」と騒ぐのは第一みっともないですしね(^^;) なおさんのような現地の人の言葉を色々聞いて、自分の中で実感に近づくことができたらいいなと思っています。

K&Uさま
ご返事ありがとうございました。
まったく同感です。鋭いなぁと感服致しました。

私の友人に会津武士を先祖に持つ者が何人かおりまして、その中に
「私、山口県や鹿児島県の人と結婚できない……」
って言う人が何人かいました。
でも、その中の一人が、東京で付き合い始めたのが山口県出身の方。双方の両親に反対されるのを承知の上で結婚の挨拶に向かったのですが、何の障害もなく、あっさり認められ、相談に乗っていた私は、安心した反面拍子抜けして笑ってしまいました。
それを思い出して、今日、彼女に連絡を取り、「どうして反対されると思っていたの?」尋ねると、
「自分は小さい頃から会津の歴史を学んできた。しかも武家の出だってことは知っていたから、許されないと勝手に思い込んでいたんだと思う…。ほら、会津と山口って仲悪いとか言う人いるし」
これにはまた盛大に吹き出してしまいました(笑)。彼女自身、「遺恨」という情報に振り回されていたのでしょう。

彼女のような結婚があり得ない場合もあるとは思います。彼女は山口県に行って、夫の実家の近所の人に「福島の嫁をもらうなんて!」と言われたこともあるし、逆にご主人も似たようなことは、あったようです。でも、これは、発言者が自分のルーツを知った上で、導き出した価値観から出た言葉に過ぎませんよね。結婚を良いとするか、おかしいとするかは、個人の問題でしかない。

例えば、大山(旧姓・山川)捨松は、大山との結婚の際に実家の山川家から反対されましたが、会津と薩摩の「遺恨」のある関係ゆえなのか、それとも、捨松の兄嫁が会津戦争で被弾して亡くなり、その大砲を打ち込んでいたのが大山だったからなのかは、親族にしかわからない。そして、捨松が結婚を決めた理由も、本人にしかわからない。

自分のルーツを知ることは、歴史のある町ではごく自然に行われることだと思います。ただ、そこから何を導き出すか、どれを選択するか。個人の価値観だとも感じます。

遺恨がある方もいらっしゃる一方で、私のように東京に出てみたら、「福島出身なの?じゃあ、長州と薩摩嫌いでしょ」なんて当たり前のように聞かれたり、「高杉晋作と久坂義助、いいなぁ」と言うと「福島出身のくせに」と言われるのに面倒臭くなる人間もいるわけです(笑)。

「会津は嘘の歴史を使って観光客を呼び寄せている」とおっしゃる方もいらっしゃると思いますが、資料になくとも口伝の歴史がある。そして、観光などというものは、創作されたものに基づいた名所ができるくらいですから、あやふやなものだとも考えます。観光を大々的に打ち出したことも、「遺恨」伝説に発車をかけた一つの要因な気がしますが、そこで「明確な資料を出せ」などと言うのも、無粋だなぁとも思います。
私としては、城下町でありながら、観光客を呼び込めない故郷を、憂う次第です。

Re: タイトルなし

なおさん
あ、そういう方も実際にいらっしゃるんですね!!都市伝説かと思ってました(^^;)>「私、山口県や鹿児島県の人と結婚できない……」
お友達は幸せに結婚されて、よかったです(^^)

「時がたてば風化するのが自然」と前に書きましたけど、逆にお友達のパターンのように「世代を経てある一面だけが膨らんで伝わることもある」というのもまた、よくわかる気がします。私が子供の頃、いわゆる「自虐史観」がすごく盛り上がってきたのを体感したような感じが自分の中にあるので(私はそれらを「自虐史観だろ」と一概に否定できません念のため)。
お友達のように、歴史に誠実であろうとする意識、ある意味「善意」によってそうなってしまうこともありうるんですよね。
実際に体験したら、たぶん体験者の中には、相反する感情の2つや3つや4つや、他の出来事と相対しての位置づけとか、あるいは「今思うと我ながらなんであんな」という、その場の空気とか感情とかe.t.c.そういうのが混じりあって存在していたと思うのですが、なかなかそれがそのまま伝わりにくい。今の私たちが何か体験談を話すなど時も、実際のその場の空気や細々としたことなどはなかなか伝わらない、というか、わかりやすく伝えたいと思うから枝葉は取っちゃう。そういうことはごく普通にあることですものね。
で伝えられた側も、そういう「ある一面だけ」を伝えようとしてしまう。「出来事」だけが伝わって、「その背景」が消えてしまうというか。「出来事」は共通だけど、「その背景」は個人的な価値観によるものも多い、したがって矛盾することも多いから、どうしてもわかりにくく、伝わりにくくなるのかもしれませんね。

それは面白いですね~!>「東京に出てみたら~「福島出身のくせに」」
そういえばこちらによく来てくださるKさんも似たようなことをおっしゃってたことがありましたが、そもそも「福島=会津」という印象が強いんでしょうかね県外だと?
(私は戊辰戦争とかあまり知らなかった上に、福島の親戚が毎年桃を送ってくれてたので「福島=桃」という印象オンリーでした(^^;)それもどうかとは思いますが)
山口や鹿児島出身の人が「歴史上の人物なら松平容保が一番好き」なんて言ったら、やっぱり「ありえない」なのかな?(>▽<)

どうもああいう批判って、観光=「金儲けが第一義」というのを前提にしているような気がするのですが、私はそれに違和感があるんですよね。
もちろん会津の産業は観光も大きいので、観光客を呼ぶ=金儲け=歴史を(悪い意味で)利用する、と一直線につなげるのも、決して間違った答えではないですが。
しかしそれだけじゃないし、それが一番最初にあるわけでもないんじゃないかと。
底にあるのはやっぱり「自分の郷土を、歴史を誇る」という気持ちじゃないかと思うのです。誇りがあって「どうようちの町すごいでしょ」とよその人に自慢したいという気分、自慢したくなるような歴史、見所があって、かつ「ほんとだすごいね」とよその人も実際に感心してくれる=観光客の多さという、素朴な喜びが、金儲けとかよりまずあるのではと。
私の実家も新潟の某城下町で、しかもそれがまったく売りになってません(泣笑) 市民はけっこう「城下町」ということで誇りを持っていて、歴史上の人物に絡めて観光を呼び込もうともしているのですが、その歴史上の人物が有名どころは1人しかいない上に(笑)、町自体がもうシャッター通りで衰退しているという。
なので、なおさんの「城下町でありながら、観光客を呼び込めない故郷を、憂う次第です」というお気持ちはとってもよくわかると同時に、売りとなる史跡や、歴史上の有名人物がどっさり存在していて、「うちの町どうよ」と、胸を張ってよその人に誇れるもの=財産を持っている会津はほんとうにいい所だと思います。しかもそれらをわざわざよそから見に来る人が多いなんて、ほんとにうらやましい♪ そして、そういう「自分たちの町の歴史」が、「自分たちの町寄りの歴史」になってしまうのは、ある程度はもう普遍的な、致し方ないことだとも思います。「親バカによる我が子自慢」とかと、根っこの気持ちは同じなんですから(^^;)

二本松の悲劇は本当に、もっともっと知られてもいいと思います。
(という私自身が、会津に越してくるまで知らなかったのですが(^^;))
今回の八重の桜で広く知られて、賑わうことを願っています!

Re: 無知ですみません。

かずさんこんにちは。コメントありがとうございます。
私の方こそ、会津についてはいまだに知らないことばかりで(^^;)
かずさんから見たら、きっと色々初心者丸出しなこと書いてるんだろうな~という気がして恥ずかしいです(*^^*)

いただいたコメント、拝読しながらうんうんうなずきっぱなしでした!

雪の鶴ヶ城・・・ほんとに、神々しいほどキレイですよね~~~♪
しかしそこで引越しされる行動力すごいです!!(@o@))

ご実家の方は、震災大丈夫でしたか?
浜通りから会津に避難してきている方々、今も大勢いらっしゃいますが、会津での避難生活は二重三重に大変なんだろうな~と、お母様の言葉で改めて思いました。
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