BELIEVEとTRUST

もはや「安全」か「危険」かではなく「安心」か「不安」か。というより「信じる」「信じない」という宗教レベルになってきた感のある放射能騒ぎ。

「不安」な人が「安心」するのは、他者と不安を共有できた時だけ、とよく聞きますが、なるほどそうなんだろうな~。でもその場合、「安心」して「不安」でいられるっていう逆転現象になっちゃって、大本の「不安」は解消されてない、ていうかむしろ補強されちゃってますけど、いいのそれで?
いいんでしょうね~きっと。「安心して不安でいられる」っていうのは、「不安を感じる自分は正しい」って信じられることだから。つまり「不安」を感じている人は、別に「安心」したいんじゃなく「自分を信じたい」だけなんですよね。

こういう「不安な人」から見ると、私ら「安心している人」っていうのは「政府に騙されている人」「信じてはいけないものを信じている人」になるんでしょうけど、違いますよ~~。「安心している人」は別に政府を信じているわけじゃなく、あなたがた「不安な人」同様、自分を信じているだけですよ~。

というか、安心して不安がってる人がよく言う「政府は信じられない」。
これを聞くたび、この人たちは今までどんだけ政府を盲信していたのかと、逆にその信仰心に恐れ入ります。前にも書いたけど、私は「お上は信用するもんじゃない」が当たり前なサヨク体質だったので、「何を今更」としか。
今頃これ書いてもいかにも後付けですが、この比較的「安全厨」な私は、3月頃は「絶対メルトダウンしてる」派で、ネットにそう書いたら「危険厨」と呼ばれたもんです。だって今でも覚えてますけど、あの「海水入れるなんて前代未聞」「でも入れないと燃料棒が溶ける」ってんで、水入れ始めて2日後、水位がいまだに燃料棒からマイナス20cmだったんですよ。てんやわんやの空気の中、どこのTV局だったか、プレス向けに配られただか何だかの資料で、各号機の現在の水位として表になってるのを、TVカメラにアップで映してました。
「前代未聞」でもせずにはいられないってほど緊急措置だった海水注入だったのに、2日間その水で冷やせてなかった。千何百度だか何千度だかの燃料棒が。「情報が隠されてる」とか「専門知識がない」とか以前に、今出てる情報から普通に考えれば、普通に溶けてるとしか思えないでしょ(しかしあんなに早く溶け落ちてたとまでは想像してなかったけど)。

というわけで、「メルトダウンしてた」なんていうのが後から出てきた時も「だまされた!」なんてはまったく思わず「あ、やっぱり?」
これが当時「いいえメルトダウンは絶対してません」とか「さっき報道された水位マイナス20cmは「満タンに入ってる」の間違いです」とか言われた挙句に「メルトダウンでしたー」だったら「だまされた!」と思ったかもしれませんが、そんなこと言ってませんでしたよね?ヤバイ数値はヤバイままちゃんと出してたし、「メルトダウンしてるかどうかはわかりません」みたいな感じだったかと。ま素人が普通に考えても「メルトダウン」なんだから、向こうはとっくに確信してたんでしょうけど、裏づけないまま「メルトダウンしてます」とは言えないし、言いたくないわよね。こういう、本音と建前ギリギリの会話って、日本人の得意技ですけど
だいたい東電の隠微体質なんて、今に始まったことじゃないことくらい、基本「原発反対」なサヨクには常識ですから。それでこんな大事故が起こったら、それはもう情報開示は遅れるでしょう。遅らせようという意図がなくても、あの仕組みじゃ遅れて当たり前だし、意図があればさらに遅れます。大事故だからこそ、うかつなことを裏づけなしで言えませんしね~。別にいいことじゃないけど、それが「東電は信じられない」になるのは、なんかこう「何を今更」と「だからって全拒否してたら、それは全部信じるのと一緒だ」という思いが。

政府もそうです。特に若い頃は今よりもっと「反体制」な考え方だったので、お上=「庶民としてはもっとも信用してはならない組織」「庶民と対立するための、悪意の塊」ってな位置づけだったけど、年取ってくると「結局「政府」とか言っても、自分らと同じような人間が作ってる組織の1つに過ぎないんだよね」と、しみじみわかってくるというか。なので「国民の生活のために」と本気で考えてると同時に、「立場の違う国民への影響」やら、組織の人間としての「保身」やら、組織としての「仲間意識」とか、少しでも利益を出そうという「金勘定」なんか色んなもんが絡み合って決定してるんだなっていうのが、自分も会社とかPTAとかで実感する分(って規模が違いすぎですが、逆に言えば規模が大きくなればなるほどそうだろうな~と)よくわかって「仕方ないな」となんか納得してしまうというか、その絡み合った中に、すべてではなくても「国民の生活のために」も確かにあると信じることが出来るというか。

その意味で、私は政府や東電を信じてるのは確かです。ただそれは「不安」な人が言うように「全肯定(さもなくば全否定)」みたいな信じ方じゃないんですよね。そんな信仰の対象みたいな信じ方は、体質的にできません。「信じる」と「正しい」は別モンです。
そう、裏を返せば「不安」な人の「信じる・信じない」って、とっても宗教的ですよね。なんか、「政府は全部信じられないから、他の全部信じられる対象を見つけてすがる」みたいな。そうしないと自分自身をも信じられないとか。
まあ政府や東電も信じられるっていうのも、平たく言えば自分を信じているからですけど。自分も政府や東電の人間も同じ人間で、同じ人間である以上、することはそう変わらないだろうという、人間や世界に対する信頼感というか。この信頼感っていうのは、ステキな意味だけじゃなく、人間にはゲスい部分もあると信じるっていうのも含みます。なので、情報が出てこないだの隠してるだの言われても、「まあ出てこないのは当然と言えば当然だよね」とか「いや隠してるというか結果的に隠してることになっちゃったって感じじゃない?」とかで、あんまりこう、「怒り」に結びつかないんですよね。素直に「反体制」だった若い頃なら、鬼の首取ったかのように「ほらねこれだからお上は」と嬉々として怒ってたかもしれませんが。

何でもかんでも情報開示っていうのもどうかと。とりあえず「水位マイナス20cm」とか「基準値超えの野菜が」とか、政府的にマズい情報や前言撤回も、速度の差はあれ一応マスコミで報道されてますよね。これ以上の情報開示を求めるっていうのは、この先の見えない状況の中では、精度の低い情報&後から「こないだのは間違ってました」がどんどん増えるってことになるんじゃないの?そんでそのたびに振り回されて大騒ぎしたり、「また間違いかよ」でますます信頼失ったりで、あんましいいことばっかじゃないような気がするんですけど。

しかし一方で、私みたいに中途半端な理解を示すんじゃなく「全肯定さもなくば全否定」くらいの勢いで「情報開示」とかを求める方が、世のため人のためになるのかもな~と思う面も確かにあります。ただ行き過ぎると、周りまわって全員の首を絞めませんかと。ましてやその効能だけを見て「正義だ」とか言われると。薬の効能と副作用は同類なんですから。

と言いつつ、私も例えば某大阪市長なんかに対しては、こいつの言うことだけは信じられない、いや信じない。たとえどんなにいいこと言ってても、それが言ったとおり効果を発揮しても信じるもんかー!とか思ってますけど いいこと言えば言ったで「人心掌握のためだから余計危ない」、効果を発揮したらしたで「賛同者が増えるから余計危ない」、こういう奴を少しでも信じたら5年後が危ない、1歩譲歩すれば5歩譲歩せざるを得なくなるんだからって、まるで「放射能の健康被害」や「ガレキ受け入れ」を案じる危険厨と同じ理屈ですね
そんなに危険と思ってない人は「今までの状況や情報を考えれば、そんなことにはならない」と心底思えますが、危険と思ってる人には「絶対避けたい最悪の状況」がマザマザと浮かんでるので、そこに至る(かもしれない)すべてのルートを断ち切っておきたいんですよね。某大阪市長危険厨のような戦後民主主義サヨクにとっては、そうしてルートを断ち切ってきた結果ってのが今現在で、その結果、この未曾有の混乱時代でも、お上も下も民主主義精神を発揮して、すべての顔を立てて穏便に解決しようとようと思うからにっちもさっちも行かず、逆に独裁者を待ち望む雰囲気までできてきそうという、まさに自分の首を絞めた状態に。う~んこれはやっぱり「民主主義の行き過ぎ」状態なのかしら?でも行き過ぎを是正するあまり反動に行ってしまうなら、まだこのままの方がいいわ。
ってこれじゃまさに「大して危険でもない関東から沖縄まで逃げた挙句、青森の雪すら拒否する放射能恐怖症」の人たちですね しかし1つだけ言い分けさせて頂ければ、大阪市長は人間で、人間のやることはわからない、人間が集団になったらさらにどうタガがはずれるかわからないけれど、撒き散らされた放射性物質はその点、数字やデータでわかる、ウソもつかず感情もない、つまり予測や対策が、少なくとも人間相手よりは取りやすいんじゃないかと。「やっぱり一番怖いのは、幽霊じゃなく人間だね」みたいなありがちなオチで恐縮ですが

あ、その数字を扱う人間が信じられない?それはそうですよね~ ゲスな部分のない人間なんていませんし。ただ小説やマンガでもそうだけど、わかりやすく悪いことするキャラなんて出てくると、リアリティがなくなるんですよね。そういうのはよっぽどうまくやらないと、社会はそれを簡単に許すような仕組みにはなってませんから。独裁者は待ち望む人間がいるから出てくるけど、放射性物質は誰も待ち望んでないので、存在が許される幅も自然と狭くなってると思います。
あ、それとも「効能と副作用」の境目がない数字そのものが信じられない?それもま~そうですよね~ もともと飲む必要なんかない薬ですもんね放射能なんて(しかも薬ですらない)。しかしやっぱり、世の法則として、大量ならダメだけど、少量ならOKというものだらけだと思ってしまうんですよね。別に好んで摂取することはないけど、ちょっと摂取したからってどうということになるなら、人間の体内に放射性物質なんか存在してないわいとか。少なくとも青森の雪とか岩手のガレキなんて、放射能的には問題にならないレベルでしょう。

こう考えると、自分がいかにも基本的に人間社会を信じていて、自分の運の良さを信じていて、運命として受け入れてるような気がしてきますが、う~んそうかな~?人間社会なんて、あんなナチスなんて怪物を生む可能性もあるんだからっつって信じられないし、自分や家族がいつどこで死ぬかなんてわからないとも思うし、戦争とかなんてとっても運命として受け入れる気はないけどな~。やっぱり最後は「コーヒーは好きだけど紅茶は嫌い」みたいな、趣味の問題なのかしら。それにどこまでこだわるかっていう性格の問題なのかしら。それとも「BELIEVE」と「TRUST」をごっちゃにしてるだけかしら?

そういえば、ガレキ受け入れ反対集会(?)にて、皆で「ふるさと」合唱みたいな話も聞きましたが、むべなるかなです。郷土愛≒地域ナショナリズムであり、ナショナリズムってエゴですから。だって自国の人間が生き延びるために、他国の人間を殺すのも厭わないのが愛国心なんですから。愛国心は美しいってんなら、地域ナショナリズムだって美しいです。「ふるさと」は「君が代」です。自分の子供が助かるためなら他の子は知らんっていうのも美しい母性愛です。エゴは美しいんです。

だから「真善美」とか嫌いなのよ。エゴはエゴでいいじゃん。こういう「美しいエゴ」を否定して「エゴは確かに醜い。でもその醜いものの存在も認めないとイビツになる」という立場だったはずのサヨクが、なんで簡単に「美しい」と正当化する方に行っちゃうのかしら。まあムキダシのエゴで争うよりは、まだ醜くないかな~?ますます醜く見える気もするけどね~。もちろん、醜いエゴの中に、誰かにとっての「真善美」が含まれているのもまた確かな以上、「美しいエゴ」も全否定はできませんけど。そして、そうしたエゴを言い訳も正当化もせず貫く人は、確かに「潔い」という美しさがあると思う時もあります。けどそうじゃなく、自分のエゴを無条件に正義として、仲間を募って集団の力でエゴを貫くっていうのはね~。どうなの?なんてこと言うと、民主主義の否定かな~?アナーキズムになりかねないかな~?でも「自分にエゴがあるように、相手にもエゴがある」ってのが民主主義の出発点だと思ってたんだけど。

という具合にぐるぐる考えたものの、結局また青臭いだけで新たな発見はありませんでしたという
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テーマ : ひとりごと - ジャンル : 日記

コメント

No title

ふっふっふ。わかりづらいけれどまっとうなご意見だと思いますよ。

Re: No title

コアラさん、IMAのコアラさんですか!?
わ~こんにちは!コメントありがとうございます♪

わ、わかりづらいですか、やっぱし。。。(汗)
もうちょっと文章に気を使わないとダメですね(><)
でも「まっとう」と言ってくださってありがとうございます。安心しました。
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