そんな時代もあったねと

嫌いだ嫌いだと言いながら、小林よしのりの本はほぼ読んでいるワタクシ
もともと「ゴー宣」はぴゃーぽ君がいた頃から読んでいて、特に「脱正義論」なんかは、それまで読みながらどーにも引っかかっていたあたりを、よしりん自ら自己批判してまで言及してくれたことに、ほんとに感動した1冊だったのですが(まさかその反動であの「戦争論」に行ってしまうとは)、今では「敵」の考えを知るため、及び自分と「敵」の相違点を知りたいために、見かければ買って読んでます。

しかし村上にいた頃は古本屋さんが、ハードオフとオフハウスと一緒になってるちっちゃ~いブックオフしかなかったので、やむなく本屋さんで定価で買って悔しい思いをしてたのですが、さすが大都会・会津!ブックオフが3軒もあって、よしりん本も充実の品揃え。

というわけで、こないだは「昭和天皇論」と「個と公論」を見つけたんですが、その「昭和天皇論」を読んでたら、本のテーマとは関係ないんだけど、今読むからこそしみじみと印象深かったことがいくつかあって。
あ、今回はよしりんの悪口はありません
(と言いつつ一言だけ悪口言わせていただくと、「個と公論」は昔読んだことあったので再読だったのですが、う~んやっぱり、今読んでもひどいわ 同意する部分もあるんですが、それを上回る反論したい部分がテンコモリすぎてということで悪口終了)

「昭和天皇論」の中に、「昭和天皇の御巡幸」という題で、終戦後、昭和天皇が北海道から九州まで全国行脚した様子を描いた1章があって。
8年間にわたるご巡幸の第1発目は、昭和21年、神奈川県・昭和電工川崎工場だったそう。
なぜこの工場だったか、それは当時、食糧増産に最も必要な化学肥料・硫酸アンモニウムをここで生産していたから。

今でこそ「化学肥料なんてとんでもない、しかも硫酸!!もってのほか」「安全・安心できる食べ物でなければいらない」と言える世の中になりましたが、上野駅に餓死者が並んでいるような当時は、化学肥料こそが人々を救ってくれる、心底ありがたいものだったんでしょうね。
私は主に昭和50年代に子供時代を過ごした世代ですが、その頃「化学肥料」や「公害」とかはまだ身近に、日常的にあるものという感覚だった気がします。川と言えばメタンガスボコボコという常識を持ってたり まあキューポラのある街でしたからね~。
それでも、高度経済成長の負の側面である「公害」はだいぶ言われるようになってきてたかな。でも今のように「有機栽培」とか「無農薬」へのこだわりは、まだそんなになかったような感じ。
「衣食足りて礼節を知る」じゃないけど、その頃って、ちょうど高度経済成長が終わりを告げ(だから「公害」を堂々と言えた)、物不足が解消されて、次は品質の安全・安心が至上の価値として求められる時代の一歩手前(だから「化学肥料」や「農薬」はまださほど言われなかった)だったような気がします。

私にはこれが、現在の原発事故とも非常にかぶるんですよね。
そりゃ安全に越したことはないけど、今こうなった以上、化学肥料ならぬ多少の放射性物質を云々しても仕方がないと、福島の苦境を日々メディアで見ていて、かつ化学肥料漬けの野菜食べるのが日常だった時代の価値観が残っている私とかは思ってしまうんですけど、生活の場が震災・原発の影響から遠ければ遠いほど、そして安全・安心至上主義である現代の価値観が当然であればあるほど、現状は受け入れられないんだろうな~と。
時代の価値観って、けっこう個人の内部に入り込んでるもんですよね、知らず知らず。
そして原発もそうですけど、現代では忌み嫌われる「化学肥料」とかも、当時は天皇陛下が激励に訪れるほど、多くの人々を救ったんだ、そういう時代もあったんだというのを、まるで自分がアンモニアになった気分で弁護したくなったという。「だからこれから化学肥料を使え」とか言いたいわけではまったくなく、単純に「時代によって悪玉にされてしまうのが気の毒だ」と言いたいだけですが。

さて明けて昭和22年8月。
真夏は静養の予定だったのを、昭和天皇があえてとご巡幸された行き先は、東北6県。
これは先の川崎工場と同様、「食料増産」がキーワードです。折りしも東北は前月に大水害に見舞われ、巡幸する身も案じられたそうですが、この食糧増産という「緊急の課題」が達成されるか否かは東北の夏にかかっている、それゆえに激励したい、という天皇陛下の強い御意志で。
東北6県は、終戦後の日本を根本から支えてたんですね~。

そして、この東北巡幸は福島から始まりました。
福島県・常磐炭鉱。天皇陛下は地下450m、気温40度強の坑内へ、ネクタイ背広姿を崩すことなく入り、抗夫たちを激励された由。
なぜ常磐炭鉱へ?それはここは全国出炭量の4割を誇る炭鉱であり、当時は「日本の再建は石炭から」と言われた時代だったから。
ああ~私の父ことじーちゃんとかも、当時こうした石炭を使って、満州製鋼仕込みの腕で(?)鉄をガンガン作ってたんだろうな~。高度経済成長がカンペキに終わった昭和50年代中頃には「鉄冷え」と言われ、傍目にも落ち目産業だったけど、そして鉄より一足お先に石炭業界は逝ってしまったけれど、戦前戦後を支えたのは、まさにこうした人たちだったんだよな~。時の無常。

昭和天皇が来てくださったこの常磐炭鉱も、時の流れには逆らえず、昭和の時代に終わりを告げましたが、何を隠そうこの炭鉱の転身した姿こそが、現「スパリゾートハワイアンズ」です!

って今更ですか?ですよねえ~ 映画「フラガール」とか、まさにそれを描いた名作もありますし、福島県民には周知の事実かも。
しかしその映画の存在すら知らず、「常磐ハワイアンセンター」を「大磯ロングビーチ」と勘違いして覚えていたほど無知な私は、最近福島民報で知ってビックリでした

天皇陛下ご巡幸から20年弱、もはや石炭の時代は終わり、炭鉱の閉山が目前となった昭和40年。
新たな収入、及び炭鉱労働者たちの雇用確保のため、常磐炭鉱副社長であった中村豊氏の決断により、当時炭鉱で大量に湧き出て抗夫たちを悩ませていた温泉水を、まさに逆転の発想で利用した「常磐ハワイアンセンター」オープン。
当時の「ハワイ」と言えば「♪ああ憧れのハワイ航路」。「ハワイのどこ行ってきたの?オアフ島?マウイ島?」なんつー現代の会話は、当時ならきっと意味不明、どころか「リゾート」なんて言葉すら聞いたことなかった時代。雇用創出のためとはいえ、あまりと言えばあまりに想定外の転身ぶりに、当初は炭鉱労働者の間にも反発続出、先行きすら危ぶまれたそう。
しかしその後、高度経済成長とその終焉、時代を彩ったアイドルたち、バブル景気とその終焉、ネコも杓子もハワイへゴー等々、時代の波に浮き沈みしつつ客足を伸ばし、「常磐ハワイアンセンター」から「スパリゾートハワイアンズ」へ、そして先の震災すら乗り越え、先ごろ新ホテル棟「モノリスタワー」とともに、ついに全面再開したのはご存知の通り。
(しかしあのCM、キレイなフラガールに混じって唐突に出てくるアダモちゃん2名はなんだったのか

戦前~戦後の復興を担いつつも、時代の前に力尽きて消えていった常磐炭鉱が、今や福島・浜通りの復興を先導する「スパリゾートハワイアンズ」としてここに健在というのは、なんだかやっぱり、うれしいです
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