スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

海街diary映画化決定!

だそうです
好きな話って、映画になっちゃうと「ええっ!?」ってことになりがちなんで、祝!マークをつけつつちょっぴり心配でもあるんですが、監督の是枝裕和さんいわく「原作つきの作品監督はあまりないんだけど、これは読んだ時から自分で監督したいと思った」。
う~んそういう思いを持った人がメガホン取るなら安心、かな?「そして父になる」などの監督さんでもあるそうだし。とりあえず楽しみです♪

前にもちょろっと書きましたが、私このマンガほんとに好きで
私にとってはたぶん普通の時に普通~に読んだら「いい話だ」で終わってたような、そんな普通~~の(?)日常生活を描いたマンガなんですが、不登校息子を抱えてる今読むと、随所がすごくじわじわと来るような、勉強になるような、そんな感じなんですよね。不登校のふの字も出てこない話なのにもかかわらず。
「2013年マンガ大賞」だそうです。なんでもこの賞は「人に薦めたくなるマンガ」という基準で選ばれてるそうで。
うーんわかるわ~。私もオススメしちゃいます♪ 吉田秋生好きな人はもちろん、あんましマンガ読まない人、そして家族関係、いや広く人間関係にちょっと悩みを抱えてる人には、読んで損なしかと。
ていうか、マンガ大賞を取り映画化もされという、今更私が薦めるまでもないマンガなわけですが、喜びのあまり、海街diary及び吉田秋生さん作品について、以下長々と語りたくなっちゃったのでしたm()m

ほぼ全作読んでる気がする一ファン(故・栗本薫さんと組んだJUNE小説「終わりのないラブソング」まで読みました)としては、この方のマンガって、大別して2つの系統に分かれる気がします。すなわち「吉祥天女」に始まり「バナナフィッシュ」で大ブレイクした「スーパーヒーロー(ヒロイン)」ものと、「夢見る頃を過ぎても」や「河よりも長くゆるやかに」「櫻の園」といった、あくまでも「日常」を描いたもの(あ、番外編として「動物・ファンタジーもの」という系統もあるかな??「海街diary」は日常系ですね)。

けれど、そのどちらにも一貫して、ずーーっと同じ重低音が流れてるんですよね。BL要素ってのも大ですが置いといて、私の言葉で言うとズバリ、人間同士の絶対的な立場の違いから来る「わかりあえなさ≒孤独」。もっと言えばそこから来る、人間(というか広く生物)という「救われない存在に対するあわれみ」。
(余談ですが、動物ファンタジー系統だと特にこれを色濃く感じます。寓話に近い形だからダイレクトに伝わるのかもですが、「どうせ未来は君らのものなんだ」と語られる、人間になったゴキブリの話や、「1匹や2匹じゃ種としてはもう終わり」でありつつキツネたちと生活するニホンオオカミ、与えられた生を全うして死んでいくオオミズアオe.t.c. そうそうどれも、自分とは絶対的に違う異種と関わり合って生きていく姿が描かれているのも、やっぱり一貫してますね)

この「孤独感」って往々にして、家族関係に端を発すること多々で。
だから家族関係がネックにある人にはきっと琴線に触れるのかなと。
(以下ずらずらセリフを引きますが、ほとんどうろ覚えにつき細部が違ってると思いますスミマセンm()m)

「海街diary」では、引き取られた異母妹が、引き取ってくれた異母姉が語る母親の思い出話を聞きながら、「私の母親のせいで(あなたのお母さんの生活を壊してしまって)ごめんなさい」と泣くシーンがあります。
姉はむしろ自分の母親のダメさ加減を嫌っていて、ましてや自分も不倫しているわけで、「子供には関係ない。あなたのせいじゃない」と心底そう思ってなぐさめるのだけれど、心底そうなぐさめながらも「自分の言葉がひどく言い訳めいて聞こえる」と感じ、そう感じながらも肩を抱き寄せてなぐさめずにはいられない。

不倫で生まれた子、不倫で置いていかれた子、親子の確執、そして子からはわからない親とその親同士の確執e.t.c.をそれぞれ抱えながら、家族としてやっていくこと、1人の人間同士としてつきあっていくこと。
を描いているのが「海街diary」ですが、思い起こせば吉田秋生さんって、常にこういう関係を描いている気がします。
例えば「カリフォルニア物語」。個人的には「吉祥天女」にハマった後こちらを読んで、本格的にファンになった作品です
余談ですがこの作品の元になったのが映画「真夜中のカウボーイ」だと聞いて、ついでにその映画及びNYも好きになってしまったもんでした(しっかし「真夜中のカウボーイ」って1969年ですよ 「カリフォルニア物語」に出てくるSOHOが、今のオサレでセレブな街から程遠い、危険地帯だった頃ですよ 改めて、時がたったんだなあと

それはともあれここでは、主人公の兄が亡くなった時、こんなセリフが出てきます。(ちなみに主人公の兄は、優秀で年が離れてる設定)
「あなた(弟)は母親を知らないからかわいそうだって、あの人(兄)はよく言ってたわ。でもね、あの人は母親を知ってるからこそ、去られる辛さを味わったのよ。それだけはわかってあげて」「うん、わかってるよ」
お互いの辛さを思いやり、「かわいそうだな」と相手の立場に同情もできる、でも!その辛さを自分の身に置き換えてわかることは決してできない。自分には自分ならではの、相手が相手であるがゆえに体験し得なかった辛さがあるから。
どっちがいいも悪いじゃなく、どっちがより辛かったかとか比べることもできない、ただ絶対的な立場の違い。
そこから来る、絶対的な断絶。
さらにこのセリフの後、弟はほとんど遺書となってしまった兄からの手紙を受け取るのですが、その手紙には。
「・・・今だから言うけど、僕は君を妬んでいた。幼い頃から自分の意思をはっきり持ち、父親にも逆らえる強さは僕にはなかったから。
君が父親とうまくいかなくなり始めた頃は、僕はひそかに「ざまあ見ろ」とすら思っていた。
君が僕を父親と重ね合わせて嫌っていたのも知っている。君が嫌うのも無理はない。
でもこれだけはわかってほしい。君を心から愛している」
弟は、これを読んで怒り狂うわけです。「俺がいつあんたを嫌いだって言ったよ!!」「俺はそんなこと一言も言ってないじゃないか!!」そして「頼むから俺をうらやんでるなんて言わないでくれ」
「あんたのようになりたかったのは俺なのに」
お互い相手のことをそう思って、自分はそうなれないまま苦しんで。
どころか、自分が自分であることそのものが、相手を傷つけることにすらなっていて。
兄は弟を心から愛しその思いを伝えたいからこそ、そういうジレンマも含む正直な心をすべて手紙に書いたんだけど、でもその内容は弟にとっては、いきなり後ろから切り付けられたも同様で。
兄の気持ちは弟に実感として伝わらないまま、そして弟の気持ちも兄に伝わらないまま、もうどんな言葉も死者には届かない。。。

ちなみに「カリフォルニア物語」は弟視点ですが、続編である「夢の園」では兄視点です(「アナ雪」にハマった長女は必読かも)。
私はこれを読んで「ああこういう視点がもう一方にあったから、私は「カリフォルニア~」も好きになったんだな」と再確認しました。

この「絶対にわかりあえない、絶対的な辛さ」は、「バナナフィッシュ」の後に始まったスーパーヒーローもの「夜叉」でも描かれてましたね。
「(親の)愛情を突然奪われた人間と、(親の)愛情をまったく知らない人間は、どちらの方が辛いのだろう」(セリフうろ覚え

基本コメディで、しかも世界が「夜叉」ほど派手じゃないので、悲しみレベルも一見まったく違う気がしますが、でもやっぱり、同じ苦しみ悲しみが底に一貫して流れているのが「河よりも長くゆるやかに」。
「あたしやお母さんがどんなに苦しんでたか、あんたなんか何も知らなかったくせに」と言うお姉ちゃんと、「それを言われると弱いな」と言い返せない弟。弟はそんな姉に、面倒見てもらってるということもあって負い目を持っていて、なおかつ姉が水商売を選んだ理由もわかってるくらい、姉への理解もあって、でも実は「自分だけ何も知らされなかった」という、自分が小さかったがゆえの、姉は味わうことのなかった悲しみも常にあって。

相手が憎いとかそんなんじゃなく、ただ「お互いの辛さはわかるのに、自分のこととしてわかりあえない」という。

家族という「半・自分」の関係ですらそうなんですから、「他人」同士だったらそりゃもう、そんなことは星の数ほど。
「河よりも」の2巻に出てくる、「忘れちゃえよ。悪い犬にかまれたと思って」と、精一杯なぐさめるトシに対し、「無神経ねあんたたち男って。じゃああんたは犬にかまれたことを忘れられるの?」と悲しげに抗議するよっちゃんもそうですし、あと「どこがいいってうまく言えないけど、なんだかじわじわくる」と初めて思った吉田秋生作品「桜の園」。
「きっとみんな忘れたと言うわ。でも私は忘れられない」
いじめとかでよくある「やった方は忘れるが、やられた方は忘れない」の構図ですが、それまで吉田秋生さんってどちらかと言えば「そんな細かいことは気にするな」ってタイプかと思ってたとこがあったので、「こんなふうに描いてくれるんだ」とうれしかったと同時に(「夢の園」も同じ理由でうれしかった作品)、ここでも絶対的な断絶が描かれてるな~と。
「忘れる」以前に「わからない」んですよね、なんでそれがそんなに悲しいのか。置かれた立場が(例えば「男と女」みたいに)絶対的に違うから。悲しませちゃってごめんと本気で思うけど、でもその悲しみを、自分の身にしみてわかるってことはありえない。たとえその人が、本気でなぐさめようとしたり、本気でごめんと思うくらい善良で誠実な人であっても。

これが直球ストレートで炸裂した作品は、やっぱり「吉祥天女」かな~。
これはほんとにハマりました~~~。
当時は「女であることの悲しみ」みたいなもんを描いてるのかな、と思いつつ読んでましたが、「女であること」に目覚めてなかった私にもガンガン来るものがありました
思えばあの作品は「女であることの悲しみ」じゃなくて、「理不尽に虐げられることの悲しみ」を「女」という属性に投影して描いていたんでしょうね。だから当時の私もハマったし(被害妄想強い子だったこともあり)、そこから「バナナフィッシュ」や「夜叉」シリーズにまで連なっていったのでしょう。
伯父の家に引き取られて、鬱屈する部分は多々あるけれど、病弱な妹もいるんであの家を出るわけにもいかないし、無難にやり過ごしてるよ。まあこれが処世術ってやつかな。
と、世の中諦めたサラリーマンのような涼くんの「現実的」な発言を、じっと聞いていたスーパーヒロイン小夜子は、ばっさり「それは嘘ね」
「あなたはもっと激しい人なのに、どうしてそこまで自分を抑えてしまうの?」
どきっとする涼くんに小夜子は、あくまでも静かに、微笑みすら浮かべつつ「私は違うわよ涼くん」
「私はねえ、怒ってるのよ。私が生まれたことにも、あの家にも、私を取り巻くすべてのことに」
「呪っていると言ってもいいわ。その感情があるから、私は今こうしていられるのよ」
そしてダメ押し。
「あなたの選んだ道と私の選んだ道と、似たような境遇なのに随分違ってしまったわねえ」
小夜子という人は見た目たおやかにして言葉いやしからず、とっても清楚でおとなしいお嬢さんでありながら、底にはこんなおそろしい「闇」を抱えもってる人なわけです。ほとんど殺人もいとわぬほどの。
しかし「それがあるから生きられる」なんていうほど、自分を含むすべての存在に怒り、呪わずにいられない小夜子の姿は、悲しくもありつつ、しかしどこかで確かに、当時これにハマった高校女子たちの代弁者でもあり(ここまで深い闇は抱えてないにしろ
小夜子に憧れている同級生女子が涼くんに言います。
「その点小夜子はすごいと思うわ。あの人絶対諦めないもの。私たちが(男に)「しょーがないや」ってあきらめちゃうようなこと、あの人絶対許さないもの。なのに女らしくて優しくて(←これが重要)」
男であるがゆえに、小夜子とは闇の部分で対峙するしかない涼くんにとって、この評は「お前たちにはそう見えるのか」とつぶやくしかないものなんですが、女子にはすんなり、小夜子=光として見えるわけですね。逆に小夜子にとっては、そういう女子の無垢なありようこそが、「そうありたかった」というまぶしい理想でもあるわけですが。

「吉祥天女」の小夜子は、「バナナフィッシュ」の月龍に引き継がれたと思ってます、ビジュアル含め。
アッシュは月龍の双子とも言っていいと思いますが、最大の違いは、「愛し愛されることを知っていた」アッシュと、「愛を知らない」月龍であること。
で、その戦いは、結局アッシュが勝利するんですよね。
小夜子ファンとしては当時、月龍を通して「そのままじゃいつか行き詰まりますよ」と言われている気がして、ちょっと悲しかったものでした まあ実際、愛=他者存在への理解を知らないままじゃ行き詰まると、今になればわかるのですが、だからって「愛さなければ愛されません」なんてブランカ(だっけ?)に説教されても、「じゃあ私は孤独なままだわ 愛せる人が周りにいないもん」としか当時は思えなかったし。「あんたのことはどうしても嫌いになれない。あんたの心は今でも血を流してる。そういうところはアッシュと一緒だ」っていうシンの言葉に「ありがとう」と勝手に思ってました 今思えば自分の心は血を流してるんじゃなく、単なる若さゆえの自己愛過多に過ぎなかったんじゃないかっていうのはさておき
ああなんか吉田秋生作品について語ってると、だんだん黒歴史が ともあれこの「アッシュvs.月龍」の形は、「夜叉」の双子にもそっくりそのまま受け継がれて登場しますね。

どうも私、「夜叉」は「バナナフィッシュ」の焼き直しみたいに思えて、あんまし熱中できなかったんですよね。なので「イブの眠り」もあんまし;; 
ただ「バナナフィッシュ」以来、「夜叉」や「イブの眠り」などには、それまでの、例えば「吉祥天女」や「河よりも」で、小夜子や涼くんやトシが、得ようとして得られずヒネりが入ってしまった「まっすぐな愛情の力」、ひいては「愛すべき人間たちへの信頼」がすごく強力にあるな~と感じます。「吉祥天女」などで描いた闇はそのまま抱えつつ、でもそれだけじゃだめだよ、光を見失っちゃだめだよと訴えてるみたいな。
ある意味、大人目線へのシフトであり、また私も、高校女子が過去になるにつれ、だんだんこういう目線になってくるので「うんうん」と思えるんですよね~。

そういえば「バナナフィッシュ」の続編で、英二が「NYの、光と影が濃いところが好きです」とアッシュと重ね合わせて言うシーンがありましたが、その後の「ラヴァーズキス」そして今回の「海街diary」は、それを鎌倉に置き換えて描いたとも言えそうですね(実際吉田秋生さんは、鎌倉の町をそう捉えていらっしゃるそうです)
「ラヴァーズキス」で、鎌倉の初夏の陽射しの中、お互い闇を抱えてる2人が仲良く寄り添いあってるのを見た後輩が
「あなたは川奈さんを見つけたんですね。死に向かうほどの闇も新しい光も、川奈さんとなら乗り越えられるんですね」
と涙を流すシーンがありますが、これなんてまさに「お互いわかりあえるのに、ともに手を取り合って乗り越えることはついにできなかった2人」であった、小夜子や涼くん、アッシュや英二あるいは月龍、もしかしてヒースやイーブも?e.t.c.への救済のように見えました。
もっとも、このシーンは同時に、そんな2人の別れのシーンでもあり、またその後輩にとってそんな2人の姿は、失恋を決定づけるものでもあるという、まさに「光あるがゆえにできる闇」をも描いているわけですが。
なんだか、「日出づる処の天子」など、一貫して「人間の救われなさ」を描いてきた山岸涼子さんが、「鬼」を描いた時のような、そんな感動がありました。しかし山岸涼子さんは「鬼」について、「作者が初めて救いを描いた!」と評されたのは心外だったそうですが

そういえばこのシーンは、「夢見る頃を過ぎても」で、酔っ払った黄菜子ちゃんが彼氏に支えられて、「さようなら私の天使の羽。それでも明日からは、周りの人にもっと優しくなれそうな気がする」と思う姿及びそれを見守る女友達の姿にかぶる気もしますね。
絵柄は変わること甚だしい吉田秋生さんですがそこで描かれる価値観というか考え方は、若い頃の作品から今まで、驚くほど一貫してるもんだな~と、改めて思います。それだけ昔から完成された人だったのかなと。

「ラヴァーズキス」は、色々な子たちがそれぞれの悩み苦しみを抱えて、しかもそれがドラマチックに解決するわけでもなく、一時近づいたりすれ違ったりを繰り返しながら、「みんな元気です。あなたも私もひとりぼっちじゃありません」という言葉で終わりますが。
今回映画化される「海街diary」は、上記「ラヴァーズキス」の舞台や世界観をそのままに、「ラヴァーズキス」よりさらに多種多様な人々が登場して展開されるお話=日常生活のスケッチです。
私が一番好きなのは、リンクス亭、じゃなくて山猫亭のおっちゃんと、「ラヴァーズキス」にも出てきた、朋章くんの叔母さん♪
「家に縛られて生きなければいけなかったのは同情する。でもそれを差し引いても母は、私にとって尊敬できる人じゃなかった」
「でも入院して、苦しい息の下でも尚、娘への愛情より家名を重んじる母の姿に、母が抱えていた闇の大きさがわかったの」
日常生活の一瞬一瞬に見え隠れする「人間の救われなさ、理解しあうことの難しさ」を描いているのは、それまでの作品と同様ですが、しかしやっぱり、それまでに比べるとどこか救いがあるように感じます。
それはたぶん、それまでが「わかりあえそうなのに、手を取り合えない」というスタンスで描かれていたならば、これは「手は取り合えないけど、わかりあえそう」というスタンスになっているように見えるからなのかな、と。
つまり、描かれていることは変わらないんだけど、その描かれ方=その世界の受け止め方が「それでいい」と肯定しているというか。
「私が生まれたことも、私の周りのすべてのことに、私は腹を立てている」と言っていた小夜子が・・・と思うと、感慨深いです(いや別に小夜子がそうなったわけじゃないけど
また、アッシュは全肯定してくれる英二に出会ってやっと世界を受け入れることができたけど、今はもうアッシュにとっての英二みたいに、全存在をかけて依存する対象がいなくても、世界を肯定していけるんだと思えるのがうれしいです。

そうそう同じく2巻に出てくる、シャチたちのお母さんの描き方もいいですね~~。シャチを見て「具合が悪いの?」と咄嗟に心配してしまうと同時に、娘の勤務形態もわかってないってあたり、なんか不登校親としては「他人とは思えない」感が
シャチのおばあちゃん=シャチの母の実母の法事で、「おばあちゃんは人望あって、生徒たちにも慕われてた教師だったからね~」という思い出話に、無表情でノーコメント「・・・」としているお母さんも、ほんの1コマなだけに印象に残ります。ここら辺の目配りが、さすが「夢の園」を描いた人だという感じで、とても信頼感が♪

ああ~~気づけばすごく長くなっちゃいましたが、そんなわけで映画化、楽しみにしています

追記
今出てる「月刊フラワーズ」に、「海街diary」最新話が載ってます♪
さっそく立ち読みしてきましたがう~んやっぱり「普通に読んだら普通~にいい話だけど、不登校親には随所がじわじわ」でした。
腹の据わってない不登校親にはじわじわ来過ぎて、本屋さんで涙目になってしまうのだけが困りものです
スポンサーサイト

テーマ : マンガ - ジャンル : アニメ・コミック

新しい担任先生が来てくれた!

さて時は戻って、4月上旬のお話ですが。
新しい担任の先生が、KKに会いに来てくださいましたm()m
これがね~~、ママはもうドキドキで

というのも、このころのKKは(あ、今もか)用事がなければまず外には出ない、なぜなら知ってる人には会いたくないから。特に同じ中学の子とかには絶対会いたくない(しかし遊びに来てくれる友達は別)。
ましてや先生なんてもってのほか!去年の担任先生も3月いっぱい、毎週プリントを届けにわざわざ来てくださってたのですが、KKは頑として会おうとせず。
「親も先生も信頼しない、友達も信用できない」と言い切ってるKK。果たして新しい先生はKK的にどうなのか?学校に信頼できる大人が誕生するのか!?
ママ的にはかな~~り信頼できそうな先生なんだけど、ママがそう思ってる保健の先生はKK苦手らしく、何を言われても「ハイ、ハイ」だけ言って、後から不満ぶつくさだったしな~~。やっぱりKKと新しい先生が会って話してみないと。しかしそもそもKK会えるのか!?またドタキャンじゃないのか~!?!?
(余談ですが、3月の鶴ヶ城プロジェクションマッピングの時も、予約した時は行く気アリだったのに、当日1時間前になったら「誰かに会うかも」と泣いてドタキャン

と思ってましたが、もうそろそろ先生が来るって時間になったらKK、こないだ始業式の日に預かってきた提出プリントをなにやら作成中。おおてことはとりあえず初回は会おうという気があるんだな?
かなり胸をなでおろしましたが、しかしそのプリントがまたなんとも
好きな教科や趣味などを書く「自己紹介」なんですが、「自画像」がなんと仮面 う~~むハイドユアフェイス@hideか 「今のKKは作ったキャラ」宣言か~。しかしそれをここまではっきりと訴えるのはむしろわかりやすくてよろしとも思えるというかなんというか

そういやママが高校の頃、国語の先生か誰かが「自分は学校で「演じている」か」みたいなテーマで作文を書かせたことがあったんだけど、「クラスの友達相手に演技する理由がわからない」と否定した内容を書いたのは、クラスでたった1人で、他は、あの悪ガキも優しい同級生ももちろん私も、み~~~んな「演技している」と書いたってことがあって超びっくりしたっけ。「そんなふうにしてるのは私1人」と若干超越気味に思ってたもんで、「みんなそうなんだ」とその時初めてわかって、かなり大量に目からウロコが

といったことをKKに話すと、「いじめられてない人が言う「演技」と、KKが言ってる「演技」は違う」と。
うーんそうなのかなあ。深刻さが違うのかな?けどこういう「仮面をかぶってる感覚」って、社会で生きてる人は多かれ少なかれ必須の感覚だと思うんだけど。なんたって「個人」や「個別性」を表す「パーソナル(パーソン)」って言葉自体が、うろ覚えだけど、元々は「ペルソナ」=「古代ギリシアだかローマだかで、演劇する時につけた仮面」から来ているんだそうだから。
そういうことを話せる友達もできるといいのにね。ていうか意外と、普段面白おかしいつきあいだけしてるって思ってる友達に言ってみると、「実は俺も同じこと考えてた!」ってなるかもしれないのに(少女マンガ的願望

というわけで、準備しつつハラハラドキドキと待ち構えて夕方、ついに先生とKK初対面!
結果から言うと、「案ずるは生むが安し」でした~~

先生がお説教モードではなく、あくまでおとなしやかに、しかし話すうちに「KKは何が好きなの?」とかもはや呼び捨てでなんというか、「近所の気さくでかっこいいお姉ちゃん」みたいな雰囲気をかもし出してたのがよかったのかな?(ちなみに先生、着任1ヶ月弱にして既に、他の子もみんな下の名前呼び捨てです
新任先生なので、同級生誰かれの話を「あいつはこういう奴ですよ」「そうなのか!知らなかった」みたいな感じで、つまり「先生がKKに教えてもらう」みたいな形で話しつつ、新しいクラスの雰囲気を教えてもらえたのもいい感じ もちろん「学校に来い」という話も一切出さず。

この日はお互い「顔見世」という感覚ですが、わりとなごやかに雑談しつつ、以前ママが先生にお会いした時に言ってくださったあれこれ、すなわち「KKには可能性がある!」「未来は開けている!」などを織り交ぜて、結局1時間くらい話してくださったのかな。
帰り際には「これからも週1くらい、KKに会いに来ていい?」と、親が伏してお願いしようと思ってたことを、先生自らKKにおっしゃってくださりm()m
KKも玄関までお見送りに立ち、おおこれはもしや「つかみはOK」状態!?
以前だったら先生が帰られた途端にブーブー出る文句や不満も、今回はなく、どころか妙にハイテンションになって弟と遊ぶは、夕飯の支度を手伝うわ
「これは好感触♪」と思って夕飯の時「先生の印象どうだった?」とウキウキ聞いてみたら、KKいわく「フツー」。
あれっなんか感動薄いな~~。けど前の先生よりはいいでしょ?(と焦って余計なことを言ってしまうママ) 「前の先生なんて問題外。問題外過ぎてもう別世界の人間だって切り離してるから」(ってひでーこと言ってますが、それはそれでいい対処法だなと思うママ

後日、病院の心理カウンセリング(相変わらずKKは行かないのでママのみ)で、カウンセラーさんに初対面のこと及び「フツー」という印象について話したら「それはいいですね!!
カウンセラーさんいわく「中学男子が先生のことを「すごくよかった」なんて言わないと思います。「フツー」っていうのは「けっこういい」ってことだと思いますよ」と。なるほどーー

そして次の週から、先生ほんとに毎週いらっしゃって、1時間くらいKKとしゃべってってくださるのでした。
忙しいだろうにな~~~。ほんとに、ありがたいですm()m
何より、KKが先生に会うのを(今んとこ)拒否してないことが、ほんとにほんとにありがたいです~
(実は5月はじめ、1度だけ拒否しかけたことがあったのですが、その話はまた次回に

テーマ : 不登校 - ジャンル : 学校・教育

美味しんぼ問題

先生とKKとの面談あれこれとか、夏ディズニーのホテル予約状況とか。
書きたいことは色々あれど、まずはいちばんビックリしたこのネタを

鼻血うんぬんで「美味しんぼ」が炎上してるらしいのは知ってましたが、朝のワイドショー「スッキリ」でも取り上げられるとは!しかもワールドカップ日本代表ネタを抑えての冒頭特集で!

美味しんぼって、そんなニュースネタになるほど影響力あった=読者が多かったのか!?
まあそう言ってる私も、単行本が出れば買ってる1人ではあるのですが

私と美味しんぼの出会いは、確か小学生か中学生の頃。
朝日新聞の日曜版みたいなやつに、1話まるごと載ってたんですよね。中国残留孤児の人が、山岡士郎の探してきた「黒い魚」を食べて、肉親に関する手がかりを思い出すという。
戦中派の両親(加えて父は満州帰り)を持ったためか、当時から太平洋戦争に興味あった子供としては、「あの時みんなで食べました。父も母も姉も。みんなで食べました。とてもおいしかった」と登場人物が泣くという話が琴線に触れたのもさることながら、「こんなマンガがあったのか。大人用のマンガもけっこう読みやすくて面白いんだなあ」と初めて思った「大人用のマンガ」で。

長らく読んでいくうちに、コメ牛肉問題とか韓国人への差別とか浮浪者へのまなざしとか色々出てきて「ああこの作者って昔ながらの反米左翼なんだな」という印象を持ったものの、私自身も作者に近いスタンスなのでそれはOK
まあ長良川河口堰とか三浦の海とか、世論をかきたてようという意図がどんどんあからさまになってきたり、浮浪者辰さんと「浮浪者を差別しない」というポリシーで付き合ってるけど、それって差別意識に裏打ちされたポリシーよねとか。
(それがよくわかるのが、茶人へちかんの回。大茶人が浮浪者たちと一緒にお茶を楽しむところを目撃して、岡星さんが「素晴らしい。これこそ本物のお茶です」って目をうるうるさせながら言うんだけど、それって「あんな浮浪者ごときとつきあうへちかん先生の心の広さときたら」という、いわば目をうるうるさせるほど浮浪者を下に見てるからこそ湧き上がる感動であって(^^;))
そんな感じで、全面的に同意!って思いながら読んでたわけじゃないですけど、それも含めて(色んな意味で)面白く、また料理ネタが純粋に楽しくて、好きなマンガです。私の中では47巻・山岡と栗田さんの結婚話までがピークだったかなあ。

先週・今週の鼻血話は、実は雑誌では読んでなくて、twitter及び「スッキリ」でしか見てないんですけど印象としては「あーやっぱしな」。
元々この作者、「安心な食材」というのをものすごーーーく重視してましたもんね。農薬なんてもってのほかみたいな話は美味しんぼで散々描いてたし。こういう「エコ」って現在、サヨクの一環を形成するものとして確実に存在してると思うのですが(私はサヨだけど、エコ方面への関心はナシ)、美味しんぼを読むと、そういう「エコ」が、「反米」とか「大企業≒国家への反権力」といった思想に結びつくからサヨクになるんだなとよくわかる気がします
(あ、でもこれは作者みたいな筋金入り「左翼」で、サヨク系だと「反米」「反権力」じゃなく「無知な人たちは早死にするけど、知ってる私は長生きできる」という個人主義(?)や、「私だけが助かるんじゃなく、無知な人にも教えを授けて助けなければ」という啓蒙主義(?)の方が強い気が。ってめっちゃ偏見

で、長年「美味しんぼ」を読んできた読者としては、福島の原発事故が起こった時、作者はこれをどう描くかが、不謹慎ですけど興味シンシンだったんですよね。筋金入りの左翼体質な作者としては、風評被害を蒙ってる農家を含めた、福島の被災者に同情し、寄り添わずにはいられまい、しかしエコ体質としては「風評被害だ、福島がんばれ」と言い切ることもおそらくできまい、さあこの矛盾をどう描く!?という、ちょっとイジワルな期待が。
(そういえば、似たようなジレンマに陥った回として「タイ米の味」という話がありました。山岡士郎が味的に絶対に認められないはずの「タイ米」を、「タイのお百姓さん今までまずいまずい言っててすんませんでした」というスタンスで描きつつ、しかし山岡の口から批判はさせず「物知らずな」副部長に代弁させてるあたりが「コスい」と思ったもんです。アメリカ米のことは批判しっぱなしなのに、アジア≒弱者相手だと途端にこのスタンスかいとか
あとそうそう、先立って、岩手・宮城の被災地をめぐる巻が出た時も、内容には文句ないけど「あー福島のことから逃げたな」と思っちゃいました
しかし110巻「福島の真実1」では、思ったよりもそこら辺が両立されていて。
北会津の農家さんとか出てきたんですが、今までの美味しんぼのスタンスなら「ゼロベクレル以外は認めない」になりそうなところ、意外と「これは風評被害だ」と山岡たちが批判する話とかも出てきて。
さらに「実は山岡の根っこは福島にあり」なんつー、「絶対後づけでしょ」的な思わせぶりなエピソードも出てきて、111巻を首長くして待ってた今日この頃なんですが。

ここに来て、いきなり反対側に針が触れたのかな?という印象は否めません。読んでないけど
まあ会津と双葉町ではやっぱり線量が違うし、会津に住めるからって双葉町にも住めるなんては言えません。しかし逆に言えば、双葉町に住めないからって会津にも住めないともやっぱり言えないわけで(「スッキリ」で「だから私は福島県内に住むなと言ってるんです」みたいなセリフが映し出されてて、あららららと

放射能による鼻血、しかもたかだか何度か取材に来たくらいで鼻血が出るくらい被ばくしたってんなら、それ以外の、ぶっちゃけ命に関わるくらいの身体症状も出ているはず。そもそも原発作業員はどうなんだ。等々の批判はまったくそのとおりだと思います。
また「で実際、鼻血は出てるのか?」と疑問に思う県外の方向けに、会津在住の私の知る、狭~~い範囲では、ですが。
出てません
我が家では大人も子供もここ5~6年、鼻血出たことありません。周囲の人からも聞いたことありません。
井戸川さんは「言わないだけです」って言ってたみたいですが、私思うに、そういうのは「口に戸は立てられない」類の話題だと思います。だって他所から来る取材者じゃない、住民にとっては文字通り、命がかかってるわけですから。
仮に、いっくら「風評に繋がるから言わないようにしよう、騒がないようにしよう」という意識があったとしてもですね、実際にそこここで鼻血出す人が増えてたら(取材に来たくらいで鼻血が出るなら、そりゃもう住民の間では鼻血多発なはずですよね)「あらおたくも?」「やっぱり放射能の影響なのかしら」って、自然~~に話題になると思いますよ~~。むしろ「風評になるから言わない方が」なんていう全体主義的ストッパーがかかってる状態であればあるほど、「でもそうは言うけど心配だ」っていう思いを吐き出すため、余計に話題になると思います。繰り返しますけどこっちは命かかってますから。
(実際、2011年頃は「来週子供が○○町に合宿で行くんだけど、線量高いから心配だわ」なんていう井戸端会議in会津もありました。でもその時でも「最近鼻血が増えてるみたいよね」なんて話は聞きませんでしたけど)

そして今、町は平常運転です。
どう贔屓目に見ても、鼻血が増えてるようには思えません。
中通りや浜通りには、何回かしか行ったことないけど、たぶん同じ感じじゃないのかなあ。そんなに、ピリピリした感じはしないもの。町も新聞もTVも。
県外の方に、ぜひともそれだけは知っていただきたくm()m

余談ですが、どーーも私、美味しんぼ作者の、今回の福島に対するスタンスって、前述した浮浪者辰さんへのスタンスと同じだなあと思うんですよね。ある意味自分の無意識に正直なんだけど、ある意味理念が先走ってるというか、「浮浪者とも仲良くできるこの俺ときたら」が先で、つまりまず「浮浪者」という無意識のカテゴリーありきで、それをある意味利用して自分を良く見せてるというかなんというか。たぶん作者ほんとに、心から「差別」とかが嫌いなことは間違いないとは思えるんですけど。そんでこれは私も含め「差別嫌いなサヨクが陥りがちな差別」ではあるんですが。

ともあれ、それでも美味しんぼ111巻、そして今回の話が載ってる112巻の発売も待ってます 長年読んできた読者としては、海原雄山と奥さんの馴れ初め、及び山岡が海原雄山を父と呼ぶところは、ぜひとも読まずにいられないのでね~。
(てか110巻には「111巻は2月発売」って書いてあったのに、どうしたんだー

テーマ : 福島県 - ジャンル : 地域情報

ありがとなし

今回は番外編です
ずいぶん前に、ばーちゃんが見た夢の話なんですが、私的にとっても覚えておきたいことだったので、備忘録として。

あれは1月後半、KKの不登校が始まって、1日中何をしてもしなくてもママは泣いてばかりだった頃
母ことばーちゃんから電話がありました。
80歳一人暮らしのばーちゃんとは、1ヶ月に1度くらい連絡を取り合って、近況報告等お互いの無事を確認するのが常で。
この時も「ダンナさんのウツはその後どう?」みたいな話の流れで「加えてKKが不登校になっちゃってさ~マイッタマイッタ」などと近況報告。
するとばーちゃん驚きつつも「やっぱり!」
「実は2~3日前、久しぶりにじーちゃんの夢見てね~。それでダンナさんかKKに何かあったんじゃないかと思って電話したの」

(以下ばーちゃんの夢の話です念のため

ばーちゃんちの縁側になぜかダンナとKKがいて、庭を眺めながら2人で何か話し合っていたそうです(私はいなかったそう
ばーちゃんはそんな2人の後姿を、茶の間に座って眺めていて。
と、ふとKKがばーちゃんの方を振り返って、超びっくり顔で「あ、じーちゃん!?!?」
「ええっ!?」とばーちゃんも驚いて振り返ったら、茶の間に亡くなった父ことじーちゃんが立ってたんだそうです。生前よく着ていた紺色の着物着て、ニコニコして。
で、「おお~。KKか?」
続けて
「おっきくなったなあ」

・・・ここら辺からママ泣きモード突入 いえね話を聞いてると、じーちゃんの声が耳元によみがえってくるみたいで
じーちゃんが亡くなったのは、KKが小2か小3くらいだったから、中学生になって声変わりしてるKKなんて、ほんと初対面なんですよね。
今のKKを見せてあげたかった。じーちゃんより背が高くなって、「艦これ」のおかげで武蔵だ赤城だと話すKKに会わせたかったな~~。「おおついに俺と語り合える奴が現れた」って、じーちゃんすごく喜んだかも 二度と会えないけど。

「KKは今何してるんだ?」
と、続けてじーちゃんはニコニコと問いかけたんだそうです。
しかしKKは、超びっくり顔のまま固まってて声も出ず(←この姿も思い浮かぶ~と泣き笑い)
ダンナが横から助け舟を出すように
「KK今ね~自動車の免許取りに行ってるんですよ
と答えたんだそうです。
ばーちゃんが「ええっKK中学生よね~?今って中学生でも免許取れるのかしら??」と思って驚いてると、じーちゃん
「それはいくらくらいかかるんだ?」
ダンナ答えていわく「3000円くらいかな~」
「またダンナさんったら気を使って~。3000円のはずないわ」
とまたまたばーちゃんが思ってると、じーちゃんがふところからごそごそ財布を出して、お札を出そうとしてるんだそう。
でばーちゃんが「あらじーちゃん。お財布出すんなら私が今持ってきますから」と、隣の部屋へ行って、戻ってきたら、みんないなくなってて、目が覚めた・・・

うお~~~んおんおんうお~~~~~んおんおんおん

泣きっ放しの時期だったこともありますが、この時も受話器を耳に当てながら号泣でした。
夢の中のじーちゃんがすごくリアルで。ニコニコ顔から口調から、ふところごそごそやるしぐさまで、ぜーんぶ思い浮かんで。
あーそうだじーちゃんってこういう人だった、口ベタだけど必ずこうして助けようとしてくれる人だった。
亡くなってからも信じられる、そんなお父さんでいてくれて、ありがとうm()m
まこれは幽霊じゃなくばーちゃんの夢なので、一番感謝すべきはそんな夢を見てくれたばーちゃんに対してなのかもしれませんけど

「八重の桜」で、亡くなったジョーが八重の肩に手を置いて「亡くなった人はもうどこへも行きません。あなたのそばにいて見守ってます」と語りかけ、八重が「ありがとう・・・ありがとね・・・ありがとなし」と泣き崩れるシーンがありましたが、気分はまさにあれ!
じーちゃん、死んでからもKKに力を貸そうとしてくれてるんだね。見守ってくれてるんだね、じーちゃんもばーちゃんも。
そう思えるのが、とてもありがたいです。

ありがとう。ありがとね。ありがとなし・・・

テーマ : 不登校 - ジャンル : 学校・教育

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。