スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

さらば満州!

1ヶ月近くなると、給料も千円たまった。使うにも場所と物がなく、たまる一方だ。
引揚者は1人頭千円しか持ち帰れない。金持ちが「余分な金を他人に施すのはケッタクソ悪い」と、海へジャンジャン投げ捨てた--とか、よく聞く話で、千円以上はあっても無駄である。
となれば「千円たまれば用はねエ」と、帰国することに衆議一決した。
思いのほかの勤勉さ(?)がお気に召されてか、例のお偉方から三拝九拝、再三の留意を振り切り、ようやく帰国の途に着いた。

7月27日ごろ、旧海軍の海防艦・第?号上の人となり、悲喜こもごも思い出多い満州(コロ島)を後にした。
途中何の話もなく--着いた所が博多の港。
尚余談だが、我が方の船が出港する小半日も前に、出港した帆船(引き揚げ船)が、我々が博多に入港後まもなく姿を見せた。「さすがに軍艦は違うもんだ」と得心した。

さてすぐさま上陸かと思ったが、なかなか命令が下らない。
そうこうしているうち、全員甲板上に呼び集められ、片っ端から四つんばいになり、ケツをまくってガラスの棒を突っ込まれた(人前でですぞ)。
検疫でその結果が判明するまで、上陸はお預けとなった。2日くらい待たされただろうか。
船内では一同、お別れのかくし芸大会が、急造の仮設舞台で催された。
日本に着いた喜びと安心から、元気は倍増、上々の盛り上がりでにぎわった。小生も、めったに公表しない秘蔵の喉をば披露した。もちろん演目は東海林太郎モノである。

検査の結果もOKで、ようやく上陸となる。
やれやれと上陸した途端、今度は待ち構えていた進駐軍(これも懐かしい言葉だ。日系二世の奴だったが、概して二世の奴らは生意気だった)に、頭から全身にDDTをぶっかけられ、さながら白子の如しだった。
それにしても当時DDTはよく効いた。効果はてきめんホワイトチーチーなどはイチコロで、しかもその後しばらくは寄りつかなかったから恐れ入る。「さすがはアメリカ(戦勝国)だわい」と感心した。

消毒も終わり、今度こそと思いきや、またぞろ各班の代表者がそのスジから呼び出され、なかなか帰ってこない。
散々待たされた挙句帰ってきた代表に「いったい何だったのだ」とたずねても、「何でもない」の一点張りで、ゲンを左右してなかなか口を割らない。だいぶ固く口止めされたらしい。
後でわかった話では、米軍当局から、満州におけるソ連軍の動向など、あらゆる情報をこと細かに聞きただされたらしい。
当時既に米軍は、ことのほかソ連軍を意識(警戒)していたらしい(ソ連軍もまた同じ)。
即ち東西冷戦の始まりで、「昨日の友も今日は敵」--か?

昭和21年8月1日早朝、故郷新発田の家にたどり着いた。
玄関戸を叩く音に、寝ぼけマナコで出てきた姉は、俺を見るなりビックリ仰天、発した第一声が「おやおや!?」だった。

後日談だが、当時の千円はかなりの使い勝手があった。
「死んだと思った子が帰ってきた」としての過保護(黙認)もあり、しばらくは遊びに遊んだ。千円がなくなるまで--

過ぎにし敗戦の混乱期、若き日のヒトコマ--お粗末。

「じーちゃんの昭和」目次
スポンサーサイト

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。