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高等科卒業、訓練所へ

昭和16年(満14歳)、小学校(高等科)も卒業間近になると、校舎内掲示板や教室内に、就職の募集ポスターがやたらと目につくようになる。その中で最も多く人目を引くのが「少年航空兵」(予科練)と「満蒙開拓青少年義勇軍」の2つだった。
俺の場合は過日、満州在住の兄からの紹介で、「株式会社昭和製鋼所」からの係員と新発田職業紹介所内で面接試験を行い、即決で採用と決まっていた。隣町の中条からのS、Y両君と一緒だった。

3月25日卒業、4月5日ごろだったと思うが、全満の会社から同様の方法で就職内定者(新潟県内)全員、長岡職業紹介所に集合させられた。総勢60人くらいだったと思う。
その夜10時ごろの夜汽車で引率者指揮の下、水戸線の友部駅に向かった。
寝具類は前もって発送済み、日用雑貨品の風呂敷包み1つ小脇に抱え(カバンなどと言う気のきいたものは持てなかった)、履き慣れない、というより生まれて初めて革靴なるものを履いて、颯爽と出かけたもんで--ここまではよかった。
息子の晴れの門出とあってまさか下駄や草履でもあるまいと、そこは親心の一端か、親父が町のさる店から掘り出し物の茶色の革短靴を買い求めてきた。
初めて履く革靴はうれしかったが、当時の風潮で若者が短靴を履くなど絶対にありえないことで、編上げ靴と相場は決まっていた。ましてや茶色など、年寄り・年配者専用で、若者は黒以外考えられない時代だった。
恥ずかしさも恥ずかし格好も悪い。なんとか直したかったが当時の片田舎のこと、現在のような手立てもなく第一そんな余分な金は無い。仕方なく墨を塗ってごまかした。今のマジックインキなどと違い、雨でも降ったら元の木阿弥だが、幸い雨にはあわなかった。
しかしいくら雨が降らなくとも、元々が習字用の墨だ、自然と薄くなり、徐々に地肌が出てくるのには参ったが、まるっきりの茶色ではなかったので、バツの悪さをこらえて履きとおした。土台、下駄や素足で育った幅広い偏平足が、先の尖ったハイカラ靴に馴染むわけがない。足は痛いし靴ズレはする、シカメ面するわけにもゆかず、何食わぬ顔してへっぴり腰で歩く格好はサマにならず、散々な道中だった。

翌日無事、友部駅に到着した。
茨城県東茨城郡鯉渕村の一角、松林を開いた広大な敷地に、細長いバラック建屋(1棟300人前後収容)が数十棟連立しているところが、我々の入所する「満蒙開拓鉱工義勇軍訓練所」である。
全国各地で全満各地の重工業会社に応募採用された連中が、各都道府県ごとに続々集まってきて、各会社ごとに1棟に入居する。1棟1中隊と呼ばれ、我々「KK昭和製鋼所」組は、第4中隊と名づけられた。
他中隊では「満鉄」をはじめ、奉天の満飛(飛行機)や、新京の電々、吉林人石(人造石油)、撫順炭鉱など数十社あり、総勢3000人はいたと思う。

訓練所長は「水野」という陸軍中将で、各中隊には中尉クラスの中隊長が配属され、訓練の指揮に当たった。
我が第4中隊は、新潟県粟島出身で温厚篤実な佐藤中尉だった。
1ヶ月の訓練期間中に所長が交代した。秀才型(らしい)の水野中将に変わり、後任は見るからに実践型野人タイプの永澤少将だった。
ズングリムックリと貫禄も程ほどあるこの閣下、歴戦の勇の証か右手小指がなく、常に白い軍手を着用していたが、敬礼(答礼)するたびに手袋の小指部分がダラリと垂れ下がる。これがすこぶる格好良く魅力的(?)だった。当時の子供は変なところに感心したもんだ。

我々の中隊は、小学校卒から旧制中学中退者(15~18歳)の実科教習所組の200人くらいと、大学卒の技術員養成所組の100人程度で編成されていた。ちなみに渡満入社後は両方を含めて社員練成所と言われ、その所長は「白蘭の歌」などで知られた小説家・久米正雄の実兄・哲夫氏だった。

松林を切り開いた広野に、細長い200米くらいのバラック建ての隊舎が、1ヶ月間の仮住居である。
真ん中を木製のテーブル兼食卓が、隊舎に沿って並び、両側の1段高い板場にムシロを敷き、1人1畳程度の間隔(布団が敷ける範囲)で、横にずらりと並んで寝起きする、窮屈な生活だった。
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

Re: No title

satou様、お読みいただいて&コメントいただいてありがとうございました。
もしかしたら、同じ部隊だったのかもしれないですね!
亡くなった父が聞いたらさぞ喜んで、お父様と思い出話に花を咲かせたかったことだろうと思います。
お父様はお元気でいられますでしょうか?どうぞよろしくお伝えくださいませ。

Re: No title

satou様こんにちは。

そうでしたか。。。49日が終わってまだ間もないのですね。satou様はじめご家族の方の悲しみはまだ癒えないことと存じますが、多少なりとも落ち着かれましたでしょうか。

86歳ですか!じゃあ本当に同世代です♫(私の父は1927年生まれでした)
お父様は内原訓練所にいらっしゃったんですね。父は隣村の訓練所にいたようですが、内原訓練所長・加藤完治のエピソードは、父も聞いた話として書き残しておりました。内原訪問はきっと意義深く、またお父様にとっても懐かしい、satou様との「同行二人」の旅になることと思います(^^)

お父様や父には、満州引き揚げを初めとして、辛いことも多かった時代だったのでしょうが、同時に青春時代だったゆえでしょうか、生前の父はよく満州のことを「懐かしい場所」として話していました(肉まんが大きかったとか、映画館がステキだったとか、わりとどーでもいいことばかりですが(>▽<))
ともにあの混乱の中を無事に生き延びて、内地に引き揚げることができて本当によかったと思います。

お父様の自分史、今ではとても貴重な昭和史の史料ですね!
拙ブログのこの記事も、私の父の自分史の一部ですが、読み返すたびに「よく書いておいてくれた」と思うと同時に、もっと詳しく聞いておけばよかったと後悔しきりです。

お父様のように、あの時代を肌で知っていて、語り継げる方がまた1人亡くなってしまったのは、本当に寂しく、残念です。
ご冥福をお祈りいたしますとともに、あちらでお父様に父がお会いして、懐かしい青春時代のことを心ゆくまで語り合ってることを願っています。

Re: No title

satouさんこんにちは♫ お久しぶりです!
satouさんはじめご家族の方々、皆様お元気でいらっしゃいますか? 遺品整理等もう落ち着かれた頃でしょうか?

お会いするのは・・・申し訳ありません。こちらもなかなか時間が取れず、遠方ですので残念ですが。。。(こちらは雪もけっこうすごいので;;)
また私が知ってることも、父が書き残したもののみなので、大した話は;; 戦前の話や、戦後すぐの話とか、まだ残っているのもけっこうあるので、いずれブログにアップしたいな~とは思ってはいるのですが;;
けれどこういう形で、お互いの父について偲ぶことができるのは、貴重なご縁だとありがたく思っております。

春になったら、satou様のお父様も1周忌ですね。
我が家も夏には7回忌の予定です。7回忌なんて!びっくりしちゃいます。満だと5年くらいですが、それでももうそんなに時間が経ったのか、と(^^;)

亡くなった直後よりもむしろ、時間が経ってからの方が、故人について思いを馳せたりすることが多くなりますよね~。声とか表情とか、ふとした時に思い出したりして・・・(*^^*)
うちの母もいまだに、「今日久しぶりに夢に出てきてくれた♫」なんて電話してきたりします(>▽<)

お父様との「同行2人」旅は、もう行かれたでしょうか。
お父様も、きっとお喜びだと思います♫
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