戦争と放射能にまつわる雑感

こないだ行ってきた「かえっこバザール」。
会場の道向かいにはこんな石碑があって、目を引かれました。

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ここら辺はなぜか石碑ロードになっていて、他にも「傷痍軍人の碑」など戦争関係の碑(よく見てこなかった)や、唐突に「筆塚」も。
こんなのがあったのね~。

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この夏、特に終戦記念日前後は、TVでも太平洋戦争モノが多かった気がしました。
というか、私の子供の頃は8月は毎年そうだったのに、いっとき激減したな~(変なドラマはちょくちょくあったけど)と思ってたんですが、ここ数年は、太平洋戦争映画が作られるようになったり、TVの特集もまた増えたような気がしてはいました。
けど今年特に多く感じたのは、やっぱりあの大震災が先の戦争の記憶とリンクしやすかったからでしょうか?
避難しているおばあちゃんが「戦争中も今みたいに苦しかったけど乗り越えた」とTVでコメントしてたり、この平成の御世に「疎開」という見出しが新聞に載ったりすれば、どうしたってもう1つの「過去に例のない未曾有の大災害」を思い起こしてしまいますよね。もちろん、あっちは人災こっちは天災という大きな違いがあるので、一概には比べられないのは重々承知ですが。

ご多分にもれず私も、津波でガレキだけになった光景を見れば「空襲を受けた町もこんなだったのかしら」と、白黒写真を思い浮かべ、「在宅介護や知的障害者などにとっての避難生活」「原発最前線で働く人はみな下請け」「ハエが大発生」など、次々移り変わるニュースを聞けば「赤紙、銃後、傷痍軍人、抑留、浮浪児等々、今では色んなエピソードを「戦争を把握するキー」として1つ1つ等価値で受け止められるけど、真っ只中にいる当時は違ったのかもな」と、松谷みよこの「現代民話考」を読み返し、「がんばれ日本」「絆」といったスローガンに触れれば「「神国日本」や「国民精神総動員」も、もしかしたら上からの押し付けってだけじゃなく、今みたいに切羽詰ったところから出る自然な感情もあったのかしら」と思いを馳せ・・・と、何かっちゃあ「あの戦争の時はどうだったんだろう」と結び付けてました。
と言っても、実際の体験がないので、どうしても「埒のない思いつき」以上にはならないのですが、それでも考えてしまいます。だって戦争ヤだもん

両親が戦中派だったためか、子供の頃から太平洋戦争に興味があり、「なんでああなっちゃったんだろう」即ち「なんで戦争に向かって行っちゃったんだろう」「なんであれほどの被害を出すまで終われなかったんだろう」てのが、今に至るまで消えない疑問なんですが、かといって、当時の世界情勢や国内情勢、あるいは軍部の戦略やお偉方の人格等々を考えるのが好きなわけじゃないんです。そこら辺はもう、私の頭じゃムリなんでプロにまかせた!って感じで
私が気になるのは「当時の私かもしれない一般庶民は、なぜあの流れを形作ってしまったんだろう」ということです。それを知れば、未来=「次の流れ」を形作るのは避けられるかもしれないから。
「一度戦争を喜ぶ流れになったらもう遅いのよ」という、はだしのゲンの母ちゃんの言葉は、私の中のかなり中枢にいまだガッチリ食い込んでます。「手遅れ」だけは避けたい!!!

私の子供の頃は、「軍部がとにかく戦争をしたがった」→「皇民化教育の強化や様々な規制によって、庶民を洗脳した」→「みんなで突き進んだ」ってのが一般的な理解だったと思います、たぶん。
最近は「庶民がとにかく戦争をしたがった」→「軍部や政府がそうした国内世論に対抗できなくなった」→「みんなで突き進んだ」という理解の仕方もあるようですね。
悪者探しみたい。私は「Aが悪いんだからBは無問題」で安心したいわけじゃないのよ。あえて言えば「どっちも正しい」としか言えないんじゃない?
特に「庶民が戦争をしたがった」ってのはね。私も何かの本で読んでショックを受けた一節があります。確か昭和一桁時代に書かれた小説か何かで、大正モダニズム溢れる都会生活から落ちこぼれた形の、若年労働者層が「チクショー戦争でも起きねえかなァ。みんなひっくり返ればいいんだ」と愚痴るという。ま、「戦争をしたがった」ってのは、そういうアナーキーな感情だけじゃなく、「日本かくあるべき」みたいな理想とプライドがそうさせたってのが一般的なんでしょうが。

私なんかは「そうは言っても、皇民化教育や国民精神総動員なんかでガチガチにしたのは事実じゃんよブー」と思ってしまいますが、「戦争をしたがった庶民」ってのもね、わかる気がするのは否めません。
特に目からウロコだったのが、斉藤美奈子さん(←大好き)が書かれた「モダンガール論」。
ここに、当時の先進的女流知識人たちが、こぞって戦争肯定にまわっていく事例が紹介されているのです。
「当時の」「先進的」「女流知識人」ってったら、今時の言葉(?)で言えばサヨクですよ、リベラルですよ。個人主義で自由と人権を愛し、現代のあり方を批判し、新しい理想の流れを言論と運動で作り出そうという人々ですよ。
そうした、私的には決して嫌いじゃない(双手を上げて賛成はできないけど)、普通なら一貫して戦争反対してそうな人たちが(事実、与謝野晶子なんか日露戦争で痛烈な戦争反対をしてたのに)、なぜ!?
詳しくは「モダンガール論」をぜひ読んでいただけたらと思いますが、つまり「新しい事態の前で張り切っちゃう革新的体質」が「女性の権利向上や大義」と結びついて、率先して、積極的に「戦争に加担しよう」となった、のだそうです。決して「言論弾圧されてたから仕方なく」とか「時流に乗って」ではなく。

私の好きな「個人の人権や自由を守りたいというリベラリズム」と、私の忌み嫌う「お国のためと言いつつ実は自惚れたいだけの国防・愛国婦人会のオバチャン的使命感」は、実は同類にもなりうるのね!なんてこった
あくまでも斎藤美奈子さんの分析で、イコール真実ってわけじゃないですが、でも、うん、そうだろうな、と、個人的にはこの見方にまったく賛成です。「無知な大多数を啓蒙してあげなくちゃ」みたいな思考回路も、そういえば両者に共通ですもんね。

で、こうした何本もの流れにすっかりその気になっちゃった庶民が、どんどんノセられて自ら流れを大きくして、というわけか。よーしじゃあ私はたとえ今後、どんなに「愛国心」だの「日本のプライド」だのが喧伝される時代になっても、絶対そんな流れには与しないぞ~

と思ってたのですが。
もしかして違うのかも。
というわけでやっと本題です。前フリ長過ぎ
斎藤美奈子さんの考察、流れを作り出すあたりに否はありませんが、その後「なぜあれだけの被害を出すまで終われなかったのか」というところは、私が忌み嫌う「乗りやすい庶民」ではなく、まさに私そのものである「乗りにくい(=流れを作り出す人たちとは対照的な保守的体質である)庶民」が大多数だったからじゃないのか、と。
この頃の放射能汚染騒ぎを見るにつけ、そう思ってしまうんですよね。

福島の野菜、食べてますか?
避難、考えてますか?
我が家、そこそこ食べてます。まあ会津産を選ぶことが多いですけど。
避難、まったく考えてません。てか来たばっかりだし まあ会津なら大丈夫だろうと。
私が有する「保守的な体質」ってのは、別に「天皇陛下バンザイ」とか「大日本帝国は神の国」とかそんなんじゃなく(それは「保守的な「思想」」)、「明日も今日と同じように続くことを信じ、願い、そのために努力する」といった、あくまでも日常にどう接するか、どう接してしまうかという姿勢みたいなもんです。たぶんほとんどの人は、多かれ少なかれ、日常はそうだと思いますが(先述の大正アナーキー青年なんかとはここが真逆)。
この体質が筋金入りだと、非日常の時もこれが出るんですよね。非日常を日常と受け止めてやり過ごすというか、とにかく大事にはしたくない、物事が荒立たなければそれでいいみたいな こういうの「平和主義」って言いますね。言わないか?
お役所とかの「先例主義」とか、よくこの典型として批判されますが、根っこは私も一緒です。
「平和ボケ」して考えない、てのとはまたちょっと違うんですよ。放射能の危険とか、考えなくはないけど、それ以上に、昨今の風潮みたいなもんに踊らされてタガがはずれたくない、日常に足をつけて、日常を維持したい、そうしてるうちに嵐が頭の上を通過してってくれて、やり過ごせないかな~、みたいな。怠惰、と言えば言えるのかな~~??

で、当時の「戦争をしたがる庶民」ってのも、実は大多数がそうだったんじゃないかな?って。

庶民の皆がみんな、当時の女流知識人みたいに気炎を上げてたように言う(ことで軍部の責任を相対的に軽くしようとする)論調もあるけど、それはやっぱ違うんじゃない?大多数は流れに乗るとも乗らないとも明言しないまま、皇民化教育や国民精神総動員も心底肯定してるわけじゃなく(これは年代や立場にもよるでしょうが)、「戦争ねえ。大丈夫なのかなあ?」と思いつつも防空壕を掘り、ただただ現状に適応すべく日常生活を営んでいただけで。
で、そういう「流れを作らない」「流れを変えない」という保守的体質によって、結果的に、あそこまでの被害を出さないと戦争が終われなかったという(てか、終わったのも昭和天皇の鶴の一声があったからであって、決して自ら「戦争反対」で終わらせたわけではないけど。そもそも「自ら終わらせる」って可能だったのかなあ?)

そう思うと、自分が持ってた今までの価値観が反転してくるというか、何かとっても自信がなくなるんですよね。
戦争なんて絶対加担したくないんだけど、この保守的体質そのものが戦争継続には一番力を発揮するのかもしれない。
タガがはずれてくるくる踊ってるようにしか見えない人こそ、いざって時には「もう戦争なんてやめよう」と叫べるのかもしれない。

最近の、放射能にまつわるネットの論戦(?)なんかを見て、ふとそんなことを思ってしまったのでした。
ま、そうは言っても思うだけで、筋金入りの保守的体質保持者としては、たぶん今日も昨日と同じ生活をしますけどね
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テーマ : ひとりごと - ジャンル : 日記

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