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昭和製鋼・教習生の生活

寮内における生活は、すべて時代を反映して軍隊式、ベルを合図の時間刻みの団体行動でカゴの鳥。設備はともかく、快適な生活など望むべくもなかった。

朝6時、ケタタマしいベルの音でたたき起こされ洗面その他。6時半から朝食、7時半ごろ全員寄宿舎前の広場に集合し、順次4列縦隊の隊伍を組んで、会社本館前の教習所へと登校する。
帰宅の時間は一定でないが、だいたい4~5時ごろ、各課ごとに帰る。

帰ったらまず部屋の掃除で、これが一年生に課せられた任務である。
掃除を終えて入浴。入浴時間は4~6時ごろまでと定められ、その間に済まさねばならない。
上級生もボツボツ帰ってきて、6時半ごろ、一同揃って夕食となる。
夕食が終わって8時までの1時間くらいが、一応自由時間である。自由と言っても寮内だけの話で、玄関から外へは一歩も出ることはできない。

8時になると自習時間である。9時までの1時間は各自の机に向かい、神妙な顔をして勉強(する振り)しなければならぬ。小便に行く以外、席を立つことはできない。
9時で自習時間が終わり、ホッと息抜きの時間。10時が消灯時間だが、その前に点呼という奴がある。全員各室前の廊下に一列横隊に並び、舎監の検閲を受ける。舎監が1号室から25号室まで回って歩くが、自室前に差し掛かると室長が
「何号室、総員何名、異常なし」
といった具合で、それが終わると就寝、1日が終わる仕掛けである。

教習所内での授業は、一般的な普通科目と、その課に応じた専門科目だった。
教師は現場(会社)の部課長クラスの人がこれに当たった。最初の頃は英語の科目もあり
「イッティズ ア ペン」
「ジスイズ ア ブック」
などとやっていたが、段々と戦争が本格的になるにつれ、敵国語の学習は自然沙汰止みとなった。
かわりに登場したのが支那語(中国北京語)で
「ポポモファパォー」(日本流で言えばアイウエオ)
てなことを言っていたが、あの流暢で独特なアクセントを聞くと眠気が先にたち、支那語の時間となると居眠り専門だった。
今にして思えば英語はムリとしても(頭の方が)、中国語は完全とまではゆかぬも、ある程度マスターしておけばよかったと悔やまれる。今となってはショマショマ・メーファーズである。

週に1回「武道」の科目もあった。
尚武館(道場)は少々離れていて、そこに通うには市外の繁華街を通り抜けなければならぬ。
後に2年生になった途端(恐い上級生がいなくなった)、道場に通う道すがら、市外の目抜き通りにさしかかるとドロンを決め込む。つまり隊伍を抜け出し、映画館の暗闇の中にと消え失せるのである。
柔道部に属していた俺は、試合では5人抜きなどやらかし、そこそこの腕前だったが、映画の前には柔道も形無しだった。武道の時間となるとトンズラの常習犯で、危険を冒して(未成年の入場お断り)ひとり映画を堪能していた。飲兵衛が酒屋の前を素通りできぬごとく--

食事についての待遇はすこぶる良かった。特に夕飯は吸い物のほか、肉や魚が欠くことはなかった。
草深い田舎に育ち、青物(野菜)以外食ったことのない、否、食いたくとも食えなかった身にとってはまさに山海の珍味で、盆と正月の連続だった。
ただ昭和17~8年となると、徐々に食糧事情が悪化し、飯の盛り具合が悪くなり、オカズに不足はなかったが、米飯の量はとても胃袋を満足させるには程遠いものだった。
そのうち、芋・大豆に小豆、うずら豆、果ては大根まで飯に混入されるようになったが、余すところなく平らげた。大根以外はけっこううまかった記憶がある。何を食ってもうまいほど、腹の皮がヨジレかかっていた頃で、質より量の時代だった。

「じーちゃんの昭和」目次
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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