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福島野菜にまつわる青臭い雑感

引っ越してネット環境が整った頃、うっかり「福島野菜不買運動しよう」みたいなのを見てすっかり不快になって以来、精神衛生上なるべくそういうのは見ないようにしていたのですが。
子供らの2学期が始まってヒマな時間ができた時「そういや最近ああいうのはどうなったろう」と、またまたネットでのぞいてしまい、またまた不快になった今日この頃。だから見なきゃいいのに
最初の時は「会津は関東と同じくらいなのに、何で「福島」ってことで一緒くたに叩くのよ」という不快感の方が強かったのですが、その後カルチャーパークや科学館で楽しんだり、期待していた郡山ジャスコが意外と古かったことにショックを受けたり、アクアマリン行ったりしているうちに、会津がどうとか以上に、福島全体への愛着が湧いてきて。その裏返しで、そういう叩きが見るに耐えなくて。

と言っても個人的には、福島の野菜を買わないという選択自体は、別に責められることじゃないと思います。まあ放射能に対してそこまで神経質にならなくても・・・とかは思いますが、これは私がズボラな性格だからそう思うだけかもしれないし、不安な気持ちはわかりますしね。
輸入物は買わないとか、服はプラダに限る(そんな人いるのか?)とかと同じで、買いたいものを買うという個人の自由の範疇では?と。

ただね、それと叩きは別です。買わないなら買わないでいいのに、なんで困ってる状況の人をさらに叩かにゃならんのか。私には理解不能です。理解できないから怒りと悲しみがこみ上げます。
原爆で家を焼け出された「はだしのゲン」が、幸運にも安全だった町で部屋探しをするも、「ピカを受けてる奴は迷惑だからダメ」と行く先々で断られ「ここら辺の奴らは冷たいのう」と文句を言うエピソードがあるのですが、ゲンの母ちゃんがそれに答えていわく「どこも同じよ。みんな自分がかわいいからね」「だけど母ちゃんは日本人のいやらしさをつくづく思い知ったよ。弱い者を見つけるとようしゃなくいためつけるいやらしさをね」
自分がかわいいと言われると、私も「ごめんなさい」なので何とも言えませんが(ここら辺はもう、自分の命のために他の命を取る宿命を課せられた生物の性とあきらめてるというか自分に許してます)、その次はもう、ほんとそうだと思いました。ま日本人限定なのかはわかりませんが(それこそどこも同じだとも思う)。
ううう、日本人はこんなに豊かになっても変わっとらんわい、ばかじゃ、ばかじゃ、ほんとに人間は進歩しないわい、ううう。
はっゲンに憑依されてしまいました。それはともかく、そういうネットの中でもひどい部類のを見て、ほんとに、怒り悲しみゲロ吐きたいくらいの不快感に襲われてしまったのです。「毒野菜を持ってくんな迷惑。福島なんか捨ててどっかの過疎地でも行け土人」とかさ。いやあんたの言葉も相当毒なんだけどわかってる?私なんか感染しやすいから、あんたの毒が私の中でダークマター化して、「この脳天ド腐れ外道が」とか憎しみの毒電波放射してますよ すっごい迷惑なんですけど~!
そんな小学生の悪口、気にしなきゃいいのにねえ。つか気になるなら見なきゃいいのにねえ時間のムダ以外の何物でもないわ。
しかしせっかくの自由時間に、わざわざ自分で見に行って勝手に怒り悲しんでる自分のバカさ加減を思うにつけ、そんなことに気がつかせるあやつらがますます憎いわ
というわけで、自分の解毒作用のために、ここであやつらを分析してこきおろすことにしました ああなんかますます時間をムダにしている気がするわ・・・

1.やつらはネトウヨ説
ってもう、どんどんどうでもいい話になってる いや私はサヨク体質なので、嫌いな奴はみんなネトウヨにしちゃうという たぶんウヨクはウヨクで、こういうアホな福島叩きをするのは反核左翼団体だみたいに思ってると思いますが
たぶんどっちも正しいんでしょう。要するに、自分の主張を通すためなら相手の事情なんかおかまいなしというのは、何か行動するにあたっては若干必要な要素で(いちいち相手の事情を慮ってたら何も進まないって場合もありますからね)、行動の最先端(=極端)に行けばいくほどその要素の割合が増えてくるんだから、こういうやつらはどっちにもいるってことです。主張が違うだけでやってることは同じ。
じゃなぜネトウヨかって言うと、その叩くことにかける情熱の強さに、なんか若さを感じるんですよね。
たぶんこういう人達、40年前なら全共闘に行ってたんだろうなとか、小林よしのりの「戦争論」以来出現したネトウヨをネットで見て、ずっと思ってたんですが。オウムが朝生に出た時、野坂だか大島だかが「君たちはあの時代なら全共闘に行ってただろう」って言ってたのと同じ感覚で。
私なんかはもういい年なので「自分はもうここら辺でいいや」と、ある種あきらめたことで自分のあり方とか、周りを取り巻く環境・共同体とか、そういうものを受け入れて安定しているわけですが、若い頃はそんなふうにあきらめて受け入れるなんて時期じゃないですもんね。自分を受け入れてくれない既存の体制にはNOと言い、自分のあり方に満足できない時は、その鏡でもある周りを叩き、叩くことでそれより上に行った気になる・・・ああ若い頃ってそうだったよなあ。相手も自分と同じなんて実感できないんだよねえ。
全共闘の時の主役は腐っても大学生、小難しい本を読んでからじゃないと参加できないみたいなとこもあったみたいなので、叩きも小難しくて便所の落書きみたいなのは免れてましたが、「戦争論」は若年層向けマンガってこともあって、裾野が大幅に拡がったんですよね。その分、もう下品としか言いようがないゲロみたいなのが大量に(って私も下品だな
と、そんな印象をずーっとネトウヨに対して持ってたので、今回の叩きもそういう「若さゆえ」のやつらが、叩く材料をあてがわれて嬉々として叩いてんのかなと思ってました。
なので「福岡の出店拒否」みたいなのも、さぞかし福島叩きで盛り上がってんのかな~と思ってのぞいて見たら(←そんなのわざわざ見に行くからダークマター化するのよ)、意外や意外、福岡叩きが半分くらいで、しかも福岡叩いてる方がネトウヨっぽく見えるのはどうしたわけか(しかしこの叩き合う構図は、ほんとに切ない)

ここで2.罪悪感過多な方々
以前ふと「満員電車で老人(とか妊婦とかいわゆる「弱者」)に席を譲らない人達は、実はすっごく善良な人なんじゃないか」と思ったことがあったのですが。
すっごく疲れてるとか体調が悪いある日、満員電車に座ってたら目の前にヨボヨボ老人が立っちゃった。
こんな時、私なら「ああごめんなさいねえ。譲ってあげたいけど私も疲れてて、立てるけど立ちたくないのよね。今度元気だったら譲りますから許してね」とか思って、居心地悪いまま座ってると思います。その居心地悪さに耐え切れなかったら立つかもしれないけど(なるべく降りる駅の近くで
私は上にも書いたように「自分はもうここらでいいや」なとこに安住してるので、「ごめんなさいね」とか思っても、あまり真剣に申し訳なく思ってないんですよね。いや相手も辛いだろうなとは思うけど、今度譲るからとか、相手の直接の利益にはならなそうなこと思って、罪悪感をどっか勝手に解消してる。
一方、本当に善良な人は「譲らない」という罪悪感に耐えられないのかな、と。
ネトウヨが相手の痛みおかまいなしだったのに比べ、こちらの場合は相手の痛みがわかりすぎるほどわかってるのがポイントですね。相手の痛みを理解し、善良な倫理観をしっかり持っているからこそ、自分の「悪」を許せない。
しかし、なおかつ譲りたくないという自分の「悪」を手放したくない時はどうするか。
相手がもっと「悪」ならオールOKになるんですね。相手の方が「悪」なら自分の「悪」は見なくて済む、自分は「善」のままでいられる。
という理由から、「なんで自分の前に立つんだよ」「座りたいなら座れる時間に乗れよ(自分はそのために努力しているのにという補強がつくこともあり)」と自分を正当化するために必死で相手を悪者にし、果ては「だいたい何で「弱者」だからって譲らなきゃいけないんだ」「先に座った者に「権利」があるだろ」と、権利と倫理の争いになったあげく、せっかく持ってた倫理を捨てるとこまで行ってしまう。もうここまで来ると、目の前に立ってる、もしかして譲ってくれなんて少しも思わずただ突っ立てるだけかもしれないヨボヨボ老人は「弱者の皮をかぶった悪の権化」一歩手前です 弱者の皮じゃなく、自分が生み出した罪悪感の皮をかぶってるだけかもしれないんですけどね。

で、福島野菜を思うにつけ、ヨボヨボ=福島県民、座ってる人=叩く人、「老人には席を譲ろう」というモラル=「福島を応援しよう」という風潮、って構図が浮かぶんですよね~。
別に野菜を食べるだけが応援じゃなし、「今度は譲ります」みたいな感じで「野菜は買わないけど募金したから許してね」でいいじゃないですか(私もこれだな~。やっぱり会津産を選ぶことが多いし、募金たってビビたる額だけど)。なんでそんなに自分の「悪」が許せないの?
そもそも農家の場合、作らなきゃ補償されないという仕組みになってるからやむなく作るって面もあるわけで。「そんなら場所によっては作らなくても補償されるように訴えましょう(←あくまでも例え)。声が足りなかったら私たちも加わりますから」みたいな流れにいけば、相手も自分も悪になることなく済むのに、どうして相手を悪として叩き潰す方にそのエネルギーが向かっちゃうのかなあ。元々倫理観が強い分、叩いたって結局自分の「悪」が浮かび上がってきちゃって結局すっきりせず、ますます叩くという悪循環になっちゃわない?

と考えて思いついた3.そういう(私みたいな)「偽善」が許せない型
お前も「福島を応援します」とか言いながら結局野菜を選んでんじゃん。じゃあ俺らと同じじゃん。俺らはそういう「自分の悪」に正直なだけ。言うこととやることが違う「偽善」が一番許せないんだよ。大人は汚ねえ!
という人達もいるのかも??とか。しかしこう書くと、この型はネトウヨ型ともかぶってそうだなあ。あっちが感情発露型の小学生なら、こっちは頭で考えたことだけで世界を解決したい中2みたいな。自分に蓄積された部分から出た考えじゃなかったり、相手の事情とかが範疇になくて独善的だったりするのはどっちも同じね。

ってエラそ~~~に書いてきたら、若干毒が解けてすっきりしました。一番大人気ないのは私か?
他にもまだパターンがあるのかもしれませんが、考えるのも飽きたのでこれでまとめちゃいます
上記3つのパターンに共通なのは「純粋」でしょうかね?
いや純粋ったら私も相当純粋ですけど。「なんで人は憎しみあうんじゃ・・・ううう」と嘆くくらいですから
これを踏まえた上で思うのは、やっぱり「純粋」は好きじゃないってことです。だって純粋って、少しの濁りも許しませんもんね。ちょっとでも異物が入ったら、それは純粋じゃなくなっちゃいますから。
私の純粋さ(←自分で言ったー)も、何か根本的なことが欠落しているからとしか思えません。それが何かは、わかるようなわからないようなですが。
純粋同志だから、いちいちカンにさわるのかもしれませんね、あやつらの言動が あ~もっと大人になりたいわ。
ともあれ、排除を前提にしてやっと成り立つような純粋さは、やっぱりちょっと怖いです。と自戒をこめて。

なんだかまとまったような、大事なことを逃がしているような、そんな気がしないでもない話題でした。
あっそうそう気になったこと。はだしのゲンで思い出したんですけど、この前戦争と放射能についてとりとめなく考えた時「くるくる踊ってる人こそ戦争反対叫べたのかも」という結論に達したんですが。
やっぱりネットでも同じような意見がいっぱいあって、「放射能の危険を声高に言うとまるで非国民扱い。正しいことを言ってるのに迫害された戦争中と同じだ」みたいなのをよく見かけたんですが。
ちょーっと待ったーーー
そりゃ被害妄想でしょってのもありますが、それはさておき。
くれぐれも「自分は正しい」なんて100%信じないでよ。あなたたちみたいな人は、確かに私たちより戦争を終わらせる力はあるかもしれないけど、あの時代あなたたちみたいな人は、戦争を始める推進力もまた私たちより強力だったのよ。その危険性をわかってよ。そして「自分が正しいなら何をしてもいい」とも思わないでよ。その「正しさ」が自分限定なら尚更よ~

って、果たして人に言えるほど自分は物事わかってんのか、そして物事相対的に見れてるのか、かなりあやしいですが
そういや「価値相対主義」が「戦争論」以降(?)急激に衰退したのも不安ですね~。相対的な見方が絶対いいってわけじゃないけど(←それは絶対主義)、片目には必要だと思うんですけどね。とこれまた、自戒をこめて。
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テーマ : ひとりごと - ジャンル : 日記

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