徴兵検査?~カンエツテンコ

「カンエツテンコー」あるいは「ケンエツー」だったかもしれぬ。いずれにしても未だに字も意味もよくわからない。軍隊用語で、定期的に行われる検査のごときものだったらしい。
昭和19年か20年ごろ、月も定かでないが、終戦少し前のことだった。当時満州では徴兵検査を来年に控えた19歳の男子全員に、この「何とかテンコ」でしかるべき場所に出頭せよ--との通達が来た。

当時19歳男子は「第二国民兵」と呼ばれ、在郷軍人の一員とされていた。と同時にその筋から
「戦況もますますエスカレートしている折柄、いちいち徴兵検査などやっている暇はない。それに替わるものを前もってやっておき、必要に応じて赤紙でドシドシ引っ張るのであーる」
と宣告されていた。それがこの「カンエツテンコ」だった。出頭にあたっての心得は
「奉公袋持参のこと、必ず越中ふんどしを着用のこと」
の2点だった。

戦争も激しくなり物資の不足も手伝い、生地が不経済でもあり、パンツ発祥の地が敵性国家のためか、多くの人が日本古来の「ふんどし」を着用していた。
当時衣料店などで売っていたかどうか知らないが、ありきたりの手ぬぐいに紐をつければ一丁上がりで、チョンガーにとってはありがたく重宝な物だった。
第一あの「越中ふん」は、事に望んで便利この上もなく(?)、唯一の欠点は夜中に息子が勝手に一人歩きすることである。就寝前いくらしっかと締めても、翌朝起きると、不肖の息子のその又息子が必ず顔を覗かせているから困ったものだ--。

偉い人(と思われる)が大勢見守っている中、例の越中ふん1枚の素っ裸で順次、身体検査が始まる。
身長、体重、胸囲など型どおりの体力測定が、時たま気合をかけられながら行われる。気合の主は軍医である。
一通りの検査が終わりに近づき、最後にいかめしい顔つきの軍医が椅子に腰掛けて控えている前に、直立不動する。すると軍医の奴、無礼にも我が越中様を無造作にサッと下に引っ張り、「親にも見せない玉手箱」をサラケ出す次第となる。当時はまだ「男子の逸物」にはほど遠かった?
軍医が我がモノを握ったり引っ張ったりして、異常(性病)がないとわかると、「廻れ右」の号令だ。
床には白墨で丸が4つ書いてある。その上に両手両足を着き、犬猫同様の姿勢をとらされる。つまり四つんばいになって尻(痔)の検査だ。「異常なし」を確認すると、「よし!!一丁上がりー」と尻をピシャリと叩かれ、これで身体検査の部はすべて終了となる。

ふんどしを締めなおし、上座の一段高いところに、机を前にデンと腰掛け、方々に睨みをきかせて控えている関東軍のお偉方(大佐か少将だった)の前に、恐る恐る進み出て一礼後、あらん限りの声を張り上げて
「第二国民兵--何の何兵衛!」
と怒鳴る。するとこのお偉方、ジロリと顔や身体を見回し、なにやら机上の書類にハンコを押していた。

これで終わりと出口に向かうと、出口手前の通路片側に、机を並べて5~6人の偉い人が、関所よろしく待ち受けている。
カイゼルのごとき立派な鼻ひげをたくわえ、「俺より偉い奴はいない」とそっくり返っている在郷軍人の偉方(M大佐だったと思う)や、金モールでベタベタ着飾り、泥棒を見るような目つきの悪い警察署長を始め、市内の各所高官や、白エプロンに「大日本国防婦人会」というたすきをかけ、「嫁いびりが最高の趣味」といった意地悪い顔つきのオバハンなどが控えている。
これらの人々の前に順次一礼して立ち止まり、彼らの品定めにさらされるわけである。
彼らの手元には我々の本籍地、現住所はもとより、生長過程、家族の状況から頭の程度、特技に賞罰、趣味嗜好に至るまで、こと細かく記載された身上書がある。誰がいつどこで製作したものか、本人にはわからない。プライバシーもヘッタクレもあったものじゃない。
この書類と我々の顔と身体をジロジロ見比べながら、必要に応じて質問する。俺の場合
「うむ--お前には母親が無かったのか」
と、とぼけた奴もいたもんだ。幼い時に死に別れたまでのこと、最初から無かったわけじゃない(もっとも親父からは年中、川流れとか木の股から生まれたとか言われてはいたが-)

小一日後、無事徴兵検査も終わった。
戦争も激化の一途をたどり、「シコの御盾」がいくらあっても足りぬ折柄、よほどのことが無い限り「甲種合格」間違いナシだった。
先輩諸氏の話によればこの時、だいたいの兵科が決まるという。
帰路、検査も終わった気安さから、同僚5~6人と勝手なオダあげながら三々五々歩いた。
「俺は歩兵がいいなァー」「工兵だけはご免だ」とか「俺は憲兵になりたい」「そらームリだ」から「騎兵が格好いいなァー」といった調子だ。第一その当時「騎兵」などという兵科は廃止されていたはずだ。近代戦争のさなか、馬にまたがり「やアやア遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ」でもあるまいて--その中の一人が俺に向かって
「お前はおそらく砲兵だ。その身体では間違いない」
と言う。砲兵と身体とどう関係するのかわからんが、それならまんざらでもないと内心ほくそ笑んだ。
実は我が家と砲兵は比較的縁が深く、親父が砲兵だったらしい。「俺は38式速射野砲だ」と言っているのを小耳に挟んだ記憶がある。若き日の蒋介石が留学か留兵?かしていて、一緒の連隊とかで時々見たとも言う。次兄も仙台あたりの砲兵だった。
尚、当時各連隊番号を表す襟章の色は、砲兵は黄色、歩兵は赤で、憲兵は黒だった。

さて得手勝手な熱を上げながら歩いてきた我々を、後からつけてきたゴツい奴が呼び止めた。
代表の1人がその人相のよからぬ奴と、なにやらゴソゴソ話していたが、後で聞いたところ、これが何と私服憲兵だった。つまりは
「いい若い者がデレデレしないで、シャンと歩け」
との小言だった。

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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