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大河ドラマにドラマあり~後編

会津図書館で見つけた本「大河ドラマの50年」。
著者・鈴木嘉一氏は昭和27年生まれの、読売新聞記者。
大河ドラマには仕事ではもちろん、個人的にも大きな関心があり、製作現場やご当地ロケ、俳優へのインタビューや関係者およそ1000人以上に、以前から取材を重ねてきたのだそう。

そんな「併走者としての視点」から書かれた、歴代大河ドラマのエピソード及び時代背景の数々。
主役や脚本家が交代するといった前代未聞のハプニングが起きるも、「当たらない」というジンクスがある幕末モノとしては、最高視聴率30%超、平均24%の大健闘で終わった「勝海舟」からの続きです。

とはいうものの。
続く「元禄太平記」「風と雲と虹と」「花神」の頃って、「ええっ」と驚くようなことがあんまり。
いえね原作者・海音寺潮五郎が初回冒頭で解説として出演した(「風と雲と虹と」)とか、世相と日付もあいまって最高視聴率41%超を記録した(「元禄太平記」)とか、個別に面白いエピソードはあるものの、子供過ぎてリアルタイムで見た記憶がないせいか、どうにも思いいれが。もちろんこれ以前の大河だって、見た記憶どころか生まれてもいないわけですが、やっぱり作り手側が試行錯誤している時代っていうのは、読んでるだけでワクワクするのよね~

ここら辺は目次でも「安定期」に分類されてます。視聴率も決して悪くはなかったけれど(もっとも「花神」は「幕末モノは当たらない」のジンクスを破れなかったそうですが)、一種のマンネリズムに陥ってた面なきにしもあらずだったのでしょうか。

というわけで「花神」の後をうけて、ついに登場するのが「黄金の日々」ジャジャーン!ジャジャンジャジャンジャジャーーン!ジャージャージャーーン!ジャージャーーーン!
スミマセン、もう「黄金の日々」という言葉を聞いただけで、あの壮大な、夕陽のタイトルバック&N響のテーマ曲が頭の中に。
私の大河ドラマの記憶は、まさにここから始まります♪子供心に松本幸四郎(当時は市川染五郎)のカッコよさに胸ときめかせ、根津甚八や川谷拓三の処刑シーンは今も覚えているほど印象に残りました。おそらく話の筋はまったくわかっちゃいなかったと思うのですが、あのテーマ音楽が始まるとワクワクしたのを覚えています。おかげでいまだにこの音楽が好きなくらい。

「黄金の日々」は、安定してきた大河ドラマのマンネリズムを打破すべく、色々な点で新機軸が打ち出された画期的なドラマだそうで。
まず主役が、それまでの有名武将や時代劇ヒーローではなく、堺の商人という一介の庶民。
従って内容も、それまでの為政者側からの視点ではなく、庶民の、経済の視点。
主役級には市川染五郎に、「状況テント」の根津甚八、「ピラニア軍団」の川谷拓三といった、意表を突くキャスティング。そして初めての海外ロケe.t.c.

私が一番好きな大河ドラマ時代って、ここら辺の「黄金の日々」や「獅子の時代」なんですが、この製作者側の「なんか新しいことを始めよう」というワクワク感が、内容とあいまってこっち側まで伝わってきてたのかな~なんて思います。さっきも書きましたけど、このころの大河ドラマって子供心にほんと、オープニング曲を聴くだけで、うわ~始まるぞ~っていうワクワクが押し寄せてくる感じでしたから♪
大河ドラマとの幸せな出会いだったと思います。

ちなみに五右衛門釜ゆでシーンで、「背面から飛び込む」という演出をしたのは根津さん本人だったそうです。そんなことして釜の縁に頭をぶつけたらとおののく演出陣に対し、根津さんいわく
「見物人に、ひいては権力に対してまっすぐ向き合いながら死んでいきたい」
ヒュ~かっこい~~ 確かにあの、見物人に向かってニヤ~と笑ったまま仰向けにぶっ倒れる根津甚八の姿は、カッコよすぎていまだに脳裏に焼きついてます

次の「草燃える」は、しかしまったく覚えてないんですよね~
若い御家人が「なんちゃって」という流行語(今は死語)を口走るなど、あえて現代語調のセリフを取り入れて、賛否両論を巻き起こしたそうです。あ~バンツマ好きで「花の生涯」から見てた父ことじーちゃんあたりは否っぽいな~ だから覚えてないんかな~?音楽は個人的に、歴代大河ドラマの中で一番好きですけど(2番目は獅子の時代)

てなわけで、次はいよいよマイ大河ベスト1!
「獅子の時代」の登場です!ダッダダダダッダダダダッダダダダッダッダッダッ
スミマセン、今頭の中がライオンとダウンタウンブギウギバンドでいっぱいになっちゃって

これも色々新機軸を試みた大河ドラマらしくて、例えば初の、原作なし・オリジナル脚本。NHKドラマ「男たちの旅路」が大ヒットした山田太一さんが脚本を手がけました。
「男たち~」は「山田太一シリーズ」「向田邦子シリーズ」など、いわゆるNHKの「脚本家シリーズ」のうちの一作。このシリーズは「勝海舟」での倉本降板という事件を受けたNHKが「脚本家をもっと大事にしよう」と体制を見直したところから生まれたものだそうです。ちなみに「男たちの旅路」の主演をつとめたことで、山田太一脚本に惚れこんだ鶴田浩二は「山田さんのホンならいつでもスケジュールを空ける」と言い、「獅子の時代」では大久保利通役を快諾。う~ん1つ1つがドラマのようにつながってきますね~♪

そして取り上げる時代は明治。
今まで幕末維新は描かれても明治は描かれたことがなく、また幕末・敗者側の架空人物という設定は「三姉妹」であっても(「三姉妹」では次女が会津藩に嫁いでます)、旗本よりも草の根に近く、激動期の荒波をもろにかぶった民衆の側から明治を描いた大河ドラマは初めて。秩父事件が取り上げられるのも初でした。海外ロケは「黄金の日々」以来ですが、大河ドラマなのにフランスから始まるという驚かしも、やはり画期的。
そういえばこのドラマも「八重の桜」同様、会津人が主役なんですよね。実は会津に引っ越してから知ったんですが(何見てたんでしょうね~)、知った時は今更ながらにうれしかったです

このドラマはね~、「なんでそこまで?」ってくらい好きでした
つっても話の筋は「黄金の日々」同様ほとんど覚えてないんですが、この音楽聴くともうワクワクして。日曜20時がほんと楽しみで、しまいにはTVにマイク近づけてオープニング曲を録音した記憶も。
おそらく今の言葉で言えば「萌え~~」だったんだと思います あの男くっさい、泥水はいずりまわるような痛めつけられ方。やられてもやられても反抗する男の美学(??)に、じゃっかんサド混じりな魅力を感じつつ、子供心に萌えていたんだろうなと

その点、菅原文太の起用は大当たりでしたね~♪小学生女子まで萌えさせたんですから
「仁義なき戦い」や「トラック野郎」などで大スターとなっていた菅原文太。今でこそ釜ジイあるいは「朝日ソーラーじゃけん」のおじさんですが(いやそれすらも昔か?)、当時は「TVに出ない最後の大物」と言われていたそうです(余談ですが「古畑任三郎」の「過去の大物刑事」という設定はピッタリでしたね~)。
出演に当たってはこんなコメントを。
「ありきたりのTVドラマじゃ、俺が出る意味がない。従来のものに対し、どこまで突っ張れるかが勝負だよね。俺も日の当たる場所を順調に歩いてきたわけじゃないから、銑次と重なる部分は多いんだよ」
さすが文太兄ィ やっぱし兄ィはこうでないと

ちなみに正反対のクールビューティ・加藤剛も好きでした 当時「キャンディキャンディ」とかも好きでしたが、女子は大体において、テリィタイプとアンソニータイプ、両方とも好きなのよね♪ なので「獅子の時代」、女子的には、クール&ワイルドなキャラ設定、及びその2人が敵同士で親友という萌えな構図だけで、もはや勝ちを約束されてたと思います

もっとも視聴率は、最高26%、平均21%と、賛否両論だった「草燃える」より低かったのですが
しかしテレビ大賞の優秀番組賞を受賞するなど、評価は高かったそうです。そうでしょうそうでしょ~~♪

そうそう大好きだったオープニングテーマ曲にも「エレキとN響の融合」という新しい試みがありました。
これは演出陣がプロデューサーに対し
「明治時代を命がけでやるというなら、音楽はダウンタウンにしてくださいよ」
と膝詰め談判したところから始まったのだそう。ってどんな理屈なのよ「明治時代ならダウンタウンブギウギバンド」って 単なるファンか??
「エレキが通るわけがない」「俺の首を飛ばす気か」との現場の声はもちろん、NHK交響楽団も当初は渋り、宇崎竜童も「N響とできるわけがない」と危ぶんでいたそうですが、最終的にはOKが出て
演奏後はN響の人たちが「いやあ、面白かった」と言ってくれたそうですいい話だ~。しかしちょっと「エレキ(死語)」が入るだけで首が飛びかねない時代だったのか~
ちなみに本編に「OUR HISTORY AGAIN」というモロに宇崎&ダウンタウンな挿入歌という試みも。
この曲はあんまし好きじゃなかったんで、個人的にはどうでもいいんですがしかし後年「幕末青春グラフィティ」と題したドラマシリーズが民放であって、ビートルズやS&Gの歌をバックに坂本龍馬や福沢諭吉といった当時の若者が活き活きと動いてるのを「こういうドラマ好きだなあ」と思いながら見てたもんですが(のちに映画にもなりましたね。吉田拓郎の歌で)、お堅いNHKがお堅い大河ドラマで、そういうのも既に先取りしてたってのはやっぱりすごいな~と。

ああ今回で終わるつもりだったのに、「黄金の日々」と「獅子の時代」だけで予想外の長さに
次回に続きます~
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大河ドラマにドラマあり~前編

もうすぐ師走。早いですね~。
会津では初雪が降り始めました
年が明けたら、いよいよ会津が舞台の大河ドラマ「八重の桜」が放送開始です♪

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「大河ドラマ館」も着々準備。平成25年1月から1年間オープンだそう。

しかし我が家の日曜8時は「イッテQ」なので、「平清盛」は1回も見たことなし。それどころか「江」も1回も。「龍馬伝」は総集編をちらっと。「天地人」は新潟が盛り上がっていたにもかかわらず「ガクトが出たらしいね」「紅白にも出たらしいね」というガクト情報を知っているのみ(と思っていたら「天地人」じゃなく「風林火山」だったそうですね というわけで「天地人」も「風林火山」も見たことなし)。

今でこそこんなテイタラクですが、子供の頃は毎週のように見てました
そもそも昭和の家庭には「日曜8時は大河ドラマ」という不文律がどーんとあって。
一家に2台以上のTVもゲーム機もなかった子供は、逃げ場なく親と一緒に見ざるを得なかったんですよね 大河ドラマに別れを告げて一人自室でTVを見るようになったのは「天才・たけしの元気が出るTV」の頃だったかな~

そんな大河挫折者も「八重の桜」のおかげで、再び大河ドラマに思いを馳せるようになった今日この頃(思うだけで相変わらず見ちゃいませんが
折りしも会津図書館で「大河ドラマの50年」という本を見つけました。
これがま~、懐かしさと驚きがテンコモリ!もはや大河ドラマの歴史自体が、一つの大河ドラマのごとし。

そもそも、初めて大河製作の大号令を出した「長澤親分」ってのがすごい人で。
なんたってNHK入社が2.26事件の年。報道部の駆け出し時代は、日独伊三国同盟締を締結して帰国した直後の松岡洋右に単独インタビュー成功。太平洋戦争中は陸軍宣伝班でシンガポール攻略戦に従軍。有名な山下中将「イエスかノーか」の会談にも立ち会ってたという。終戦記念日には宮内庁から届けられた玉音放送の録音盤を、スタジオまで運んだ1人。
この、主役にすればそれだけで1本の昭和史大河ドラマができそうな、濃い経歴の持ち主・長澤泰治氏が、昭和37年・テレビ放送10周年にあたり
「映画にも負けない日本一のTVドラマを作って、日曜の夜に全国の視聴者をこっちに向けよう」
と考えたのが、今に続く大河ドラマの始まりだったのだそう。
「俺は芸能には素人だから、お前らの好きにやれ」
と言いつつ、自分が知ってる映画スターを列挙して
「思いっきり派手にやりたいから、今言ったの全部連れてこい
という無理難題とともに

なんでも当時は「五社協定」てのがあったんだそうです。すなわち東宝・松竹・大映・東映・新東宝による「劇場用映画はTVで放送させない」「映画会社の専属俳優はTVに出さない(=ための許可制)」という。
TVがまだ「電気紙芝居」と蔑まれていた頃。当の俳優さんからも「顔がゆがんで映るTVには出たくない」と言われていた時代。ゆがんでたんですかTV映像 そういや「編集」という作業がなかった頃は、ドラマの「時間が止まる」シーンでは、皆コントのようにぴたっと動きを止める中、背景の壁時計がチクタク動いてたなんて伝説を聞いたことあるなあ 今じゃ信じられない、TV創世記。

無茶にもほどがある長澤親分の厳命に
「素人は怖い。できっこないよ」
と当時のプロデューサー(という言葉もその時はなかった)は恐れおののきつつも
「映画を電気紙芝居が見返してやる」
との信念を胸に、渋る映画会社や俳優のもとをかけずりまわり、毎週のように佐田啓二の家に通いつめ、幼い息子の遊び相手などをつとめつつ、ついに主演OKを勝ち取ったのだそうです。
それが第1作「花の生涯」。ちなみに当時1歳だった息子の中井貴一も、後に大河ドラマ「武田信玄」で主役をつとめます。

それから「赤穂浪士」「太閤記」と、最初の3作で既に現在の骨格ができていたのに驚かされます。娯楽大作時代劇、あるいは歴史ドラマ。さらに「順撮り」ではない「抜き撮り方式」など、今なら当たり前だけど当時にはありえなかった工夫の数々。現代の映像や解説などを挟むのも、「太閤記」で既にあった手法だったとは。
そういや「赤穂浪士」の音楽とか、生まれる前なのに知ってるもんなあ。当時の大河ドラマってエポックメイキングだったんだな~

そうそう「太閤記」の配役の決まり方も面白かったです♪
「秀吉=サル顔の役者」という条件のもと、田中邦衛やジェリー藤尾が候補に上がるも、「新国劇に有望なサル顔の若手がいる」との噂を聞きつけ、その若手には理由を言わずに笑った写真を撮らせてもらい、NHKに戻って写真を見せたら即決したという、緒方拳
とある俳優の付き人が非常に堂々としている=信長にぴったりとのことで、正式決定しないまま、NHK局内の部長会にその付き人を連れて行き、彼が「信長です。よろしくお願いします」と一礼したら、その堂々とした態度に思わず拍手が起きて決定したという、高橋幸二。放映時の人気はすごくて「信長を死なせないで」という女性ファンの声が殺到し、本能寺の回は2ヶ月遅れになったとか。
当時まだ慶大生だった石坂浩二にいたっては、「頭が良さそうに見えるから」と写真だけで三成役に決まったという
こういうのを「古きよき時代」と言うのでしょうか

「竜馬がゆく」では、演出家が途中降板。和田勉と交代という前代未聞のハプニングが。
和田勉ってのもまた昭和人には懐かしい名前ですが、そうかNHK出身だったのね。
演出家の降板理由は「(撮り方が)脚本家と合わなかったから」なようですが、同時に「このドラマのために大阪から単身赴任してきた演出家と、東京のスタッフたちとの意思疎通も充分ではなかったよう」。
ああこういうの、ありそう~~。歴史上の人物が引き起こした出来事あれこれも、意外とこういう見落としがちな、感情の積み重ねみたいなことが史実の裏に存在していて、今や知る人もないまま重要なキーポイントになってること多々なんじゃないかしら?

「幕末モノは当たらない」というジンクスを作ってしまった「竜馬がゆく」の後、大河ドラマの人気を回復した、カラー第1号の「天と地と」。
ここで出てくる「川中島の合戦」、ロケ現場はなんと福島県相馬市だったそうです!もちろん相馬野馬追いがあるから♪
この「天と地と」の人気の裏で、視聴率競争を繰り広げる他局の番組は苦戦を強いられ、コント55号は「裏番組をぶっ飛ばせ!!」というなりふり構わぬ公開番組を始めたものの、そのあまりにもなりふり構わない内容に良識派から集中砲火を浴び、1年後に撤退したとか。う~むそんな大河ドラマ、今では考えられん

「勝海舟」の時は、脚本家の倉本聰が降板という事態に!
「僕が直接、役者さんと出演交渉をするもんだから、演出人の一部は「越権行為だ」と面白くなかったんじゃないか。民放で書くときと同じく、本読みには必ず参加し、色々注文を出したが、それも反感を買ったようです。僕の居ないところで勝手にセリフを変えられ、何度も不愉快な思いをしました」@倉本聰
そういえば三谷幸喜が
「TVドラマの時の脚本家は、自分の劇団のように演出からすべて手がけたい人と、できた脚本はTV側にすべてお任せする人の2タイプあり、どちらがいい悪いではないが僕は後者」
て言ってたなあ。特にNHKなんかプライド高そうだから、倉本タイプはなおさら受け入れられなかったんだろうか。
ここら辺の製作側との軋轢が女性週刊誌で報じられてしまい、信頼していたNHKドラマ部長とともに謝りに行くも、NHKのスタッフルームで「まるで糾弾集会」と語ったほどのつるし上げ状態となり、打ちのめされた倉本さんはその足で、羽田空港から北海道へ向かったのだそうです。悔し涙をサングラスで隠して
そのまま北海道で脚本を書いてNHKに送るというスタイルを続けましたが、結局体調を壊し入院したところで降板。
しかしこうした事件があった後、NHKは脚本家との関係及びドラマ部門の体制改善をめざし、また倉本さんも自身がいつの間にか傲慢になっていたことに気づかされた北海道に本格的に移住し、双方次々ヒット作を送り出す結果に。
「東京にいたら周囲にチヤホヤされて天狗になり、いずれは自滅していたことでしょう」
「NHKと衝突し、降板した事件が大きな転機になりました。多少の皮肉も込めて「今の自分があるのもNHKのおかげ」という気持ちですよ」@倉本聰
う~むこれまた、大河ドラマにドラマあり!

ああ~~また長くなっちゃった
実はここからが一番書きたいところで というわけで続きます。

テーマ : 大河ドラマ - ジャンル : テレビ・ラジオ

東山グランドホテル初潜入♪

会津若松も紅葉の季節・・・

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・・・はすっかり終わって、今は枝がシルエットになってますが
紅葉がちょうど見頃だった先々週あたり、電話をくれた白根のジジババちゃん曰く「今ね~会津にいるのテヘペロ」
ヤヤヤヤバイ掃除機かけなきゃ買い物行かなきゃと、不出来な嫁は突然のジジババ襲来に電話持ったまま早くも腰浮かせかけますがおそらくはそれを見越してるジジババちゃん優しく「いやいや部屋でのんびりしてるからいいよ。それより今日の夕飯、東山温泉で一緒にどうかと思って」という、ありがた~~~いお誘いを

というわけで、皆でありがた~~~く行ってきました東山温泉グランドホテル♪

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「でっか!!」@KK
なんだか高そうで足を踏み入れたことがなかったグランドホテル。夜の暗~い東山を、行ったことない奥地までず~~っと行って、「ほんとにこの道かしら?」と不安になった頃、どーんと光り輝く巨大ホテルが!
想像以上に大きいホテルでびっくりしました

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中も真正リゾートホテル♪
TDRや沖縄のリゾートホテル大好きなKK&Uは、久しぶりのジジババちゃん再会の喜びとあいまって、もうテンションMAX

もっとも部屋は普通~の和室で(しかもけっこう年季が)
これまたお久しぶりのババちゃん姉妹4人+ジジちゃんとで、新津から格安バスツアーで来たんだそうです。
ヤバイ、ジジババだけかと思って薄皮饅頭1箱しか持ってこなかったよ(「ババちゃたちも一緒って言うと遠慮して来ないかと思ったのテヘペロ」@ババちゃん)
ちなみに新津からのバスは満員御礼状態だったらしく 確かにホテル前には、他に県外ナンバーの大型バスが何台も、駐車場もけっこういっぱいと、風評が収まりつつあるうれしい光景が

お風呂も広~~~くてよかったです。
シャンプー類は大江戸温泉グループ共通の、馬の油&お茶石鹸。すんごく髪がしっとりしてお気に入りです♪
サッパリしたら、お待ちかねのバイキングへゴー♪

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壁際にずら~っとお料理が。
シューマイ、エビフライ、グラタン、ハンバーグ・・・うん、まあ普通かな

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おっ和食コーナー、サワラの西京味噌漬けとかヒジキとかおいしそうだぞ。
でもまあ、普通のお惣菜かな へ~~おでんがあるのは珍しいな~~

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ぱっと見、可もなく不可もなくって感じかな~??とりあえず全品制覇してみるか
と、エビチリやウズラフライなど、端から順番に1個ずつお皿に乗せてたらやってきたダンナ
「向こうでステーキ焼いてるぞ」
なぬステーキ!しかもその場で!?
それは聞き捨てならんと、お皿を半分埋め尽くしたところで中断して、奥の方へ行ってみると

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うおっほんとにその場で焼いてる!しかもけっこうシモフリだああ!!
おっと横には天ぷらまで!会津名物天ぷら饅頭もしっかりあるぞ

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ああっ何これ!隣のテーブルには、寿司が鯛の舟盛りが~っ!!

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お皿をウインナやシューマイで埋め尽くしている場合ではなかった~~~
しかし高級食材を見せる前に、やっすいお惣菜で腹いっぱいにさせておこうとは、鬼だなグランドホテル
というわけでこれから東山グランドへ行く方、「まずは奥地へ」が合言葉ですよ

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カニも食べ放題
皆さんどんなのを食べてんのかと、通りすがりにチラ見したところ、カニ率高かったです。カニ殻をうず高くテーブルに積んでるグループ多々
ママもやっすいお惣菜をわさわさと平らげ、奥地の刺身やデザートに突入

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メロンや各種ゼリーがずら~り。チョコレートフォンデュなんかもあって、KK&Uとともにさっそくチョコバナナやチョコシューなどを♪しかしチョコフォンデュって、作ったらすぐ食べないと、チョコがテキメンにお皿に張り付いてしまって食べられなくなるんですね
パパママ的には赤ワインゼリーがすっごくおいしく、何個おかわりしたかってくらいでした。できればカップが見た目どおりの深さだともっといいんだけど 予想外のとこでスプーンが底に当たるので、最初はパパママともに素でびっくりでした
お寿司も、食べてると口の中でご飯がお餅になりそうなほどぎっちり握ってあるし、色んなとこで「鬼だなグランドホテル」が垣間見えましたがそんなとこも含めて楽しく、また種類豊富でおいしかった東山グランドホテルのバイキングでした♪
芋煮で〆て、あ~おなかいっぱい♪ ジジババごちそうさまでした

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帰り際、まだ売店が開いてたのでババちゃんたちにお土産を。
ここがまた品揃え豊富で、ヘタなお土産屋さんより種類多々かもという感じ♪お菓子やグッズはもちろん、味噌やソースなど調味料系もあったりして。

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「年取ると手軽に食べられるお惣菜がいいのよね~」
とのことで、会津天宝の味噌漬け各種を。ジジババちゃんも以前会津に来た時食べておいしかったそうです
ここにも八重の桜コーナーがありましたよ

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というわけで、楽しかった初・東山グランドホテル♪
ジジババちゃんたちありがとうでした

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差別について

ウヨサヨを考えてるとどーしても出てくるのが「差別」。
そもそも私がウヨ系を嫌いなのも、愛国心と裏腹の、中韓その他に対する差別的言辞がひどいせいで。
彼らは「差別じゃない区別だ」とか「だって中韓がそうなんだから」とか言いたいかもしれませんが、私から見て単純に不快なんだから、私の目にはそれは「差別」。
そりゃ~対象に言いたいことは、細かく見ればいくらでもあるとは思います。けどそれにしても言葉が酷すぎやしませんか?なんかこう、いったん「こいつは差別していい対象」となったら、もうトコトン汚い言葉をぶつけてもOKみたいな意識がヤなのよね。

つまり「差別=属性に対する負の刷り込み」というか。
差別に走るのはそういう刷り込まれた人なんだろうな。刷り込みされやすい性質とかわりとよくあるだろうし。だから反面、刷り込まれない人=差別しない人も大勢いる。

もっともサヨ系には、逆の「属性に対する正の刷り込み」ってのがあるのも確かです。
例えば灰谷健次郎の考え方とか。私この人の本は基本的に好きで、根本の価値観がこの人の本で決まったような部分もあるのですが。
しかし、特にエッセイなどを多数読むうちに、そして自分が年取るうちに、ところどころ出没し大きくなる違和感。その出所は皆「属性に対する正の刷り込み」なんですね。とにかく自然は善、弱者(子供含む)であればそれだけで善、みたいな。
これはウヨクの「負の刷り込み」の鏡ですね。真逆で同じという。その証拠に、ウヨクにはウヨクならではの「属性に対する正の刷り込み」があるし(「国家」とか)、サヨクにはサヨクならではの「属性に対する負の刷り込み」もある(「国家」とか)。いずれにせよ、特定の属性に対して、全否定あるいは全肯定しかできないという性質は同じ。
(もっとも、どっちも同じなら「弱者」を全面的にかばう灰谷健次郎的サヨクの方がまだいいと、やっぱり私は思ってしまいますが)

言い換えれば、どちらも「絶対主義」という点で同じというか。
片方が善なら片方が悪という二分法。絶対的な善があるという思考。
差別ってたぶん、この善悪二分法の思考が根っこになってる。そしてその善悪が属性によって決まるというのが。
「善」がきっちり決まってるのはまあいいです。しかし返す刀で、反対のものを「悪」と決め、それを排除しようとするでしょうこういう人たちって。それがヤなんですよね。どうでもいいけどエコエコ言う人とかが個人的に苦手なのもそのせいです。等しく存在しているものを片方は善、片方は悪とか勝手に決めて、なんか独善的って感じがしちゃうんですよね。

サヨクってのは、その「悪」と決め付けられたものを「いや「悪」じゃない」とはねつける存在として必要だと思うのですが、それにも色々方法があって。
例えば灰谷健次郎のように「こっちの方が「善」だ。お前らこそ「悪」だ」と反転させたり、あるいは赤瀬川原平のように「いや善とか悪とか関係ないよ」とか、あるいは戦後民主主義的サヨクのように「属性で見ないで個別で善悪判断しようよ」とか。
いずれも「相対化」の一種でしょうが、私の好みは赤瀬川方式。まTPOによるとは思いますが。方式とかにあんましこだわると歪むしね~。しぜ~んと思ったり、な~んか違和感覚えたりしたことの方を手放さないようにしないと。

また話がそれ
そんなわけで、「差別=属性に対する負の刷り込み」と思っていたのです。
だから刷り込みある人は差別するし、ない人は差別しない。
と思っていたのですが。

原発事故以降思ったのが「差別=自分に累(=害)が及びそうな時の切捨て・排除」なんだな~と。
切捨て・排除は単なる刷り込みだけじゃない、その根本には防衛意識がある。自分が助かるための。
言い換えれば生存本能。ここから逃れられる人はいない。誰でも、私も、そうして切捨て・排除して生きてる。だから社会から差別がなくなることはない。戦争が捕食なら差別は防衛。どちらも絶対になくならない。せいぜい人により時代により環境により、すなわち自分に累が及ぶことが少ないか、あるいは累が及んでも生存できる条件が多いかといった理由で、差別の強弱・濃淡があるだけで。

「ちょっと待って。死に至る伝染病患者を看病して、病気がうつって死んだら困る。だから隔離して私は近づかない。これのどこが悪い?」
悪くないよ。てか悪いなんて言えないよ。それは生き延びるために形を変えて誰もがやってることだから。「生存本能」だから。
「それならこれは差別じゃないでしょ。差別って「悪いこと」だもん。これは悪いことじゃなく「正当な権利」でしょ」

ん~それはどうかな。これは後で。

自分が生き残るために切り捨てるその対象を「属性」でひとまとめにしてしまう。
これはよくあることですね。例えば「一部の中国・韓国人」を危険視するあまり、それが属する「中国韓国人」を一くくりにしてしまう。あるいは生活保護受給者、心身の障害、そして今は「福島の農産物」。みんな「属性」で十把ひとからげに判断されてしまう。
「いや福島の野菜と、中韓や生保は違うよ。生保なんかをdisるのはこっちの命かかってないから差別だけど、福島野菜はこっちの生死に関わるから仕方ないでしょ」
という声もあるかと思いますが、「こっちに「害」があるかどうかでdisるかどうかを決める」という視点は同じなんです。生保の受給者が増えると、こっちの生活が圧迫される(なのに受給者は自分らよりラクな生活してそうでムカつく)、あるいは中韓は日本を潰そうとしている、あいつらは敵だ。そういう思考回路は福島野菜に対するものと同じ。

「属性」でひとまとめ、これは確かにヤなもんです。例えばネットではお馴染みの「福島の野菜は毒」みたいな言い草。
「福島のもの」という属性で全否定。いったんそういう「属性」だと決まったらどんな言葉をぶつけてもかまわないという心理。これは明らかに差別だとは思います。
これに対抗するには、科学的な、つまり客観的な数値という「実体」と、そして物事を「個別に見る」という視点が必須。中韓なら個人を見る、生保なら不正受給と区別する、そして福島の野菜なら数値と種類を。
という思いのもと、原発事故のわりとすぐ後くらい、まだ「前代未聞の放射能が空から降ってきた!」状態だった頃、私の好きな斎藤美奈子さんが「これは風評被害じゃない実害だ」といったことを書いていて、私はかな~りガッカリしたのですが
内容はざっくり言えば
「どれくらい危険かわからないものを買い控えるのは当然のこと。それを「差別する加害者」のように言われてはたまらない。買い控える消費者も被害者だ。ただし例えば「福島の人の宿泊を拒否する」などは許されない差別。人間は野菜ではない」
ということ。これになんでガッカリしたかというのは後ほど書こうと思いますが、しかしとりあえずこうした見方は現実的で、こうすれば一般的な「差別」からは遠ざかるんだと思います。
「どれくらい危険かわからないから買い控える」つまり「きちんと数値を出してくれるなら安全と判断して買うこともありうる」ということ、そして「人間まで「福島」という属性で差別してはならない」つまり「野菜と人間は区別する=物事を個別に判断する」ということ。
「事実にもとづいて物事を個別に見る」これぞ差別が嫌いな戦後民主主義的リベラルサヨクの真骨頂ですね。中韓や生保など、実際の1人1人はどうなのかなどを見ようとせず、属性で見たがる一部ウヨクと一部サヨクは従って、どうしても差別的になってしまうのです。

幸い今回ばらまかれた放射性物質の質量・影響は、このころに思われていたよりずっと少なく済みそうで、植物の放射性物質の取り込み方など個別の仕組みもわかって(キノコはスポンジみたいなもんだから原生はやめた方がいい、お米はヌカの方に放射能がたまるから白米はわりとOKとか)、といろいろな面で「個別に見る」を可能にする科学的・客観的事実が出てきたおかげで、「福島の農産物が毒」なんてのは堂々「差別発言」の仲間入りしました。めでたしめでたし

しかしこれは裏返せば、もし本当に今回の放射性物質が、最初に思われていたくらいの破壊力を持っていたら、本当に数年後に影響あるくらいのものだったら、同じ発言でも「差別」ではない、ということですね。言われた方が傷つくのは変わらないのに。
「危険かもしれないから避ける。これは当然」というのが斎藤美奈子さんの、つまりリベラルサヨクの考え方であり、なるほど現実的な考え方です。「危険じゃないことを証明すれば、つまりこちらに「実害」がなければ、わざわざ避けない=差別しない。私たちだって差別なんていう「悪いこと」はしたくないんだから」という考え方が「客観的な根拠」にもとづく「個別の見方」をうながすわけで。

てことは「実害」がある「かもしれない」場合に避けるのは差別じゃないってことですね。実際、こういう思考回路のもと、いまだに「福島の農産物は毒」と固く信じている人もネット上でよく見ます。「福島」どころか「関東」まで属性が広がってる人も。
そう「危険かもしれないから避ける」という意識そのものが「差別属性」を作り出す源になってるんです。「属性を作るのは嫌だけど、こちらの生存本能を脅かすものは仕方がない」という。それでいくら「けれど人はのぞく。野菜と人を一緒にしてはいけない」と主張しても、「生存本能による属性差別」を認めている以上、説得力ガタ落ちです。もしも放射能が、昔言われていたみたいに「ピカの毒はうつる」だったら?もしも今回とは比べ物にならないくらい放射能禍が甚大だったら?それでも「福島から来た人を泊めないのは差別だ。人は野菜じゃないんだから」と言えるのか??福島の生産者へはどうか??

と思ってしまって、「我こそは戦後民主主義的リベラルサヨク」と自認していた私は、斎藤美奈子さんの「これぞリベラルサヨク」な言説に、けっこうガッカリしてしまったのでした。というか「リベラルサヨクの(=自分の)限界を見た」という気がヒシヒシと
リベラルサヨクは、「差別」に対して無力なんです。誰よりも差別が嫌いなのに、ついつい差別してしまうんです、生存本能ゆえに。原発事故でこのことをホトホト自覚させられて、やんなりました。

さらにやんなることに、そうした「福島」属性差別を救うことができるのは、実は属性差別をする人間だという。
って石原元都知事のことですが
「岩手の瓦礫は東京が引き受ける」泣きましたと言っていいくらい、感謝の気持ちでいっぱいでした。あの!あのだいっ嫌いな石原都知事に
「日本」という属性による同胞意識=全体主義と、それとセットになってる排外主義が嫌いで、「強者が砂粒を動かす」という強者の理論がもう当然っていう風情が嫌いだったはずなのに。
「被災地だって同じ日本」という属性による同胞意識が、「強者がやって当たり前」という強者の理論が、いざって時はこんなにありがたいものだとは。なんとなく「被災地で一番頼りになるのはヤクザ組織」みたいなもんかしら?ってヤクザと一緒にするのはいかがなものか でも性質は非常~~に似てると思う。それはさておき。

ああだからサヨクは嫌われてたんかな~。「差別が嫌いとか言っときながら、平気で差別するよね」みたいな欺瞞性を見抜かれて。でも「差別が嫌い」なのは確かなんだよね。確かなんだけど、でもそれより何より「自分が大切」っていう。
「自分が大切」っていうとすごい自己中みたいですが、これすなわち「生存本能」です。「そんなの自己中」と言う人にも、強弱の違いこそあれ必ずあるはず。「自由・人権」ってもともとそういうところから来たわけで、だいたい「差別が嫌い」なのだって「自分が差別されたらヤだな」ってとこから来てるわけだし。

というわけで「自分に累(害)が及ばない限り差別しないけど、自分に累(害)が及びそうなら差別する」。
これはガッカリするけど、でも仕方ないですよね。皆そうだし私もそうだし。
実際、瓦礫受け入れだって「瓦礫焼却で健康に影響があるならともかく、ないなら受け入れよう」という意見は本当に普通~で、あの石原都知事ですらそう言ってたし(個人的には、あの人の優先順位は「危険かどうか」より「同胞愛&ロイヤルデューティ」みたいなとこがあるから、あれは単なる受け入れ反対派への説得材料って気もするけど)、報ステでも確かそう言ってたわ。
てことは裏返せば「汚染された瓦礫は、たとえ被災地がどんなに困っててもやっぱり受け入れられない」=「今回はたまたま汚染度低い瓦礫だったから堂々と「被災地を助けよう」って言えるよかった~」なわけで、「サヨクにはガッカリ。きれいごと言うから」なんて、私も含め誰が言えるのかという。

もちろん、例えきれいごとでも結論が「被災地を助けよう」になるのは、やっぱり明るい気分になります。それに瓦礫受け入れ賛成の人たちは、もともと「被災地を助けたい」という気持ちの方が100%近くあって、瓦礫が幸運なことにあまり汚染はないってんならそりゃもう「100%受け入れられる」、って感じなんだろうと思えるし。福島への罵詈雑言を「差別やデマ」として憤ってくれる他県の人も、「汚染度が低いから」が第一じゃなく、「罵詈雑言は見苦しい」が第一にあって、「だって汚染度低いのに」はその補強材料の1つの過ぎないって面がある気も。

んで、私、そういうのはサヨクだろうと思ってたんですよね。
だってサヨクって「弱者を救う」「弱者に寄り添う」が信条だったはずだから。
だから瓦礫受け入れとか、率先して賛成するかと思ったのに。
けど斎藤美奈子さんの意見にあったように、今回サヨクは「自分たち被災地以外の消費者こそ被害者=弱者」ってなっちゃったんですね。
「自分だったら」と常に自分に置き換えて、人権や差別なんかに取り組んできたサヨクなら、それは当然の帰結ですし、それはそれで必要な考え方なんで、いいんですけど。ただ改めて「ああこういうとこがサヨクの限界か」とよーくわかった気がしました。私それまで社民党の考え方とかけっこう好きで(サヨクですから)「いくら絵空事でもこういうこと言う人は必要だろう」と思ってたんですが、なるほどだから絵空事になるんだと。

もっとも斎藤美奈子さんも、またこうしたサヨクも「被災地よりも私たちの方が被害者=弱者」って言ってるわけじゃ当然なく、「被災地も私たちもともに被害者=弱者。皆で国や東電という加害者=強者を訴えよう」と言ってます。つまり「皆が等しく当事者」という。
そのサヨクが今けっこう盛り返しているんなら、この原発事故をサヨク同様「自分のこと」として受け止めてる人が多いんだろうと思います。そこの住民でもないのに瓦礫受け入れ反対とか、「自分だったら避難する」という思いが「だからあなたも避難して。避難しないのはおかしい」まで行っちゃってるとか。
「自分のこととして受け止める」ってすごく誠実な受け止め方だと思うし、実際「原発事故で放射能が関東の方まで行った」とかが明らかになった時、私ひそかに「これで「どっか東北の遠いとこで起こった悲劇。自分たちには関係ない」にならないだろうからその点よかった」と鬼畜なことを思ったくらいです まさか「自分のこととして受け止める」が、「瓦礫反対」みたいにとんだエゴの塊魂を生むもんだとは思いもよらず

「属性が同じなら仲間、属性が違うなら無関係」がベースにあるウヨ系の方が、こういう時に「被災地」を客観的に見れて、「自分はどうすべきか」って考えられることもあるんですね。いやそれとも「属性が同じなんだから」かな?サヨ的な「自分だったら」とはまた違った一体感で。
もっともウヨ系でも「原発隣接の警戒区域だって住める!」「放射能は「まったく」危険は無い」的な、原発推進のために住民無視してえらい極端なこと言う、従来どおりのウヨな人もいますから、ウヨだからサヨだからとは一概に言えませんが。
ともあれ「自分に累(害)が及びそうなら差別する」であるならば、自分に累(害)が及ばないなら、または及んでも生存できる条件が多ければ差別しない。すなわち相対性が発揮され、他者に寛容になれるものだと思います。

なんだか同じこと長々繰り返してる気がしてきました
さらに被災地がらみだと、どうも「あんたらなんか全然弱者じゃない。こっち(被災地の被災者)こそ弱者だ」と言いたいだけかもしれないという自らへの疑惑がヒシヒシと これじゃ「弱者」の称号を得るために必死なのはサヨクと変わらないし、「地域(共同体)」というナショナリズムにこだわってるあたりウヨクと変わらん

元に戻って。
「差別=自分に累(=害)が及びそうな時の切捨て・排除」ではないか?
それなら生存本能で、皆がやってることではないか?
「ちょっと待って。だからそれは「差別」とは言わないでしょ。それが差別なら、危機感を持つことが悪いことだってことになるじゃない。害が無いものをあるかのように排除し続けるのは確かに差別だけど、害があるかどうかわからないうちは排除するってことまで、差別みたいな「悪いこと」って言うのは納得できない」
確かにそうです。
もしも差別が「自分に累(=害)が及びそうな時の切捨て・排除」なら、差別にいいも悪いもないです。生存本能にいいも悪いもないですから。相手も自分も、生きるためにあれこれやってるその1つ。したがって「悪いこと」ではない。
けれど、「害があるかどうかわからないものを避ける」には「害が無いものをあるかのように排除する」という「明確な差別」も含まれています。つまり「もしかしたらこれは害は無い=差別かもしれないけど」とどっかで自覚しながら排除してる。
そもそも「排除」することそのものが、なんとなくヤなもんでしょう?いくら理屈つけても、なんとなーく。
だから何かを排除する時って、なんとなくコソコソしたり「ごめんなさい」とか言ってみたりしませんか?それって心の底では「差別かもしれないけど自分のために仕方なく」と感じてる証じゃないかな~と思うんですが。健全なモラルと生存本能の狭間というか。

実は差別そのものよりも、私はこっちの方が気になるのです。
何度も書いたとおり、私には「差別=悪いこと」とは思えない。というか言えない。
けれどどっかヤ~な感じはある。すなわち健全なモラルと生存本能の狭間ゆえに、したくないことをしなきゃいけない居心地の悪さがある。
これを解消して、安心して差別するために「自分は正しい」「相手は悪い」という方向に持っていってしまうということ。
私はこれが激しくヤで。私的に差別の問題はこれだという。って前にも書いた気がするので、あまり長々しないように気をつけます

相手が悪ならば、それを差別する自分は「正しいことをしている人」になれる。この差別は「正しいこと」であり、差別なんていう「悪いこと」じゃない。これは差別じゃない。

こういう思考回路、ネトウヨの皆さんにどれだけ見てきたことでしょう。
こうした「差別にまつわる正当化」が激しく嫌悪感なので、「善も悪もない」という赤瀬川方式が好みなのよね。実際、差別が生存本能なら善も悪もないし。

「害を及ぼしそうな範囲」は危機感が強ければ強いほど拡大します。危機によっては「野菜は人間じゃない」なんて言うも空しいほど拡大する場合だってありえます。ほんのちょっとの危険のために野菜を耐えられない人が、どうして人間なら耐えられるっていうんでしょう?
またどこまでが「実際に」害を及ぼす範囲かどうかは、ほとんどの場合はっきりするのは事が起こった後だけ。なぜなら客観的事実を生み出す科学はまだまだ万能じゃなく、この世のほとんどのものは、善悪二分法の目を通せばグレーゾーンや副作用が存在するから。
客観的事実がないまま危機感だけが拡大し続けて、もはやハタ目にはどう見ても「おーい戻ってこーい」の領域に行ってしまったとしても、いったん「差別は正しい。てかこれは差別じゃない」を手に入れて、その「正しさ」を自分の拠り所にしてしまったら、たぶん後戻りできず進み続けるしかないでしょう。後戻りするには拠り所を捨てるというとんでもない苦痛が伴うから。
つまり「害を及ぼすかも」が「正しい」とリンクしてしまったら、「正しければ何をやってもいい」まで到達するのが容易になってしまう気がするのです。それが怖い。色々な意味で。今ナチスとか思い浮かんでますけど
ネトウヨが「ちょっと言葉が過ぎるよ」ってくらいの罵詈雑言を平気で言うのも、たぶんこのためですね。「こっちが正しくて向こうが悪なら、何を言っても何をしてもかまわない」歯止めが効かない。
しかしまさか、ネトウヨの属性がひっくり返ったモノホンサヨクならともかく、相対化が得意な戦後民主主義的個人主義でさえ「差別する自分」を恐れるあまりそうなる可能性があるとは。気をつけようと思いました

ここで私が思う「差別」ってすんごい拡大解釈した「差別」だと思います。自分でも極端なこと言ってるなと。
そして別に「差別はするな」とか「差別は生存本能なんだからどんどんしよう」とか思ってるわけじゃないですよ。ただ「仕方ないことだ」と諦めて、それ以上の正当化はしないという。
人間がもの食うのが「原罪」であるのと同じように、差別も「原罪」だとしか思えないんですよね。だから差別することを正当化はできないし、その裏返しの「そいつに問題あるから差別される」という考え方にも違和感がある。いじめとかは「いじめる方がそれを「問題」だと決めた時点で、いじめる側の問題」だと思うし、しかし差別するなとも言えない。差別することで相手に改めさせる方法も、自分の身を守る方法もありだと思う。ただそれは「正しいから」していいとかってことじゃ、断じてないと。
「この世の命はすべて平等」「なのに片方は厩舎に繋がれたまま餓死したりする。これ如何に」と思うにつけ、「人間世界では人間の方が優先だから、人間じゃない動物は「動物だから」と差別しちゃうんだよ。正しいことじゃないけど人間が生きるために仕方なく人間を優先してるんだよ」とか思って納得してる私には、どうしても「そこで善悪は言えない。神や仏でない限り」と思われてしまいます。

「いやそれはやっぱり差別とは言わないでしょう。差別ってのはもっと悪意が底にあるもんで。別に「動物差別」しようと思ってしてるわけじゃないよ」
という意見もございましょうが、やってることが差別ならそれは差別だろうと。いいじゃん人間は聖人君子じゃないんだし、差別しなきゃ世の中が成り立たないなら差別しても(ただし「動物なんだから差別されて当然」とか「人間は差別する資格がある」とかいうのはカンベン。差別する理由を相手に押し付けて自分は痛くもかゆくも無いっていうのは)
と、書くだけ書いたら飽きてきて、考えを深めるのがめんどくさくなった記事は、いきなり「差別肯定論」で終わるのでした なるほどサヨクが世界を救えないのはよくわかる!?

ほんとは「弱者の定義」についても書くつもりだったのですが、だいぶ頭カラになったのでこの辺で。

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ウヨサヨ雑感その2

自分が納得するためだけの長文ウヨサヨ雑感です。

そんなわけで、体制/反体制がひっくり返ったのでウヨサヨがよくわかんなくなった、という実感があるのですが。
もう1コウヨサヨがわかりづらくなる理由。それは好みの社会体制が絡むから。
すなわち小さな政府がいいか大きな政府がいいか。自由主義か共産主義か。
サヨク=共産志向という刷り込みが、これまた個人的には抜き難くあるのですが、しかし自由主義=リベラル=サヨクという感じもするしな~。
もっとも経済的な自由主義と、価値観的な自由主義では意味が全然違って、リベラル=サヨクはたぶんに後者のことを指してるのだろうとは思いますが、取るべき経済政策を価値観が決めるってこともあるだろうし。と思うとなんか混乱しちゃって。

で、とりあえずx軸とy軸を原点oで交差させて、xプラスを体制(家父長→国家→大和民族と一直線に繋がってるような、戦前的価値観)、xマイナスを反体制(個人を重視する戦後民主主義的価値観)に、yプラスを小さな政府(~自由主義)、yマイナスを大きな政府(~共産主義)にして考えてみると、自分の中でウヨサヨがちょっとだけ整理される気が。

まず1。X軸プラス・y軸プラス=これが私的にはネトウヨですね。家父長的価値観と新自由主義ミックス。橋下さんとか石原さんとか、いわゆるタカ派の人は全部ココ。私タカ派って嫌いで イメージ的にはx軸が右に行けば行くほど頑固親父系に、y軸が上に行けば行くほど急進的(タカ)になるっていう感じで。

対する2。x軸マイナス・y軸マイナス=これが私的には真性サヨクですね。社民党や共産党が言ってることは全部ここ。「子供を守ろう。命は大切。国はそのためになんとかしろー」という、戦後民主主義的大きな政府を希望する反原発ももちろんココ。x軸が左に行けばいくほど個人主義に、y軸が下に行けばいくほど革命志向になるって感じで。

その上3。x軸マイナス・y軸プラスは・・・アーティスト系かな。いや2のサヨクにもアーティストはいっぱいいますが、3にいるアーティストはもうちょっとアナーキーというか刹那的というか。「自分で稼いだもんを自分で使ってどこが悪い!私は国に助けてもらったことなんかないぞー!」という信念のもと「脱税できるかな」に体を張った西原理恵子さんが私の中ではイメージされてます 原点oから離れるほどリバタニアンかな?

しかし考えてみると、じゃあ高倉健なんてのはどうなのか。いやあの人そのものじゃなく、あの人がよく演じるような人、すなわちめっちゃ「一国一城の主」な個人主義だけど、「義理と人情」的なしがらみを重視する戦前価値観も根強いぞみたいな人は果たしてネトウヨかアナーキーか。
そういや西原理恵子もね。骨がらみ義理と人情の人なのにリバタニアンに入れちゃって悪かったな~。ていうかどっちかってたらリバタニアンの方がネトウヨっぽいよな。しかしそうするとサイバラは、石原・橋下・櫻井よしこの同類か??いや違う!どっかが決定的に違うという確信だけはあるぞ。

てことはこの表にもz軸という「第3極」が必要なのか? xプラスにしちゃってる「義理と人情」の「人情」だけを独立させるとか?確かにxプラスを好きな人は、その「共同体制度」が好きなだけかもで、「共同体成員への愛情」が伴うかどうかは、また別だもんね。

とか考えていくと、ここで既に「あれ?グラフ化失敗?」って感じですが、さらにその隣4。どうもここがわかりません。
私の感覚ではこの4が保守???って感じなのですが(しかし「保守」ってのもわからん定義だなー。それこそこのグラフのどこに位置づけていいのかわからん)、しかし戦前の価値観&共産志向なら、これこそ戦前の真性左翼=国家社会主義なのではあるまいか??これが保守か???
この4は、縛りがきつそうだな~~。x軸プラスで各種共同体に縛られ、y軸マイナスで共産理念に縛られ。だいたいx軸プラスもy軸マイナスも、原点から離れるほど全体主義に近づくものだし。そういや小林よしのりは4に入りそうだな~。
しかし「共産主義=悪」みたいな風潮が今ありますけど(戦前か)、2みたいに、x軸マイナスの「個人の自由」とかで薄めれば「北欧風福祉国家」って感じになる(はず)なので、それほど毛嫌いするもんでもないと思います。贅沢できないし病院にもかかりづらくなるけど
それとも逆に、「個人の自由」でバラバラになっちゃうのを防ぐために、「思想の統一」が強化されたり?4の方だとその役割を「共同体」が受け持つけど。思想で人と繋がるのが2なら、縁と属性が力を持つのが4みたいな。北欧福祉国家と失敗した社会主義国家を分けたものはいったい。
 
うーんこの4は、ウヨなのかサヨなのか??そもそもウヨサヨの区切り目は、x軸なのかy軸なのか??てことは、わかりやすくなるかとグラフにしてみたけど、結局意味がなかったんじゃないか??

そういえばたまたま私の目に映った範囲内では、ですが、分類2に入っていた団塊前後の文化人が、年を重ねるごとにわりと戦前風の価値観をよしとする傾向がある気がして。思いつくのは中野翠とか橋本治、西部邁もそうかな?赤瀬川原平や大島渚も??って全然「団塊」じゃないかもしれませんが、つまり若い頃学生運動などサヨク的思想の洗礼を受け、年取ってから「日本の美意識」みたいな方向にアンテナがのびるパターン。
「単なる年寄りの懐古趣味だろう」と思えなくもないのですが、この人たち文化人だけあって、美意識が高い。どうもそこら辺がポイントな気もします。培われた個人主義は手放さず、わりとそれとは真逆な「伝統」とかを賛美する。自分は決してそっち側を担うつもりはないけど、美術品として残って欲しい=自分以外の誰かが残して欲しいみたいな。「隣の芝だからキレイに見えるだけじゃないのかね?」とも思ってしまいますが
しかし同時に「個人主義が行き過ぎた」という反省もあるのかなとも思います。そしてそれならわかります。若い頃は分類2にいたけど、だんだん分類4になってくるっていうなら。
けど美意識の問題なら、ほんとはxマイナスにどっしり安住しているくせに、xプラスを無責任に(と見える)崇拝しているってことで。つまりxマイナスとxプラスが分離して同居してるのは、よくわかりません。なんかこう、根っこはどこなんだい?表面の美しさだけをいいとこどりかい?みたいな。ま橋本治とかは専攻が国文科だから、xプラスが根っこにある気もしますが。赤瀬川原平も若干違う印象かな~

とここまで考えて、このグラフがカンペキに失敗だったことに気づきました
xマイナスとxプラスは、原点から右左に分離してそのどっちかに点(=人)が打たれてるんじゃなく、プラマイ内包しつつ個人の中に存在しているんだなと改めて確認され。
対立関係=補完関係であること多々ですが、これもそうで、片方があるからもう片方も存在できるといった類で。イメージ的には、原点=個人で、そこからxのプラマイ、yのプラマイのどこからどこまで線を描けるかっていう、十字の数直線みたいな。
ただ、x軸上のあれこれを、例えば中野翠みたいに自分の生活から切り離された情報として仕入れてしまう(ように見える)と、それが数直線にならず点々になってしまって、それがなんだか「いいとこどりかい?」みたいな印象を与えることに。ま~あの人は感覚でしか言わないからそう見えちゃうってとこもあるんだけど(人のこと言えない)。橋本治も基本同じなのにそう見えないのは、あの人は理屈付け=線の引き方がめっちゃうまいから。赤瀬川翁が数直線になってるように思えるのも、なんでも自分の半径5mの物理現象に結び付けて考えるからかも。急いで言い訳ですが個人的には、中野翠さんの書評や映画批評は大好きです

だいたい、x軸もy軸も、先に行けばいくほどどれも嫌いなのよね。y軸プラスは「金持ち以外は皆砂粒」だし、y軸マイナスは「権力者以外は皆砂粒」で、どっちにしても私は砂粒にされちゃう。てかこれ同じこと言ってないか?(サヨクとしては「いや共産主義ってほんとはそういうもんじゃないんだよ、それは失敗した結果であって」と弁護したいとこですが、しかし失敗しない共産主義が人間社会に出現できるかは不明)
x軸プラスも先にいったら、また「女は学校へ行く必要なし」とか復活するでしょ。社会の仕組みとして砂粒が必要で、その砂粒の自覚を持てっていうのがx軸プラスだもん。偏見?x軸マイナスはそれに対抗して「俺は砂粒じゃない」だけど、進行すると「俺様以外は皆砂粒」で、結局どこ行っても、極端になれば等しく砂だらけなのよね。

xマイナスとyプラスなんても、個人の自由ってことでは同じだし、xのプラスとマイナスじゃ「家族愛」なんかはどっちに位置づけていいかわからない。いや「家族愛」自体はxプラスだろうと思うんですが、その体現でもある反原発のテーマ「こどもを守ろう」は、どうしてもxマイナスの方向性しか感じられないし。
まあ意地悪な言い方すれば「「こども」も「自分」の延長線上なんでしょ」ですが、しかし親子とか家族ってそもそもそういうもんですしね~。「家庭=自分と他人を重ねることを学ぶ場」みたいな。

たぶんxプラスの「家族愛」は「家族の皆」への愛なんですよね。家族という「1つの共同体」への愛。
反対に「こどもを守ろう」は、「うちの○○ちゃん」という子供に対する、個別への愛情。
xプラスの「家族愛」はメンバー個別への愛じゃなく、例えれば「うちの○○ちゃんやパパママジジババが揃ってご飯食べてる、その時に漂う空気」みたいなもんへの愛。xマイナスは具体的な個々のメンバーを守りたいんであって空気を守りたいわけじゃない。しかしそれがある種の空気となって、別なとこで個人を圧迫しているのは皮肉ですが。
この空気って、「こうあるべき」といった約束事に転化します。実体のない蜃気楼のようなもんですけど、約束事が広く薄く覆う。
実体のない蜃気楼ごときを守るために実体のある子供を犠牲にするのはバカげてるので、その点「こどもを守ろう」それ自体はOKなんですが、しかしこの蜃気楼のような約束事があるから世の中「信用」で廻ることができるわけで、そう思うとなかなかあなどれないです。濃すぎると全体主義、なくなると不安だらけ。いや不安だらけなところに「奥さんお困りでしょう」とニコやかに現れるのが全体主義かな?ここでもまた対立=補完。

うーむ「個人の信頼」なんていう個人で質量ともに違うものを、上からシステムとして一律にはりめぐらせようという共産主義はやっぱり無理があるかな~。逃げ道ない感じ?
私は共産主義的な理念は大好きだけど、そんで個人個人が自主的に共産主義的に生きれば全体的にかなり幸せになるんじゃと思うけど、やっぱしそういうのは「正直者の島」と同じで、一人うそつきが現れたら、皆がよっぽど個人主義的な共産主義者(すごい対立=補完物件キターー)じゃない限り崩壊するもんね。そして困ったことにこの「うそつき」は他人じゃなく、1人1人の中に質量違いつつもれなくあるわけで。さらに困ったことにそれは、どうも「生存本能」という必要不可欠なものが変身した姿じゃないかと思えるわけで。

いや「信頼」とかの「美しい」っぽいものも「生存本能」という土壌から生まれた花には違いなく。
その証拠によーく見ると、「信頼」もなんだか「エゴ」の一種として出回ってる場合多々。けっこうグロテスクな美しさになってることもあるぞ。
いや別に美しくないもの=悪ってわけじゃないですよ。美しいもの=善ってわけでも決してないし。だって大元の「生存本能」は善悪関係ないですからね~。だから一見それぞれ美しく見えるx軸やy軸も、極端に行って本能ムキダシになればみんな砂になっちゃう。ここら辺は原発事故以降たびたび思う「差別」に関わってきますが。

それはともあれ、xもyも極端に行けば皆砂粒。これは確実。
てことは、xのプラマイ、yのプラマイは、紙の両端にあるんじゃなく、裏側に廻って見たらくっついてる、って図にもできるんじゃないの?2次元のグラフじゃなく、球体みたいな感じで。
元の原点oが「自分が砂粒ってとこから出発しよう」を現してるとしたら、その対極にある新たな原点(裏)は「俺様以外は皆砂粒」から出発してる。
ああこう考えると、なんかもちょっとスッキリするわ♪少なくとも、今までは4面しかなかったのが、砂粒ダークサイド側にももう4面できるし。極左とかは皆こっちへドゾーー。みんな「サヨク」って十把ひとからげで嫌ってますけど、戦後民主主義サヨクと、赤軍派みたいな肝の据わった真性サヨクはもう昼と夜くらい違いますからね。球体だから地続きではあるけど。私の嫌いな石原とか橋下とかもみんな、ダークサイドへ堕ちるがいいフハハハ
サイバラとの違いはたぶんここです。自分を砂粒と規定しているかどうか。石原さんはたぶん自分を砂粒と規定したことはないでしょう。常に支配者か被支配者かのどちらかを規定して来て、その構図自体を嫌だと思ったこともないでしょう。

それは石原さん系ウヨに限らず、左翼側もそうで。左翼の「反体制・反権力」は、「自分にはない権力を持っている奴を憎む」という極めて私的な感情から出ている場合もあって(ここら辺憎む方向がネトウヨと真逆だけど同質)、その結果、いったん権力者を転覆させたら、今度は自分が、あれだけ憎んでいた権力者に嬉々としてなってしまうという構図が往々にして。「市民運動」とかをしている真性サヨクが、けっこう肩書きとか世俗の権威に弱いことがあるのはこのせいですね(話題の「福島人権宣言」とか、「沖縄を返せ」みたいなとこから始まって、最後に「賛同者には数多くの大学教授・准教授の方々が~」の一文があるのを見て「あ、この人たち「活動家」だ」と確信してしまいました

坂本龍一が昔対談で「支配するのもされるのも嫌だ。そういう強い思いがある」と言っていて、「それはまさに戦後民主主義だね」と返されてたのが印象深いのですが、サイバラもこっち側ですね。もう体質的に、特に支配することが嫌だという(支配されるのが嫌だってのは普通ですから)。
「支配」って「自分に都合のいいように他人を動かす」ってことですね。これは社会生活上ある程度必要なスキルだとは思いますけど、あまりにもそれが強いのは、つまり本気で他人を駒としか思ってないとか、思い通りに他人を動かすこと自体が快感だまで行っちゃったりするのは、明らかに「支配者体質」だと。支配と権力は相互作用だけど、人を動かせるだけの権力持ってる人でも支配者体質じゃない人もいれば、権力持ってないけど支配者体質の人もいますね。革命志向の左翼とか。

しかし石原と橋下も、同類扱いしてますけど、本質的なとこがちょっと違う気も。どっちも支配者体質で他人を砂粒としか思ってないのは同じなんだけど、石原は例えば「家父長制」といった共同体を成り立たせるシステムを、ひいては共同体自体を信じている、橋下は信じてない、みたいな(だから橋下がいくら「身勝手な人間が増えた」「岩手を助けるのが当然」とか言っても「人気取り」としか思えないのよね。基本的に「家長として救う義務アリ」なんて思ってないでしょ。「自力で生きられない弱者は共同体にとってムダ」としか思ってないでしょって)。よくわかんない単なるイメージですけど。私やっぱし橋下の方がヤだわ。ここら辺は原点や軸からの距離の違いでしょうか。
そもそも政治家を「支配者体質だからヤだ」ってのもね 「人を思うように動かすのが好き」なんて、政治家には「お仕事頑張ってますね」って誉め言葉だし。

そしてその反対面にいると思われる、教授やサイバラ、橋本治とかもそうだけど、この人たちもなかなか強力な個性、つまり「オレがオレが」という強ーー烈な自我を持ってるんですよね。それこそ「愚民どもを支配してやらなければ」と思ってる橋下・石原に負けないくらいの。決して「ダークサイドの対極=フンワカ穏やかで人格最高」って意味にはなりません。
う~んやっぱりこの図解は、グラフでも球体でも失敗だな。なんだかすごく片手落ちで歪んでる上に、新たな発見があまりない。まあ思う存分言ったから、頭のモヤモヤは多少スッキリしたけど。
しかし懲りずに次は「差別」について吐き出したいと思います。

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ウヨサヨ雑感その1

折に触れ考えるんだけどいつまでたっても答えが出ずすっきりしない個人的命題・ウヨサヨ。
ほんとどーでもいい命題ですみません
なんでこの命題がこんなに気になるのかと言えば、それはもちろん「戦争」を避けたいから
日本が戦争になりそうかどうか、空気が戦前に似てきてないか、それをいちはやく察知し、反対側へ行くことで、戦争になだれ込まないよう、バランス取るおもりの1つになりたいから。

と、青臭くも突拍子ない考えですが、本人わりと真剣にずーっとそう思っていて ここら辺は「一度戦争を喜ぶ流れができたらもう遅いのよ。治安維持法とかが次々できて反対できないようになるんだから」というはだしのゲンのかーちゃんの言葉が効いてます。
で、そうすると必然的にウヨサヨ考察になってしまうのでした。私にとってウヨ=戦争を喜ぶ流れを作り出す人たちだから
ですが考えれば考えるほど、ジャングルの奥地へ分け入って自分がどこにいるのかもよくわからん状況に

そもそも「ウヨクとは、サヨクとは」っていう初歩の定義で早くもジャングル遭難。
個人的な体感だと、ざっくり言ってウヨク=体制、サヨク=反体制っていう大前提が抜き難くあるんですが。
体制=時の政府ってのももちろんありますが、価値観みたいなものもね。例えば家父長制とか「君に忠、親に孝」みたいな、ま戦前風な価値観というのかな?体制を維持するための善悪や約束事がはっきり決まってて、それに従うのが正義であるといった感じの。いわばメインカルチャー。
てことは反体制は、それら「正義」とされたものに反発する、いってみればサブカルチャー。フェミニズムとか基本的人権とか個人の自由とか、ま戦後民主主義な、体制側の正義からこぼれおちる一寸の虫の五分の魂をカバーする役割というような。
(てことはやっぱり右翼・左翼の言葉通り、両方合って初めて離陸できるもんなんですけどね)

私が小中学生だった頃=昭和50年代って、まだまだそうした時の政府(に代表される権力)と戦前風価値観がイコールで結べるような感じで。
金八先生の腐ったミカンシリーズとかありましたけど、あれ見てわかるように、教師=そうした正義をビシビシ叩き込む権力の手先、みたいな見方が(実態はともかく)まだ残ってたんですよね。ま荒谷二中の体育教師はちょっとデフォルメされすぎですけど だから金八先生みたいな「警察(という公権力)を学校に入れるなー」とか「生徒の立場に立って」なんて先生はサヨク的な理想像で、それが非常にシンパシーを呼んだ。

サヨク的理想像が共感を呼び、それが現実目標となり、同時にメインカルチャーはサブカルチャーに駆逐されて(だってメインってつまんないんだもん)、早幾年、今や時の政府(に代表される権力)=サヨクという逆転現象が。

今、政府や教師という体制側を叩くのは、サヨク(反体制)なのか?それとも政府や教師というサヨクを叩くから、ウヨク(体制)なのか?
ほんとどーでもいい話ですいません
しかし、「反体制=サヨク」という図式が根強くある私は、「ネトウヨはウヨクなのかサヨクなのか」っていうのがどうしても位置づけられなくて。やってることはサヨクなのに言ってることはウヨクというのが。
いやネトウヨ=極右と思えばそれもわかります。極右と極左って同じことしますから。
で今まではそれで納得してたんだけど、薄甘いサヨクが主流だったのが、小林よしのりの戦争論でひっくりかえって以来、特に若い層は全体的に薄辛いウヨクになってるような気がする現在、反原発デモが盛り上がるというのが、よくわからなくて。
だって反原発デモなんてのは、私の中ではサヨク的な最たるものですから。

いえこれまた私の刷り込みによるもので 私の学生時代は「サヨクなら9条護持で原発反対だろ」ってもう「トーストにはマーガリン」くらい当然の関係でしたから(他にもリアルタイムではなかったけど「ダム反対」とか「空港反対」とか、とにかくそういう巨大な施設は全部反対。集団の利益のために住民という一寸の虫を無視する行為だから)。
反対=闘争なわけで、なので「反原発デモ」なんていうモロな行動を起こしたりするのは、ああこりゃ真性サヨクだという思いが無条件に。
そんな真性サヨクが、サヨクが主流だった一昔前よりも、右傾化した今の日本にうじゃうじゃ。なぜ?

「なぜってそりゃー原発事故があったからさ。だいたいウヨサヨなんて関係ないっつーか遅れてるよおばちゃん。俺らはただいいと思うことをやってるだけさ
みたいな意見もあるだろうと重々承知してますが、しかしおばちゃんしつこいからどーしても「やってることも言ってることもサヨクなのにそうじゃないとはこれ如何に」としか思えないのよね。だっておばちゃん的には「デモに参加する」っていうのは心理的にものすごい高い階段で「これを上がったらもう引き返せないな」的な、「自分はサヨクだ」と自他共に刻印する的な、従って真性サヨクって感じなんだけど。
そんでそれなのに「でも中韓は嫌い」とか「サヨクは信用できない」とか言うじゃない?(え?言わない?)言わないならごめんなさいだけど、「中韓嫌い」とか「サヨクはダメ」みたいなのって私から見ると「かなり振り切ってるウヨク」だから、いわば真性サヨクと真性ウヨクが簡単に同居してるって感じで、それがよくわかんないのよねーーー

おばちゃんやっぱりウヨサヨにこだわりすぎですかね?
確かに「反原発したいならサヨクにならなきゃいかん」なんてことはないわけで、「自分はどっちかったらウヨだけど、でもあの事故見たら原発だけはカンベン」っていう人が今多数出てきたっておかしくはないんですけど。
ただ大元の「反原発」っていうのは、「サヨク的思考回路」という土壌で咲いた花の1つで、例えば「9条絶対」とか「戦争責任」とか「人権」なんていうのと根っこは同じわけで。
てことは、「デモに参加するのも厭わないくらいの反原発なら、そりゃ他の花にだって賛同して当然だろう。根っこは同じなんだから」と思っちゃうんだけど。それとも今の「反原発」は、違う土壌に咲いた似た花なんでしょうかね。だとしたらそれはいったい?
デモも昔と今じゃ意味合いが変わって(特に原発デモは)、軽~くおしるこ食べるような気持ちで政治的デモにも参加できるんでしょうけど。うんそれは決して悪いことじゃないのよね。私もミーハーなんで「ちょっと参加してみよっかな♪」という気持ちもわかる。わかるがしかし。

なんか違和感が残るのよねー。「ウヨクとサヨクのボーダーライン」じゃなく「振り切ったウヨサヨ」が簡単に同居してるということに。
振り切ったウヨサヨが簡単に同居できるって、私には「単なる情報として刷り込まれてるから」としか思えないんですが。自分にとってどうかとか、こうなったら自分がどういう立場に置かれるかとか、そういう「自分」とは関係ない、単なる「情報」として見栄えするものを取捨選択してるだけだからそうなるんじゃないのっていう。
んで、ボーダーライン上にいれば、多少傾くことはあっても比較的ボーダーラインに戻りやすいけど、振り切ったウヨサヨが(しかもそれにあんまし違和感を覚えず簡単に)同居してたら、ちょっとどっちか向けの、見栄えのいい情報が入ったら、がたーーっと簡単にどっちかに傾いてしまいませんか?その傾きにも違和感覚えることなく。そんなことありませんか??
それってまさに私の嫌いな「流れを作り出す」ってやつで。だからなんだか違和感なのよね~
もっとも、デモに参加している人は多数いるから、その人たちすべてが「振り切ったウヨサヨが簡単に同居してる人」ではないのでしょうが。むしろ表面に出てる人はやっぱり「従来のサヨクっぽい」と思える人多々ですが(てことは今まで書いたこと半分以上パーーー

なんでこんなにウヨサヨにこだわってしまうかというと、原発事故でちょっとサヨクに幻滅してしまったからなんですよね。
今まで「サヨクなんてダメだよ。保守じゃないと」みたいな若い人の意見をネットとかで見るたび「サヨクのどこが悪い。保守って何よ」と開き直り、「どうせ小林よしのりとかにカブれてるんでしょ。サヨクが主張する「自由」とか「人権」を否定しながら、当たり前のようにそれらをムダ遣いしてるくせに」とずーーーっとニガニガしく思ってた私が。
原発事故以降「サヨクなんてダメ」という言葉が実感としてつかめた気がして、「そうか、だからみんなサヨクが嫌いだったんだ」とわかった気がしたと思ったら、なんと不可解なことに、それまでの私から見れば「ウヨク」だった世論は、原発事故以降なんだか「サヨク」優勢になってる感じで。な、な、なんで?あの原発事故でサヨクのダメっぷりがわかったってのに。

果たして私はサヨクなのか、そして反原発してる人たちはサヨクなのか。どこが同じでどこが違うのか。
というのを知りたいな~と。たぶんこれは「差別」が1つのネックで、そこら辺についても書きたいんですが、今回同様、書いても書いても結論見えなそう;;
なんかね、頭に色んな糸クズが絡まってモヤモヤしていることを、結論つかないながらもとりあえず書いて外に出すと、頭はその分カラになってスッキリするんですよね。
ただし書くことで頭が「これでもう終わり」と判断してそれ以上糸クズが絡まらず、深まらない&書くことで、その糸クズの一部でしかない片手落ちな考えが頭に固定化されてしまうのが困りものですが

というわけで内容ないわりに長くなってしまったので、次に続きます。

テーマ : ひとりごと - ジャンル : 日記

Merry Christmas, Mr.Lawrence

会津図書館に「戦場のメリークリスマス・シネマブック」という素晴らしい本があったというのはこないだ書きましたが。
ただしくは「戦場のメリークリスマス・シネマファイル」でした
こっれっがっもう!最高!!!

当時ともに30代だった、たけし・教授の9ページにわたる対談(たけしがこの先映画の方向に行くのがよくわかる)から始まって、たけしのラロトンガ島レポ、大島監督による制作秘話(映画のお金集めるのって大変なのね~としみじみ)、関係者各位による裏話、1ヶ月間のロケ日記、糸井重里を初めとする評論家による映画評、原作者の紹介やもちろん映画のあらすじ、写真もどっさり。ああ~こんな本があったなんて~~!

戦メリ大好きでしたから
父ことじーちゃんに映画館へ連れてってもらって(小学生は保護者同伴)、戦メリのビデオも買って(当時はシネマビデオ1本1万円以上)、クリスマス時期には毎年のようにやっていたTV放映も見て(今やらなくなりましたねー)、ピアノスコアも買って(途中で挫折)e.t.c.とにかく好きだったんです

元々YMOファンで、教授目当てに映画見に行ったのですが、子供ながらもその妖しい世界に一発でノックアウトでした
しかし悲しいかな、妖しさだけはしっかり伝わったのですが、何を言いたいんだろう?というのはサッパリ
映画館で初めて見て以来、折に触れては何度も見返して、もうセリフなんかほとんど覚えてるくらいなのに、内容は「なんでそうなる?」ってことばかりで。
この本読んで久しぶりに思い出して、やっと「そういうことかー」ってシーンが多々ありました。今ちょうどウヨサヨに興味あったとこなのもよかったかも。
(しかしデビッド・ボウイの最初の処刑が空砲だったのは、未だに意味わかりません ならあんなことする必要ないじゃんとしか)

思い返すと、「なんでそうなる?」と思ったとこって、ほとんど「(大島流の)日本の美学」に関するところなんですよね。
剣道の練習で「神に近づく」ってのもわからんし、226の思い出話を語ってたと思ったら、突然ジョニー大倉のハラキリになるのもわからない。だいたいハラキリシーンでは、どう考えても英国側の捕虜の方に同意だし、てかそもそも、どの言動取ってもロレンスとか捕虜側が言うことの方が納得できて(捕虜になるのは恥じゃないとかさ。ただし俘虜長はどの言動取っても、日本人をイエローモンキーと思ってやがる西欧人を体現してますが))、日本側、特に教授=キャプテンヨノイは何考えてんだかわかんない、ちょっと狂気入ってる、て感じで。

今は、剣道の練習(いや「鍛錬」か?)を評して「神に近づくつもりなんだよ。彼らは過去に生きている」ってのも、理屈でわかる気がします。
弓道だったか「マトに当てるコツは?」と聞くのはヤボで、「姿勢を正しくし動きを正しくすれば、つまり「正しい型」を身につければ、矢はおのずとマトに当たる」のだ、といった話を読んだことあるのですが、つまり「道」ってそういうことなんですよね。
「当てたい」なんていう卑小な自意識はそぎおとして、正しい型をまとうマシンになる。その時神と一体化する=極意を手にする、みたいな。いややっぱりよくわかりませんけど で、その「正しい型」っていうのは、過去から培われてきた「伝統」だから「彼らは過去に生きてる」
それを聞いたセリアズ=デビッド・ボウイは「救われないな」「言いたいことがあるなら言えばいいんだ」すなわち、未来に向かって自分の意思で生きればいいじゃないか、と。西欧合理主義ここに極まれり。
大島渚がこの本で、ロレンスのことを「西欧合理主義者」と説明していてびっくりしました。だって私が戦メリ中一番シンパシーなのがロレンスでしたから(他は皆どっかしらイっちゃってる)。これは西欧合理主義なのか!?じゃあそれは日本に当たり前のように浸透してるんだな~と。
もっとも上のセリフに対しては「いや日本人は遠慮しーだから、そんな簡単に言いたいこと言えないのよ」とも思いますが、それでもやっぱり私的には、神に近づこうと過去に生きてるストイックな純正日本人(?)ヨノイは、鋭敏に削りすぎてぽきっと折れそうな妖しい人に見えます。
もっともここに描かれている「日本(の美学)」ってすごい観念的な、マニュアル的な「美学」って感じで、「頭が先走ってる映画」って感じはしますけど。ちょっと机上の空論ぽいっていうか。そもそも日本の長い歴史の中では、この映画で描かれている時代の「神」観の方が特殊だったんじゃないかという説もあるわけで。

ヨノイが思い出話した後、急に思いついたかのようにジョニー大倉の処刑を、しかも捕虜に見せることにしたってのも、あれたぶんほんとにその場の思いつきでしょうね 226の話なんかしてたもんだから「よーしお前らに我ら日本の美学を見せてやる」とか思いついちゃって。でもジョニー軍属は朝鮮人ですけど
そこら辺に日本の美学の独善性が顔を覗かせる上に、さらに捕虜にも(被害者にも)ハラキリを見せるという。まあアメリカでは死刑執行時に遺族がその場に招待されるそうですけど、見たくない人にまで無理やり見せなくても。
で結局、被害者の西洋人捕虜はその場で自殺してしまって。しかしヨノイは「やべっ無理に見せたら死んじゃったよ」とかあわてることなく、「あっぱれだ。礼を尽くせ」。
いや私、今までうっすら「やべっ」を隠すためにあえて落ち着いて誤魔化そうとしてるのかな、とか思ってたんですよね。しかし違いますね。「やばい」なんて思ってない、本気で「義に殉じた、あっぱれな行為」だと感じてますね。だからそれに対して「礼を尽くさなければ」ってすごく善意で。
しかしそんな価値観が、何トンチンカンなこと言ってんだ~!人死んでんねんで!と思う西欧側(や私)に通じるはずもなく。「これは黒豆だ」「いや虫だ」って、永久に答えの出ないすれ違いです。価値観共有しない人間にとってその善意は、すごーく独善的だってのだけは確かですけど。
さらにヨノイ、そうして反発されたのを「じゃあ皆でこの答えを見つけよう。神に近づくべく修行することで」といった意味合いで、「48時間の行」を命じます。独善的善意のダメ押し
ヨノイも同じ行をしてますから、その点この人はほんとに卑怯じゃない、美しい人なんです。限りなく「罰」に近い断食行だけど、ヨノイはたぶん「罰だけ」のつもりはなく、真剣。しかし捕虜(と私)には「日本人の考え方はわけわからん」のみ(「反抗した罰だ」の方がまだわかりやすい)

その行の最中、ヨノイの愛するセリアズが率先して断食をやぶって、さらにラジオも発見されて、その責任者としてロレンスが処刑されることになって。
ロレンスには納得いきません。別に自分がラジオ持ってたわけじゃないのに、なんで処刑?誰でもいいのか?
対するヨノイは「誰かが責任を取らなきゃいけない。誰でもいいんだ」
あーこれ現代の日本でも普通にありますね~。でもこれ日本だけかしら?東京裁判だって「誰でもいいけどとにかく責任者を処罰」って感じじゃなかった??とにかく名目さえつけばお前責任者って感じで。
ただ、日本にこれは強固かもしれないですね~。集団性強いから本当は1人の責任なんてありえない。しかし秩序は守られなければならない。集団性を保つためには、秩序もより強く保たれなければいけませんからね~。でこんなことになる。日本では真実よりも秩序が大事。というより日本的真実の追求は、秩序(システム・型)を追求せず犯人を追及することになりがち?

このシーン、すなわちロレンスがヨノイによって「君を責任者ってことで処刑するよ」と言い渡されるシーンは、ヨノイの部下の葬儀中なんですね。この部下、上司ヨノイのことがもう好きで好きで、「隊長殿の心を乱す悪魔セリアズ」を殺人未遂して切腹してしまうという。忠義心ってしまいにはホモと見分けつかなくなるのね
でハラたけし軍曹が「勤務中の事故死ってことにすれば遺族は恩給がもらえるから」ということで、今「名誉の事故死」としてのお葬式真っ最中なんですね。真実を偽ることで秩序が保たれて、皆が平和になるならいいじゃないかと。
出てくる日本側エピソードで唯一共感できるのがここでした。「ハラ軍曹ってああ見えてけっこう優しいのね」と。正論なんかいらない、皆が平和に暮らせればそれでいいと本気で思います。これは西欧合理主義ではないのかしら?

しかしその犠牲になるロレンスは当然ですがたまりません。「真実<<<秩序」の象徴であるお葬式の祭壇をぶち壊し「お前らの神だ。神がお前らを作った。私は呪う!お前らの神を!!!」と叫んで暴れ狂います。あの温和なロレンスが。
祭壇前でお経を読んでいたハラはしかし、そんな犠牲者の叫びなんぞ羽虫の音ほどにも感じないよって風情で、平然と読経を続け、秩序を守り続けます。
ウヨとサヨ。秩序(型、伝統、共同体e.t.c.)と、それを支えるための犠牲。平和は秩序にあり、しかしそれを保つための犠牲も必ず必要、となったら、平和が好きで犠牲が嫌いなサヨはどうしたらいいんでしょう?ウヨは犠牲を平気で他人に押し付けて「美学」とか言いそうだけど。え?偏見?

「神」をテーマに見ていくとこの映画、ヨノイが「神になろうとしてなれないキチガイ」なら、セリアズは「神になってしまったキチガイ」って感じなんですよね。キチガイとか言って申し訳ないけど、ヨノイもセリアズもかなーりエキセントリックな人間ですから。少なくともハナから神なんて目指してないロレンス的人間=観客から見ると「神と狂気は紙一重」って感じで。
本の中で大島渚が語ってたんですが、なんとヨノイとハラ、最初は滝田栄と緒方拳で考えてたんだそうです しかし緒方拳が大河ドラマ主演とかぶりそうで、結局やめたという。
小心者のふてぶてしさを演じたら天下一品の緒方拳と、重厚でありつつもスキっとした前田利家@「おんな太閤記」がカッコよかった滝田栄、あピッタリかも♪ていうかこっちの方が「日本の美学」にリアリティが出たかも。
この映画が妖しくて、「日本の美学=トンデモ」にしか見えなかったのは、たけしと教授(のいけないルージュマジックばりのメイク)だからって点が大きいと思うもん 画面から飛び出る異質さみたいな。まあその「狂気」がこの映画の魅力でもあるわけで、ハラ軍曹なんかたけしのおかげでドキュメンタリー的実在感すらあるのは否めませんが。
(ちなみにこの時の大河ドラマは「峠の群像」の大石内蔵助役、滝田栄は翌年の「徳川家康」でこれまた主役という)

最後の方、ヨノイが俘虜長から武器ファイルを得るために、「病人も全員整列」ってまたまた無理難題を持ち出して、どこから見ても瀕死の重病人を「お前らはうそついてる!」って言い出します。
もうこの頃になるとヨノイは発狂してるとしか思えないわけですが、今ならこのシーンの意味はわかります。つまり日本が好む「精神論」を見せてるわけですね監督は。「病は気から!根性出せ!」みたいな。案の定そんな精神論むなしく、捕虜はコロッと死んでしまいますが←いや笑うとこじゃ。
で、「死んだぞ(どうすんだ)」みたいな空気の中、ヨノイが取った行動は「斬る!」。
why?って感じですけど、「ここまでやっても命令に従わない俘虜長お前を斬る!」ってことで。もうほんとに頭おかしくなってますねキャプテンヨノーイ

この時に出てくるのが、おそらく戦メリで第2第3位を争う名シーンであろう、デビットボウイから教授へのキス。
キスといっても、右頬と左頬に口づけする、「祝福」みたいな。ちなみに吉田秋生は「河よりも長くゆるやかに」で「突然キスすることで戦意喪失させる、戦メリ戦法」と描いてらっしゃいました

これで俘虜長は助かり、ヨノイは更迭、セリアズは生き埋め。
敵を愛し、味方を救い、自らは犠牲になったセリアズ。禍の神は愛と祝福の神になった!?
人間はなかなか神にはなれません。だからウヨは美学の名の下犠牲を他人に押し付け、サヨは犠牲になることを厭うあまり世界を崩壊させ、神と動物との間で今日も生きている。神になることを強制しても、動物に戻っても、おそらくどちらも人間には住み心地悪い。
しかしそんな人間から見ると、動物がある種潔くて美しいのと同様、神はやっぱり美しいです。いくらキチガイとか言って自分はそうなれないことを必死に言い訳しても、やっぱりそれは美しい。正しいことは美しく、そしてグロテスク。
かつて「捕虜になるくらいなら自決する」と素朴に信じ人にも強制していたハラ軍曹が、自分の時は自決もせず、恥ずべき捕虜として生き延び、不名誉な処刑で死んでいくのも、まさに神と動物の間ですね。

戦メリ中おそらく不動の第1位である名シーン、捕虜となったハラ軍曹と戦勝国の軍人ロレンスの会話。
「(明朝の死刑への)覚悟はできてます。ただ1つ、私がやったことは他の兵隊がやったことと同じです」
ああ~~どれだけの人がこう思って死んでいったことだろう。勝敗は時の運とはいえあまりある理不尽。
それに対するロレンスの返事は
「あなたは犠牲者なのだ。かつてのあなたやヨノイ大尉のように、自分は正しいと信じていた人々の」
そして
「セリアズのことを覚えていますか?」
「不思議です。昨晩彼の夢を」
この本読んだ後このシーンをyoutubeで見たら、不覚にも涙が
犠牲になったセリアズ、犠牲になる自分。今ならもしかしてわかりあえて、皆がまったく違う関係になれたかもしれないのに。
「考えてみれば、セリアズはその死によってヨノイの中に、実のなる種をまいたのです」
ロレンスはヨノイから、死んだセリアズの髪を預かり、ヨノイの故郷の神社に奉納してくれと頼まれたのだそう。
つまりヨノイにとって、セリアズはもう敵国の兵士ではない、敵味方を超えることができたのだと。
しかしそのヨノイも既に処刑され、ハラも明日にはこの世にいない・・・
ハラはロレンスに懐かしそうに語りかけます。
「あのクリスマスのことを覚えてますか?」
敵味方を超えた一瞬が確かにあった、二度と戻らないあのクリスマスのことを。


色々と書き連ねましたが、この映画ほんとに大好きです。
もしよろしかったらこちらの、youtubeによる感動のラストシーン&あの音楽をぜひ。そしてたけしの「Merry Christmas,Merry Christmas, Mr.Lawrence」に涙してください
そういや昔、坂本龍一が戦メリを弾いているピアノの傍らで、来日したデビッド・ボウイが頬杖ついて聞き入ってるという、そんなのありか!?いいのかこれをゴールデンタイムに流しても!?と狂喜した番組がありましたが、昔みたいにTVでまたこの映画、クリスマスにやってくれないかな~。ウヨサヨが一回転した今、けっこう琴線に触れる人多数なんじゃないかしら?

テーマ : 心に残る映画 - ジャンル : 映画

読書の幸せ

「食欲の秋」「読書の秋」と、秋の冠は色々ありますけど、私もご他聞に漏れず、それらを実感している今日この頃。
不思議ですね~自然とそうなるのは。そしてそんな言葉が一般的に流通するくらい、みんなしてそうなるというのは。

「食欲の秋」。これは個人的には、あの真夏のような残暑が終わって、と思ったら坂を転げ落ちるように日に日に最高気温がダウンしていった、10月ごろがピークでした。
夏はまったく食べる気しなくて、朝や、へたすりゃお昼も食べなくてもいいくらい(しかし元気ピンピン♪)だったのに、10月頃は、寒いと思ったら食べたくなるみたいな。なんか「食べればあったまるぞ」ていう気がしきりにするんですよね。クマが冬眠前に食いだめするのは、これに似た気持ちに突き動かされてるのかしらとか思いつつ

そして「読書の秋」。私はもっぱら、欲しい本があったらアマゾン、なければブックオフという読書生活なんですが、こないだ買い物帰り、いいお天気だしこのまま帰るのもったいないな~という感じで、ひっさびさにちゃんとした(?)本屋さんに寄ってびっくり、「えっこんな本出てたの!?」「あれっこの人ってばいつのまに」といった感じで、目に飛び込んでくる魅惑の数々、めくるめく世界 結局5冊くらい衝動買いしてしまいました
ブックオフもかなり魅惑の世界ですが、何度も行ってるとどうしても新たな発見は目減りしてね~。基本的に昔よく出回った本の方が多いし。

余談ですが、電子書籍。あれほんとに持ち運び便利で大容量な点はいいと思うのですが、こういう「めくるめく世界が向こうからキターーー」という、ずらりと本が並んだ本屋さんならではの喜びは味わえるのかしら?
アマゾンもそうだけど、欲しい本があらかじめ決まっていて、検索すればすぐ出てきてその場でゲット(まアマゾンは日数かかりますけど)という便利さはあるけど、頭の隅にもなかったような本を「面白そうじゃん」と立ち読みして「じゃあこの隣の本はどんな感じ?」とか、その場で読み比べて・・・といった、世界が目の前でどんどん拓けていくような喜びは。電子書籍使ったことないんでわからないけど、例えば「小説」で検索すれば小説一覧がだーーーっと出るから、そこで立ち読みすればいいとか、そういう仕組みなのかな?立ち読みも、例えば目次とか見て、好きな部分を好きなだけ読めたりするのかな?好きなだけってっても昔ならハタキ持った店主が登場する頃合まででいいんだけど、そんな仕組みならかなりリアル本屋さんに近くて喜ばしいけどな~。

さてその5冊も、2時間くらいあちこち立ち読みして、泣く泣くしぼった結果の5冊ですから、それ以外にもまだまだ読みたい本はいっぱい。
しかし読みたい本を全部買ってたら破産してしまう!ブックオフにはないし、こういう時は?そうだ図書館だ

というわけで、先日は会津に来て初めての図書館♪
村上の図書館はどーにも本の数が少なくて、新たな発見本は色々あったけど、求める本はあんましなかったという
というか個人的には、図書館ってのがもうそういうもんだと思ってます。専門分野がある人はウエルカムだけど、一般はブックオフ行けと暗に言ってないかという偏見が そもそもジャンルを細かく分けすぎていて、同じ人の本でもあっちこっちに分散してたり、なんか使い勝手悪いのよね~~(そこら辺、電子書籍みたいなのは便利だろうな)
会津はどうかな~??と、キレ~イな稽古堂(という名のカルチャーセンター)の2階に足を踏み入れると。

そこはめくるめくせか~い

忘れていた人の本がどっさり!こんなのがあったのか的本がしっかり!
いやよくよく見るとけっこう偏ってます 赤瀬川原平の本がずらっと並んでるのに、泉麻人の本が1冊もないとか、岩下志麻は数冊なのに曽野綾子は死ぬほどあるとか、なーんかこう全体的に、じっちゃん好みのテイスト?
かと思った矢先に、パンクな町田康の本が並んでる隣にはマツコ・デラックスまであるぞいらねーみたいな感じで、なんかあなどれません なんたって「戦場のメリークリスマス・シネマブック」なんていう素晴らしい過去の遺物まであって、若かりしたけしと坂本さんが対談してたりするんですもん

全体的に、やっぱり求める本はないというか(あっても予約10人待ちとか)、「これを置くならなぜあれも置かぬ!?」的なのが多くて「やっぱり図書館は・・・」なんて正直思った瞬間も多々でしたが、通い始めた今は、それを上回る新たな発見本が多すぎて、当分飽きることはなさそうです♪

特に赤瀬川原平がね~~!!こんなにいっぱい本を出してたとは知りませんでした 思えばつい最近出たような気がする「老人力」、あの時は「おお赤瀬川翁健在!」とうれしかったものですが、今見たらもう15年近く前だったんですね。って、ええ~~15年前!?!?じゃあトマソンなんて何十年前!?!?

見慣れた日常が、ちょっと見方を変えるだけで、まったく違う世界として現れてくる。目玉が変われば世界も変わる。
これを軽妙洒脱な文章で教えてくれたトマソン・路上観察の本は、読んだ時以来、確実に私の背骨の一部になりました(しかしトマソン関連を1冊も置かないのはなぜなのだ会津図書館。それとも「美術」コーナーにでもあるのか??わかりにくいよー)。
直接的な路上観察に限らず。もちろんそれはそれで「ナニコレ」に通じる面白さがあって、趣味として大事ですが、個人的に原点となったのは「東京路上探険記」。新聞の「尋ね人」コーナーを追ううちに、見知らぬ個人や家族の物語と、新聞読者であるその他大勢のうちごく数人の視線が、ある時一瞬スポットライトのように交差して、やがてまたもとの大多数の中にまぎれていってしまう。
あるいはコーヒーに注いだクリームが、中心点は動かず周囲をぐるぐると巡るさま、これは東京である。
・・・といった、視点の面白さ。自分の周囲のものを見ていくと、いつしかメビウスの輪やクラインの壷のように違う世界に導かれる。言い換えれば、今までになかった目玉を獲得して、その目玉でもう1度見慣れた世界を見ることができる。その目玉の集大成がつまり「トマソン」。四谷階段、無用門、虚無をかばう庇、原爆タイプe.t.c.
「自由」ってのは「行動範囲の大小」とかじゃなく、実はこういう目玉を獲得することが本質なんじゃないのかい、なんて思ったものでした。

大好きだったトマソンですが、その行き着く先もまた、印象深かったんですよね。
トマソン黎明期、すなわち「何かがおかしい」という違和感が発生して、確立期、その違和感が3つ集まった時に「トマソン」という概念を発見、新しい目玉を得て発展期~成熟期へ。その目玉で町に出ると、いたるところにトマソンがある。今までどうして見えなかったんだろうというくらいたくさんのトマソンが。さらには次々と別分野のトマソンが現れ、合流し、発展していく。ここら辺はほんと、読んでるだけでワクワクしました♪新しい目玉を得て、世界が広がる面白さ。
そうしてトマソン世界は膨張し続けていくわけですが、しかし万物流転。全盛を迎えると、次には必ず衰退期が来るんですよね。
ついには海外で採集されたトマソンなんてのも出てきて、しかもそれらはケタ違いだから、成長期なら「すごいトマソン!」と驚いたであろうものが「ああアタゴタイプね」といった具合に機械的に分類されて済んでしまう。規模が大きくなるのと反比例するかのように、当初のあの純粋な感動・喜びはなくなっていってしまう。
仕方ないことで、物事は必ずそういうものなんでしょうけど。
「一線で活躍し続けるミュージシャン」なんてのは、いかにそれをズラして、いかに落ち着くかなんてのが勝負なんだろうし。
あらゆる「運動」とか「組織」とか、思えばみんなそうですね。生物の一生も。はからずしてこういうこともまた「トマソン」は見せてくれました。

個人的な背骨パーツは他に、曽野綾子や灰谷健次郎などありますが、そんなわけでトマソンも私の中では、手放せない、手放さない方がいいなと思える大事なパーツでした。トマソンって単なる「ナニコレ」じゃなく、視点、つまり物の見方・個人の考え方でもありますからね~。私的にどうしても興味深いウヨ・サヨの問題も、半分くらいはトマソンが踏み絵になる気がします(会津図書館で、赤瀬川翁による「大和魂」「日本男児」といった本を発見してびっくりしました。読んだら「やっぱり赤瀬川翁の考え方は好きだな~」と再確認しましたが)



そうそう、背骨のパーツとなった灰谷健次郎の批評本なんかもあって、これまた興味深く。こんなの普通の本屋さんにはまずないし、ブックオフにはある・かも・しれないけど、当たりハズレが大きそうだから買うまでにはいかないしね~。
なんて時に、図書館ってほんと便利ですね♪ この批評本と赤瀬川本数冊、それに橋本治だの山田風太郎だのを借りて読んでたら、原発事故以降かねがね気になってたウヨサヨ問題や太平洋戦争なんかがすべてごった煮になって、頭の中でミキサーが高速回転し始めて収拾つかなくなってます

昔はこういう高速回転、よく楽しんでたもんです 全部がミキサーされた中から、何かの共通点や法則性が見えそうで、違う世界が見えてきそうでっていう楽しさ。読書の楽しさ。
それができなくなったことが、2回だけありました。1回は学生時代、すっごい極端なダイエットをした時
道に落ちてるキャンディを拾って食べようか、考えてる自分に気づいた時はぞっとしたもんです
あの時は考えることといったら「食」オンリーで、読書の楽しさなんかどーでもよかった。世界の法則なんてどーでもよかった。
そしてもう1回は、初・育児の真っ最中。昼間も辛くて夜も辛くて、考えることといったら「寝かせてくれー」のみ。本屋で立ち読みなんて、赤ちゃんいたらそうそうできないし、家で本読んでもなんだかんだで細切れだし、そもそも本なんて読みたいとも思わない。そう思う自分に気づいたときはガクゼンとしたもんです 今まで「本がなかったら生きていけない(って大半はマンガですけど)」とまで思っていた自分が、本を読みたいと思わないなんて。

山田風太郎さんは、あの飢えと非常事態である戦争時代の中で、そりゃもうぼーーーだいな本を、それこそ胃じゃなく魂が貪り食ってるような勢いで本を読んでます。
が私ときたら、ちょっとおなかが空いただの、私的非常事態(=初育児)に陥っただけでこの始末。ここら辺が山風さんと凡人の違いでしょうか
しかし同時に、あの時代は、今から思えば飢えであり非常事態であったものが、当時の人には日常だったのか、なんても思ったり。その感覚は今、とってもわかる気がするだけに。

読書は楽しみ。あるいは逃避。食や睡眠など生きるために必要不可欠なことがとりあえず満たされているがゆえの、あるいは逃避できる心の余裕があるがゆえの、精神上の純粋な楽しみ。読書を楽しめるのは幸せです。
(ほんとは借りてきた本あれこれの感想文を書くつもりだったのに、前説で終わってしまいました

テーマ : 読書感想 - ジャンル : 本・雑誌

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