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ワンクリック詐欺発生!

今日パソコンを立ち上げたら、デスクトップに
「アダルトサイトの会員になりましたオメデト~つきましては金払え」
みたいな画面がデカデカと!×を押しても消えない!
驚きのあまり、昨日一番遅くまで起きててyoutubeを見てたKKに
「KKちゃんあなた昨日変な画面を開かなかったですか?」
という趣旨を若干暴言モードで聞いたら、打てば響く早さで
「KK知らない~~KKじゃない~~~
と半泣きで怒鳴って隣の部屋へ。ハイKKに確定
(もう1人の容疑者パパは昨日寝てたし、そもそもパパなら自分のパソコンでやるだろうしね~。以前パパのパソコン借りた時に「お気に入り」を開いたら、そのテのサイト名が画面の上から下までずらずら出てきて呆れ返った記憶が

もちょっと落ち着いて、「なんか「ハイ」とかのボタン押さなかった?」と聞くと、「出てきたから押した」とのこと。
KKは普段見る限りでは、まだアダルトサイトをあえて見たがるほどには、エロ方面に目覚めていない感じなので、まあ何かのはずみでクリックしちゃったか、あるいは単純に興味本位でクリックしてみたか程度なんでしょうが、
「あやしいのはクリックしちゃダメっていつも言ってんのにKKのドアホウが
「いややっぱ普段から監督不行き届きなことのツケだ。そばで見てない時は禁止するべきだった
「それにしてもクリックで同意してしまった以上、お金は払わなきゃいけないんだろうか」e.t.c.e.t.c.、しばらく心は鳴門の渦潮状態

確かこういう「イマドキの詐欺」時は、消費者センターかなんかに電話すんじゃなかったっけ?と「有料サイト 詐欺」とかで検索してみると、警察や消費者センター等、各種機関の連絡先が一発!おお心強い。
さっそく消費者センターに電話してみて、色々聞いてみると、つまるところ「こちらから連絡しない」「無視する」に限るそうです。
「子供が同意のボタン押しちゃったみたいで、同意=契約成立ということにならないでしょうか」と聞くと
「未成年が契約できてしまうHPの仕様がそもそも問題。ちゃんとした会社なら未成年なら解約に応じるのに、自動解約しかないなんてのが、ちゃんとしてない会社の証拠だからご安心」
電話の人は年配のおばちゃんで、落ち着いたお答えを聞いてるうちに、こちらもちょっと安心気分に。やっぱり肉声は力強いですね。

対処法を教えてもらい、気持ちも落ち着いたところで、KKにも経過を説明(=説教)。
とにかくこういうのはさわっちゃダメ。クリックはもちろん、その後お金を振り込んだり、問い合わせ電話かけるなんかはもってのほか。相手は詐欺の悪い会社なんだから、逆にどんどん「払えーー」っていう脅しがが来ちゃったりするから。
「KKもういい~。聞きたくない~(半泣き)」(フフフ脅えてるなーイヤーな感じを実感してるなーヨシヨシ
まあ聞きなさい。さっき電話した消費者センターのおばさんが、こんな相談を教えてくれたよ。高校生のお母さんからなんだけどさ。
高校生の子が、やっぱしこんなふうにして変なサイトに登録しちゃって、あわててそこに乗ってる電話番号に電話しちゃったんだって、解約してくれって。そしたら向こうは「解約してやるから、住所氏名電話番号、学校や担任の名前を教えろ」って。
普通はさ、大人だったらここで「ヤバイ」と気づくんだよ。こんなん教えたらエライことになるって。
でもその子は高校生だし、まあ親には秘密にしときたいし、なんとか必死で解約したかったんだろうね~、ぜ~んぶ教えちゃったんだって。
そしたら大変、電話は来るわ、学校には知られたって言って「学校にも行けず泣いています。どうしたらいいでしょう」って。
だからね~KK。クリックする前でもした後でも、あやしいかな?と思ったらまず相談よ。必ずその道のプロがいるはずだから、困った時はまず周りに言ってみて。

と言いながら、「そうだ。これを一番伝えたかったんだ」。
この春転校を控えたKKに、何か困ったことがあったら「周りに伝える」という手段があることを絶対に覚えててほしかった、覚えてても言い出せないというのは、絶対に避けたかった。
ママも鳴門の渦潮だった心が、消費者センターに電話した後では「よっしゃあ来いやー悪徳業者ーー」という気分になったもんね(←単細胞)。外に伝えることで、解決策は見えてくる・・・
と思うそばから、親に相談していた、学校にも相談していた、周りはみんな知っていた、なのに・・・という子もいたことを思い出したりして・・・軽く無力感。
でもま、行ってみないとわかんないもんね!経験的に、先取りでうんと心配しておくと、意外と心配したことは起こらない法則があるので(そのかわり、思っても見なかったことが起こったりするけど)、今は飽きるほど心配しとこう♪

とりあえず解決策はわかったので、あとはセカンドオピニオンすべく(?)、ネットサーフィン。
ためしにそのサイトにあった電話番号で検索してみたら、うお~~う出るわ出るわ「ワンクリック詐欺」のタイトルがずら~~り。サイト名を変えても電話番号は変えずとは、なぜ?
振込先にあった会社名を検索してみたら、意外とマトモなHPが。ちゃんと「沿革」だの「組織図」だのあり、支店も地図つきでいっぱい。でもイマイチ、何をやってる会社かはっきりせず。ちゃんと「採用」ページまであるのが驚き、てかコワイ!(同名の違う会社かもしれないけど、振込先の地名とか業種の説明(漠然としてるけど)とかからすると、な~んかココくさい感じが)

というわけで、今回ネット&消費者センターで仕入れた「これは」というポイントをご紹介。
・どうしたらいいでしょう?
「無視。くれぐれも相手に電話してはいけません。あなたの電話番号その他個人情報がもれる恐れがあります」
「お金を払うのはもってのほかです。いいカモと見なされます」

・プロバイダ会社から個人情報を引き出されませんか?
「プロバイダ会社は、相手がたとえ警察や公的機関でも、裁判所など定めた書類がなければ教えません。悪徳業者にそうした書類を用意することはできません」
・一応クリックして「同意」したわけで、契約したことにならないでしょうか?
「契約には本人確認が必要です。クリックだけではできません。例えば他の人のパソコンを借りたら、この場合、クリックした本人ではなく、パソコンの所有者が契約者となってしまいます。そんな契約は無効です」
・それでも向こうからなんか書類や電話が来たらどうしましょう?
「気になることがあったらその都度、消費者センターや最寄の警察などに相談しましょう。くれぐれもこちらから相手に連絡するのはやめましょう」
・デスクトップの画面を消すには?
「タスクマネージャーで「タスクの終了」をすれば、次に立ち上げなおすまでは画面が消えています。しかし中に入っているのは変わらず、そのままだと最悪、メールアドレスなどを抜かれることもあります。なので「コントロールパネル」の「システムの復元」で、感染以前の日時に復元しましょう」

まあ今回は、KKが本格的に色気づく&親に何も言わなくなる時期の前に、こうした落とし穴をKK自身が体感できたってことで、良しとしましょうかね~チャンチャン
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テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

悠然たり赤トンボ~鞍山の空襲3回目

鞍山市は前後3回にわたり空襲に見舞われたはずだが、どうしたわけか、2回目はいくら考えてもその状況が思い出せない。

3回目の当日は休日で、市街で遊んでいる最中だった。
今度は警報もあり、サイレンもなった。
市街の東方向、会社とは反対の方角に、名称は忘れたが小高い丘があった。丘の中心には何かの記念碑らしいドでかい建築物があり、周囲一体が緑に囲まれ、風光明媚な公園風広場になっていた。散歩やレクリエーション、各種行事の集合・開催場所として最適の地だった。
弾よけには格好の場所と、そこへ避難した。会社とは2キロほど離れ、近くには民家も建物もない。ここならまずは一安心と、一服つけて空中戦見物--と思った途端、ドカンドカンと始まった。
あわてて下方向にある雑木林の中を、必死で逃げ回った。何のことはない、わざわざ爆弾の落ちる方へ来たというわけだ。
当然目標は会社にあったはずだが、逃げる方が必死なら攻める方も必死、またしても敵の手元が狂ったものらしい。

空襲の際、ウロチョロ逃げ回ったところで仕方がない。目をつむり歯を食いしばって、地べたにひれ伏す。たとえ水溜りだろうが馬の糞が転がっていようが、この際問題じゃない。
爆弾の落下に伴い、「ピューピュー」とうなる不気味な怪音を発するが、これが曲者である。弾が近づくにつれ、この音響が一段と凄まじく、自分の背中めがけてくるような錯覚さえ覚える。まさに恐怖のどん底の数秒間である。
「ピューピュー」で命が縮まり、「ドカーン」でほっとする。この繰り返しには、ほどほどシンが疲れた。

この不気味なうなり声、一説には敵さん、必要以上に恐怖心を与えるため、羽根に快音を発する仕掛けを施してあるという。
嘘か本当か知らないが、事実、度重なる空襲でのこの怪音で、ノイローゼになった人も少なくない。空襲に際しては、目をつぶるより耳栓した方が効果的だと、経験上言える(目は、つぶるなと言われてもつぶる)。とにかく「あの音」だけは二度とご免だ。

空爆も終わり、ほっとひと息--立ち上がってみると、両の手に、地べたの砂や草をしっかと握り締めているのに気づく。
いかに必死の形相であったことか、地位も名誉も(そんなものは最初からないが)捨てた、赤裸々な人間像を見る思いだった。

後日談によれば、今回の爆弾は瞬発性の物だったという。着地と同時に破裂し、爆風や破片が横に幅広く拡散する、俗に言う「人馬殺傷用」と称される奴だ。
なるほど空き地の落下跡を見ると、穴も浅くほとんど掘れてなかった。

ほっとしているところへ、時々かすかな音で「ピュ・ピュッ」と破裂した爆弾の破片が落ちてくる。
この破片も小さいが、馬鹿にならん。ヘルメットなどなかった時代、尖った鉄片は、当たり所によって甚だ危険である。

この空襲で、同級生の仕事仲間だったO君が、あたら若い命を散らしてしまった。
O君、何を思ったか警報と聞くや、一目散にベランダ(4階建て独身寮)へ駆け上ったと聞く。
ご存知、爆弾や砲弾の落下時は、極力体を低く、もしくは地面にひれ伏すのが鉄則だ。
魔がさしたというか、クラスでも剛の者で知られたO君、ベランダでの空中戦見物(?)はマズかった。

冒頭の「赤トンボ」とは、敵のB29を見下しヤジって命名した、軍部からの宣伝用あだ名らしい。よく小耳に挟んだ歌もあった。
元来、軍国少年たるべき俺だが、どう間違ってか戦争物や兵隊物の映画は大嫌い、軍歌や軍国調童謡もこれに準ずで、興味もなければ自ら好んで歌ったこともない。したがって記憶もまばらだが

来るなら来てみよ赤トンボ
ぶんぶん荒鷲ぶんと飛ぶぞー


といった調子で、予科練か航空隊を讃える勇ましいものだったが、いざ本番となると、「赤トンボ」にいいようにやりこめられ、ぶんぶん飛ぶはずの荒鷲の姿は、ついぞ見せずじまいだった。
それにしてもあの「赤トンボ」の奴、名前の割にはいささか威力がありすぎた。
もひとつおまけに、似たような物を一丁。

いざ来いニミッツ、マッカーサー
来れば地獄へ、逆落としー


という、勇壮極まりない歌もあった。もっとも逆落としされたのはこっちの方だったが。
言うまでもなく「ニミッツ」とは、当時の「米太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将」であり、「マッカーサー」とはご存知「連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥」その人である。

「じーちゃんの昭和」目次

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悠然たり赤トンボ~鞍山空襲1回目

昭和18年(満16歳)、暑い夏の日の昼下がりだった。
連京線を境に、向こう側一体は会社、こちらは初音街という住宅街である。
その中の一角に長兄の住む社宅があり、当時俺はその兄宅に同居していた。
その日は夜勤で、昼寝の真っ最中だった。
何かの地響きで、家の中がガタピシ、窓ガラスがビリビリ音を立てて鳴る。
戸外ではドカンドカンと異様な破裂音、遊んでいた子供たちはギャーギャーわめき、虎フンの雷公が大暴れしている感じだった。

あまりの騒々しさに目を覚まし、何事ならんと戸外へ出た途端、聞いてビックリ見てビックリ、寝ぼけ眼が瞬時にさめた。まさかと思った敵機の空襲である。
空を見上げれば夏空に、翼が長く銀ピカの、今までお目にかかったこともない大きくスマートで立派な飛行機が、にぶく重苦しい音のどこかの国の飛行機とは違い、軽い金属音を響かせながら悠々と飛んでいる。噂に聞くB29で、悠然と我が物顔で飛んでいるその姿の憎らしいこと。
警戒警報もなければ空襲警報もない。全く寝耳に水の出来事で、高射砲の発砲もなければ、芸壁の日本木の影すら見当たらず、ただただ敵さんのなすがままの状態だった。

空襲など思いもよらぬ時期だっただけに、我々の驚きとあわてぶりはことのほかだった。取る物もとりあえず、兄一家6人とともに防空壕へ避難する。
防空壕と言っても名ばかりのシロモノで、単なる穴ボコである。当時空襲に備えて、防空壕の設置を一応はその筋から呼びかけられていた。空襲など考えられない雰囲気ではあるが、当局の手前、形式的に深さ1米、長さ2米、巾1米程度の穴を、各家でその周辺や道路沿いに掘ってあった。

あわてて家より畳2~3枚はがして持ち運び、穴に蓋とし、中に潜んで息を殺す。
落下した近視弾が破裂するたびに、地は揺れ、まわりの砂は崩れ落ちる。
耳を劈く爆音に、兄貴はボヤキ、我もまた半分生きた心地がしなかった。
ただあのさなか、末の乳飲み子を膝に、さしたる不安顔も見せず、平然としていた義姉の姿が妙に印象深く残っている。いざと言うときのクソ度胸は女の方が強いらしく、戦後靴下とともに台頭する女性パワーが、既に芽生えていたようだ。

ドッカンドッカンが始まってやや暫く、散発的ではあるが味方が高射砲を打ち出した。
しかし残念ながら、当たりもしなければかすりもしない。歯がゆいやら情けないやら--第一、撃った弾が敵機体まで届かんのだから処置ナシだ。

後日の風耳によれば、当時日本軍の高射砲の飛距離は8000米前後だったとか--敵は1万米以上の高高度で、悠々高みの見物では土台、勝負にもならなかった。

ひとしきり空爆も終わり、敵機影も消えた頃、穴から這い出て二度ビックリ、あたり一面穴だらけだ。
穴の深さが3米以上、ただし周りの崩れ落ちる土で埋まるから、実際はもっと深いだろう、直径は7~8米くらいか。
穴を覗いて呆然としているところへ、自転車で腕章をつけたその筋の係員らしき人が、メガホン片手に「空襲だー空襲だぞー」と触れ回っていたが、その後姿の空しいこと。

15米ほど離れた向かいの2軒目宅が直撃を食らい、外出から帰った奥さんが、残しておいた我が子の名を呼びながら、半狂乱で瓦礫の中を探し回っていた。なんとも痛ましく哀れであった。
この空爆で、同じ職場で親しく働いていたY氏宅も直撃弾でやられ、一家四人、影も形もなくなった。

敵も初めてのこととて勝手が違ったか、ないしはあまりの高度で標準が狂ったか、会社を狙ったはずの弾はほとんど逸れて、住宅街一帯に被害を及ぼした。
ただ、日本内地と違い、木造建築のほとんどない満州では焼夷弾は使われず、もっぱら破壊用爆弾だったのは、不幸中の僅かな幸いだったかも知れぬ。
会社の方も、線路よりの化工部副産物工場の一部に、わずかな被害を受けた程度で、操業には何の支障もない軽微なものだった。

また、不発弾が異常に多かったのもありがたかった。
その筋の係員が行う不発弾処理作業を、物珍しく見物したのだが、羽根(?)は取れて、本体が緑色で1米強、直径50センチくらいあっただろうか、500キロくらいの爆弾ではないかと思う。中国・成都基地からの初お見舞いだった。

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記憶の呪縛

しつこいけど、ガンダムネタです。
先日のIに引き続き、Ⅱの「哀・戦士」、Ⅲの「めぐりあい宇宙」を、最近KKと見たのですが。
(それにしてもついこないだまでは、子供と一緒に映画を見るなんてのはもちろん、映画を中断されずに2時間ぶっ続けで見ることすらかなわぬ夢だったのに。月日は流れるものね~~

ところがあれっ?映画じゃあまりに残念な使われ方をしていた「哀・戦士」、今見たら歌そのものが入ってないぞ。記憶違いか?いや確かに戦闘シーンで、主題歌とは思えないほんのちょびーっとしかもブチ切れという使われ方をしていたはず 
哀切すぎて笑っちゃう「マチルダさ~~~~ん」も、なんかおとなしめ。こんなもんだったかなあ??それ以外の色んな人の口調も、なーんか覚えてるのと違う気がするんだけど・・・

しかーし、これはまだ序の口。「めぐりあい宇宙」に至っては。こ、これは絶対に「違~う」!
スレッガーさんは、もっとパッパラパーな喋り方してたはず(そこが好きだったのに) カムラン検察官は、もっとキョドってたはず(だからスレッガーさんの助太刀が効いたのに) ゼナの「いけないのですか」もドズルの「行けゼナ。ミネヴァとともに」も、もっともっと肩に力入ってたはず。そもそもガンダムキャラの喋りって全体的に、古風な言い回しに古風な発声と過剰な感情表現が加わって、独特のクサミ・エグミを醸し出してたはずなのに、今回なんかみんな喋り方が落ち着いちゃって、思わずマネしたくなるセリフ回しがないじゃないの!

ここに至って「おかしい!」と気づき、レンタル品をよく見たら「特別版」でした。
こんなのが出てたのね。。じゃあこれ、みんな撮り直したの?でもなんのために??(ちなみに近所のツタヤ、初期バージョンはこれだけ。従来どおりの映画版でいいのに。。。)

最大の「違ーう!」はやっぱり歌。
アムロとララァが出会うシーン。あの「かわいそう・・・」な白鳥&ジトジト雨っていう暗ーいシーンが、光あふれる鮮やかなシーンに転換する時には、やっぱ「ビギニング」以外ありえないでしょ~ ララァの顔に光がさぁーっと射すところで「そっしってっとっきーがっすっこーーーやかに~~」と来る、あのタイミングが快感だったのに~~(記憶違いだったかしら?)
そしてそして、あのホワイトベースが沈む時の脱出シーン。なぜあそこで「めぐりあい」を使わないのだ!?「めぐりあい」でめぐりあって、ナレーションが入って、さびし~い感じの「ビギニング」でエンドロールにつながるのが快感だったのに~~(「ビギニング」ってサビの声が機械処理してあって、それが別の空間から聞こえてくる感じを出してるのがまたいいんですよね~ ああ遠くなっていくな~っていう)
100万歩譲って(←すごく譲歩)別な曲を入れるにしても、なんであそこでガンダム発進みたいなテーマ曲を、しかも前後関係なくちょびっと入れてみましたみたいに入れるのだ あえてBGMを変える必要あったのか???

お断りしておきますが、私はガンダムに関しては素人です。
ガンキャノンとガンタンクの見分けすらつかないし、ましてや敵のモビルスーツに至っては。今どこに来て何を目標に戦ってるの?なんてこともサッパリ
ただ単に小学生のころ、「哀・戦士」と「めぐりあい宇宙」だけは、キャラに魅かれて映画版を繰り返し見た記憶があるだけなのですが、それでもこんだけの不平不満があるってことは、マニアの皆さんはこの「特別編」、さぞかしフンガイしたのでは

とはいえ、今回初めて見たⅠはとっても楽しめました。
なのでⅡとⅢも、これが初見だったら「やっぱガンダムってよくできてるな~面白いな~」と思えたに違いありません。セリフ回しもクサみが抜けてるから耳に留まらないし(←イヤミ
それが楽しめなかったのは、ただひたすら、小学校時代に繰り返し見たその記憶のせいです。たとえ今の出来がどんなにカンペキでも、昔の記憶と違うとこ、しかもそれも、ちょっとした声の高低が違うなんつー、ほんとどーでもいいとことかで、理屈じゃなく体感・感覚的につまづいちゃって、入り込めないからつまんなく感じてしまうという(でーもあの脱出シーンで、前後の脈絡なくガンダムテーマが流れてきた時には、初見のKKでも大ウケでしたよ。笑わせてどうする

記憶の呪縛は、時にヤッカイなもんですね。

ただ1つ、「特別版」で良かったのは、愛しの主題歌「哀・戦士」が最後にフルで入ってたことです。
うわ~やっぱし今聞いてもいい歌だわ~~(「耳は制度化されやすいんです」by坂本龍一) これ昔ピアノでコピーし(ソドミソーミドソ・ラドファラードファドラ)、カラオケでさんざん歌いまくったものよ♪
と、ママなつかしモード全開、Ⅱを見終わった後も「ワンモア~タ~イム!」と1人大騒ぎで歌っていたら(←バカ)、それを聞いてたU
「この歌Uの給食と同じだね」
なんのこっちゃ??と聞いてみると
「♪何を食べるのかーー何を残すのかーー」
そっそれは今回最大級の「違~う」だぞU てか給食残しちゃイケマセン。

テーマ : ガンダム - ジャンル : アニメ・コミック

やっぱりガンダムは面白い♪

近頃ガンプラ2体を作ったせいか、スキー場でも「アムロ、行きまーーす」と叫びながらリフトに乗るなど、プチガンダムブームが来ているKK
今度は「ガンダムのアニメが見たい」ということで、夕方、ツタヤで初期ガンダムⅠ~Ⅲを一挙レンタルしてきました。

KKはもともとプレステでガンダムのゲームをいくつかやってるので、シーンの断片や名セリフ(「ザクとは違うのだよザクとは」とか、よく口走ってます)、さらには1年戦争の流れなんか、私よりよく知ってるくらい。
が、ストーリーを通してみるのは初めて。

ママは小学生のころ、「哀・戦士」と「めぐりあい宇宙」はけっこう好きで、ダビングしたのをよく見てました。
といっても、戦争の流れ、即ちどこを攻略してその結果何がどうしたとか、あるいはメカや戦術がどうのなんてことはさっぱりわからず(興味もなく)、ただシャアとかララァとかセイラといったキャラクターの魅力≒安彦良和さんの絵の魅力と、故・井上大輔さんの歌うあの主題歌が好きで見ていたようなもんですが(しかし「哀・戦士」の歌は、映画じゃ非っ常ーーに残念な使われ方でしたね
IはTVも映画も見たことなし。「親父にもぶたれたことないのに」とか「虫も殺せない子だったのに」などの有名なセリフや、「確かシャアがガルマを死なせて復讐するんだよね」などは情報として知ってましたが、歌もイマイチだし、何よりも絵が古臭くてね~見る気がしないわ。

と思ってたんですが、このたびKKとともに初めてIを見てみたら、あっもしかして、Iが一番面白いかも!!
理由は簡単、出てくる人が一般人、または一般人以上軍人未満だからです。一般人の感覚を持ったまま、戦争に巻き込まれるとこうなる、またその戦争の当事者になるのも、個々の「一般人としての感覚」の違いが反映されてこうなるっていうのが描かれていて、面白い。
Ⅱはもう軍人同士の戦いって感じだし、Ⅲになるともうニュータイプがどうこうっていう「勝手にやって」みたいなステージに行っちゃいます。昔はそこを面白く見ていたんだけどね~

「一般人の感覚を持ったまま、戦争の当事者になっていく」といえばエヴァンゲリオンもそうですが、やっぱこれ見るとエヴァはなんつーか、もちょっと幼いというか、視点が少なく感じます。
ガンダムはもっと俯瞰的で、だから色んな立場の色んな状況を入れることができて、結果的に大人っぽくリアルな仕上がりに。
なのでどのシーンも心に残るわけですが、「アムロ故郷に帰る」の一連のシーンなんかは、その凝縮ですね~。
家に勝手に入って飲み食いしちゃう連邦軍兵士、スパイ狩りのために連日見廻るジオン軍兵士、どちらの兵隊もある意味「敵」でしかない、巻き込まれ住民。そして、命を守り、息子を守りたいと誰よりも願いつつ、そのために誰も救えないお母さん。。。「そんな子に育てた覚えはない」って、お母さんそりゃないよ~~ 私は思想的に(?)とってもお母さん寄りなので、その葛藤と限界はよくわかりますが。

ブライトさんも、堅苦しいキャラだなあと思ってたら、実戦経験のない、士官学校出のパリパリ新米将校だったのね。それじゃ全方位的に力を入れなきゃもたなくて、堅苦しくもなるわね。昔はあんまし好きなキャラじゃなかったけど、今回けっこう好感度アップしたわ。

ちなみにガンダム中、KKが一番好きなキャラがなんと「カイさん」なんだそう。
ええ~~なんで~~!?なんでもプレステで「カイさんの弟子にしてもらった」そうで、なんでよ~普通はシャアでしょ(そうか?)。シブイ好みだなあ!!

と思ったのですが、今回見返したら、私もなんだかカイさんが一番好きになりました。
昔は「セイラじゃなくてもひっぱたきたくなるなあこの人」と、いけすかないキャラ№1。かろうじて「哀・戦士」のミハルちゃんのとこで、ほんのちょーっと見直した程度だったのに。
理由は簡単、この人が一番「一般人以上軍人未満」を貫いたからです。
ミハルちゃんと一緒に、俗世でちゃっかりとたくましく、だけど俗世を信じ切ることもできず、かといって「理想」だの「正義」だのは更に信じられず、俗世でそこそこ幸せに生活できたかもしれない、ある意味等身大の私たち。たぶんこの人はララァ以上に「戦う人じゃなかった」ね。そこが好き。

面白い小説とか映画って、時を置くとまた新たな発見や好みが変わってたりするのを発見できるのが面白いのですが、今回のガンダムもまさにそうでした。やっぱ生き残る作品ってのは、なんか理由があるもんだなあ。

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スキー楽しい♪ニノックス

今週も行って来ました「近場deスキー」!
こないだ行った胎内について「中級コースで滑れなかった。筋肉痛になった」等々、幼稚園のママさんと話してたら「それならわかぶながいいかもよ」との耳寄り情報が。
わかぶなは(村上から見ると)胎内の手前、関川村にあるので、これまた近場。
地元御用達なので空いてるし、初心者コースやレンタルなども充実していて、なかなか良さそうです。
が、ネックはソリ場に「動く歩道」がないこと。
初めてのスキーで、舞子のキッズパークに行った時、ソリをひきずって坂を何度も何度も上るのに、親が疲れ果て「もうやだ~」(子供は疲れ知らずで楽しそうでしたが)
その後ニノックスで出会った「動く歩道」に、「今後あなたのいないとこには2度と行かないわ」と誓ったものでした

というわけで、根性&体力ナシの私たちは、動く歩道目当てでニノックスへ。
村上からだと、わかぶなより若干遠い、新発田・二王子山に昔からあるスキー場です。

12時頃、ニノックス到着。
ここも、駐車場からゲレンデがすぐでありがた~~い♪
駐車料金が千円かかるのだけがネックですね
ゲレンデへの階段をのぼってどどんと目に入るのが、このキッズパーク。
キッズパークが出入り口に近いのってラクだわ~

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ゲレンデ階段を挟んで、リフト券や軽食、2Fにレストランのあるロッジと、レンタルや更衣室のあるロッジに分かれています。
私たちはまずレンタルコーナーで、KK&Uのウエアとスキー板を拝借。
ここの設備は、胎内と比べると年季が入ってます(←婉曲表現)。暖房はストーブ、更衣室はなんだか試着室みたいで、時間帯によっては待ち発生しそう。
とはいえ子供のウエアはピカピカ、スキー板もカービングなので、グッズについてはご安心を

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さあ着替えたら4時間券を買って、いよいよゲレンデです。
だいぶコツをつかんだKKは、パパとともにさっそくリフトへ。ママ&Uはキッズパーク。
キッズパークは1日券(500円)が必要、ただし4時間以上のリフト券があればそのまま入れます。
パーク内には、「ご自由にお使いください」という丸っこい無料ソリも置いてあります。ママKKもすばやく1コ確保して、さーてどこで滑ろうかな~

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キッズパークは見た感じ、以前よりかなり広くコースが整備されてました。
一目ぼれした「動く歩道」のところに、ソリコース&スキーコースがあるのは従来どおりですが、もう1つ、もっと上から滑ってくるソリコースが。楽しそ~~♪行ってみよ~~

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↑こんな感じで、電動ロープにソリを連結して、上までひっぱってってくれます。U大喜び。親もラク~

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と思ったけど、親は歩かなきゃいけないので、途中からけっこう疲れます
一気に滑るとすごいスピード!「ぎゃーはっはっは!!」とおたけびをあげながら、ママ&U大ハマり。

何度か往復してるうちにパパが到着。今度はママ&KKでリフトに行ってきます

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KKはもうすっかりスキー大好き、既に初心者コースならスピード加減も停止もマスターしたようで、パパいわく「KKはもうママを超えた」
リフト乗り場では、オタオタするママに「ママここで止まって」「まだだよ。よしいいよ。ストック前に出して」と、経験者の余裕でアドバイス。助かるわ~
「アムロ、行きまーーす!」で離陸した後は、わ~~気持ちいい!!これよこの風、この景色 何しろこないだの胎内では、ママ一度もリフト乗らなかったもんね(リフト券もったいな~い

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横の杉林には、ナゾの動物の足跡がテンテンと。
「鳥じゃないし、なんだろうね」「サルとかならいそうだけど、サルの手形じゃないな~」「肉球みたいに見えるね。まさかクマ!?」「ひえ~~」(後にKKがパパに聞いたところ「ウサギじゃないか?」とのこと。あっそうかも!見たい~野ウサギ~

ちなみに杉の木、どれも茶色い花粉を重そうにたーっぷりつけてました。もう春になるんだな~~

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さて到着。ニノックスの初心者コースは1本ですが、面積はわりと広め。人が少ないのでよけい広く思えるのかも?
基本的に、ゆるい坂と平地に近い坂が3段くらいになってるのですが、スキーやスノボで軽いジャンプが練習できるコーナーや、木の間を通り抜けるコーナーなんかもあり。
雪質は、タイミングもあるのでしょうが、胎内より良かったです 胎内はけっこうザクザクでしたが、こっちは雪が細かく、夕方にはアイスバーン状態のところも。まあ今日は、夜~朝のうちにちょっと雪も降ってましたしね。
「よーし競争!」と、KKと出発しましたが、KKの速いこと!!ボーゲンでブレーキかけながら降りてくるママとはえらい違いです。
途中で待ってたKKに、姿勢など的確な指導を受けて(確かにママを超えたねKK)今度は一気に下まで。ひょ~~気持ちいい~!さあもう1回行きましょう~!

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と、3回くらい往復して、パパと交代。
Uはだんだん、すべてを自分でやりたくなったらしく、スノーエスカレーターに1人で乗って、1人でソリで降りてくるという勇気を発揮 すばらしい~~!
これを何度も繰り返し、最終的に一番ハマったのは、レルヒさんの雪像↓P1010178_convert_20110219211603.jpg

・・・の後ろから、途中でコースアウトして「ぎゃーはっはっは」とダイビングするという、野蛮きわまるソリの乗り方でした 自分でスタスタとソリを引っ張って上っては転げ落ちてくるので、親は見てるだけでラク~~

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ちなみに「レルヒさん」とは、こんなキャラクター
今年は「新潟スキー発祥100周年」だそうで、新潟日報なんかでも特集してたり、なんか盛り上げようとしているみたいです(盛り上がってるかどうかは不明
そうそう、ニノックスの自販機には、こんなのもありましたよ↓

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そのうちまたまたパパと交代し、ママKKでリフトへ。今回はリフト券フル活用でうれしいわ~
リフトに乗りながらKKと「スキーって楽しいよね~」「気持ちいいよね~」と繰り返し。
いやほんと、スキーのなんと面白く、気持ちいいことか!ママみたいにへたっぴでも、びゅんびゅん風を切って走る快感は味わえるもんですね(KKに言わせると「ママ止まってるみたい」ですが

「楽しいね~」「楽しいね~」と3~4回滑ったら、もう16時過ぎ。
最後にパパと交代し(KKは今回15回以上滑ったかも)、ママUはソリ・・・と思ったら、キッズパークのソリ貸し出しや動く歩道なんかは、軒並み16時でオシマイ。
Uもソリ飽きたというので(そりゃあれだけ滑ればね)、持参した靴スキーを履かせてみることに。
こないだは、履いたとたんにすべってしまい、いちいち脱がせては坂を上るのがめんどくさかったので、今回は平地で、まず歩く練習。
これが意外とUおもしろかったらしく、いちいち「おお立てたスゴイ!」「歩けたテンサイ!」とほめられるのもうれしかったのか、ママがロッジで一休みしている間も「ママのところまで1人で歩いていく!」と。おお根性あるぞ!(↓下の、エッチラオッチラ歩いてる子がUです

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最後には、なんと平地をちょろ~~っとだけ滑れるようになりました~ しかし1回滑れるごとにバンザイするので、そのたびバランス崩してひっくり返るという
それでも非常~に楽しいらしく、戻ってきたパパにも雄姿(?)を見せて、最後には「まだ脱ぎたくない。これ気に入った」
しまった~これならもうちょっと早くやっとけばよかったな~
脱いだ後も「なんかまだ履いてるみたい」と滑る練習。そうかUもスキーにハマったかニヤリ

というわけで、楽しいニノックスでした♪

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さらば満州!

1ヶ月近くなると、給料も千円たまった。使うにも場所と物がなく、たまる一方だ。
引揚者は1人頭千円しか持ち帰れない。金持ちが「余分な金を他人に施すのはケッタクソ悪い」と、海へジャンジャン投げ捨てた--とか、よく聞く話で、千円以上はあっても無駄である。
となれば「千円たまれば用はねエ」と、帰国することに衆議一決した。
思いのほかの勤勉さ(?)がお気に召されてか、例のお偉方から三拝九拝、再三の留意を振り切り、ようやく帰国の途に着いた。

7月27日ごろ、旧海軍の海防艦・第?号上の人となり、悲喜こもごも思い出多い満州(コロ島)を後にした。
途中何の話もなく--着いた所が博多の港。
尚余談だが、我が方の船が出港する小半日も前に、出港した帆船(引き揚げ船)が、我々が博多に入港後まもなく姿を見せた。「さすがに軍艦は違うもんだ」と得心した。

さてすぐさま上陸かと思ったが、なかなか命令が下らない。
そうこうしているうち、全員甲板上に呼び集められ、片っ端から四つんばいになり、ケツをまくってガラスの棒を突っ込まれた(人前でですぞ)。
検疫でその結果が判明するまで、上陸はお預けとなった。2日くらい待たされただろうか。
船内では一同、お別れのかくし芸大会が、急造の仮設舞台で催された。
日本に着いた喜びと安心から、元気は倍増、上々の盛り上がりでにぎわった。小生も、めったに公表しない秘蔵の喉をば披露した。もちろん演目は東海林太郎モノである。

検査の結果もOKで、ようやく上陸となる。
やれやれと上陸した途端、今度は待ち構えていた進駐軍(これも懐かしい言葉だ。日系二世の奴だったが、概して二世の奴らは生意気だった)に、頭から全身にDDTをぶっかけられ、さながら白子の如しだった。
それにしても当時DDTはよく効いた。効果はてきめんホワイトチーチーなどはイチコロで、しかもその後しばらくは寄りつかなかったから恐れ入る。「さすがはアメリカ(戦勝国)だわい」と感心した。

消毒も終わり、今度こそと思いきや、またぞろ各班の代表者がそのスジから呼び出され、なかなか帰ってこない。
散々待たされた挙句帰ってきた代表に「いったい何だったのだ」とたずねても、「何でもない」の一点張りで、ゲンを左右してなかなか口を割らない。だいぶ固く口止めされたらしい。
後でわかった話では、米軍当局から、満州におけるソ連軍の動向など、あらゆる情報をこと細かに聞きただされたらしい。
当時既に米軍は、ことのほかソ連軍を意識(警戒)していたらしい(ソ連軍もまた同じ)。
即ち東西冷戦の始まりで、「昨日の友も今日は敵」--か?

昭和21年8月1日早朝、故郷新発田の家にたどり着いた。
玄関戸を叩く音に、寝ぼけマナコで出てきた姉は、俺を見るなりビックリ仰天、発した第一声が「おやおや!?」だった。

後日談だが、当時の千円はかなりの使い勝手があった。
「死んだと思った子が帰ってきた」としての過保護(黙認)もあり、しばらくは遊びに遊んだ。千円がなくなるまで--

過ぎにし敗戦の混乱期、若き日のヒトコマ--お粗末。

「じーちゃんの昭和」目次

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祖国目前・・・斃れた人々

更なるもう1つの大役は、死体の処理である。
収容所内の一角に、死体置き場なる一室がある。
引き揚げ途中で倒れた人、ここに到着してから亡くなった人たちの遺体が、大きな部屋に4~50体、累々と横たわっている。
真夏にもかかわらず、閉め切った部屋は気のせいもあってひんやりと気色悪い。
目指す祖国を目の当たり、倒れし者の心中如何ばかりか、戦争の悲惨さと、その犠牲となった人々の哀れさが胸を打つ。
その亡骸を担架に乗せて、野原まで運び、1米ほどの穴を掘って埋めるのだ。
この作業を1日平均3体ずつ埋葬するが、待機の人の中から引き揚げ列車が到着するたびごとに、なにがしかの遺体が出るので、埋めても埋めても追いつかない。

遺体といってもその格好たるや千差万別で、病院で万策尽き丁重に「ご臨終です」と胸に手を組み神妙に横たわっている仏とはワケが違う。モガキ苦しんだ末の、野垂れ死にである。
その中で、ひときわ印象に残る一体があった。
齢50前後の男だったが、両肘両膝をついた四つんばい状態での絶命である。
びっくりしたが、その顔を見て2度びっくり。無精ひげは伸び放題、眼はランランと眼光するどく、大きく開けた口の形は物凄く、怒りをぶちまけながら今にもとびかからんばかりの形相だ。
へっぴり腰で恐る恐る担架に移そうとするが、仏の体が硬直していて、素直に言うこと(?)を聞かない。
横にしようと思っても、ダルマのように元に戻るから始末に悪い。
思案余ってそのままの格好で担架に乗せた。哀れこの人も往生しているが、運ぶ我々も往生した。

稀には、仏の身内か知人が、野辺の送りに埋葬するまで御一緒する人もいる。
そんな時は我々も、いともねんごろに葬った。
葬るといっても、ただ穴を掘り埋めるだけ。捧げる花や線香もなければお経もない。わびしいものだった。
しかしほとんどは無縁仏で、我々も後が控えている忙しい身の上、いちいち小笠原流とばかりはゆかない。時と場合によっては「4-の5-のほいっ」と遺体を投げ込むが、あれでは仏もすんなり成仏は出来まい。「人間至る所に青山あり」--どこで死ぬにも死ぬには変わりないけれど、ここで我々の手にかかった仏たちには、一段と哀れの念を禁じえない。
埋める者、埋められる者、紙一重の運命だったが、埋める側の方に廻ったのはせめてもの幸運だった。

それにしても「便所掃除と死体の処理」とは---ここのお偉方が我々フゼイに、頭を低く丁重に迎え入れた謎が解けた。
尚、彼ら本物の職員が管理する食品倉庫内など、その物品の豊富さは驚くばかりで、野菜・肉は言うに及ばず、酒・タバコ・缶詰類などゴマンとあった。
我々も一部そのおこぼれに預かったわけだが、この時期、こと食料に関する限り、好き勝手の贅沢三昧の暮らしだった。いつの世も「偉い奴ほどよく眠る」か---。

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いよいよ引き揚げ!・・・と思ったら

広大な敷地内の社宅跡と思われる数十軒の空き家に、10人くらいずつ分散されて一旦落ち着き、迎えの船が来るまでの3~4日、待機することとなる。
目の前は海、その向こうは日本、周囲の人々も日本人、皆同じ立場の人たちばかり、ここまでくれば一安心---
つかの間の憩いの場だった。

収容所の外回りは、半ズボンにわらじ履きの中国兵が警備に当たっていたが、収容所には一切無干渉だった。
事実。ここへたどりつくまでが一苦労で、比較的体力と幸運に恵まれた我々はともかく、多くの人たちは「語るも涙聞くも涙」の物語だった。
寝食もままならず、恐怖と疲労も極限に達している。おまけに暑天下、体の具合が悪くとも医者(施設)もなければ薬もない。倒れる人も後を絶たず---と、惨憺たる状況だった。
ここに来るまでの列車にしても、運の悪い組などは無蓋の貨車で、真ん中に女子供と荷物を集め、その周りを男どもで固め、鈴なりの状態だ。汽車が急カーブでもしようものなら簡単に振り落とされる、サーカス乗車だった。
幸い真夏のこととて、雨や寒さの心配はさほどないが、困るのは生理現象で、無論トイレなどあるわけがない。1人や2人が小便だのクソだのといったところで、運転手(中国人)は停めてくれない。仕方なく、走る貨車のヘリに四つんばいでぶら下がり、必死の用便だった--と聞く。ご婦人方はどうシタのだろうか?察するに余りあってお釣りが来る。

ともあれ、どうにかここまで来た。
いよいよ夢にまで見た懐かしの故国である。
夢と希望を胸に待居している我々の前に突如、収容所の所長らしき人物が現れた。
「ぜひともここで、我々の仕事を手伝っていただきたい。ついては待遇カクカクシカジカ--」
と、辞を低くしての懇請である。
長い労苦の果て、やっとの思いでここまで来た。一刻も早く日本の土を踏みたい、とは人の常で、誰もこの話に乗らない。そこで「この連中なら格好の相手」と、目をつけられたのが我々のグループだった---らしい。
「ここまで来れば、10日や20日早かろうが遅かろうが大差はない。スッカラカンの着たきり雀、幸い給料もくれるという。クニへの手土産代わり(実は遊興費欲しさ)に、ここは一番ひと稼ぎ--」
と、若さも手伝い、引き受けることに一決した。

さて、しばし残留と決まったが、なるほど言葉たがわず待遇もそこそこ、食い物その他も悪くない。
とりわけ、貸与された「引揚移送事務室職員」という、長ったらしくもイカメシイ腕章1つが、ことのほかツエー味方で、生意気盛りの年頃とあいまって、「虎の威を借るナントカ」よろしく、威張り放題の恐いものなし。ボロはまとえど結構な身分で、今までの鬱憤を晴らすにはほどほどだった。ただ、相手方が同じく労を重ねてきた同胞だったのは、いささか気がとがめた。

仕事の方は「事務室職員」とはおよそ似ても似つかぬ下等労務者であった。
例の腕章を巻いて、引揚者が待居している家々の内外、ゴミ捨て場や便所などに、進駐軍払い下げのDDTを適当に、文句たれながら振りまいて廻るのが日課だった。何のことはない、チンピラやくざの地回りだ。
時たま、不心得者やそうしたグループを見つけ、居丈高に「この組は態度が悪い。4~5日乗船を延期するぞ!!」などとできもしない虚勢を張ると、真に受けた相手は心底恐れ入って、平身低頭ペコペコだ。今まで頭の下げ通しだった者が、逆に頭を下げられると面食らい、いささか照れくさいが悪い気はしない。

この衛星班もどきの仕事のもう1つに、便所作りがある。
空き地に人がまたげる程度の長方形の穴を、1米くらいの深さに、並べて10個くらい掘る。
その角々に柱を4本立て、周囲を1箇所ごとにコモで囲う、簡単明瞭な野戦便所である。
モノが満タンになると、土をかぶせて埋め、別のところに同じ方法で同じものを作る、移動便所の施設隊だった。

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今度は国民党!?

昭和21年の6月ごろ(満19歳)、政府軍(一名「正規軍」とも呼ばれていた、蒋介石率いる国民党軍)の統治下、各地において一般中国市民に対し、軍への入隊が呼びかけられ、多くの人がこれに応じた。
当時その筋においては、中国軍建軍に躍起で、この地方の下部組織の責任者と思われる王(ワン)なる人物も日本人を募ったという。
友人Tよりその話を持ちかけられ、誘われるまま話に乗った。なにぶんにも食うに食なく、働くに職なしの折柄、ましてや血気の若僧、深い考えもなく、同好の者約20名、徒歩で奉天に向かった。引率者は満州国軍あがりの下士官級の人だった。

さて行くには行ったが、着いたところは期待とだいぶかけ離れた、市郊外の中国人部落だった。
字は忘れたが「サレーホ」という地域で、元々大して期待などしていたわけではないが、不審を感じながらも、何することもなく、中国人民家でゴロゴロして時期を待った。
この地域一帯は、募集に応じた多くの中国人も分散されて、民家に寄宿していた。食事は責任者を通じて支給された。

待つこと5~6日、いよいよ正式入隊?(と思った)との指示があり、勇躍、奉天市内に向かった。
ここでいったん日本人民家跡の空き家に落ち着き、またぞろ時を待つことになる。
このあたりからだんだんと話が怪しくなり、待てど暮らせど肝心の親分(王大人)が一向に姿を見せない。
そうしたある日、今で言う戸籍調査のごとき中国人が現れて、取調べを受ける。責任者(引率してきた中国人-彼は片言の日本語を喋る親日派で、我々の面倒はよく見てくれた)はおらず、話が通じずチンプンカンプン。ついには一同、ある派出所に連行されてしまった。

我々はべつだん悪事を働いているわけではない、話がわかれば事は簡単--
と、タカをくくっていたが、当局にしてみれば、対共産軍関係に異常なまでの神経を尖らしている矢先、住所不定で得体の知れぬ日本人--そのうえ「敗戦後の顔」に、チンピラ然としたなりふりでは、怪しまれても不思議のないところではあった。

暑天下、派出所前の地べたに土下座させられ、かなりの長時間待たされた。
道行く日本人には不審と哀れみの目でジロジロ見られ、恥ずかしいやら情けないやら、穴があったら入りたい。
それにしても待つ間の、なんと長いことよ。
ようやく話が一件落着した模様で、「これにて無罪放免か」と思いきや、今度はドデカい立派な警察署に連行され、挙句の果てには何が何だかわからぬまま、地下室のブタ箱入りの破目となった

牢内に最後の1人が押し込まれると、これがしばし娑婆との別れ、にぶく重々しい音で「ギー、ガッタン」と閉まる。その音の何とも不気味で不快なこと。
「ガッターン」が余韻を引いて消え静まると、一同期せずして大きなため息一つ。
昼夜の区別もつかぬ、薄暗く陰気な部屋。片隅に便所、食うもタレるも同じ場所。
3度の食事で時間を想像し、天井の片隅から僅かな光が差し込み、そこからカタコト聞こえる足音に、朝(通勤時)だとわかる。
出される食事は古い土方弁当にまじりっけなしのコーリャン(時には粟)、それに塩を振りかけたものだけ。俗に言う臭い飯だ。時たま歯ごたえのある砂などが混じっているが、大して気にもならずペロリとたいらげた。
箸などなく、南方人よろしく指先で操作するが、風呂とは何日もご無沙汰の身、汗など指の塩気でちょうどいい塩梅だ。当時の若者の胃袋は、どんな逆境にあってもつつがなく受け付けた。

さて、1日2日はまだよいが、3日過ぎれば何とやら--だんだんと心細くなるのは仕方のないところ。
まさか殺られることはあるまいが、しかしそこは立場の逆転した混乱期、恨み重なる東洋鬼(トンヤング=日本人)、戦後のこのドサクサをモッケの幸いとばかりに--と。人間落ち目になるとロクな考えが浮かばない。
1人きりなら気が滅入り、早晩おかしくもなるところだろうが、幸い多くの仲間と一緒、若さも手伝って「死なばもろとも、なるようになれ」と、いまだ幾分の余裕とカラ元気は残っていた。

余裕もそろそろ残り少なくなりかけた1週間後、やっと冤罪が晴れてか出所の身となった。
久しぶりに見る娑婆の空は晴れ、風さわやかだった。
入牢中は空腹のほどひとかたならず、「やがて出所の暁は、あれも食おう、これも食おう」と、朝な夕なこれ一筋の1週間だったが、いざ出てみると不思議や不思議、あれほどのガッツキようが嘘のよう、食いたくもなければ飲みたくもない。腹はかなり減っているはずなのに、あまりの嬉しさと安堵感で、胸いっぱいの腹いっぱい--か。

「じーちゃんの昭和」目次

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引き揚げ開始!

出獄した一行のうち、約半数が鞍山に帰り、残った我々は奉天市内の難民収容所へ入った。
(娘より注:じーちゃんの兄弟ご家族も鞍山にいたのですが、どういう経緯かみな既に帰国しており、この時残っていたのはじーちゃんのみ。「明治男」ことじーちゃんの親父さんは「なんで〔じーちゃん〕のことを置いて帰ってきた!?」と、ひどく怒ったそうです)
収容所と言っても名ばかり、ドでかく細長い何かの建物(空き家)で、5~60人一緒のゴロ寝生活だ。

1週間前後のここでの生活中、1~2度、軍(中国)の使役に引っ張り出された。
市内日本人街の一角、立ち並ぶ豪勢な高級住宅の空き家での、掃除・整理整頓作業だった。
社宅らしいが、その豪華さから見て、かなりの高等官が居たところと察しがつく。
よく耳にする話だが、偉い連中は終戦が近づくと、知ってか知らずか、安全なうちにサッサと引き揚げてしまう。哀れをとどめるのは、後に残された弱い立場の人々で、いつもながら偉い奴にはかなわない。

一方、下町・庶民街の空き家には、若い男だったが素っ裸で、その五体はやせ細り、目の光さえ失い、何事か声にならぬ声でうめき、足腰立たぬ身をくねらせていた。
豚小屋同然の部屋を掃除し、やがて死ぬであろうその男のもとを後にした。かわいそうだがどうすることもできない。敗戦を恨むより仕方がない。

混乱のこの時期、金と身内がない一人ぼっちが病気や事故で倒れた場合、一巻の終わりで、死ぬよりほかに道はない悲惨な現実だった。当時19歳、血気盛んな俺などは、病気一つ怪我一つしなかったおかげで助かったが、考えてみればゾッとすると同時に、悪運の強さに感謝する。

同じ時期、市内のとある広場に、にわか作りの舞台で、終戦で足止め食った芸人の「日華親善」とか銘打っての催し物を見た。
歌手・三丁目文夫が「ラバウル小唄」などを歌い、宝塚スター・芝恵津子が飛んだり跳ねたりして見物客を喜ばせ、僅かばかりの和やかなひと時だった。

1週間も過ぎた頃、待望の引き揚げが開始された。
我々は難民扱いのため、他に先駆けて引き揚げる幸運に恵まれた。
繋ぎ合わせのボロ列車(運転手は中国人)で、ガタコトガタコト止まったり休んだり、腹立たしいほどのマンマンデーで、長時間かかり、やっとの思いで目指すコロ島に到着した。

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胎内スキー場

パパママKKはおよそ6~7年ぶり、Uは生まれて初めて、行ってきましたスキー場。
場所は国設胎内スキー場です。

「朝8時に出発!」
のはずが、のんびり9時ごろ起きて、途中Uの靴スキーや朝昼兼用ごはんなどを買ったりして、着いたのは11時ごろ
駐車場からゲレンデが近いのがありがたいです。

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ゲレンデ入り口にどーんとある「胎内ロッジ」。
ここに入るとすぐ、ロビー&レンタルコーナーです。
ここでKKの板や靴、Uのウエア上下などをレンタル。けっこう大きいコーナーで、サイズも110(U)や130(KK)など、わりと細かく揃っていました。

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レンタルコーナー横に着替え場所。
けっこう広いスペースでキレイ。ロッカーも充分な数がありました。ロッカーは1回2~300円です。
ここでひっさしぶりのスキー靴に履き替えて、うお~一気に歩きにくい~!さあゲレンデへ行くぞ~

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目の前にリフトとゲレンデがあり、左側には遠目に「動く歩道」。ははぁあっちがキッズコーナーかな?
このリフト、3連休なのにリフト空き空き♪
でもこのゲレンデ、な、なんかすっごく坂が急な気がするんだけど・・・ボーゲンで降りてこれるかしら??

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とりあえず、パパKKの分だけリフト4時間券、あと回数券も買っとこう。
私たちは半日なので4時間券にしましたが、1日すべるご家族などには、ファミリー券が安くて良さそうでした。

ゲレンデの急坂にビビった私たち、まずは普通の「坂」で慣れておこうと。
向かって右、林道コースの終点あたりが小さい盆地になっていて、こどもたちが雪像で遊んでます。ここで練習している人も何人か。

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さっそく私たちも練習し始めましたが、パパは別格として、一番スジが良かったのがKK
すべるのはもちろん、上り坂なんかも、スキー板はいたまま移動できるようになって。前に来た時は「スキーだとすべっちゃって、立てない歩けない~」状態だったのに、たいしたもんだ~
案の定スジが悪いのがママ&Uです。 ママは降りるのはともかく、坂を上るのに「あ~れ~~」ズルルーーだし、Uはこわがりなので、すべってく途中で必ずお尻をついて「あ~れ~~」ゴロロロロ状態だし
けどKKだったらこんな時、すーぐ「もうヤだ!」となって機嫌とるのがメンドイのですが、Uはこのゴロロロ状態もまた楽しいらしく、一緒にすべって(=転がって)はギャハギャハ笑っていたのが助かりました

さてではそろそろリフト乗りに行きましょうか。
とリフト券売り場でもらったパンフ見たら、目の前のリフト&ゲレンデはなんと中級者コースだそうで
どおりでリフト空いてたはずよ~~
初心者コースは別の駐車場から入るか、このリフトに乗ってぐる~~っと降りてくるかする感じ(遠そう&迷いそう)。
そしてもう1つ、さっき「キッズコーナー」かと思ったあの動く歩道、あれが実に初心者コースなんだそうです ええ~~リフトじゃないのお~!?
今回まったく下調べせず、「スキー行くか」「じゃ近場の胎内にしよう」「そうだな広いし」で決めたのですが、やっぱりある程度調べてから行った方がいいですね

とりあえず、パパだけ偵察&「リフト券を無駄にするな政策(?)」で、ぐる~~っと初心者コースを行ってみることに。
ママKKUはその間、キッズコーナー併設の初心者コースへ。
この移動だけでママは汗かきました KKはよくスイスイ歩けるな~

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動く歩道=スノーエスカレーターは、1回100円。1日券500円。未就学児はタダです。
乗り場周辺には滑り台など、キッズ用の遊具も若干あり(上の写真。ちっちゃいですが
ママKKの1日券を買い、Uはソリを持ってエスカレーターに。ああラク~~♪
この「自力で上らなくてOK」というのがね、ほんと助かります。
エスカレーターを挟んで、右がスキーコーナー、左がソリコーナーになってます。

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KKは右へ、ママUは左へ。
そのうちパパも合流して、交代してソリしたりスキーしたり。
といっても、このスキーコーナーは、ボーゲンオンリーのママですら「物足りない」と思う短さ。う~んこれなら我が家的にはニノックスの方が。。。
KKの練習や、7年ぶりの慣らし運転にはピッタリですけどね
残念なのは、スノーエスカレーターが16時で終わっちゃうこと。
やっと慣れたあたりで時間切れ~~
とはいえ、時間ギリギリまで粘り、ぽっぽ焼きを買って、17時ごろ帰路につきました。

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家に帰る前に、またまた龍泉でひとっぷろ&夕飯。
は~~疲れがとれる~~
ちなみに胎内にも「クアハウス胎内」や、ロイヤルホテルで日帰り温泉などがありますよん。

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さーて来週はニノックスかな。
いやその前に、この筋肉痛をなんとかせねば

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闇屋稼業

終戦引揚後、金も職もない我々兄弟3人は、親父の指揮の下、闇屋稼業に就労した一時期があった。
当時は「一億総闇屋時代」で、「人を裁くものに悪事は許されじ。衆の模範たるべし」とか何とかいった検察官だったか裁判官だったか?偉い人が、真っ当な生活した(闇米食わず)挙句、栄養失調で死んじまったことがある。
闇米の運搬は特に厳しく、警官に見つかったが最後、隠し持った米を全部吐き出された。
一斉取締りの時などはすごいもので、交番前だけでなくあちらこちらの路上はもとより、駅構内から車内、線路上と所構わずの状態だった。警官にとっ捕まった中年婦人が
「これがないと今晩食うものがない。せめて子供の分だけでも---何とか少し---」
と涙ながらの訴えも、ナサケ容赦なく取り上げた。そのポリ公も、バクバク闇米食いながらビシビシ闇米を取り締まっていたのだが、笑ってばかりも要られない、なんとも切ない時代だった。

厳しい警官の目をかいくぐって、われわれ一行が目指す行く手は、横浜・杉田界隈の一角にあるY氏宅である。
Y氏の出身地は朝鮮で、帰化したのか北か南かそこまでは知らなかったが、戦時中から親父と昵懇の仲だった。
Y氏宅に持ち込んだ米を、手分けして売りさばいてもらい、その収益でY氏から多くの煙草(刻みタバコ)を買い、これを持ち帰って田舎方面に売りさばく--というものだった。

Y氏は戦時中から多くの朝鮮人労働者の総タバネ的な立場で、ちょっとした親分的存在だった。
戦後果たして何人残っているのかわからんが、戦中の名簿だけは手元にあり、つまり多くの幽霊人口を抱え種々の配給物資を受けていたのであった(当時は未だ配給制度だった)。煙草もその1つで、当時は紙巻煙草はあまり配給されず、ほとんどの人がキセルのがん首を叩きながらキザミ煙草を吸っていた。

せっかく苦労して儲けた金が、拝む間もなく煙草に化けるのはいかにも惜しかったが、そこが貧乏人の浅ましさで、親父が言うには
「煙草を持ち帰り田舎で売れば、儲けは倍になる」
即ち「儲けが儲けを呼ぶ」という奴で、ここらあたりに悪知恵にたけた人とただの人との差があった。

Y家にはお世話になり、飯も1,2度ご馳走になった。ところが--オカズを食うと辛い。口直しにと汁を吸うとこれがまた辛い。あわてて漬物を噛むと更に辛いときてる。この辛いものづくしには有難涙が出て参った。これを見たY氏の奥さん
「ニホン人砂糖ないと困るネー。私たち南蛮ないと困るネー」
と言いカラカラと笑った。気さくで明るく、良いご夫婦だった。

「じーちゃんの昭和」目次

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満州製鉄~二き三すけ

戦争が激しさを増しても、軍需会社というわけか、年配者はもちろん、一般従業員に対し赤紙は来なかった。
ただ、我々より上の若者は兵役で不在、したがって伍長、次席に次ぎ三枚目に抜擢された(人間も三枚目だが)。
抜擢と言うよりは、中間層の若者がいなかったのである。

一炉7名が定員だったが、最悪時の日本人職工は4人くらいだった。
また社内には、多くの朝鮮出身の従業員(半島人と言われていた)もいて、一炉につき1~2名割り当てられ、一緒に働いた。
そのほか、その日の欠員に合わせて、中国人の日雇い労務者が割り当てられたが、本作業には使い物にならず、ほんの下働き、小間使い程度だった。

戦争も末期に近づくにつれ、半島(出身)人が1人減り2人減り、終戦時気がついてみたら1人もいなかった。
そのうち本館の事務職員や、鞍山地区に駐屯していた兵隊が、作業隊と称して我々の釜にも1~2名ずつ臨時配属された。
年齢も30歳過ぎ、家族を持った大学出のインテリ職員や、髭剃り跡も青々しく、目が血走った感じで何となく荒れ気味の帝国軍人は、18、9歳の俺のような小僧っ子にとって使いづらかった。しかし彼らはお国のためか己の分をわきまえてか、指示には素直に従い、よく働いてくれた。

通称従業員2万人と言われたこの会社では、一部雑役の中国人を除き、下請け業者などは一切いない。
何をするにもすべて従業員の手で行われ、外注などはない。
資材・物資など、よほど特殊なもの以外、社外から購入することはほとんどなかったと思う。

戦雲も急を告げた末期、ますますの増産に迫られた会社は、新高炉の建設に着手した。
昼夜兼行の突貫工事で、通常の予定よりはるかに早く完成されたらしい。
たまたま首相辞任直後の東條英機大将が社内を視察し、この突貫工事による新高炉の建立をいたく感激したらしく、会社に対し「感謝状」を贈った。と同時にこの時吐いた名台詞が
「溶鉱炉一基は戦艦一隻に匹敵する」
であった。
時を同じくして所内いたるところの掲示板に貼り出されていた名文句が
「鉄鋼増産は勝利の鍵」
というもっともらしいものであり、人目を引いていた。
この文句の主は、若くして東條内閣の商工大臣に抜擢され、戦後も国会の赤ジュータンを「ハダシ」で歩いた岸信介その人だった(断っておくが靴はちゃんと履いていた)。

余談だが、東條・岸(信介)とくると思い出す御仁がもう1人いる。
去る渡満直前の訓練所時代、時の内閣官房長官・星野直樹が、我々訓練生一同を前に、長々と講演したことがある。
当日は春のポカポカ陽気に加えて、暖かい風が吹き埃を立てる。それが「折敷」の姿勢の顔に、モロに当たる。
その都度目をつむったり開いたり繰り返しているうち、春風に誘われるままコックリコックリいつしか船を漕ぎ出してしまい、せっかくの講話も全然耳に入らぬ始末だった。終了後、隊長からは大目玉を食らうものと覚悟していたが、何事もなく済んだのは幸いだった。

年配の先輩によれば、建国後の満州にあって「二き三すけ」が絶大なる権力で辣腕をふるった一時期があったという。
「二き三すけ」とは個人名ではなく、2人の「き」と3人の「すけ」であり、いわば御大東條の息のかかった子分か一派といえよう。そのソーソーたるメンバーは

元首相・東條英樹(A級戦犯)
元内閣官房長官・星野直樹(A級戦犯)
元外務大臣・松岡洋右(A級戦犯)
元商工大臣・岸信介
元満業総裁・鮎川義介

といった具合であった。

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満州製鉄~金と命の交換仕事

溶解用の燃料も、効率の悪いガスを使用していた。
高炉より発生する「高炉ガス」と、コークス炉より発生する「骸炭ガス」に空気を混合したものだった。
両ガスとも相当な発生量につき、これをみすみす逃す手はない--との発想だったようだ。

骸炭炉を含む周囲一帯は化工部である。本業(製鉄)の過程でコールタール、ベンゾール、流安などが製造され、副産物工場といわれた。
この骸炭炉が何かのトラブル発生の際は、ガスを含んだ黄色い煙を大量に吐き出す。「×分間で××円の損失だ」とかよく言われたが、その額はかなりのものだった。
「ガス釜」の場合困るのが天井を流すことで、釣り天井も未だない時代、硅石煉瓦だけの当時、著しく天井の寿命を縮めた。

ガスを燃料とする場合、もう1つ厄介なのがガス漏れである。
「高炉ガス」に含まれているCOガスがその犯人だが、何しろ無色無味無臭、得体の知れない曲者で、吸っていても気がつかず、ややあってから物の見事にひっくり返る、タチの悪い奴だ。
通常は何事もないが、ちょっとしたトラブルか風向きか、何かの拍子に、稀にではあるが流出するもので、こればかりは神様でも予知できない。

かくいう俺も一度だけ経験がある。夜勤時、出鋼口で作業中、意識モーローとなった瞬間、もろに後ろにぶっ倒れた。
幸い1米ほどの高さのある手すりに当たり、下の造塊現場への転落は免れたが、7~8米下の地金や鋼塊、ケース等が雑然としているところへ真っ逆さまとなれば、タダでは済まなかったと思う。
冬の冷たい風に吹かれてスーと意識が戻り、我に返った。その後朝に交代するまで別室で寝転んでいたが、頭の芯がガンガン痛んだ。しかし酔っ払い加減もほどほどのところで事なきを得たのは幸いだった。


製鋼は、常に危険と隣り合わせの重労働だったが、その分賃金の方は比較的良かったのではないかと思う。それは、神奈川の臨港線(鶴見線)に沿った諸会社を皮肉った次の一節にも伺える。

恋の東芝、浅野のギャング
桃色事件の富士電機
金と命の鋼管(=交換)会社

配属時の辞令には「日給2円50銭を給す」とあった。3交代制(3週間に1回連続)で、残業代を含め、月平均100円から120円の給料である。
就職する3年前、小学校高等科2年時担当の先生(初任で21歳)が、目尻を下げニコニコ顔で語るには
「本日は大変うれしい日である。即ち私の給料日で、一金36円を頂くのであーる」
と相好を崩していたことを思うと、3年間という時間差と地域差はあるにしろ、我々の給料もまんざらでもねえとニンマリしたものだった。ただ養成所出の我々は、歳の多い先輩連より率にして割高だったので、多少の妬みを受けたのは辛かった。

給料以外の諸待遇も極めて良く、社内においては戦時中とは思えぬほど、物資の不足は感じられなかった。
当時、製鉄所の炉前作業と薄板圧延作業が最高の重労働との定説だったため、労務加配米の意味で、1日出勤するごとに1枚貰う食券を、我々は1枚半ずつ貰った。金券を沿えて各課に設置されている食堂で弁当又は飯が食えた。当時事務員などは労働者とされていなかった。
そういえば一時、臨時雇いだったか大角力出の源氏山と一緒の時期があったが、彼は2枚ずつ支給されていた。女のことで相撲廃業(失敗)したと噂されたが、なるほど角力取りにはもったいない男ぶりだった。

また、食券と同時にタバコも1日出勤ごとに1個ずつ支給された(食券(米)といい配給制度の時代だった)。
「若桜」という奇麗な図案だったが、我々未成年にも一律支給された。
よほど在庫が豊富だったのか、もしくは遠からず兵役で死地に赴く身を憐れんでの温情か(?)、ともあれおかげで40年余、欠かすことなく延々と(煙々と?)吸い続けた。

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満州製鉄~頭が良くてはつとまらぬ!?

製鋼作業の工程は、まず高炉より出た溶鉄を、混鉄炉、予備製錬炉を経由して平炉に装入し、30トンほどの自家屑(スクラップ)と石灰などを混入し、ガスを通して1000℃以上に加熱する。
炉内では、溶解(沸騰)するとともに化学反応を起こし、地金は沈下し、鋼滓(スラグ)が上面に浮く。
浮いたスラグを、釜を少々傾斜して階下のノロ鍋に流し出す。必要に応じて鉱石・石灰を炉内に装入、また流滓、を2~3回繰り返す。
これによりC分を初めSi、S、P、等の不純物を除去し、成分分析の結果、目的の製品規格に合致したところで(溶鋼温度1300℃)取り鍋に出鋼し、造塊現場に送られる。
造塊とは字のごとく、ケースの中に溶鋼を流し込み、固まったところでケースを引き抜き、鋼塊を圧延工場に送り、半製品となるわけである。
出鋼した空釜は、ドロマイトやマグネシアという補修材を投げつけて補修し、また溶鉄を装入して同じことを繰り返す。
装入-出鋼が1チャージで、当時のタップ-タップが約8時間くらいだった。つまり1日出勤(8時間勤務)して1回出鋼すれば終わりである。

一見、簡単で楽そうに思えるが、本作業もさることながら、それに付随する段取りや後片付け等も並みの苦労ではなく、加えて高熱の中での肉体労働、塩をなめ水を飲みながらの悪戦苦闘である。

かつて教習所へ入所の折、職種(課)を決めるにあたり簡単な適性検査を行ったが、それとは別に、誰も彼も「機械課」「工作課」の希望者ばかりで、「製鉄」「製鋼」「圧延課」の評判はすこぶる悪く、希望者は皆無の状況だった。
仕方なく係の先生、検査結果などお構いなく、顔と身体を見て半強制的に「製鋼課」と決められた。「頭が悪く身体がいい奴」が決め手となったらしい(?)。なるほど「頭がよくてはあの仕事はつとまらない」。

安全面に関しても、ほとんど問題にされていなかった。
防具といえばズックの前掛けだけ。足袋に分厚いゴム底の草履ばき、ねじり鉢巻はしたが、ほほかむりなどする人はなかった。
いかな高熱現場での作業も、タオルで顔を覆うがごとき格好は「炉前工の風上にも置けぬ」という変なプライドがあり、一丁前とは認められぬ戦時下ならではの野暮な風習があった。
おかげで炉前工は顔の片側一面が、圧延工は両ほほ骨あたりと眉の間、鼻先が赤く焼け、北風吹きすさぶ冬期間などはドス黒くなるので、「こいつは炉前だ」「あいつは圧延だ」と、一見して職種がばれた。
しかし当の本人たちはいたって平気の平左で(たとえ年頃の若者でも)ある種の誇りさえ持っていたのだから見上げたものだ。

不思議なことに、マスクも一切使用することがなかった。第一市販されていたかさえ定かではない。
「マグネシアは体に悪いが、石灰は肺の薬だ」とか「Si粉は肺に毒だが、炭粉は体にいい」などと先輩から吹き込まれ、もうもうたる埃の中でコキ使われたもんだ。
しかし40何年たった現在でも、体に何の異常もないところをみると、案外本当だったのかも知れぬ(?)
やけどをしてもニガリを塗ってごまかすのが関の山で、少々の怪我は極力隠し通すのが普通だった。

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満州製鉄~鉄の都よ高炉の炎~

南満州鉄道--通称「満鉄」の連京本線(大連-新京)の大連駅を出発して、当時のドン行汽車で10時間くらいで鞍山駅に到着する。
駅は片田舎風の小さな建物だったが、この町が「鉄の都よ高炉の炎」と歌われた、人口6万人(日系人のみ)、全満第6位の「鉄都」鞍山市だった。
鞍山駅から次の立山駅まで、鉄道に沿って延々と続く巨大会社が、東洋一と言われたKK昭和製鋼所である。

まず人目を引くのが巨大な2基のガスタンクで、高さ98米、直径20米くらいで、鞍山市民が一年間使っても使い切れぬ貯蔵量だと聞く。
当時としては珍しい、千トン溶鉱炉が9基、空にそびえ、それに付属する熱風炉や冷却塔、さらには巨大な2基の骸炭炉(当時は戦時下で、コークス炉とは呼ばなかった)や、昼夜の別なく独特の音を発し続ける選鉱(貧鉱処理)工場などなど、ケタはずれの巨大建造物が黒煙や蒸気を吐き出しながら連立する勇姿は、度肝を抜かれると同時に壮観そのものだった。

教習所2ヵ年の課程を終え、配属された現場が製鋼部の第一製鋼課であった。
規模は150平炉が6基、300トン予備製錬炉が3基、600トン混鉄炉の2基から成り、付属する装入機4台、原料機4台、造塊側の取鍋起重機4台、型(ケース)の裾付及び型抜き、隣の圧延工場(灼熱炉経由)へ移動するペンジュラム起重機(とか言ったと思う)2~3基という構成だった。
人員は、甲・乙・丙組(当時はA,B,Cとは言わなかった)の三交代者に、副原料係や製造係等の常昼勤者をひっくりめて、500人くらいの数だったと思う。
これと同規模の第2製鋼課、第一(大型)、第二(小型)、第三(薄板)圧延課とその付属工場を含めたものが、製鋼部となる。

会社全体としては--忘れてしまったので定かでないが、「製鋼部」のほか、「総務」「製鉄(溶鉱炉関係)」「工務(工作部門)」「動力(電気関係)」「化工(コークス炉を含む副産物工場)」など8つくらいの部に加え、市郊外に3~4つの鉄鉱山があり、そこで働く工員はもとより、山そのものが会社の資産である(「採鉱部」)。
更に、掘った鉱石をはじめとする各種資材や副原料を運ぶ電車・汽車、社外の通勤バス(大型バス10台くらい)、その他一切の運搬事務を行う「運輸部」があった。

だいたい以上のごとき構成で、その規模の大きさは、まさに東洋一を誇る半官半民の大企業だった。
満鉄より分離独立した昭和2年創立時の資本金公称2億円、従業員数は戦時下のため公表されていないが、通称2万人と言われていた。
更に戦雲急を告げると、本渓湖煤鉄公司(鞍山より歴史は古く、小さな高炉が2~3本立っていた)と東辺道開発KKが合併して「満州製鉄KK」となり、ますます巨大化し飛躍発展の一途をたどった。
東辺道は鉄鉱石の採掘が主力で、60%という富鉱が平炉工場に搬送されていた。

理事長(社長とは言わず、常務は理事と呼ばれた)は、元・東京市長だった陸軍大将の岸本綾夫氏であった。
一度だけ拝顔の栄を得たが(といってもグループで、「かしらー右!」の敬礼だけ)、ズングリムックリの小男で勲章などつけていない平服姿だったにもかかわらず、「大将」という先入観もあってか、それなりの貫禄はあった。敬礼した途端「敬礼が悪い、やり直せ」と一喝されたことを覚えている。

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明治男のど根性~不倫騒動

昭和10年過ぎ頃、我が家のすぐ近くにS家があり、この家の女主人はヤモメ暮らしの1人住まいだった。
田畑もなければ手職もなし、いずこも同じ秋の夕暮れで、苦しい生活を余儀なくされていた。
蚕の季節や畑仕事、ちょっとした雑用などで時々我が家の手伝いに来て、親しく出入りしていた。
そのうち段々と親交の密度も深まり、出入りも一段と激しさを増し、最初のうちは夕飯食ったら帰って行ったが、「どうせ明日もまた来る身」だ。雨が降っては泊まり、風が吹いては泊まり、果ては我が家に居ついてしまった。
色恋に歳はない、「遠くて近きは男女の仲」であり、ましてや「近くて近きは--」の仲の男女だから事は簡単だ。かくて非公認ながら、夫婦気取りの生活が始まった。

お互いヤモメの身で別々に苦労するより、一緒になれば苦労も減り、お互いのためにもなり合理的だと、俺などはひそかに喜んでいた。第一、男親ではどうにも不得手、女ならではの所作があり、子供の俺にとっては随分と世話になり、大変に助かった。女手のない家庭は殺伐として、ソラ寒いものだったから---。

これで事が丸く収まる時代でも環境でもなかった。
今で言う不倫行為を黙って見過ごす隣近所ではない。保守的地盤を背景に、先祖代々百姓一筋に生きてきた真面目な人たちである。逆に言えば「大海の広さ」を知らず融通の利かぬ石頭連中である。格好の茶飲み話と、ヒソヒソニヤニヤそれからそれへと、針が棒になり噂は噂を呼んだ。対する親父は
「言いたい奴には言わしておけ。俺は俺で我が道を往く。空いている者同士が合意の上で、効率よい方法を取ったまで。人様に何の迷惑も危害も与えていない」
といった調子で、図々しくも平然と世評を受け流していた。

元々、父の氏素性やその人となりに不快感を抱いていた人達にとって、不倫騒ぎは攻撃材料としてモッケの幸いだった。世の中に「人の不幸を見るのが最高の楽しみ」とか「対岸の火事は大きいほど面白い」といった風潮なしとしないから尚更だ。ただ困るのは直接本人に向かってなじるほどの度胸はなく、そのホコ先を俺に向けることだった。
「お前の親父とあそこのおっかーが、こうしてああしてケチョンケチョンだー」
如何に渦中の人の子供とはいえ、小学生の俺をつかまえて大人げもなく、下品な言葉での悪口雑言は、子供心に胸が痛かった。良くても悪くても親と名がつけば偉い--とまではゆかぬも、良い人と思うのは、いずこも同じ子供心だ。
しかも言った後のうれしそうな顔の憎らしいこと。年端も行かぬ子供を冷やかして、よっぽどうれしかったらしい--とは、程々見下げ果てた大人どもだった。
「よーし、俺が大きくなったら、こいつらをぶっとばしてやる」
と、その時深く心に刻んだものだ。
余談だが終戦引揚後、ふるさと恋しとたずねてみれば、恨み重なるあの面々は、死んでしまって居なかった--

世間の悪評にさらされながらも、2人の関係は丈夫で長持ちした。
聞けば俺が卒業・渡満後は、ボロ家をたたみ、手に手をとって樺太に渡り、植林作業に従事、その後横浜市内の軍需工場への季節労務者に加わり、父はその飯場の世話人係、おっかさんは飯炊きなどして働き続けたという。
戦争も敗色濃厚だったある日、父が買出しに出た直後、飯場とその周辺一帯が空襲に見舞われ、跡形もなく消し飛び、あわれ彼女もその犠牲となり、あえなくこの世を去った---らしい。
「らしい」というのはその直後、親父が焼け跡を懸命に探し回ったが、亡骸も所持品も何一つ見当たらなかったと言う。

あの人も浮世の定めとはいえ、辛く多難な生涯だった。
俺が大変世話になった中のひとりだった。
人間一寸先は闇である。くっつこうがねっぱろうがいいぢゃないか、人に害さへ及ぼさねば--


仕事も上手、遊びも達者、清濁併せ持つ型破りの親父だったが、後年は「己が若き日のアヤマチから、子供たちに少なからぬ迷惑を及ぼした」と、自責の念を深く感じ続けている態だった。
晩年も、老骨に鞭打って、あの手この手と体が動かなくなるまで働き続けた。
家も1軒建て、子供たちの世話にもならず、悠々自適(?)の生活を続けていたが、昭和44年9月、波瀾の生涯を閉じた。享年80歳(だったと思う)。
不肖の子のそのまた子を見ることなく、スレ違いに--。

死後、当時の金で50万、俺名義の預金通帳が発見された。
予期せぬことだっただけに、これは至極ありがたかった。現在の我が家の生活基盤の元ともなった。
土台、親のナサケなどというものは、生きているうちはまったくの不感症(?)、死んでみて初めてわかる親の恩--という奴で・・・墓に布団でも着せようと思うが、さて余分な布団がない--ときたもんだ。
俺って奴は、いよいよもってマギレもねえ出来損ない、だった。

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シュールな小児科

小児科の待合室にて。
壁にどっさり貼ってあるアンパンマン軍団の切り絵を見ながら、隣に座ってる女の子
「ままー。くいずね~。あんぱんまんは、どれでしょ~~?
思わず一緒になって探してしまう私。
「せいかいは~~~?
思わず聞き耳を立てる私。
「じゃむおじさんでした~~~!!
どおおおお~~~~っ
思わずソファを転がってく私(←心の中で)
昔ダウンタウンのクイズネタで
「では問題です。織田信長は・・・・どうでしょう?」
というのがあったのを思い出しました

と、そんなシュールな小児科にて、今度はUを診察してもらったところ。
インフル検査ではマイナス(=非インフル)だったものの
「まあお兄ちゃんがインフルエンザなら、もうインフルってことにしちゃっていいかな」
というお医者さんの判断により、Uもインフル決定
「一応タミフル出しときますね。あ、インフルじゃなくても服用OKですよ。予防薬にもなるし」
う~んそれならいっそ効かない予防接種なんかやめて、シーズンになったらタミフル配りまくっちゃどうでしょう?薬代も保険きいて大助かりだし(予防接種だと2人で1万超)。
なんせこないだの予防接種といったら。にーちゃんはともかく、恐がり&きかんぼのUは、も~~~う病院の廊下を端から端までマンガのように引きずってったあげく、看護婦さん3人がかりで押さえつけてやっと終了でしたからね~~ ああ思い出すだけで疲れが・・・
あの金と涙と疲れと笑いはいったいなんだったんでしょう。
まあ熱はKKよりさらに低い、最高でも37度台でしたから、インフルだとしたらかなり軽い症状ではあります。これはやっぱり注射のおかげか??
しかしそのおかげで(?)普段と変わらずちょ~元気なこの子と、これから1週間篭城か~~~。ああ思っただけで疲れが・・・

とゲッソリしていたのが1週間前。
案の定ゲッソリな1週間が過ぎて、今日はやっとUが登園ですああ~~世の中がバラ色に見えるう~
インフルは、かかると面倒だけど、かかっちゃえばとりあえず今期のインフル感染の心配はナシというのがありがたいですね~

それにしても、来年の予防接種、どうしようかな~~?
ちなみに今回タミフルなのは、4歳児に吸入式のイナビル・リレンザは難しいだろうというお医者さんの判断です。
何でもタミフル、出回りすぎて一部インフルには耐性ができちゃってるそうですね(それじゃ予防接種代わりはムリか??)
まあ素人としては、安くて危険がないなら何でもOKなんですけどね

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ソ連軍との遭遇~時計編

終戦を境に、威容を誇った東洋一の大会社「満州製鉄」の溶鉱炉の火は消えた。
骸炭炉から湧き上がる水蒸気も見えず、昼夜を分かたず聞きなれた音も聞こえず、不気味なほどひっそりと静まり返った。
まもなく進駐してきたソ連軍が下見の結果、その一部を撤去することとなった。
製鋼関係では新しい方の第二製鋼課がその対象となり、従業員一同、撤去作業に駆り出された。
主な作業は、課内の各種クレーンその他の解体、倉庫内の膨大な資材・部品等の梱包などであった。

俺の受け持ち作業は、梱包された箱にロシア語での行き先・宛名書きという結構な仕事だった。
書く方はいたって簡単だが梱包する方は大変だ。従って梱包が終わって我が方へ来るまで暇がありすぎ、しょっちゅう一服のし通しで、敗戦を感じさせないまったくハラショな仕事だった。
自動小銃を肩から下げた監視のソ連兵が廻ってくるが、注意や指示・文句等一切なかった。暇にまかせて見回り兵の袖を引き、しゃにむに座りこませ、我々が取り囲んで雑談にふけるのを常とした。

雑談といっても言葉がわかるわけではない。身振り手振りでからかうと、知ってか知らずかニコニコ笑って相手になる。からかったり冷やかしたりするには手ごろな相手だった。
奴らが得意げに喋る内容を想像すると、ベルリンの攻防戦に参加し、片がついたところで急遽ここ満州に廻されたという。それやこれやの武勇伝に始まり、最後は決まって「時計をくれ(または売れ)」と「女を世話しろ」の2つに落ち着く。

この撤去作業の期間中は、彼らソ連兵と同等の立場(?)で喋ったり、ふざけたりで、戦勝国の軍人と敗戦国人の差はまったく感じられなかった。
約1ヶ月の撤去作業も終わり、梱包荷物を積んだ貨車を欲張って延々と接続したための制限重量オーバーか、スムーズに引っ張れない。ガタンポー、ガタンポーと一歩後退二歩前進といった調子で、大連方向に去っていった。
終戦以来、無職無給の悲哀をかこっていたところへ、この1ヶ月の撤去作業は助かった。しかも遊び半分の手先仕事で、従前どおりの給料をトランプのごときソ連軍票でもらった。終戦から引き揚げに至る間、唯一楽しい1ヶ月であった。

そういえばこの期間中、宣撫工作の一環か、ソ連兵がフィルム持参で見せたソ連映画があった。
映像の痛みがかなり激しい古いシャシンで、何がなんだかわからん戦争映画だったが、劇中ズダ袋を背負っての戦闘だから、大分古い話らしかった。
もちろんソ連軍の敢闘をたたえるお定まりのものと思われるが、「押されていたドイツ軍(らしき敵)が逆襲し、ソ連軍が一時的に退却する」場面になったとたん、観客席から一斉に(思わず)拍手が沸いた。
いまだ戦時中の気分が完全に抜けきらぬ時期ゆえと思われるが、それにしても好意(のつもり)で見せたソ連兵は、さぞかし気分を壊したことだろう。

それにしても進出してきたソ連軍のお粗末さにはいささか驚いた。薄汚れたヨレヨレの服を着たきり雀、軍用車も緑色で小さく角ばったガタガタ車で、一昔前の日本軍同様もしくはそれ以下のポンコツ然とした物だった。
兵隊の程度の低さも同様で、自国語を満足に読み書きできない者も珍しくなかった。噂では樺太あたりの囚人を急遽兵隊にしたて、前線に駆り出したとか囁かれていた。もちろん全部ではあるまいが、少なくとも我々が接した範囲内の兵隊に限れば、我々より優れているとは到底思われず、ましてや戦勝国の軍人とは受け取れなかった。

当時の日本人間では、ソ連人を一般に露助と呼んでいた。風呂屋の三助じみて軽蔑しているように聞こえるが、元々ロシア語でルイスキー、ロスキーからロスケとなったものと勝手に解釈する。中国人はターピーズ(大鼻子)と言っていた。字のとおり、ソ連人と言うより西洋人をからかったあだ名らしい。

その露助軍だが、程度は必ずしも良くなかったが根はお人よしで、戦勝国人を鼻にかけて威張り散らすことは見受けられなかった。ただ「露助」と切っても切り離せない厄介なものが2つある。
1つは男性を対象とした腕時計である。
彼らは「腕時計」に異常な執着を持ち、「腕時計」を見ると目の色変えて欲しがった。
稀には金をいくらか出して強引に買い上げた奴もいたらしいが、ほとんどが金などもっていない(らしい)奴らで、金は金でも不気味な伸棒状金属を向けられての強要では、たまったものじゃない。命あっての物種、時計で済むことなら、と差し出す仕儀となる。
取り上げてはみたものの、そこは持ったことのない悲しさ、腕時計の操作(ネジを巻く)がわからない。針が止まると一巻の終わりと思って捨て、また次なる人から取り上げる。といった調子の繰り返しだったらしい。
中には巻き上げた時計の始末に困り(?)両の腕に1~2個ずつ巻いて喜んでいた奴もいたというから、何とも言いようがない。拳銃か自動小銃を向けるだけで、いとも簡単に手に入るのだから、奴らにとっては笑いが止まらず、得意満面たるものであったろう。

当時のソ連国内では、腕時計は最高級品に属し、一般人には高嶺の花で持ちたくても持てず、わずかに特別功労者などに対し、表彰品として使用されるに過ぎなかったと聞く。
(時計に関する限り)こういう奴らに敗けたのかと思うと、これまた何とも言いようがなかった。

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ソ連軍との遭遇~女編

もう1つの難事は女が対象で、これは男の「腕時計」より一段と深刻だ。
ソ連軍進駐と同時にほとんどの女は(子供や婆さんは別として)頭を丸め、顔に煤や炭を塗り、衣類も黒色系や国防色を着用し男に化けた。「露助が来たぞ!」のふれ声に目の色を変え、必死で身を隠す苦労は大変なものだった。
床下や天井裏に身を潜めるが、何しろ白昼堂々と自動小銃を向けて「女を出せ」とくるから手に負えない。更に悪いことに、タチのよからぬ中国人がお先棒かついで露助を先導するのだから始末が悪い。中国人はあらかじめ「この家に年頃の娘、女がいる」ことを知っていて、日ごろから日本人に憎しみもあり、また憎しみのあるなしは別に、自分の腹が痛むわけでなし、いくらか金になればと案内役を買って出るというわけで、これも腹立たしい限りだった。
それにしても奴らの異常なほどの助平ぶりは目にあまり、ただただ呆れるばかりで、だいたいあの手の人種はコトに及んで平気の平左、羞恥心など微塵もなく、所構わずの状態は犬猫同然で、まさに毛唐の名にふさわしいものだった。何しろ奴らは公用・私用を問わず、遊ぶ時でも武器を(将校は拳銃、兵は自動小銃)肌身離さず持っているから、よけい始末が悪い。従って奴ら好色動物の毒牙にかかった女性の数も少なくない。
我々も紙一重の運命で戦争には行かなかったが、どこの国の軍隊も似たようなものらしく、戦争となると「人間性」とか「人道主義」などはどこかへふっとんでしまうらしい
面白いことに(と言っては不謹慎だが)奴らロスケの好みは「丸顔で体が大きい太った女」ときまっている。もちろん余裕(?)のある時で、切羽詰れば手当たりしだいの淫獣と化す。困ったことに、髪を切り墨を塗って変装しても、敵もさる者、体(胸)に触れて判別し、引き立てていくから処置ナシだ。痛ましい限りだが銃口を向けられている身ではどうにもならず、ただただ敗戦を恨むより仕様がない。

もっとも「好き」という点では「アメリカさん」も一歩も引かず、負けず劣らずの華々しさだった。この点でもまさに東西の二大強国だった。
引き揚げの半年後、横浜市内に居住したが、その頃は少々治安も落ち着きを取り戻しつつあり、金のある「アメさん」は、もっぱら金の上での取引が多く、「ロスケ」ほど悪辣ではなかった。「丸顔大柄太っちょデブ」を好み、自国製品の代用とした「ロスケ」とは対照的に、こちら「アメ公」は自国製の食い慣れた太平洋よりは、未知の味「異国風献立」がお望みらしい。
その方を受け持つ辻姫(洋の部)や「オンリー」と称する契約者は、あちら式の高いヒールの流行にもかかわらず底ペシャの靴を履き、背を低く体を小さく見せるのに専念していた。

ソ連とアメリカのこの差は-国民性の相違か、経済力の差か?対照的な好色度を示していたが、そのゼツリン度だけはともに一等国で、当時の日本男子など遠く及ぶところでなく、ただただ舌を巻くのみであった。
ともあれ洋パンが「大木にセミ」よろしく巨漢にぶら下がって歩く図は大和撫子も形無しだった。遊ぶ金などない当時の男どもは苦々しく見過ごしていたが、無論、彼女らに罪はない。悪いのは戦争で、いつの世も泣かされるのは弱い立場の人たちだ。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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