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瀬波も震災の影響が

私なんかは若いので(って昭和オババですが)、転勤と言ってもたかが数年、しかも日本の裏側に行くわけでもなく、すぐお隣の県ですぐ来れるんだからノープロブレムとか、あっさり思ってたのですが、やっぱり老いた7~80歳は、その数年でどれほど体が衰えるか、その距離が心理的にどれほど遠いか、などなどから、若い私(←超カンチガイ)なんかよりずっと切実に「転勤」を「別れ」と感じてしまうのでしょうか。私もいつか、今の親たちの心境を切実に実感する時が来るのでしょうか。ああ大日本海の波は、今日も昨日と同じくただたゆたい・・・(なんのこっちゃ

というわけで、今日は旅館「大清」で、「しばし別れの杯をwithジジババ」。
ダンナ実家のジジババちゃんが、瀬波温泉まで泊まりに来てくれました。
「大清」は、設備は若干古いですが、その分リーズナブル、露天風呂は無いけどお風呂からは日本海が一面ザザーン。ということで、ジジババちゃんお気に入りの旅館です。

部屋から見えるのは海と夕陽のみ(あ、粟島の島影もあるな)、そして今日の夕陽は、灰色の空をバックに、燃えるように真っ赤な色でした。うーん雄大!

という旅館なんですが、実は行ってビックリ!なんと宿泊客はうちらだけ!震災の影響で、うちら以外は軒並みキャンセルだそう。
風評被害?うーんそれもあるんでしょうけど、一番はやっぱり近隣・東北からのお客さんなのかな・・・?いつか、いつか落ち着いたら、また瀬波温泉で、いっとき疲れを癒してくださいね。
そしてもし東北6県以外に在住で「こっち方面はキャンセルした方がいいのかな?」とご心配の方々、新潟以北の日本海側は、幸運なことにあんまし影響ありませんでしたので(長岡以西は、長野震源の余震が若干活発ではあります)心配ご無用安心しておいで下さい。今なら空いていて部屋で騒ぎ放題ですよ~(←ここぞとばかりにドッタンバッタン遊んでたKK&U

いやほんとに、お風呂は誰もいないわ、レストランはヒマそうだわでビックリしました。
あ、でも日帰りらしきお客さんはわりといらっしゃったから、たまたまうちらがお風呂に入ってた時間が誰もいなかっただけかな?とりあえず「この雄大な日本海を独り占め~~~」という気分に浸りたい方がいらしたら、ぜひどうぞ
ちなみにこのレストランでは、生簀のイシダイやアワビ・サザエなんかをその場で取ってお刺身なんかにもできます。しかしアワビって、生きてるのを見ると三葉虫みたいでグロテスクですね(と、さりげなく食欲なくす発言

夕食も、今までと比べると、ちょっと「仕入れが難しいのかな?」という感じになっており。とはいえかなーりおなかいっぱいになるのは変わらないので、これまた心配ご無用です。

それにしても、どんな大災害が人々に起ころうと、夕陽や海は変わりませんな~。やっぱり自然は恐いです
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テーマ : 新潟県 - ジャンル : 地域情報

母の愛は負け~

引越し準備がなかなか終わらない今日この頃

私たちと入れ替わりに転勤する予定だった、現在福島の社宅在住の人は、なんと頼んでおいた引越し会社に「この地震でちょっと引越し作業が難しくなり」と断られてしまい、動けないそう。社宅には他に空き部屋があるので、私たちが入るには無問題ですが。
てか私たちも、せっかく安全な新潟にいる今、ましてジャスコなんかでもちらほら「いわき」ナンバーとかを見かけ始めた今日この頃、あえて福島に逆流するのもちょっと不安。なので、うちの引越し会社も無理宣言出ないかな~とウッスラ思ってたのですが、さすが営業が強引で死ぬほど過酷な研修を社員に課すサ○○は違う!これほどの地震も影響なし!

福島の人に話を聞いてみると、同じ「福島」と言っても、原発のある海側と新潟に近い山側では地震の影響も違うらしく、山側ではだいぶ物流も復活してきている様子。ガソリンも、ついこないだまでは開いてるGSも少なく、やってる時間も午後2~3時まで、当然行列といった具合だったのが、この頃は満タン給油できるGSもでてきて、30分も並ぶことはなくなった、たぶん4月にはもっと落ち着いているのではとのこと。
「軒並み出荷停止」のニュースを見て、スーパーに野菜が並んでるか心配だったのですが、葉物は多少少ないものの、キャベツや何かも一応あり。関東で大騒ぎだったトイレットペーパーなんかも大丈夫(ただオムツは大手スーパーなんかでは品切れだそう)、市内の避難施設への物資が必要なこともあり、全体的に品薄ではあるが「オレンジジュースがないからピーチジュースで我慢しとこうか」てなくらいの状態だそう。あ、それなら新潟とあんまり変わらないかも?ちょっと安心

電気ガス水道等も、今のところ問題なく使用開始できそうですが、一番困ってるのが、NTTの工事が、この地震の影響で、かなり先になってしまいそうなこと。夏近くまでインターネットできないのは辛いわ~~

原発はね~~大丈夫じゃない?(←根拠ナシ)距離的に遠いし、それに私のような昭和オババは、子供の頃「光化学スモッグ警報中に校庭で遊んでた」とか「チェルノブイリの後「ハゲになる~~」と騒ぎながら雨の中体育してた」とかが普通だったせいか、あまり危機感が(これは私だけかもしれませんが)。これからは「光化学スモッグ警報」のかわりに「放射能警報」になるんでしょ?みたいな

というわけで、普段の引越しなら「KKとUはお友達できるかな?」が一番心配なんですが、今回は「崇高な母の愛(?)」が「日常的な野菜やガソリンの心配」に押されています ま、どちらもあまり心配しすぎても仕方ないですけどね~

テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

無事に帰ってきてね

昨日近所のスーパー「原信」に行ったら、軒並み品薄で、「さては買い置き集団が現れたか!?」と思ったら、地震による運送困難のためでした。
日本海側である新潟は、今回地震の影響はわりと少なく、また原信も比較的、地産地消に強いイメージがあったんですが、それでも尚この状況とは、被災地はもちろん、そこに近い東北各地は今どれほどの。そして今後どれくらい影響は続くんでしょう。

新潟地震の時痛感したんですが、いくらTVで有用な情報を流し続けても、被災地には届かないんですよね。ライフライン断たれちゃうから。現在の状況、予測、判断などは、被災地発で遠い場所にどんどん流されるけど、それを一番欲しているはずの被災地にこそ入らない。ここら辺のジレンマは、どうしたらいいんでしょうね?

実はうちらが今度引っ越すところは福島で、でもまあ山側だから引越しに影響はさほどないだろうと楽観的だったのですが、今日Uの入園準備のことで現地の幼稚園に電話してみたら、やっぱり道路がところどころ壊れているところもあって、物資の運送も滞ったりしてるとか。
でも電話が通じたことに何より安心しました。福島市内の親戚とは、まだ連絡取れないままだから。。

さて今日は朝から引越し会社の見積もり。
この「サ○○」の営業マンがもうマンガに描いたような営業マンで、じゃあこのあと別なとこに見積もってもらって、その結果・・・と言うと、おもむろに上司?に電話をかけ
「会社の方も、返事を待つ時間があまりないということで、この際この値段にします!(と一気に7万円ダンピング)ここで今決まらなかったら、今回の話はナシにしろということで」
私が読んだマンガではこの後「今かけてた電話、天気予報じゃないのかね?」「こりゃまだ何万円か隠し玉持ってるね」という流れになるのですが、まあそれはカンベンしてあげましょう 何回も見積もりしてもらうのもめんどくさいしね。
じゃあこちらにお願いしようかな~と言うと「ありがとうございます。じゃあ午後の○○さんは今お断りしてください。電話番号はこちらです」おお~目の前で別会社を断らせる!すごいな~~。この強引な手口の数々、普通だったらそれだけで私的には「アヤシイ会社」リスト入りよ~。それともこれくらいが普通なのかしら?地域差?

「○○引越しセンターはもう潰れそう」とか「××運送は引越し作業員がシルバー人材」とか、うそかほんとか楽しい話を聞かせてもらった中に
「3軒くらい自衛隊のお宅にも見積もりに伺ったんですが、やっぱりみんな奥さんが引越し手続きしてました。ダンナさんが地震で現地に行ってて、引越し日にも帰れなそうということで」
そっか~そうだよね。うちのダンナも、長引くことはあっても早く帰れることはないって言ってたもんな~。
ダンナも今日から1週間(で終わるかな?)岩手入りです。ダンナは道路や川関係なので、どこの道路がダメになってるかとか、どこがガケ崩れ起こりそうかとか、危険そうなところを調べなきゃいけないという。携帯もイマイチ使えないので(災害時にあんなに使えないシロモノだったとは!)「便りのないのは元気な証拠」と思うしか。どうか余震が起こりませんように。
と祈るにつけ、被災地の家族と連絡取れない方々、原発やその他被災地で働いている人たちのご家族等々の不安・心配はどれほどかと、言葉を失います。
でも自衛隊の人たちも救助に行ってるし、ダンナたちも応援に行ってるし(私はTVで見てるだけですが)、世界各国からも救援が来ているので、がんばってくださいね。と言っても届かないけど、みんな無事に家族と再会してね。

テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

昭和製鋼・教習生の生活

寮内における生活は、すべて時代を反映して軍隊式、ベルを合図の時間刻みの団体行動でカゴの鳥。設備はともかく、快適な生活など望むべくもなかった。

朝6時、ケタタマしいベルの音でたたき起こされ洗面その他。6時半から朝食、7時半ごろ全員寄宿舎前の広場に集合し、順次4列縦隊の隊伍を組んで、会社本館前の教習所へと登校する。
帰宅の時間は一定でないが、だいたい4~5時ごろ、各課ごとに帰る。

帰ったらまず部屋の掃除で、これが一年生に課せられた任務である。
掃除を終えて入浴。入浴時間は4~6時ごろまでと定められ、その間に済まさねばならない。
上級生もボツボツ帰ってきて、6時半ごろ、一同揃って夕食となる。
夕食が終わって8時までの1時間くらいが、一応自由時間である。自由と言っても寮内だけの話で、玄関から外へは一歩も出ることはできない。

8時になると自習時間である。9時までの1時間は各自の机に向かい、神妙な顔をして勉強(する振り)しなければならぬ。小便に行く以外、席を立つことはできない。
9時で自習時間が終わり、ホッと息抜きの時間。10時が消灯時間だが、その前に点呼という奴がある。全員各室前の廊下に一列横隊に並び、舎監の検閲を受ける。舎監が1号室から25号室まで回って歩くが、自室前に差し掛かると室長が
「何号室、総員何名、異常なし」
といった具合で、それが終わると就寝、1日が終わる仕掛けである。

教習所内での授業は、一般的な普通科目と、その課に応じた専門科目だった。
教師は現場(会社)の部課長クラスの人がこれに当たった。最初の頃は英語の科目もあり
「イッティズ ア ペン」
「ジスイズ ア ブック」
などとやっていたが、段々と戦争が本格的になるにつれ、敵国語の学習は自然沙汰止みとなった。
かわりに登場したのが支那語(中国北京語)で
「ポポモファパォー」(日本流で言えばアイウエオ)
てなことを言っていたが、あの流暢で独特なアクセントを聞くと眠気が先にたち、支那語の時間となると居眠り専門だった。
今にして思えば英語はムリとしても(頭の方が)、中国語は完全とまではゆかぬも、ある程度マスターしておけばよかったと悔やまれる。今となってはショマショマ・メーファーズである。

週に1回「武道」の科目もあった。
尚武館(道場)は少々離れていて、そこに通うには市外の繁華街を通り抜けなければならぬ。
後に2年生になった途端(恐い上級生がいなくなった)、道場に通う道すがら、市外の目抜き通りにさしかかるとドロンを決め込む。つまり隊伍を抜け出し、映画館の暗闇の中にと消え失せるのである。
柔道部に属していた俺は、試合では5人抜きなどやらかし、そこそこの腕前だったが、映画の前には柔道も形無しだった。武道の時間となるとトンズラの常習犯で、危険を冒して(未成年の入場お断り)ひとり映画を堪能していた。飲兵衛が酒屋の前を素通りできぬごとく--

食事についての待遇はすこぶる良かった。特に夕飯は吸い物のほか、肉や魚が欠くことはなかった。
草深い田舎に育ち、青物(野菜)以外食ったことのない、否、食いたくとも食えなかった身にとってはまさに山海の珍味で、盆と正月の連続だった。
ただ昭和17~8年となると、徐々に食糧事情が悪化し、飯の盛り具合が悪くなり、オカズに不足はなかったが、米飯の量はとても胃袋を満足させるには程遠いものだった。
そのうち、芋・大豆に小豆、うずら豆、果ては大根まで飯に混入されるようになったが、余すところなく平らげた。大根以外はけっこううまかった記憶がある。何を食ってもうまいほど、腹の皮がヨジレかかっていた頃で、質より量の時代だった。

「じーちゃんの昭和」目次

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

昭和製鋼・実教寄宿舎

鞍山駅に下車、右手方向を車で15分くらい、中心市街地はずれに初音街がある。
鉄道路線を右側一帯が広大な、東洋一を誇る製鉄所-昭和製鋼所である。
左側一帯が住宅街で、その全域が社宅、その一角に我らが憩いの殿堂-実教寄宿舎があった。

3階建て3棟に、5~60人が一度に入浴できる大浴場、全寮生700余名が一度に食事できる大食堂兼講堂からなり、当時としては近代建築の粋を極めた豪華版だった。
各棟、定員8名の部屋が25室、そのほかに舎監室、寮母室、休養室、娯楽室があり、各階にはこれも当時としては珍しい水洗便所、蛇口の片方が水、片方がお湯の出る洗面所兼洗濯場と、至れり尽くせりの設備だった。

寮母室とは、野郎ばかりの中での紅一点(?)、といっても中年過ぎのオバサンがいて、野郎っ子ではできない裁縫や、休養室の人(入院するほどでもない軽い病人)の面倒を見るのが仕事だった。

室内は板張りの床で、真ん中に4個の腰掛机が向かい合い、その真ん中に本立てが8個並ぶ。
両側には1段高く、畳敷きの寝床(押入れつき)が2人分、それにハシゴがかかり、その上に2人分の寝床と、合理的に設計され、8畳~10畳くらいの広さだったと思う。3年生2名、2年生2~3名、我々新入生が3~4名の8人暮らし、同室者は同課員の構成だった。

室内にはスチームが設置されていて、冬期間は自動的に稼動され、寒さはまったく感じられなかった。
しかしさすがに当時はまだ冷房はなかった。もっとも満州は大陸性気候で、夏でも夜は涼しく、冷房などは不必要だった。

支給される必需品も豪華(?)なもので、外出用の制服・制帽・制靴に、作業服に作業帽、作業靴、夏服用の下着類に各シャツから、外套(オーバー)に雨合羽、手袋、靴下、巻脚絆(ゲートル)、耳覆に至るまで、およそ身に付けるものの必需品一式で、これが半年に1度支給される。
さらには教科書、参考書、文房具一式、鞄からコップ、箸に至るまで、至れり尽くせりの待遇で、大会社(半民半官)ならではの大盤振る舞いだった。その上、月10円也の手当を支給され(2円は強制的に貯金させられた)、自分で買うものと言えばパンツ(もしくはふんどし)くらいの物だった。

もっとも全員同一型の同一色(国防色)に統一されている手前、変わったものなど身にまとう余地も必要もなかった。
ただその中にあって異色だったのは、我々1年生に支給された外套で、本来国防色の予定が、染色過程でのミス(?)か何かで緑色となった。
カーキ色全盛の時代に鮮やかな緑色は、宝塚のオネエチャン然として、ひときわ目立つ存在だった。それが為、一目で教習生と判明し、不都合な点もないではなかったが、おかげですごくモテた。もちろん全部が全部と言うわけではない。

「じーちゃんの昭和」目次

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徴兵検査?~カンエツテンコ

「カンエツテンコー」あるいは「ケンエツー」だったかもしれぬ。いずれにしても未だに字も意味もよくわからない。軍隊用語で、定期的に行われる検査のごときものだったらしい。
昭和19年か20年ごろ、月も定かでないが、終戦少し前のことだった。当時満州では徴兵検査を来年に控えた19歳の男子全員に、この「何とかテンコ」でしかるべき場所に出頭せよ--との通達が来た。

当時19歳男子は「第二国民兵」と呼ばれ、在郷軍人の一員とされていた。と同時にその筋から
「戦況もますますエスカレートしている折柄、いちいち徴兵検査などやっている暇はない。それに替わるものを前もってやっておき、必要に応じて赤紙でドシドシ引っ張るのであーる」
と宣告されていた。それがこの「カンエツテンコ」だった。出頭にあたっての心得は
「奉公袋持参のこと、必ず越中ふんどしを着用のこと」
の2点だった。

戦争も激しくなり物資の不足も手伝い、生地が不経済でもあり、パンツ発祥の地が敵性国家のためか、多くの人が日本古来の「ふんどし」を着用していた。
当時衣料店などで売っていたかどうか知らないが、ありきたりの手ぬぐいに紐をつければ一丁上がりで、チョンガーにとってはありがたく重宝な物だった。
第一あの「越中ふん」は、事に望んで便利この上もなく(?)、唯一の欠点は夜中に息子が勝手に一人歩きすることである。就寝前いくらしっかと締めても、翌朝起きると、不肖の息子のその又息子が必ず顔を覗かせているから困ったものだ--。

偉い人(と思われる)が大勢見守っている中、例の越中ふん1枚の素っ裸で順次、身体検査が始まる。
身長、体重、胸囲など型どおりの体力測定が、時たま気合をかけられながら行われる。気合の主は軍医である。
一通りの検査が終わりに近づき、最後にいかめしい顔つきの軍医が椅子に腰掛けて控えている前に、直立不動する。すると軍医の奴、無礼にも我が越中様を無造作にサッと下に引っ張り、「親にも見せない玉手箱」をサラケ出す次第となる。当時はまだ「男子の逸物」にはほど遠かった?
軍医が我がモノを握ったり引っ張ったりして、異常(性病)がないとわかると、「廻れ右」の号令だ。
床には白墨で丸が4つ書いてある。その上に両手両足を着き、犬猫同様の姿勢をとらされる。つまり四つんばいになって尻(痔)の検査だ。「異常なし」を確認すると、「よし!!一丁上がりー」と尻をピシャリと叩かれ、これで身体検査の部はすべて終了となる。

ふんどしを締めなおし、上座の一段高いところに、机を前にデンと腰掛け、方々に睨みをきかせて控えている関東軍のお偉方(大佐か少将だった)の前に、恐る恐る進み出て一礼後、あらん限りの声を張り上げて
「第二国民兵--何の何兵衛!」
と怒鳴る。するとこのお偉方、ジロリと顔や身体を見回し、なにやら机上の書類にハンコを押していた。

これで終わりと出口に向かうと、出口手前の通路片側に、机を並べて5~6人の偉い人が、関所よろしく待ち受けている。
カイゼルのごとき立派な鼻ひげをたくわえ、「俺より偉い奴はいない」とそっくり返っている在郷軍人の偉方(M大佐だったと思う)や、金モールでベタベタ着飾り、泥棒を見るような目つきの悪い警察署長を始め、市内の各所高官や、白エプロンに「大日本国防婦人会」というたすきをかけ、「嫁いびりが最高の趣味」といった意地悪い顔つきのオバハンなどが控えている。
これらの人々の前に順次一礼して立ち止まり、彼らの品定めにさらされるわけである。
彼らの手元には我々の本籍地、現住所はもとより、生長過程、家族の状況から頭の程度、特技に賞罰、趣味嗜好に至るまで、こと細かく記載された身上書がある。誰がいつどこで製作したものか、本人にはわからない。プライバシーもヘッタクレもあったものじゃない。
この書類と我々の顔と身体をジロジロ見比べながら、必要に応じて質問する。俺の場合
「うむ--お前には母親が無かったのか」
と、とぼけた奴もいたもんだ。幼い時に死に別れたまでのこと、最初から無かったわけじゃない(もっとも親父からは年中、川流れとか木の股から生まれたとか言われてはいたが-)

小一日後、無事徴兵検査も終わった。
戦争も激化の一途をたどり、「シコの御盾」がいくらあっても足りぬ折柄、よほどのことが無い限り「甲種合格」間違いナシだった。
先輩諸氏の話によればこの時、だいたいの兵科が決まるという。
帰路、検査も終わった気安さから、同僚5~6人と勝手なオダあげながら三々五々歩いた。
「俺は歩兵がいいなァー」「工兵だけはご免だ」とか「俺は憲兵になりたい」「そらームリだ」から「騎兵が格好いいなァー」といった調子だ。第一その当時「騎兵」などという兵科は廃止されていたはずだ。近代戦争のさなか、馬にまたがり「やアやア遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ」でもあるまいて--その中の一人が俺に向かって
「お前はおそらく砲兵だ。その身体では間違いない」
と言う。砲兵と身体とどう関係するのかわからんが、それならまんざらでもないと内心ほくそ笑んだ。
実は我が家と砲兵は比較的縁が深く、親父が砲兵だったらしい。「俺は38式速射野砲だ」と言っているのを小耳に挟んだ記憶がある。若き日の蒋介石が留学か留兵?かしていて、一緒の連隊とかで時々見たとも言う。次兄も仙台あたりの砲兵だった。
尚、当時各連隊番号を表す襟章の色は、砲兵は黄色、歩兵は赤で、憲兵は黒だった。

さて得手勝手な熱を上げながら歩いてきた我々を、後からつけてきたゴツい奴が呼び止めた。
代表の1人がその人相のよからぬ奴と、なにやらゴソゴソ話していたが、後で聞いたところ、これが何と私服憲兵だった。つまりは
「いい若い者がデレデレしないで、シャンと歩け」
との小言だった。

「じーちゃんの昭和」目次

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ついに赤紙!・・・だけど

昭和20年8月10日すぎ、全満の当時19歳の男子全員に赤紙が来た。
俗に言う「一銭五厘の召集令状」である。
それ以前、19歳に達した男どもは「在郷軍人第二国民兵」とされ、「カンエツテンコ」と称する「徴兵検査」のごとき行事が施行され、その際その筋の偉い人(軍人)から
「戦況も風雲急を告げる折柄、いちいち徴兵検査などやっている余裕はない。今後は必要に応じ赤紙でドシドシ引っ張る」
と告げられていた伏線がある。

8月13日、床屋で丸坊主となり、夜11時ごろ、着の身着のまま、奉公袋を下げて、市内3箇所の集合場所へ、各100名近い人々が集められた。この日の床屋はどこもかしこも満員の盛況で、ずいぶん儲かったことだろう。

夜半、どこへ行くのか知らされぬまま、ガタゴト夜汽車に揺られて鞍山駅を発った。
汽車の運行もスムーズに行かず、止まったり休んだりで目的地も定かでなく、さして急ぐ旅とも思われなかった。
翌日、下車したのは奉天だった。
昼過ぎだったと思うが、出迎えの兵に引率されて歩き始めた。どこを歩いたかどこへ行くのか、皆目わからぬまま、ただ黙々と歩き続けた。

やがて陽もとっぷり暮れて、真っ暗闇の中、飲まず食わずの強行軍だ。時々5分間の休憩があり、その場で横になり仮眠する。わずか5分だがこの休憩はありがたかった。
この体験から得たものは、人間は歩きながら眠れることである。もちろん熟睡ではない。夢の中をさまようがごとく、雲の上を泳ぐがごとく、さながら夢遊病者である。斃れそうになると前後左右の人に接触する。そのたびに瞬時我に返り、転ぶことはない。

翌日、中国人民家もまばらな田舎部落に、ひとまず一服する。
ここまで来ると疲れと腹ペコは極限に達していたが、折から通りかかった一隊(兵隊)から、引率者が交渉の果て、いくばくかの握り飯を分けてもらい、むさぼり食った。梅干もなければ塩気もない、米の固まりそのものだ。
食い物もなければ行き先もない、無い無いづくしで招集かけた軍上層部の考えは理解に苦しむ。

その日はその場に野宿となった。まったく「行き当たりバッタとともに草枕」だ。
夜中、雨に見舞われたが退避するところもなく、軒下や木の影などに身を潜めるが効果はない。
翌日「敗戦」の噂を耳にするが、半信半疑のまま、またぞろ何処へともなく歩き出す。アテもなければ目的もなく「ネグラ定めぬ渡り鳥」だった。

ようやく着いたところが、奉天市内の大きな学校跡らしい空き屋だった。
なんのことはない、奉天郊外をグルグル無駄骨折りながら廻っていたものらしい。
ここにはかなりの数の兵隊が駐屯していた。我々も分散され、従前からの兵と混入、ひと部屋10人くらい、ふとんもなければ枕もない、むしろ1枚の床の上でごろ寝の生活だった。
粗末な物ながら、南瓜や芋を煮た食い物にもありついた。古年兵など、毎日酒くらっては怒鳴り散らし、かなりの荒れようだった。

何するでなくただゴロゴロすること2~3日、ある日突然、我々新兵(?)は身に着ける軍用品一式を支給され、一同解散となった。班によっては「好きなだけ、持てるだけ持ち帰れ」とのことだったと聞く。
とにかくここにおいて、ようやく訳のわからん団体から解放され、三々五々それぞれの家路につく。

さて帰るといっても汽車はストップ、乗り物も無ければ金も無い。仕方なく友人U君と歩きながら心細い道中を続け、無事鞍山へたどり着くことが出来た。
中国人などは各家の前や塀の入り口で、家族や近所の連中が一団となり、子供のころ絵本で見かけた赤いキンキレのついた青竜刀のごとき刃物や棒を手に手に備えを固め、通行する日本人をジロジロ睨んでいた。幸いにも未だ終戦直後のこと、専守防衛で襲ってくることはなかったが、あまり気持ちのいいものではない冷や汗道中だった。

それにしても奉天から鞍山まで、歩けば2~3日近くはかかるはずだが、どこで休みどこで寝たのか全然覚えていない。
唯一、鞍山の2つ3つ手前の駅から、手押しで走るトロッコのような車を無断拝借し、顔見知りの同類者5~6人で、鞍山駅までぶっ飛ばした覚えがある。

赤紙での召集から解散に至るまで、一連の出来事は、やることなすこと腑に落ちない点が多すぎた。
おかげで、やれ「軍上層部は8月15日以前に敗戦を知っていた」とか「有り余る物資をみすみすロスケやパーロに奪われるのはケッタクソ悪い、いっそ日本人にくれてやった方がマシ--と集めた」とか、様々な憶測を呼んだ。
事実「物資欠乏」のこの時期ですら、関東軍においては、戦いに負けたとは到底信じられぬほど、前述の被服類はもとより、酒・タバコから缶詰、乾パン等がゴマンと倉庫内に山積みの状態だった。その反面、武器と来たらまったく逆で、「ショマ、ショマメーヨー」で何もなかった。
腰に下げる短剣の鞘は木製、しかも中隊にただ1本だけ。小銃もまた然りで、営門(門はなかったが番兵の立っているところ)を通る際は引率者の1人だけ代表で銃・剣を着用せねばならぬため、その都度かわるがわる交代で着用する有様だった。残念ながら「これじゃ戦争勝てるわけねえ」と納得した。

心身ともに疲れはしたが、まずは何事もなく「衣料貰った分だけ儲け」で済んだのは幸いだった。

「じーちゃんの昭和」目次

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

春スキー

またまた行ってきました。おそらく今シーズン最後のスキー。

場所はここです!

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って駐車場だし 空いてますね~~

はい、こないだも行った、新発田・ニノックスです。
こじんまりしているので場内の移動がラク、けど過不足なく揃っている、キッズエリアにスノーエスカレーター完備、初心者コースがうちら的にちょうどいい、などなどから、我が家お気に入りのスキー場です。

ただ着替え場所やトイレはあまり期待できません 決して不潔ってわけじゃないんですけど、胎内あたりの大型スキー場に比べると、やっぱし古いというかね。

到着が14時半くらいだったので、「4時間券買ったらもったいないかな?17時でナイター券買わなきゃいけないだろうし」とか言ってたんですが、なんとここではナイター挟んで4時間OKだそうで(って、他のスキー場もそうかな?)
レンタル品も、何時まででもOKだそうです♪よーし19時まで滑るぞ~♪

今回はKKに加え、Uのスキー靴&板もレンタルして、スキーメインの予定です
17cmの靴もちゃんとレンタル品として置いてありました。

Uはこないだスキー板で歩いたのが大変お気に召したらしく、滑る気マンマン
前回の靴スキーと違って足首がグラグラしないので、いかな運動オンチのUでも(←ママ似)すぐに平地なら移動可能に♪

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しばらくパパがマンツーマンレッスンしてくれるというので、ママKKはさっそくリフトへ!

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空いてますね~~
もうシーズンも終わりですしね。
杉の花粉も相変わらずた~っぷり。もうすぐコレが飛んできますよ~~

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さあ到着!下まで一気に滑っていきます♪うっひょ~~♪
というのはKKだけで、ママはボーゲンで慎重に慎重に下りてますが、いいの、ママの脳内イメージではまさにそんな感じだから
しっかし地面はガリンガリン、ところどころ板がひっかかったりしてこわかったです ママもKKも途中で派手にすっころびました

2~3回往復してパパ&Uのとこに戻ってみると、パパへとへと Uにくっついての上り下りが相当キツかったらしく
じゃあ今度はママUで、ラク~なスノーエスカレーターに行こう、とお隣のキッズエリアへ。パパKKはリフトへ。

キッズエリアに着いたらU、やっぱりソリをしたくなったらしく、またまたレルヒさん雪像で転げ落ちることに。

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レルヒさんもすっかり顔が溶けちゃって もうシーズン終了間近ですね~
こないだはよーく滑ったレルヒさんの坂ですが、今回はやっぱりこっちもガツンガツンで、ソリが引っかかってしまい、U欲求不満
じゃあやっぱし高いところから滑ろうか?

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ということでロープウエイに引っ張ってもらい、頂上へ。
Uは気持ちよく大の字になりながら「ひなまつり」なんか口ずさんでゴキゲンですが、親は歩くのがけっこう疲れます
こっちはツルツルで、いやー滑ること滑ること!!勢いつきすぎて止まらず、レルヒさんの向こう側へすっ飛んでいく親子も!私的にはTDS「センターオブジアース」の恐怖と双璧です(ちょっと大げさ?)

そのうちパKKが戻ってきて、いよいよ4人でスキーすることに。
パパが足の間にUを入れて滑ります。中腰なのでかなり腰痛くなるんですけどね。。。ボーゲンママは変わってあげられなくてゴメンよダンナ

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そういやKKが3歳くらいの時も、こうして滑ったんだよな~
今はもうKK、方向転換もうま~く体重移動できるようになって、素晴らしい~~(「それに比べてオマエはちーとも上達しないな~」@パパ。パパゆずりの運動神経持ったKKと比べちゃダメ

そう、ママゆずりの運動神経持ったUが、果たして上から滑れるか心配だったんですが、おお~~滑ってる滑ってる♪
「U~~」と呼ぶと「イエーイ」って、おおけっこう余裕あるじゃん

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Uはすっごく楽しかったらしく、「もう1回もう1回」
滑る間、パパに抱えられたまま急にジャンプしてみたりりこぶしを振り上げたりと、ノリノリでした
おかげでパパはヘトヘトを通り越してバテバテ
ゲレンデ1Fの軽食コーナーで、しばし休憩。

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夜のゲレンデってキレイですね。
でもカメムシ?らしきナゾの虫が時々テーブルにいて、そのたびUは大騒ぎ
まだ寒いのにね~。もう虫いるのね~。

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というわけで、19時までびっちり滑りました。
夜になったら削れた雪が増えたせいか、ちょっと雪質が良くなって滑りやすく。
Uももうすっかり上手にリフトに乗れるようになって。ほんと子供は上達早いです。

いや~~今日はいっぱい滑れたな~~
おそらく今シーズン最後の春スキー、楽しんできました♪

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村上の傘

村上に引っ越して1年くらいの頃だったかな?ガスの点検に来た人と「村上は慣れましたか?」「歴史あっていい町ですね」みたいなことを話してたら
「人によっては、村上の人はプライドが高くて付き合いづらいって言うんですよね。なんせ昔からの城下町だから。うちは神林なんですけど、時々聞きますよ」
といったことをおっしゃってて、へーそういう面もあるのかな~?と思いました。
神林が村上のお隣だからってのもあるのかもしれませんね。「近いからって、ウチみたいな城下町と隣町を一緒にしないで」みたいな意識が、隣町にはビンビン伝わってくる、とか
私は転勤族という通りすがりで、しかも町の景色という第一印象からして、村上っていいな~城下町の雰囲気あるな~と思ってウキウキ生活してたので、あんまりそういうのは感じませんでした。むしろ、同じ城下町のはずなのに、どっかヤンチャなイメージがある実家・新発田市に比べ、村上はなんだかおっとりしてて品があるのはなぜだろう?とか(いや決して新発田が下品だとかそういうわけでは
なんか知らないけど、人づきあい苦手な私が、「村上の人はいいな~過ごしやすいな~」と、ずっと思って今までこれたんですよね。
その始まりはたぶん、村上の傘。。。

Uが赤ん坊だったので、村上に来て1年ちょい頃だと思いますが。
雨の村上ジャスコ・通称ジャスプラの駐車場に車を止めて、「けっこう降ってるな~。まいっか。入り口まですぐだし」と、赤ん坊のUを横抱きにして走ってたら、横からさしかけられる傘。見るとお姉さんが、私たちを傘に入れながら併走していて。
びっくりでした。見知らぬ人に傘をさしかけるなんて、しかもその見知らぬ人と一緒に走るなんて、そんな労力かけるなんてありえない(←超絶メンドクサガリ)。
で、「すみませんほんとに」「助かります」とペコペコしながら言うと、「いえいえそんなこと」とかの謙遜や、親切オーラ全開の笑顔なんかはまったくなく、ただ一言「赤ちゃんが濡れちゃう」。

「私」が「親切なこと」を「してあげる」ではなく、ただただ「あの子濡れちゃう!」→「赤ん坊は弱い、風邪引いたら大変!」→「ここに傘がある」で、この行動に至った、それには「知らない人に躊躇する」とか「一緒に走るなんてメンドクセー」とかの「私の事情」は関係ない、みたいなお姉さんの意識に。。。「親切なことをする」なんて自意識はハナから度外視したお姉さんの「親切」に。。。二度びっくりでした。

私はこんなふうに、「親切」なんて考えることもなく、人に親切にできてたかな。。。(いやできてない。今でもできてない

おそらく今まで、傘じゃなくても人様に親切にされたこと、いっぱいあったと思うのですが(実際いくつか思い出すこともありますが)、親切を受けてこんなにびっくりしたのは初めてでした。(たぶん「お母さんダメじゃない」と、お姉さんに叱られた気分だったので、ひときわ印象深く覚えているのかもしれません おかげで以来、車に傘を常備するようになりましたが、それはさておき)

これをびっくりするくらい受け止めたのは、もしかしたらその前に出会っていた、もう1本の傘のおかげかもしれません。これはUがまだおなかの中にいた頃。。。
みぞれまじりの幼稚園出口。役員会が終わって、さて駐車場までひとっぱしり・・・と思ってた私に、ほんの顔見知り程度で、あんまししゃべったこともないようなママさんが
「傘持ってないの!?じゃこれ持っていきなよ。うちすぐそこだから傘なくても平気」
びっくりでした。よく知らない人に傘を貸すなんて(返ってくる保証もないのに)、しかもいくら近いったって、わざわざ持って出てきた傘を人に貸して、自分は濡れて走るなんて、そんな労力かけるなんてありえない(←超絶メンドクサガリ、てかどんだけ走るのヤなんだ)。

さすがにこの時は「駐車場すぐそこだから大丈夫~」と、傘は借りませでしたが、そのお気持ちはありがた~~く、そして心の奥底にけっこうズシリと、いただきました。

私はこんなふうに、「自分の損得」とか考えることなく、相手を信じて人に親切にできてたかな。。。
そもそもこんなふうに、人を信じることなんてあったかな。。。

村上に越してきて、短期間のうちに出会った2本の傘は、私の未熟な性格に連続パンチを入れるに充分でした。

こういう人達に近づきたい。

で、それ以来、周りが何か手が足りないとか、どっか負担が集中しているように見えたら、あまりよけいなこと考えず、ちょっと手を出してみることを心がけ。
とはいえ最初は、「なに親切ぶってんの?」という自分ツッコミが鳴り響く中、かなりギクシャクと「親切」してたと思いますが、「自分が今何をすべきか」が見えたら「自分がどう思われるか」とかはひとまず考えず、癖にするべく回数こなして。(ここらへんはいまだ修行中
そうこうするうちに、幼稚園・学校や地域の役員なんかでも、昔は「役員なんてしたい人がするんだよね。こういうの得意な人や出たがりな人が必ずいるから」とか思ってたのが、実は「みんなしたくないし、物理的にできない人もいるんだよね。だから仕方ない、時間のある人でなんとか協力し合っていきましょう」なんだってのが、だんだんわかってきたり。(とか言いながら小学校の方はほとんどノータッチでスミマセン
ここでイジワル集団だと、そういう時に陰で何か言われていたり、しでかしたことや、時にはまったく関係ないことで笑いものにされたりといったことが、なきにしもあらずですが、ここが「村上の人っていいな~」と思えたとこで、少なくとも私の印象では、そういうことって全然なかったです。ここでは「誠意を持ってすれば誠意は通じる」みたいなとこが必ずあって、その積み重ねが相乗効果になって、相手や場に対する安心感、そして信頼感が自然と培われて・・・みたいな。
頭上に傘が2本もさしかけられる町では、足元には無数の傘がいつも準備されている・・・私にとって村上は、そんな町でした。
もっとも、村上以外の町でもそうなのかもしれませんね。新発田にもそういう友達はいるし。ただ私が今まで子供みたいにイジけてたので、村上に来て初めて広範囲に実感できただけで。
それと、人付き合い苦手なのは相変わらずにつき、手は出してもあまり深い付き合いしなかったので、お互いヤな部分を見ずに済んだのかもしれません。通りすがりの親切どまりで。

ともあれ、そんなこんなで6年間、村上にお世話になりました。

異動が決まりつつある頃、それをポロリと言うと、周りの皆さんは口々に「ええーっ!!うそーー!!」「すっごい残念!」「残りなよ」等々、またまたびっくりするくらいおっしゃってくださいました。
もちろん社交辞令が多分にあるでしょう。また「残念」と言っても引っ越した後は、何事もなく生活は続くでしょう。
でもこれらの言葉が、社交辞令4割以下に本音6割以上、つまり本気で「残念」と思ってくれてる、と思えたこと。
そしてそれらの言葉に対し、昔みたいに「社交辞令のやり取り」なんて思わず、「そうなんだよ~すっごい残念なんだけどさ~」と、これも本気で思い、そのまま伝えられるようになったこと。
つまりは今までよりも、人を好きに、そして人を信じられるようになったこと。

周りの人を信じられるって幸せなことだな~と、実感しました。

これが村上からもらった大きな財産です。
これがもっと血肉化され、ぐらつかない土台になるまで村上にいたかったけど、それは次の場所での宿題・・・ですかね~

私に大きな財産をくれた村上の方々、本当にありがとう。これからもどうかお元気で、ずっとお幸せに。
そうそうそれから、瀬波海岸、瀬波温泉、三面川にお城山、黒塀通りや町屋の風情、トラヤのパンに川村のコロッケ、おっと忘れちゃいけない「さんきょシュー」、キジにタヌキにクワガタに白鳥にKK兄ちゃんのお友達(動物カテゴリー?)、その他、村上を形作る色んな存在。
みんな好きでした。お世話になりました。ありがとう。

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一路満州へ、新天地へ!

昭和16年、4月も終わりに近づくと、各中隊(会社)ごとに順次、渡満の途についた。
5月早々、我が中隊も、他の1~2の中隊と共に、晴れの渡満の日を迎えた。
総勢500人くらいだったろうか、勇躍、壮行式の会場に臨んだ。
永澤所長閣下の訓示から「いやさか」三唱に始まり、各来賓の祝辞に続き、満州国駐日大使・何某氏かが壇上に上り、恭しく一礼後、静まり返った隊員一同に対し、おもむろに壮途をさかんにする祝辞を述べ始めた。
「チンテン、シャンナル、ホイホイ
ニーチーテン、ホーワン、タンメン
ウオパーチャンテン、シンメン--云々」
これには面食らった。チェンチェンわからん。わからんのはメイファーズだが、何よりあの独特なアクセント(四声)がたまらずおかしい。
「笑っては失礼。笑ってはいかん」とこらえども、おかしさがこみあげてきてどうにもならない。困ったことだが全員クスクス笑い出す始末だった。田舎からポッと出の小僧っ子で、女の子なら箸が倒れてもおかしい年頃、ズーズー弁の日本語よりほか聞いたことがない者に、初めて耳にする中国語がおかしくないはずがない。
大勢のクスクス笑声が「ナントカ大使」の耳に入らんはずもなく、大変無礼をしたもんだと、後で悔やんだもんだ。トイブチーア、シェンション。

友部駅を出発--常磐線経由で、貴社は一路上野へ向かった。
東京が近づくにつれ、車窓からは、数多くの煙突からモクモクと煙を吐き出している光景が目に入り、「さすがは大都会だわィ」と、何だか嬉しくなった。煙突や煙が多ければ多いほど、産業発達のバロメーターとして誇りとする時代だった。

上野下車後、歌に聞く「恋の丸ビル」に一同案内され、何階だったか高いところの一室で、初めて聞く「ランチ」なるものを食った。
「ランチ」が初めてなら、出されたフォークも初めて、初めてづくしで面食らう。牛のベロか何かの料理だったと思うが、もちろん左手でフォークを使って食う芸当などできっこない。見よう見まねで食うには食ったが、おかげで味の方はトンと覚えていない。

佐藤中隊長殿が神戸三宮の埠頭まで同行し、見送ってくれた。
別れを惜しんで、約8000トンの熱河丸に乗船し、神戸港を後にする。
瀬戸内海の航海は、波穏やかで風光明媚、観光旅行気分で上々の滑り出しだった。
途中、門司に寄港し、いったん下船して、港の公園風広場でくつろぎ、小半日を過ごした。

我々のグループは約7割までが九州出身者で占められ、その彼らの前もっての連絡で、家族親戚が大挙して面会に出向いてきた。1ヶ月ぶりで会う我が子を取り巻いて、飲めや食えやと大変なもてなしで再会を喜んでいた。
俺たち東北方面出身者には面会人など来るはずもなく、ポッポは寂し飲み食いするわけでなし、チヤホヤもてはやされている九州の奴らを、苦々しく見ているより仕方なかった。

余談だが、当時我々の一挙手一挙動はすべて軍隊的団体行動で、時たま不意打ち的に非常呼集とか所持品検査などが行われる。その際、同輩の情報など見聞きするに、大抵1人30円から、多い奴は50円くらい持っていた。それにひきかえ俺が家を出る時、親父から貰った金は、藤原鎌足公1枚(10円)きりだった。
もちろん、3度3度支給される食事以外、勝手な飲み食いや買い物などは禁止され、諸経費万端会社もちで、一文の金も必要ではなかったが---人様が4~50円持っているのに、いかに貧乏とはいいながら、10円ポッキリと差をつけられれ、何となく心寂しかった。

やがて乗船時間が近づき、「集合」の号令が出た。
手持ち無沙汰でポカーンとしていた俺などはサッサと集合したが、親兄姉に取り囲まれてデレデレしている奴らはすぐとはゆかない。
「気ーつけろやー、生水飲むな、風邪ひくなー鼻紙持ったかー」
と、なかなか別れが尽きない。
15,6の小僧っ子を「赤い夕陽の満州へ」(非常に遠いところという意味)旅立たせるわけだから、親としては無理からぬところ、その心情はよくわかる。「ほら手土産だ、それ小遣いだ」などと言っているうちに、とうとう集合に遅刻するハメとなる。
ほんの僅かの時間だが、当時の上に立つ奴は見過ごすはずもない。早速の制裁だ、往復ビンタの洗礼である。
殴られる奴は自業自得としても、哀れをとどめたのはその親兄姉、平身低頭、必死の謝罪である。これがまた逆効果で、引率のセン公は「俺の存在を誇示するのはこの時」とばかり、いやが上にも意気あがり、ひっぱたくことひっぱたくこと。大勢の見送り人を前にして---

俺などはいたって平静そのもので「親兄姉とベタベタし飲んで食ったその上に、土産や小遣いまで貰いやがっていい気味だ」と心の中で冷笑した。
また休憩中、金のある奴はこの時とばかり、菓子やサイダー、ラムネなど、しこたま買い込んで乗船したものの、人前(我々グループ)で飲むわけにもゆかず、セン公に見つかればこれまたヤバイ。と、仕方なく便所内で隠れて飲んだはいいが、飲み終わった空き瓶の始末に困り、窓から海へボンボン投げ捨てているところを船員に見つけられ
「出港して沖へ出たらかまわんが、停泊中の港へ物を捨てたらアカン」
と怒られていた。またしても俺は「ザマー見ろ」とほくそ笑んだものだが、いかに恵まれざる者とはいえ、ヒガミもここまでくると、この先少々心配にならんでもなかった。

出港のドラが鳴り渡る。
あの独特の音色を耳にすると、何か心が引き締まる気持ちになる。
岸壁には大勢の見送り人が手を振り、ハンカチを振って、盛大な見送りだった。
我々一同は、後部甲板上に整列させられ、「かしらー中」の敬礼だけ。手を振ることも足を挙げることもできず、東海林太郎のごとく直立不動の姿勢でただ突っ立ったままの、愛想のないものだった。

「蛍の光」のメロディーとともに、船は静かに岸壁を離れていく---ゆっくり、ゆっくりと---。

だんだん調子が出てきたところで、またぞろ例の「万世一系ゆるぎなき すめらみことを仰ぎつつ-」の合唱だ。>これには心底参った。

それにしても船の別れは辛いが、それなりの風情もあり、情緒もたっぷりだ。アッケない別れの汽車や飛行機(乗ったことはないが)と違い、いつまでたっても見送る人々の姿が見えるから困る。
惜別の念断ち難く、メロメロになりかけているところへ、「ボー、ボー」と陰にこもった汽笛がなり、一段と情をそそる。雰囲気満点である。

今の今、家族との別れを惜しんできた奴らはもとより、一同クスンクスンと盛んにハナをすすりあげる。
この時ばかりは別物で、この異様な雰囲気には、鈍感な俺にもジーンとくるものがあり、ニキビ面のほほを伝わる一筋の--「散るは涙か、はた露か」--だった。
見送り人の姿が視界から消えるまで、黙って突っ立っている方もシンが疲れるが、別れを惜しむ波止場の情景は格別で、センチ極まりないものだった。映画などで数多く取り上げられるのもまた、むべなるかな--である。

かくて悲喜こもごも、思い出と夢を乗せて、船は一路満州へ--新天地へ---。


白い花なら 別れの涙
紅い花なら 嬉しい心
青い花なら 悲しい心
咲いたらあげましょ あの人に  (花言葉の歌)

俺には花も咲かねば、あげる人も、くれる人も、いなかった。

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ヤマトバタラキ~満州鉱工青少年訓練所の生活

「日本体操」と書いて「ヤマトバタラキ」と読む、いやそう読まされた。
この体操も、ことあるごとにやらされた。体操と言えば体操だが、これがまたすこぶる変わった体操で、戦時下ならではの神がかり的なものだった。

体操の一挙手一挙動もさることながら、全員が号令をかけながら行うもので、その号令たるや「一、二、三」ではなく、すべて「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、やー」といった調子である。
一通りの所作が済み、これで終わりかと思えばさにあらず、ここからが「ヤマトバタラキ」の真骨頂である。

拍手打って、恭しく一礼してからおもむろに、神主があげる祝詞のような、坊主が唱えるお経のような、変な節をつけて経文様の文句を長々と斉唱するのである。
戦時下にはお定まりの台詞だったが忘れてしまった。が、その言わんとするところは
「天孫降臨に始まって--豊葦原の瑞穂の国がドウトカして--われらは天皇の赤子であり--つまりは君のため国のため、身命をなげうって奉公する--」
というようなものだった。
最後に、ひときわ恭しくあらたまり、「すめら命(みこと)--いやさかーー」と怒鳴り、両手を挙げる。この「いやさか」を3回繰り返す。3回目はもったいつけ一段と声を張り上げ「いーやーさーかー」で、全巻の終わりとなる。つまり「天皇陛下--万歳」の三唱である。
たまげたもんで、いくら非常時でも体操するのに何も「神代の昔」まで持ち出すこともあるまいに--まったく珍にして妙な体操だった。

1ヶ月に及ぶ訓練期間中、心身ともにクタクタになるまで鍛えられたが、ことさら印象に残るものもなかった。ただ前記「綱領」と「万世一系ゆるぎない歌」と、この「日本体操」の3つだけが浮き彫りされ、馬鹿らしい中にも幾分の懐かしさはある。

なお、渡満入社後も、この「日本体操」が珍しいということから、会社の運動会その他の諸行事に狩り出され、観衆の面前で「ひーふーみー」と性懲りもなくやらされた。
初めて見る観衆は、物珍しさと「変な体操」に感心して拍手を惜しまなかったが、やっているこっちは少々阿呆らしく、恥ずかしかった思いがある。

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満蒙開拓青少年義勇軍の思い出~訓練所の生活

行軍では水戸まで歩かされ、弘道館の見学や、偕楽園で1日楽しんだり、隣村の内原まで出向き、音に聞く満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所内での生活の一端を見学したことなどが思い出される。

当時、農家の青少年は一様に、義勇軍に憧れとまではゆかぬも多少の興味は持っていた時代だった。
宣伝写真で見た独特の丸い隊舎も印象に残ったが、何よりもそこで作業している団員の、清新の気みなぎる態度、物腰には感心した。正直なところ「奴らは百姓、我々は会社員」などと奢り高ぶっていた我々の横っ面をひっぱたかれた感じで、いささか恥ずかしい思いをした。
純真無垢、何も考えずただひたすら御国のためと、若い身空で北辺へ赴いた彼らだったが、悲惨だった敗戦時を思うと不憫でならない。

団員からは神様的存在だった訓練所長・加藤寛治に、拝顔の栄(?)を得た。
1対1で久しくお目にかかったわけではない、グループ一同2列横隊に並び「かしらー右」の号令で敬礼するだけ。型どおりのアッケないものだったが、時の人でもあり、教祖様でもある加藤所長には、興味津々たるものがあった。
国防色のジャンパーのごとき作業着(?)、乗馬ズボンに黒の革長靴、ムチのごとき棒(指揮棒か)を小脇に抱え、長あごひげを風になびかせている格好は、質実剛健、硬骨漢たる気風に溢れ、右翼の大物たる貫禄十分なものがあった。正装でないヒットラーの姿(ナチ党員服か?)とダブるところがあり、当時の青少年にはある種の魅力を感ずるものがあった。

それにふさわしい逸話も残っている。ある日、団員の父兄や一般人が多数、訓練所内を見学に訪れた。
折りしも2人の団員が、天秤棒につるした肥桶を担いで、見学人の前にさしかかる。
1人の見物人が、鼻をつまんで顔を背けた。
それを見てとった所長が、その男の前に肥桶を止めさせ、自らの手を汚物に突っ込み、モノをすくいあげて我が鼻先へと持っていき、無言でその男を睨んだという。

農作業の勤労少年に対する軽蔑の態度とか、野菜を食っていながら肥料の恩恵を忘れた高慢な姿勢に対する、無言の戒めだったらしい。

これはジカに見たわけではない。友人Aから聞いたもので、臭い話でなく本当の話だと言う。クソでたしなめられた例の男、頭にきて「クソ面白くもねェー」と言ったかどうか--そこまでは知る由もない。

「じーちゃんの昭和」目次

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満州鉱工青少年訓練所の生活

朝食後、昼食を挟んで夕食まで、連日訓練でビッチリ鍛えられた。訓練と言えば聞こえは良いが、毎日エンピ持って周囲一帯の切り倒された松の木の根っこ掘りである。広大な松林を伐採されていたが、根っこだけはそのまま残されていたのだ。何のことはない、住むところが飯場で、やることは土方そのものだった。

根っこ掘り以外では、体操、軍事教練、行軍など徹底的にしぼられた。教練と言っても武器など持つわけでなく、格好だけだったが、我が小隊の隊長(会社から派遣されている先生)は楢崎という憲兵軍曹上がりで、イヤと言うほど鍛えられた。
寝ている間と飯食っている時以外、常に戸外に出て動き回り、クタクタに疲れるのだが、一晩寝て起きると疲れなど吹っ飛んでいるから若さという奴はありがたい。

それにしても腹の減るのには参った。歳も15、食い盛り伸び盛り--食うだけが楽しみな毎日だった。
炊事場は別棟にあり、各中隊から交代で当番者が運ぶのだが、出された食物がまたひどい。一汁一菜、粗食中の粗食、加えて盛りきりの一膳めしだ。育ちが育ちで粗食は慣れっ子、さほど苦にはならなかったが、量の少ないのが辛かった。
ここからしばらくは、食糧難の時代とともに一膳めしの生活が続くわけだが、まったく「仏様でもあるまいに一膳めしとは情けなや」だった。しかもである、食前には全員起立して、唱えねばならんお題目がある。

我らは天祖の皇望を拝し
心を一(いつ)にして追進し
身を満州建国の聖業に捧げ
誓って天の--陛下の大御心に
添い奉らんことを期す

で「いただきまーす」となる。これを唱えんと食事にありつけないのだから閉口する。すきっ腹かかえチョロチョロ卓上の飯を盗み見しながら「そいたてまつる」もないもんだ。
この名文句、食前食後は言うに及ばず、何かというと事あるごとに言わされた。おかげで如何な頭の悪い俺にしてからが、50余年経った今でも鮮明に覚えている。

早朝駆け足や、行軍もよくやらされた。
行軍は4列縦隊に並び、先頭に2~4名のラッパ卒(?)が立ち、トテトテラッパを吹きながら行進する。
行軍時には必ず軍歌もどきの唄を歌いながら歩くのを常としたが、中でもイヤというほど歌わされた唄が、今でも頭に残っている。即ち

万世一系 ゆるぎなき
すめら命(みこと)を 仰ぎつつ
天涯万里 野に山に
荒地開きて 敷島の
大和心を 植えるこそ
日本男子の 誇りなり

というもので、内容から察して開拓団(義勇軍)の唄を借用したものらしい。別に我々が「荒地開いて大和心を植えに」行くわけでもないのだが、事あるごとに歌わされた。

「じーちゃんの昭和」目次

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高等科卒業、訓練所へ

昭和16年(満14歳)、小学校(高等科)も卒業間近になると、校舎内掲示板や教室内に、就職の募集ポスターがやたらと目につくようになる。その中で最も多く人目を引くのが「少年航空兵」(予科練)と「満蒙開拓青少年義勇軍」の2つだった。
俺の場合は過日、満州在住の兄からの紹介で、「株式会社昭和製鋼所」からの係員と新発田職業紹介所内で面接試験を行い、即決で採用と決まっていた。隣町の中条からのS、Y両君と一緒だった。

3月25日卒業、4月5日ごろだったと思うが、全満の会社から同様の方法で就職内定者(新潟県内)全員、長岡職業紹介所に集合させられた。総勢60人くらいだったと思う。
その夜10時ごろの夜汽車で引率者指揮の下、水戸線の友部駅に向かった。
寝具類は前もって発送済み、日用雑貨品の風呂敷包み1つ小脇に抱え(カバンなどと言う気のきいたものは持てなかった)、履き慣れない、というより生まれて初めて革靴なるものを履いて、颯爽と出かけたもんで--ここまではよかった。
息子の晴れの門出とあってまさか下駄や草履でもあるまいと、そこは親心の一端か、親父が町のさる店から掘り出し物の茶色の革短靴を買い求めてきた。
初めて履く革靴はうれしかったが、当時の風潮で若者が短靴を履くなど絶対にありえないことで、編上げ靴と相場は決まっていた。ましてや茶色など、年寄り・年配者専用で、若者は黒以外考えられない時代だった。
恥ずかしさも恥ずかし格好も悪い。なんとか直したかったが当時の片田舎のこと、現在のような手立てもなく第一そんな余分な金は無い。仕方なく墨を塗ってごまかした。今のマジックインキなどと違い、雨でも降ったら元の木阿弥だが、幸い雨にはあわなかった。
しかしいくら雨が降らなくとも、元々が習字用の墨だ、自然と薄くなり、徐々に地肌が出てくるのには参ったが、まるっきりの茶色ではなかったので、バツの悪さをこらえて履きとおした。土台、下駄や素足で育った幅広い偏平足が、先の尖ったハイカラ靴に馴染むわけがない。足は痛いし靴ズレはする、シカメ面するわけにもゆかず、何食わぬ顔してへっぴり腰で歩く格好はサマにならず、散々な道中だった。

翌日無事、友部駅に到着した。
茨城県東茨城郡鯉渕村の一角、松林を開いた広大な敷地に、細長いバラック建屋(1棟300人前後収容)が数十棟連立しているところが、我々の入所する「満蒙開拓鉱工義勇軍訓練所」である。
全国各地で全満各地の重工業会社に応募採用された連中が、各都道府県ごとに続々集まってきて、各会社ごとに1棟に入居する。1棟1中隊と呼ばれ、我々「KK昭和製鋼所」組は、第4中隊と名づけられた。
他中隊では「満鉄」をはじめ、奉天の満飛(飛行機)や、新京の電々、吉林人石(人造石油)、撫順炭鉱など数十社あり、総勢3000人はいたと思う。

訓練所長は「水野」という陸軍中将で、各中隊には中尉クラスの中隊長が配属され、訓練の指揮に当たった。
我が第4中隊は、新潟県粟島出身で温厚篤実な佐藤中尉だった。
1ヶ月の訓練期間中に所長が交代した。秀才型(らしい)の水野中将に変わり、後任は見るからに実践型野人タイプの永澤少将だった。
ズングリムックリと貫禄も程ほどあるこの閣下、歴戦の勇の証か右手小指がなく、常に白い軍手を着用していたが、敬礼(答礼)するたびに手袋の小指部分がダラリと垂れ下がる。これがすこぶる格好良く魅力的(?)だった。当時の子供は変なところに感心したもんだ。

我々の中隊は、小学校卒から旧制中学中退者(15~18歳)の実科教習所組の200人くらいと、大学卒の技術員養成所組の100人程度で編成されていた。ちなみに渡満入社後は両方を含めて社員練成所と言われ、その所長は「白蘭の歌」などで知られた小説家・久米正雄の実兄・哲夫氏だった。

松林を切り開いた広野に、細長い200米くらいのバラック建ての隊舎が、1ヶ月間の仮住居である。
真ん中を木製のテーブル兼食卓が、隊舎に沿って並び、両側の1段高い板場にムシロを敷き、1人1畳程度の間隔(布団が敷ける範囲)で、横にずらりと並んで寝起きする、窮屈な生活だった。

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