今度は国民党!?

昭和21年の6月ごろ(満19歳)、政府軍(一名「正規軍」とも呼ばれていた、蒋介石率いる国民党軍)の統治下、各地において一般中国市民に対し、軍への入隊が呼びかけられ、多くの人がこれに応じた。
当時その筋においては、中国軍建軍に躍起で、この地方の下部組織の責任者と思われる王(ワン)なる人物も日本人を募ったという。
友人Tよりその話を持ちかけられ、誘われるまま話に乗った。なにぶんにも食うに食なく、働くに職なしの折柄、ましてや血気の若僧、深い考えもなく、同好の者約20名、徒歩で奉天に向かった。引率者は満州国軍あがりの下士官級の人だった。

さて行くには行ったが、着いたところは期待とだいぶかけ離れた、市郊外の中国人部落だった。
字は忘れたが「サレーホ」という地域で、元々大して期待などしていたわけではないが、不審を感じながらも、何することもなく、中国人民家でゴロゴロして時期を待った。
この地域一帯は、募集に応じた多くの中国人も分散されて、民家に寄宿していた。食事は責任者を通じて支給された。

待つこと5~6日、いよいよ正式入隊?(と思った)との指示があり、勇躍、奉天市内に向かった。
ここでいったん日本人民家跡の空き家に落ち着き、またぞろ時を待つことになる。
このあたりからだんだんと話が怪しくなり、待てど暮らせど肝心の親分(王大人)が一向に姿を見せない。
そうしたある日、今で言う戸籍調査のごとき中国人が現れて、取調べを受ける。責任者(引率してきた中国人-彼は片言の日本語を喋る親日派で、我々の面倒はよく見てくれた)はおらず、話が通じずチンプンカンプン。ついには一同、ある派出所に連行されてしまった。

我々はべつだん悪事を働いているわけではない、話がわかれば事は簡単--
と、タカをくくっていたが、当局にしてみれば、対共産軍関係に異常なまでの神経を尖らしている矢先、住所不定で得体の知れぬ日本人--そのうえ「敗戦後の顔」に、チンピラ然としたなりふりでは、怪しまれても不思議のないところではあった。

暑天下、派出所前の地べたに土下座させられ、かなりの長時間待たされた。
道行く日本人には不審と哀れみの目でジロジロ見られ、恥ずかしいやら情けないやら、穴があったら入りたい。
それにしても待つ間の、なんと長いことよ。
ようやく話が一件落着した模様で、「これにて無罪放免か」と思いきや、今度はドデカい立派な警察署に連行され、挙句の果てには何が何だかわからぬまま、地下室のブタ箱入りの破目となった

牢内に最後の1人が押し込まれると、これがしばし娑婆との別れ、にぶく重々しい音で「ギー、ガッタン」と閉まる。その音の何とも不気味で不快なこと。
「ガッターン」が余韻を引いて消え静まると、一同期せずして大きなため息一つ。
昼夜の区別もつかぬ、薄暗く陰気な部屋。片隅に便所、食うもタレるも同じ場所。
3度の食事で時間を想像し、天井の片隅から僅かな光が差し込み、そこからカタコト聞こえる足音に、朝(通勤時)だとわかる。
出される食事は古い土方弁当にまじりっけなしのコーリャン(時には粟)、それに塩を振りかけたものだけ。俗に言う臭い飯だ。時たま歯ごたえのある砂などが混じっているが、大して気にもならずペロリとたいらげた。
箸などなく、南方人よろしく指先で操作するが、風呂とは何日もご無沙汰の身、汗など指の塩気でちょうどいい塩梅だ。当時の若者の胃袋は、どんな逆境にあってもつつがなく受け付けた。

さて、1日2日はまだよいが、3日過ぎれば何とやら--だんだんと心細くなるのは仕方のないところ。
まさか殺られることはあるまいが、しかしそこは立場の逆転した混乱期、恨み重なる東洋鬼(トンヤング=日本人)、戦後のこのドサクサをモッケの幸いとばかりに--と。人間落ち目になるとロクな考えが浮かばない。
1人きりなら気が滅入り、早晩おかしくもなるところだろうが、幸い多くの仲間と一緒、若さも手伝って「死なばもろとも、なるようになれ」と、いまだ幾分の余裕とカラ元気は残っていた。

余裕もそろそろ残り少なくなりかけた1週間後、やっと冤罪が晴れてか出所の身となった。
久しぶりに見る娑婆の空は晴れ、風さわやかだった。
入牢中は空腹のほどひとかたならず、「やがて出所の暁は、あれも食おう、これも食おう」と、朝な夕なこれ一筋の1週間だったが、いざ出てみると不思議や不思議、あれほどのガッツキようが嘘のよう、食いたくもなければ飲みたくもない。腹はかなり減っているはずなのに、あまりの嬉しさと安堵感で、胸いっぱいの腹いっぱい--か。

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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