TVの一人称

本屋さんにある「3.11震災」「原発」関連コーナーって、今まであんまし手に取る気になれなかったのですが、そろそろ1年近く経ったせいか、最近ふと買ってみようかなと、思い立ったら弾みがついてドカドカっと3冊

「福島県民23人の声」歴史春秋社←会津のローカル出版社です
「記者は何を見たのか」読売新聞社←読売新聞の記者78人
「僕はしゃべるためにここへ来た」笠井信輔←ご存知フジテレビアナ

一気に読んじゃうと、ついついどれが一番面白かったか順位を付けたくなってしまうのが悪いクセ
この中でどれが個人的ベスト1だったかというと・・・

まず「福島県民~」は、地域も世代も職業も違う福島県民23人の聞き書き。
う~んやっぱしねえ。ある程度長さがあると、キレイにまとまっちゃうんですよね~。
福島民報に、震災以降毎日載ってる「ふくしまは負けない」(=福島で頑張る人々を毎回1ページ中3~4人紹介するコーナー)とか、あるいは「公式本・LIVE福島」に載ってる各会場のお客さんコメントとかの方が、大量かつ短い分インパクトがあるというか、個人的にはそちらの方が印象に残った言葉は多いです。
とはいえこういう体験記録は本当に貴重ですし、こういう取り組み・世界があったのかと、初めて知るようなことも多く、何より23人それぞれの「進んで行こう」という意志とか行動力は、やっぱりある種の感動を呼び起こすことは確実。

これは、出版も福島、登場人物も福島ということで、個人的に他2冊とは違う特別枠なので、ランク付けから除外します。
で、問題の「新聞vs.TV」「読売vs.フジ」ともいうべき残り2冊なんですが・・・

はっきり言って、カサイ圧勝です!(くれぐれも個人的主観です念のため)
読んで1ヶ月、この心への残り方は圧倒的。
口調はタレント本みたいだし、字は大きいし(字が大きい本=バカが読む本という偏見が)、そもそもカサイのこともあんまし好きじゃないんですが、読んでよかったと思う本でした。

「記者は何を~」
これはまず表紙の写真がインパクト大。おかげでこの本に手が伸びたようなものです。本文にこの写真を撮った人の体験記も収録されてますが、国際報道写真フェスティバルでも評価されたそう。
なんかこう「心を掴むな~」と「あざといな~」のさじ加減が絶妙な写真なんですよね。いかにも「報道」な性質っていうか。
中身は78人の記者が、東北で、首都圏で、官邸で、それぞれ見聞きした体験記。被災地に赴任していた記者、遠い支局から応援に入った記者e.t.c.まえがきにありましたが、東北など遠い支局に配属されるのは、比較的若い記者が多いらしく、その分純真で、「ただ涙がこぼれた」「うれしかった」等、普段は絶対に紙面に出ない記者の素朴な感情も随所に挟まれていて。
にも関わらず、この読み心地は新聞そのものです。本当の新聞じゃない分「なるほど新聞ってこういうもんだな」と余計に思わせるというか。
たぶん一人称を極力省いた、新聞記事仕様だからでしょうかね~。いやほんと新聞記者さんって、こういう体験記でも体質的に「私は~」って使いづらいのか、出てくる人称はほとんど「○○さんは~」「△△が~」。おかげで「記者の体験記」のはずなのに、中身はすっかり「○○さんの体験記」=「記者の見聞記」です。ガラス扉の向こうの見聞きしたことを、冷静に伝える記事。自分自身が被災者という記者ですら、どっかガラス扉を挟んでる。いやそれはそれでいいんですよ。新聞ってそういうもんですから。むしろこういうとこからも「ああこの人たち、骨の髄まで新聞記者なんだな~」なんて好印象すら抱いたり

さて翻ってカサイの方は。
「僕はしゃべるためにここへ来た」っていうタイトルは、「しゃべるために来たから、現地でこうせざるを得なかった」と「しゃべるために来たのに、しゃべれなかったことがこんなにいっぱいあった」のダブルミーニングだと思うのですが、文字どおりしゃべりまくってます 「私は」「私は」という一人称の嵐で、「記者は何を見たのか」が、タイトルどおり「見た」ことに終始しているのと好対照。
思えばTVリポーターっていうのが、三人称の新聞とは違い「え~今私は○○に来てます」って、のっけから遠慮会釈なく一人称ですもんね それでカメラをぐーっと近づけるように、「私」と「視聴者」の距離をぐーっと縮め、同化させる=「視聴者」に「私」を通して疑似体験させる。
ガラス越しに神の視点で俯瞰するのが「記者は~」なら、ガラス突き破ってでも1点にズームしていくのが「僕は~」。カサイにグーッと寄ってって、カサイの主観を通して、私たちも被災地を体感するという。

被災者の様子、描写はもちろんあるんですが、メインはそこから出てくる「報道と人情の葛藤」です。「僕は被災地で何を思い、何をしたか(あるいはしなかったか)」
幸運にも被災を免れた大多数の外野(私含め)は、いっくら「被災者の思いや状況を知りたい」「自分が被災したらどうなるのか知りたい」と思い、上記のような「記者は~」といった被災者の体験を伝える本や新聞を読んでも、せいぜい追体験もどきができた気になるくらいで、実際のとこはわからないんですよね、残念ながら。
私たち「外野」が、実際に被災地と関わる時は、おそらく多かれ少なかれカサイのようなスタンス・体験にならざるを得ないので、「記者は~」よりリアルだったのかもしれませんが、それがリアルに伝わったのは、カサイの視点=個性、及び書き方=一人称の力が大なのではと。

例えば、記者の衣食住という、紙面や画面には決して出ない、けれど一番重要なこと。
これらをカサイが「すごく寒かったからああしたこうした」とか「僕はこれを2個食べた食べない」などと、あくまでも自分のことを、一人称全開でしゃべればしゃべるほど、「そんじゃ避難所はどんだけ寒かったんだろう」(これ読んでいる今が雪降ってる時期なので、余計に「そうだ。あの時寒かったんだよな~」と思い出され)とか「これじゃ被災者の腹ペコ具合はハンパないわ」といった具合に、被災の様子がより切実に、「記者は~」で「暖房はなかった」と新聞口調で1行書かれるより数段、体感としてリアルに伝わってくるんです。「TVのズーム映像に、新聞記事は負けた」って感じでしょうか?

もちろん、私ら外野とは直接関係ない、報道ならではの悩みや葛藤も出てきます。
「食べ物を分けてくれ」「車に乗せてくれ」「サインをくれ」またこれは阪神大震災の時だそうですが「目の前で消火活動しているのに、自分はここでリポートしているだけでいいのか」e.t.c.
ん~自分だったらどうするかな~?「1人にあげると全員にあげなきゃいけないから却下」あるいは「「しゃべるためにここへ来た」んだから却下」かな~?(←これはカサイ本にも、「記者は~」にも、自己弁護のように何回も出てきます)
しかしさすが本職の論理は、そんな甘いもんとはワンランク違う!
「「フジテレビはしてくれたのに、○○テレビはしてくれない」てな噂が出回ったら他社に迷惑!」
「やるならカメラマンも一緒にやれ!カメラの前でやるのは「えせジャーナリズム」だ!」
プロですね~。この頃「マスゴミ」とか罵られてますが、こうしたプロ意識がきっちり培われているのは、やっぱり根本的に信頼しちゃいます(報道内容を信じるとかじゃなくて「根本的に」ね)。

けどこうした悩み・葛藤って、ネタを変えれば、わりと私らの日常にある、普遍的なことですよね。
こういうふうに、読んでて自分にフィードバックする割合が、「被災者に寄り添い、見聞きし感じたことをありのままに伝えよう」を真摯に実行した「記者は~」より、極めて個人的なことの書き連ねであるはずのカサイ本の方が、結果的に多くなってるのは皮肉です。というかカサイの視点の良さでしょうねやっぱし。あ、もちろんカサイも「被災者に寄り添い、見聞きし~」は貫いてます念のため。

さらに念のためですが、個人的にはこうしてカサイ圧勝ですが、「記者は~」も決して悪い本じゃないです。
被災地の様子はもちろん、あの日の官邸から、トモダチ作戦に参加した海兵隊員の様子、ドイツの偏向報道ぶり(対して英国BBCはわりと多角的という印象だったそう)、ニュージーランド地震の土木関係報告会で集まった専門家が、あの揺れを体験してなおかつ「大したことないから続けよう」と言ってた等々、被災地にズームインしていないゆえのルポも同時に読めて、それぞれたいそう興味深いです。
ただ、いかんせん紙面のように破綻なくまとまってるので、取材中にいくつも現れる個人的葛藤を、答え出さず(出せず)ぼーんと提示したまま置き去りのカサイの方が、自分に直接はねかえってきて、より心に残ったということで。

というわけで次回は、ここら辺の「答えのない葛藤」から、特に印象に残ってることを。
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テーマ : ひとりごと - ジャンル : 日記

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