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明治男のど根性~おカイコ様騒動2

夏蚕の時期、ある日突然親父が
「外で蚕を飼う」
と言い出した。
前述の例に鑑み、作業工程と収入の効率化をもくろんだものらしい。

他の地方は知らないが、当時の田舎にあって蚕を戸外で飼うなど、考えられぬ暴挙としか思えなかった。
収まらないのが近所の人で
馬鹿コクでねえ、何をモボれてるー」
蚕様を外で飼うなんてとんでもねえ話、雨でも降ったらどうするんだ」
「あの人頭でも狂ったんじゃあんめいかー」
などなど反対論の一斉攻撃にさらされた。しかし親父は頑として
「いや大丈夫。俺はやる」
と一歩も引かない。あきれ果てた周囲の人々
「やるなら勝手にやれ、馬鹿ー見るのはおめーさまだ、おらーしんねいよ」
と、冷笑のうちに高みの見物を決め込んだ。

飼育方法は、家の裏の空き地に、高さ50センチくらい、横巾7~8米、縦巾3~4米くらいの板を長方形に立てて飼場の囲いとし、その中に蚕をばら撒き、桑の葉をやるだけの単純なもの。
入れ物も要らなければ、網・紙も不要、餌場の取替え、カス(汚物)の運び出し、入れ物の上げ下ろし等々の手間が大幅に省け、ただ桑の葉と、仕上がり時に繭を作るための巣さえあれば事足りるわけである。
終わったら、最後に残ったカス屑を一括処理すればいいわけで、作業の簡素化による経費・労力の削減でかなりの低コストとなり、収入の方も「丸儲け」とまではゆかずとも大幅アップとなった-はずである。

近郷から買い集めた桑の葉を、家の中いっぱいに広げ、鮮度と保存のため霧を吹きかける。噴射機などという気のきいたもののなかった我が家では、口に含んだひしゃくの水を吹きかける。桑の葉はダラダラ・ビショビショだが、蚕の奴は喜んで食った。
これもヒントの1つだったらしい。夏は雨が少なくほとんど降らなかったが、やはり1~2度は降ることもある。が何の支障もなく、蚕はスクスクと育ち、従前と変わらぬ繭玉が出来た。
ただし、これはあくまでも夏蚕に限ってのことである。成功を見た周囲の人々は黙ってシャッポを脱ぎ、親父の得意満面はいうまでもない。而してもうけた金は、ほとんど親父の遊興費に化けた--らしい。

もう1つ、得意満面な親父の姿--
我が家には元々田んぼがなく、借地の畑だけが少々あった。
ある時期ほんの二枚ばかり(7セ)買い求めて数年間稲作をやったが、なまじっかの田んぼでは中途半端で、何かと都合が悪く、売っ払うこととした。
ところがいざ代金を支払う段になって、買い手に対して
「あんな狭い土地が7セもあるわけねえ。おめーさま騙されてるんだ」
と吹き込む奴が出てきた。どこにでもおせっかいなでしゃばり野郎はいるもんだ
不審の抗議をする買い主に、親父もさるもの
「俺がこの足で歩いて測ったのだから間違いねえ」
と突っ張る。結局双方水掛け論でラチがあかない。ならばと本職の測量士を呼んでことの決着をつけようとなった。
測量士が入念に測った結果は、親父の主張する面積と一致した。しぶしぶ代金を支払う買い主を尻目に、親父の心底すこぶる意気上るものがあった
それにしても昔の人の身体は、モノサシも兼ねているのには恐れ入った。
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明治男のど根性~おカイコ様騒動

当時の田舎では、農作業とともに養蚕も盛んだった。
特に田畑のない我が家では、春・夏・秋のうち2回くらいは蚕を飼っていた覚えがある。

春蚕を例に取れば--
まず室内を消毒し、飼育する量数によって室内片側もしくは両側に、竹か棒で段々のある棚を組む。
名称は忘れたが、竹の皮で編んだ一米四方くらいの平ぺったい入れ物数十枚と、それと同数・同程度の大きさで、蚕が潜り抜けられる程度の目の網を用意する。最初の飼育の時は無論購入せねばならぬ。
そして、入れ物と同じ寸法・同じ枚数の敷き紙も必要だが、時には古新聞も使用した。
さらに、嵩で編んだアコーディオン式の巣(?)も入れ物と同じ数。

--と、養蚕を始めるには最低でも以上のものを用意しなければならず、最初の場合はかなりの負担となる。陽気によっては火鉢等に炭火をおこし、部屋を暖めねばならぬ。

道具が揃ったところで飼育にかかる。
作業工程の詳細な記憶は定かではないが、まず平ぺったい竹製の入れ物に紙を敷き、その上に数十匹の蚕を置き、餌である桑の葉を平らにかぶせて棚に上げる。
蚕は這い上がって桑の葉を食い、だんだんと成長するわけだ。桑を与えるのは1日1回くらいだったと思う。
この手法を3日くらい続けると、桑の食い残し(茎の部分)や、蚕のフンがたまり、入れ物の上が10センチほどのたかさとなり、持ち運ぶにも重くなる。特に踏み台に上がって棚への上げ下ろしなどは、かなりの重労働だった。
3,4日たったところで、高く積もった入れ物の上に網を敷き、その上から桑をやる。
蚕は物欲しげに網の目を潜り抜けて、桑の葉まで這い上がる。
そこで脇に紙を敷いた入れ物を並べ、網をそっと持ち上げてその入れ物に移す--餌場の移動である。
残ったカス(汚物)は、紙ごと別の入れ物カゴなどにいれ、戸外へ持ち出し処分する。主に肥料に転用されたが、紙の方は蚕の小便がにじんでいて、再利用は出来なかった。

この餌場の取替えは3~4日ごとに繰り返し、1ヶ月くらいだっただろうか、繭が出来上がるまで行われる。飼う蚕が多ければ多いほど、与える桑の葉も、出るゴミの量も多く、人の苦労もまた多い。

いよいよ蚕が「上る」頃、嵩製の巣を広げて上にかぶせて置くと、蚕はそれに這い上がり、繭を作る。
できあがった繭を1つ1つ取り出し、眉の表面を覆っているモヤモヤしたクズ糸を機械にかけて取り除く。
機械といっても小さく四角い箱状のもので、上部真ん中に何で出来たか1本の金属棒があり、この棒が手回しでグルグル廻る。そこへ繭玉を押し流すと、クズ糸が棒に巻きつき、きれいな繭が出来上がるのである。

そしてこの繭が金に換わり、今までの苦労が報われる--となれば幸いだが、どうも労多くして報い少なしの感がないでもない。労力は別としても、餌代から入れ物、網、紙、巣などの原材料費で、儲けの半分以上は消えるのではあるまいか?もちろん、桑と紙以外の用具は2回目から再使用できるが、いずれにしても儲けの裏には応分の苦労があるもんだ

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明治男のど根性~盗電騒動

昭和6年ごろだったと思う。母と2人でコタツに入ったが、コタツに引いてある電熱器がつかない。
「おかしい」と首をひねった親父は戸外へ出た。しばらくするとコタツ布団の下から、もうもうたる黒煙が出てくる。
びっくりして早速親父を呼んだところ、親父は家の横にある電柱によじ登り、なにやらヤラカシていた。
あわてて駆け込んだ六畳間は火炎に包まれ、子供の目には火の海に見えた。親父が消し止めて大事には至らなかったが、掛け布団が全焼していた。

当時、田舎の電灯事情は、裕福な暮らしの大家では現在の様式だが、我が家のような貧乏家では、電灯が一軒に一つだけで、その分基本料金のみ、といった料金だったらしい。
当時の田舎では、そうした家はかなりあったが、寝たきりの病人と、4~5歳の子ワッパを残して戸外へ働きに出る親父の苦労は、並大抵のものではなかった。

母は俺を産み落としてまもなく大病(中風とか言っていた)をわずらい、下半身が機能を失い、死ぬまでイザリのような状態だった。
当時の男連中はもっぱら戸外で働くことを常とし、家事に関してはまったく無能だった。現今のような、炊事・洗濯・掃除・子守と何でもこなす優男とは大分趣を異にしていた。薪を焚いたり七輪で火をおこしての煮炊きや、燃やした薪から炭を採り、コタツに入れる女仕事は、当時の男にとっては大の苦手だった。

そこで親父は、冬期間などはわずらわしい手を省き、ひそかにヒーターをコタツの中に引き込み暖をとっていた。つまり親父は盗電の常習犯だったわけだ。
もちろん悪事が栄えるわけはなく、時々見回りに来る電器屋に見つけられ、その都度、説教なり罰金を科せられていたらしい。しかしそれに怯む親父ではない。依然として盗電を続行している矢先の出来事だった。

先述ヒーターに火が入らなかった時、身に覚えのある親父はてっきり線を切られた(送電停止)と思い、切れた線をつながんものと電柱によじ登っての悪戦苦闘だったらしい。真相は、電熱器部分が混線していたのが、何かの拍子で火を発したものだった。

それにしても、電気の知識があるはずのない親父が、いかに切ない家庭の事情とはいえ、法と危険を犯してまで電柱によじ登った勇姿は見上げたもので、そのクソ度胸にはほどほど感心した。係員以外の一般人が、無断で電柱にのぼり、配線を勝手に操作するなど、その筋の人に見つかったらタダではすまぬ大事件だったはずだ。当時の子供にとって電器屋は「電気工夫」と呼ばれ、警察・刑事同様恐い人の最たるものだった。

後年、度重なる悪事発覚に業を煮やした電気会社は、ついに送電停止の処分を出した。
しかしここで頭を下げたり、罰金払ったりする親父とは親父が違う。もちろん、払いたくとも払うモノがないのが実情で、きちんと払えるくらいなら最初からしない
以後数年間、ランプの生活だった。「山小屋の灯」なら風情もあるが、実生活ともなると何かと不便だ。おかげで俺などは毎日夕方になると、ランプのホヤ磨きが日課となった。我が家を訪れる近所の人も「暗い、暗い」と半分同情、半分冷やかしていたが、親父は悠然と
「なあに、電灯料月にナンボ、灯油×缶ナンボで×月使える。電灯なんて馬鹿らしくてつけられたもんじゃねえ、ワッハッハー」
と、負け惜しみを高笑いでごまかしていた。もっとも慣れると、否、慣らされると特別暗いとも思わず過ごしたからよくしたもんだ。

「じーちゃんの昭和」目次

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医学の進歩!

あのうるさくてゲームキチガイで何かと手のかかるKKが、夕方頃から「頭が痛い」と、ゲームも手にすることなくぐったり横たわったまま。
熱もないし夕飯も一応食べたけど、あまりにおとなしくてラクな子になってる~♪ので、これはもしや、アレですか?アレがついに我が家にやってきましたか!?

と、次の朝、病院に行ってみたら、やっぱりインフルエンザでした~~~

今んとこ、同級生でインフル欠席者は1人だけだったんだけど、わりと仲のいい子だったからね。
なんでも欠席する前、咳を顔めがけてゴッホゴッホ浴びせかけ、周囲が「うわっインフルだ~」と逃げる遊びをしていたそうで これだから小学生男子(と書いてバカと読む)は・・・
しかし予防接種してない子は、その遊びをしていても今んとこへっちゃらなのに、予防接種したKKが発症するとは(お医者さんいわく、最初に熱が上らなかったのは予防接種のおかげかも、ということで、決して予防接種=ムダというわけではありませんが)

ともあれお医者さんに行って、インフルA型との診断が下り。
新型かどうかはまた別な検査が必要だそう、しかし治療法は一緒とのことで、それ以上検査はせず、お薬もらって帰ることに。
ここでびっくりしたんですが、今インフル薬ってすごい進化してるんですね!!
「インフルかかっても(早く薬を飲めば)1~2日で治る」と聞いて、ええ~すご~い!!と驚いたのは、確かKKが3歳くらいの頃。
今は「イナビル」という新薬があって、なんと1回吸入してオシマイ。そしたら次の日には熱が下がる、というのは「リレンザ」など他のインフル薬と同じですが、「リレンザ」他の薬と違い、耐性ウィルスに備えて5日間飲む必要はなく、ほんとに1回こっきりでいいという。なんでも耐性ウィルスが出来ないようにだかなんだか、研究・開発されたそう。
で、「どっちにしますか?」

どっちにしますかって、そんな説明だけ聞いたら誰もが「イナビル」の方になびくと思うんですが、「リレンザ」派の人もいるそうで、「まあ出たばっかりの薬は恐いからという理由でしょうかね~」とお医者さん。なるほど。
「タミフルみたいに幻覚見るってことはないんですよね?」と聞いたら「タミフルのせいというより、インフルエンザ自体でそうなるとも考えられてるので、今日明日は気をつけてください」(それにしては、タミフルはおすすめできないと言ってたぞ)
お医者さんがわりと「イナビル」イチオシな感じだったので、イナビルもらって、薬局で説明聞きながら吸入して、それでオシマイ。

それまで最高37.7度くらいだった熱は、帰ってきてから熱は38.0度まで上がり。
その日1日は、あのゲムキチ(=ゲームキチガイ)KKがDSもPSPも持たず、ご飯以外はず~~~っとぐったり横になって、トイレ行くにも「フラフラする」と言ってましたが。
果たして予言どおり、次の朝には見事に平熱!あの強力なインフル菌を、たった1回の吸入で封じ込めるって。。。すごいわ~。すごすぎてありがた恐いわ~~

というわけで、KKは今んとこおとなしめなマンガキチですが、そろそろゲムキチに戻りそうな予感です
常に半分くらい、インフル菌を体に入れとくとちょうどいいんじゃない?

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泣き笑いビンボー暮らし~学用品

学用品も、最初の頃は一応の格好はついていたが、だんだんと崩れてきて、カバンも不要、筆箱もなければ消しゴム、鉛筆削りもない。その日の教科書と、全教科を兼ねたノートが1冊、鉛筆が1本と、さっぱりしたもの。これを風呂敷に包み、小脇に抱えて登校した。
まともな下駄は履かず、高下駄(分厚く、歯が減ると取替えのきくアシダ)もしくは草履が主だった。帽子も、わざと汚したりツバを折ったり帽章をねじまげるなど、当時の高等学校のバンカラスタイルに対する憧れと、貧乏人には都合の良い格好が一致したものだった。この風潮は、持たざる者のささやかな反骨も兼ねていた。

進学ごとの教科書も、後には一年先輩のものを借用して使った。その頃からすでにリサイクル運動を率先遂行していたわけだ。
ただし全部が全部というわけにはいかぬ。それまでの読本は
「ハト マメ ミノ カサ カラカサ カラスガヰマス」
といった調子のものが、我々昭和8年入学時になって一新し、総天然色のきれいな本で
「サイタ サイタ サクラガ サイタ」
となった。ちなみに我々高等科2年の卒業が「小学校」の最後となり、翌年から「国民学校」というそっけない名前に様変わりした。

小学校も5年ごろになると、珠算が科目として登場する。
「算盤を買ってくれ」
と頼むが、親父は例によってお手元不如意。
「これでも使え」
と、どこからともなく取り出してきたのが、時代劇に出てくる番頭が使うような、長さ60センチもある底蓋つきの巨大な算盤だった。いつごろのものかは知らないが、いかになんでも大きすぎた。
そこで一計を案じ、ノコギリで真ん中から真っ二つに切り、その片方で勉強したが、こればっかりは以下に図々しい俺でも恥ずかしかった。
不細工な形でも一応算盤は算盤、先生も文句のつけようがないが、年代物だけに珠の運びもギコギコとままならぬ。これで上達しよう、点数稼ごうとは無理な注文だった。

「じーちゃんの昭和」目次

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泣き笑いビンボー暮らし~悟り

小学校も半ば過ぎ、過酷な我が家の経済状態がわかる年頃になった俺は、ひとつの悟りに達した
「家計は苦しい、親父は惨め-これ以上の苦しみは見るに忍びず
という殊勝な心がけになった。以来
人を羨まず金をせがまず、欲しがりません勝つまでは(?)」
だった。

祭りがきても花見になっても、小遣い金にはありつけない。たまに一銭か二銭もらったが、いくら子供でも一銭や二銭では物の用に立たず、飴玉買ってほおばるしかなかった。またこの飴玉という奴が、なめていても味も素っ気もなく、ガリガリ噛み砕くのが常だったが
「噛んだらダメだ。なめていろ」
と怒られる始末だ。経済効果を狙ったアドバイスだ
当時、村では2軒ばかりの駄菓子屋があったが、甘いものなどまったく無縁の存在だった。使い走りの駄賃としてもらう物は、きまってトンカチで叩き割った黒砂糖のひとかけらだった。

田んぼがない我が家では米を買ったが、まともな米は食えなかった。
「政府の払い下げ米」と称する、今で言う古古米専門だったが、噛めば噛むほど味が出てきて貧乏人向きだった
「貧乏人は麦を食え」とヌカした総理もいたが、土地柄で、さすがに麦は食わず、ボロボロ米ながら米飯だけはたらふく食った。
もっとも麦だって決して嫌いではなかった。貧乏人とはよくしたもので、昔も今も固い物、歯ごたえのある物が最上で、食パンも真ん中より耳の方をうまいと感ずる。

飯はともかく、おかずときたら何もない。しかたなく、生ネギに味噌をつけて食ったり、南蛮を焼いて醤油をつけ、その辛いつゆをチビチビ吸っておかずとしたことも度々だった。オカラや醤油の実(醤油の搾りかす)などは良い方だった。
冬の夜は雑炊と決まっていた。残り味噌汁に残り飯を混ぜただけの、経済効果100%の貧乏人向け食い物だった。
雑炊は嫌いでもなかったが、なにせ子供の舌には熱すぎて、味も加減も有らばこそ、胃袋の催促についてゆけないモドカシサには参った。

幼少時の式日(祝祭日)にはカスリの着物など着せられたが、中高年ともなると一応洋服を常用した。祝日も平日もない、年中一枚きりの着たきり雀だ。
3年生頃の夏の朝、登校に際し上着はあるがズボンがない。当時体の小さかった俺は、ひざまである大きな白パンツをはいていたのだが、親父は
「そのまま学校へ行け」
と言う。
「見た目は半ズボン姿そっくりだから差し支えなし」
とする大人の都合よい理屈。が、子供は正直だ、いくら長くともパンツはパンツであって半ズボンではない。半裸体での登校など出来ぬ相談だった。そこでグズる。更に悪いことには、男児連中は既に出発した後で、女児の一団がまだ残っている。
「まだ大勢いるではないか。一緒に行け」
と叱られ、またグズる。
当時は「男女7歳にして席を同じうせず」の時代だ。女児と一緒に遊ぶの歩くのなどの破廉恥行為は許されない。ここにも大人の目と子供の感覚の差があった。
なだめてもさとしてもグズりとおす俺に、堪忍袋の尾を切らした親父は、強烈な一発を見舞った。
5,6米吹っ飛ばされた俺は、びっくりしたのが先に立ち、痛みは感じなかった。
その後のことは覚えてないが、たぶんしぶしぶ学校へ行ったものと思う。
俺がグズって反抗したのも、親父が怒ってぶん殴ったのも、記憶にある限り後にも先にもこの1回きりだった。

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泣き笑いビンボー暮らし~入学はしたけれど

物心ついて見る我が家は、貧乏のどん底だった。
それでも我が幼少時は、親父も人並みとはゆかぬまでも、それなりの養育に努めていたようだった。
実際はかなり惨めなものだったが、まだ世間が見えぬ年頃だった。
小学校も中ごろになると、放任の度合いは一段と高まった。
放任主義と言えば聞こえはいいが、完全なほったらかしである。これはある意味では大変有難かった。幼い子供が夜遊びなどしようものなら、コッぴどく叱られるのが普通だが、うちの親は叱らなかった。真逆、酒やタバコは呑まなかったが、何をやってもお構いなし。まして殴ることなどまったくなかった。
更に有難かったのは「勉強しろ」「偉くなれ」など大それたことは、一言半句口にしなかったことだ。学期末の成績が上がろうと下がろうと一切無関心、ノータッチ、ノーコメントだった。
この理解ある態度をトクとした俺は8年間、教室以外での勉強などした覚えがない。もっとも親父にしてみれば「言ったところでしょせん無駄」とわかりきっていればこそ-の温情だったのかも知れぬ。

しかし物事には表と裏がある。これが金銭面、物質面でも「お構いなし」となると、いささか深刻な面もないわけではない。ただしあの状態の中、親父も精一杯の踏ん張りではあった。
更に悪いことには、親父の職業柄についてまわった「手なぐさみ」が、元の貧乏に輪をかけた。
定収のない者が「苦しいときの神頼み」で、一攫千金の夢を見たとしても気持ちはわかる。しかし「悪銭身につかず」、バクチで儲けて裕福になったとか、華々しく成功した話は聞いたことがない。

戸外における肉体労働はもちろん、それなりの商才もあり、何事も至極器用にこなした親父は、百姓一筋の土地柄にあって、善悪併せた異色の存在だった。
「仕事も上手、金儲けもうまい。バクチやるのが玉に瑕。それさえなければいい男」
とは、近所の人の一致した見方だった。
ご当人もそれはトックと承知で、晩年、風雪に耐えてきた生き様を述懐していわく
「俺は何でもやった。而して何でも上手だった。ただ、金残すのが下手なだけ-だった」
もっとも下のくだりだけは俺も受け継いだから、血は争えないもんだ。

「不自由を常と思えば不足なし」
と家康は言ったが、物心ついてから不自由の中で育ち、慣らされてきた俺は、当然のことと観念し、人が見るほど悲惨な思いはしなかった。
が、その中にあっても、支払いが出来ず、借金取りにペコペコと頭を下げている親の姿を幾度となく目の当たりにするのは、子供心に辛かった。
分けても暮れともなれば賑やかなもので、次から次へと入れ替わり立ち代り、借金取りが現れる。親父はいち早く隠遁の術を使って身を隠す。応対に出た俺に対し、威高々の詰問だ。「知らぬ存ぜぬ」の一点張りに業を煮やし、悪口雑言を浴びせて引き返す借金取りの顔は、さながら地獄の鬼に見えた。

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泣き笑いビンボー暮らし~学校生活

小学校で昼食時間が楽しいのはどこも同じだ。一日中面白くもない授業の中で、昼食時間こそ唯一の憩いの場であり、みなのコミュニケーションの場でもあった。
さながら、梅干に侵食された跡があり、色も薄汚れて古ぼけた、大人用弁当箱の使用を余儀なくされていた俺には、喜びも半減した。
当時流行していた、花柄のついたアルマイトの弁当箱が欲しくてたまらず、親父に陳情するが毎度のコトながら「お預け」となる。人目を気にしながら食う昼飯は、味の方も半減だった。
数年後、念願かなって花柄の弁当箱を買ってもらった。うれしかったのは言うまでもないが、しかしその頃になると、弁当箱の蓋を取り上から端を突き刺して持ち上げれば、そのまま弁当箱がそっくり持ち上がるほどギッシリ詰め込んでも、あの薄い上品な弁当箱では胃袋の虫が治まらぬところまで来ていた。
年とともに図々しさも味方して、見栄や外聞もなんのその、色気より食い気が先行した。
かくて-以前にもまして大きな、俗に言う土方弁当をゴケのおまけつきで使用し、限られた時間ながら我が世の春を満喫した。
ゴケ弁とは、蓋と箱が別々の、あわない弁当箱を言い、当時は珍しい状況ではなかったが、前述の算盤といい弁当箱といい、赤面の恥ずかしさではあった。が、当時はそれで差別やいじめなどはなかった。

入学当初こそ前から数えて1,2番目のちびっこだった俺も、年を重ねるに従って、碌な物を食わなかった割にはスクスクと成長し、高学年になった頃はクラスで1,2の背丈だった。
背の高いもの必ずしも腕力あるとは限らないが、少なくともクラス中では怖いものナシの状態で、よしんばいじめられたとしても反対にやり込める度胸も自信もあった。第一、いじめに気を病んだりする純情味など、とっくの昔に失っていた。散々修行(?)した(否、させられた)たまものである。

修学旅行にも行けなかった。尋常科の卒業記念写真すら買えなかった。学校が仲介・販売する学用品など、およそ少しでも金のかかるものは一切不参加だった。当時としてはハイカラだった、チューブ入り歯磨きなどもまた然りで、ろくすっぽ歯など磨いたことがない割に虫歯にならなかったのは不思議である。
もっとも甘いものには無関係、味噌漬けだの塩辛だのを常食としていた身には、虫歯になりたくともなれなかったのが実態かもしれん。おかげで今なお、歯の痛みも知らねば梅干の種も割れる

小遣いにしても、人が10銭ならこちらは5銭、相手が饅頭ならこちらは黒砂糖と、物心ついてから落差がついてまわり、その差が縮まることなく今日に至った。
家庭の事情、親父の球状を察して、さしたる不平不満も言わず「ぢっと我慢の子」で通した俺は、ほんの少しは親孝行したような気がせぬでもない。
それにしても、数々の尊い経験(?)を積んだにしては、もちっとマシな人間になれなかったのが不思議だ。しょせん「駄目なものは駄目」-なのだろう。

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八路軍からバックレろ!2

それにしてもあの時あのパーロ、よくぞ思いとどまった。
敗戦直後のドサクサ騒ぎ、真っ暗闇に紛れて(一応は)戦勝国の八路兵が、敗戦国の恨み重なる日本人の一人や二人、撃ち殺したところで何の問題も起こらぬ時期だった。

以上の経験から参考までに一言。この様な場合、地位も面子もかなぐり捨てて、サッと両手を挙げることが肝要である(もっとも言われなくとも、無意識のうちに挙げてるから不思議だが)
虚勢を張ったり不貞腐れるのは絶対禁物だ。
相手も怖いのだ、あらぬ誤解を招くがごとき言語挙動は厳に慎むべきことである。要は命あっての物種-なのだ。
余談だが当時我々悪たれどもが、ふざけ半分に銃口を向けて身構え打つ真似をされるとすこぶる気分が悪く、実にヤーなものである。時が時だけに尚更で、そのうえ「カチャカチャ」でも聞こうものならゾッとする。たとえそれが冗談と承知していても、弾丸が入っていないことがわかっていても-。

あんな時代は二度と御免だ

ところで厭な後日談がもう1つ続く。
敗戦後、多くの日本兵がソ連に連行され、この世の地獄を体験した話は、今尚残る語り草だが、全部が全部行った訳ではない。中隊によっては上官が兵に対し「行く先のアテのある者、希望する者は逃げろ」と逃亡を奨励(?)したらしい。現に親戚・知人を頼って逃げ込み、一般地方人に変身していた人はかなりいた。
それとは別に「ソ連行きなど真っ平」と、鞍山地区に駐屯する血気の一団が、武器・弾薬・食料持参で逃げ出し、千山に立てこもった。
「千山」とは鞍山駅のひとつ手前の駅で、そこの人里離れた一角に「千山」なる小高い山(岳)がある。樹木も茂り、由緒ありげな古寺や祠が散在し、風光明媚な名勝地だった。
最初のうちは何事もなかったが、食料が尽きるに及んではメイファーズ、心ならずも山を降りては田畑を荒らし食物を徴発し、果ては民家(中国人)を襲う羽目となる。たまりかねた住民はその筋に苦情を訴え、官警(中国人)がおっとり刀で山狩りを行うが、名だたる日本陸軍の敵ではない。その都度、逆にやり込められて散々の体たらく-といった按配で、処置ナシだった。
斯くてはならじと、軍(八路)が乗り出し、大々的な掃討戦を敢行することとなった。
さしもの日本軍も、武器・弾薬に限りがあり、激闘数時間、あわれ全滅の憂き目を見るに至ったと言う。
以上は後日聞いた話で、100%本当かどうか定かではないが、いずれにしても悲惨な話だった。
厭な後日談とはここからで--過日我々が、O.S君の若い命を散らしてまでも汗水流してセッセと貨車に積み込んだ「鞍山行き」の弾薬、実にこの鉄砲玉が千山攻略戦に使用されたのであった。
つまり--知らぬこととはいいながら--日本兵への攻撃を間接的に協力していたわけである。これには参った。
同じ日本人同士、お互い食わんが為、生きんが為の方便が、立場を異に対峙するとは--。
混乱期ならではの、何とも皮肉な運命で、後味の悪い後日談だった。

尚、当時あのパーロの格好で日本人に「俺は日本人だ、心配するな」と、いくら言っても、「日本語の上手な八路だわイ」と思われ、絶対信用されなかったのには閉口した。我が顔が共産匪賊にそっくりさんとは情けなや-

敗戦直後の混乱期。若気の至りの奇行・蛮行---いろいろあったわサ。

「じーちゃんの昭和」目次

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雪見風呂

週末の夜、久しぶりに「龍泉」に行ってきました。
村上・瀬波温泉には日帰り温泉施設として、瀬波ビューホテル系列の「龍泉」と、大観荘系列の「磐舟」があります。
もっともどちらも宿泊プランあり、またそれ以外の旅館でも日帰り温泉可能なので、厳密にはあんまり区別できませんけどね

うちは龍泉の方が近いこともあって(車で5分)いっつも龍泉の方に行ってます。
内風呂のほか、岩に囲まれた露天風呂が4つもあって、泡風呂あり滝風呂あり。以前は泡風呂、月替わりでレモン風呂や酒風呂とかやってくれてたんですけど、お手入れが大変なのか、なくなっちゃったのが残念。
お風呂の中の背もたれや椅子が天然の岩なのもいい感じ。シャンプーやソープがお茶石鹸なのも個人的にグー。シャワーもしょっぱくて、温泉の味がします。
大人840円、子供420円。現在、日曜日はファミリーデーということで、小学生以下無料です。

さて久しぶりに行ってみたら。
あらあら滝がなくなってる~ お茶石鹸が普通のになっちゃった~ なんか風情のないパイプがやたらぶっささってるわ~
というように、残念な変化が色々あって驚いたものの(何があったんだろう?)、気持ちよさは変わらずでした さーて雪かきでバリバリになった肩と腰をのんびりあっためてと

夜風に流れながらわきあがる真っ白な湯煙、黄金色の灯がお湯にゆれて、そこにチラチラ光りながら舞い降りるは雪。
は~。ばかパラダイスらこて~

併設の四川飯店で、芝エビスープそばやカニチャーハン、杏仁豆腐やタピオカココナツミルクなどをたらふく食べて(KKリクエストのアワビスープや、Uリクエストのフカヒレ姿煮なんぞは速攻却下)、ポカポカしながら帰りました~

テーマ : 新潟県 - ジャンル : 地域情報

やっぱりBJは面白い

昨日はKK10歳のお誕生日
KKリクエストのオムライスにエビフライ、ローストビーフ(フライパンと魚グリルで焼くだけ、ちょ~簡単)、デザートはかねてから予約済みの、モンスターハンターキャラのマジパンを乗っけたイチゴケーキ

プレゼントは、ママの独断で「ブラックジャック9巻」「火の鳥~未来編」「それいけズッコケ3人組」の3冊。どれもママが小学生の頃にハマったもの。
特に「火の鳥~未来編」の、「細胞の中に宇宙がある、宇宙は細胞のように構成されている」というあのシーンと、ナメクジによるグロテスクな未来シーンといったら!おそらくこれによってどっか考え方の根本に近い一部分が形成されたと思えるくらい、衝撃でした~~
「ブラックジャック」はなぜ9巻かといえば、単に一番収録話数が多かったから。そういやこの中に収録されてるセリフ
「そうだ できれば戦争中にお前を殺したかった。戦争では1人や2人殺しても罰せられん」
も、どっか根本の一部になってるな~。
KKもぜひ読んでみてね。そんで面白かったら続きを自分のお金でどんどん買って、ママに貸してね(←それが目当てかー!

と、書きたかったのはそのことではなく、そのプレゼントの1つ「ブラックジャック」巻末ページ。これにびっくり!
復刻判のコミックによくある、「このマンガには一部有色人種差別にあたる表現がありますが、それは時代のせいで他意はなく」みたいなページなんですが。
まあ私ら読者側は基本的に「これを人種差別とは受け取らない」というスタンス(じゃない人もいるからこその措置なんでしょうが)なので、文章もわりと形式的と言うか、「お約束」然とした印象なのが常でしたが、このたび買った2010年9月発行のコミック文庫「ブラックジャック」は、すごい!本気!

「不快感を覚え、侮辱されていると感じる人の声には真剣に耳を傾けねばならない」
「しかし人々の特徴をパロディ化するのはマンガのユーモアの重要な手法の一つ」
「(アフリカや東南アジアに限らず)多くの国の人間、さらには動植物や想像の世界までキャラクター化するのが手塚作品」
「さらには作者の自画像でさえ、鼻が実際より数倍大きく描かれている」
ここで、ベレー帽と黒縁メガネを着け、鼻にテンテンが描かれたあの「自画像」が即座に思い出せた人、あなたも手塚作品のファンですね こんなことまで必死に主張しなきゃいけないのかと、思わず笑ってしまったのですが

復刻版コミックによっては、吹き出しのセリフを全とっかえみたいな作品もあるので、こういう「言い訳」を載せつつそのまま手を入れずに作品を世に出すのは、作品に対する誠実さと思ってました。そもそも作品によっては、差別撤廃を訴えるために、いかに差別されていたかを描かなきゃいけない場合もありますしね。
なので、巻末ページに書いてあることはすべてごもっともなのですが、しかし
「私たちは日本の文化遺産と評価される作品を守っていく責務がある」
とまで言うか。なんかもう、すごいことになってますね

テーマ : 漫画の感想 - ジャンル : アニメ・コミック

八路軍からバックレろ!1

年が明けた3月頃だったと思う(昭和21年・満19歳)。
政府軍(国民党軍)が近くまで来ている情報が、そこここで囁かれ始め、世上騒然たるものがあった。
そろそろ「三行半」をたたきつける時期が来たようだ。元々共産匪賊に操を立てるつもりも、心中するつもりも更々ない。食うため半分面白半分、折を見て尻まくる魂胆あっての入隊(?)である。いつまでも八路に追随しているのは甚だヤバイ。
所属は違ったが、一緒に入隊した年長のSとAとともに、鞍山への逃亡計画を実行に移すこととした。「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」三十六計スタコラ逃げた。
道中は世上不穏な中、少々の危険を覚悟の上だったが、幸いにもさしたる難事も無く無事鞍山にたどり着いた。途中、日本人のアパートに立ち寄り、無宿一飯の恩義に預かった記憶がある。

余談だが行動をともにしたAは、色白くか細い小男だが、早稲田を出て軍隊に入り、中隊長(中尉)を務めた経歴の持ち主だ。頭と口は達者だがなんとアグラがかけず、女のごとく横崩れ型(?)で座るのを常としていた。「アグラをかくと後ろにひっくり返る」と言うから聞いたこっちはびっくり返る。あれでよく中隊長が務まったもんだ。

鞍山へ帰った俺は、兄貴の社宅に転がり込んだ。
何食わぬ顔をして一般人に化け、職もなければ金も無く、悶々たる日を送った。
例のTと街で2,3度会ったことがある。家へも遊びに来たり、街の屋台でおごってもらったこともあった。
今となっては例の一件には触れず、過ぎたことを蒸し返す野暮はしなかった。
Tもまたすこぶる神妙かつ好意的で、先輩に対する例は保たれていた。
聞けばさる親分の家に寄食し、その使い走りなどしているとのことだった。金回りもいいらしく、拳銃を懐に忍ばせて、相変わらず遊びまわっていた。
一緒にトンズラしてきた先輩Sとも2,3度会った。よせばいいのにS氏は依然として八路服(将校服)を着用し巾をきかせていた。彼は銃剣術の達人で、全満大会で優勝の経歴を持つ豪の者だったが、無類の酒好きで、金さえあればチャンチューをあおるのを無上の喜びとしていた。

その頃、日が暮れると戸外へは一歩も出られぬ物騒な時期だった。
人っ子一人通らぬ暗闇の晩、S氏と俺は一杯機嫌で屋台めぐりをしていた。俺は下戸だが飲むほどに酔うほどにだんだんと気勢が上がり、果ては天下御免の態となる。その時、背後から肩を叩くやつがいる。振り返ってぶったまげた。5、6人の八路兵が取り囲み、一歩下がって「カチャカチャ」と銃口を向けて身構えた。
この「カチャカチャ」なる音、字は知らぬが「コーカン」という操作とかで、つまり引き金引くひとつ手前、安全装置をはずし「発射オーライ」の操作と聞く。なんとも不気味な音で、身の毛がよだつ瞬間だ。
「あっ!!殺られる」と思った---と同時に全身の血の気が引くのがはっきりわかった。頭から下の方へスーッと冷たくなる。ほんのわずかな間だが生きた心地がしなかった。
巡邏兵(?)の長らしき奴が、なにやら大声で怒鳴っている。「手を挙げろ」ということらしい。
手を挙げると彼らが近寄り、ポケットその他をまさぐってくる。凶器がないのを確かめると、また何やらガナリたて、一同去っていった。「ウロチョロしないで早く帰れ」ということらしい。
「助かった」と安心すると同時に、引いた血が戻ってきて頭や体がポカポカした。「血が騒ぐ」とか「逆流する」とか、文字ではよく見るが本当のことだった。ほっとすると、脇の下がいやに冷やっこい。なんと冷や汗でぐっしょりしていた。「冷や汗」というが、さながら氷の水玉がポロッツポロッと零れ落ちるがごときものだった。たかが37度の体内から、あんな冷たい水玉の出るのが不思議でならない。
過去何度か冷や汗かいた覚えはあるが、この冷や汗は質量ともに過去最高のものだった。
(続く)

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

O君の死~続き

我々グループ一同、O.S君の遺体をリヤカーでオンボー屋に運び荼毘に付し、その夜は宿舎内で形ばかりの通夜を営んだ。
お通夜と言っても時節柄・場所柄、お経を上げるわけでもなし、花もロウソクもない。誰かが工面してきた線香だけの、侘しいものだった。

翌々日、O.S君の遺骨を鞍山在住の叔父御まで届けることとなり、今までの因縁からN、T、俺の3人がその任に当たることに決まった。
軍兵工場からはお悔やみ料としてか、現金数千円(当時としてはかなりの大金だった)と、コーリャン(下層階級の主食で、何キロか忘れたが一般家庭ではちょっともてあますほどの量だった)支給の目録を持っていく。
宮原から鞍山まで、歩いて2,3日はかかる距離だ。多少の不安がないではなかったが、軍から貰った「証明書」が強い味方となって、夜昼歩き通した。八路が占拠する駅で一晩寝た記憶がある。
さしたることもなく鞍山市にたどり着いた。その日は各自、思い思いに疲れを癒し、翌日先輩のYを介して4人でO.S家を訪れ一部始終を説明および遺骨を無事引き渡した。叔父御も我々の労をねぎらい、盛んな接待をしてくれた。

ところがだ---いざ金とコーリャン(目録)を渡す段になって、あろうことかTの奴、「前夜風呂場でその金を盗まれた」と言い出した。
この期に及んで---である。しかもどう見ても眉唾くさい。Nと俺、Yを交えて語気荒く問い詰めるが、Tは頑として「盗られた失くした」の一点張りである。
九分九厘Tのネコババに違いないのだが、なにぶんにも証拠のないこと、水掛け論で埒が明かない。さらばとポン友の開拓団くずれで、鉄砲玉の飛び交う中を度々くぐりぬけてきたつわものT.Aを連れて来て
「トコトンとっちめて泥を吐かしてくれ」
と頼んだが、結果は無駄骨に終わった。所詮は証拠のないこと、どうしようもない。と言って我々の才覚で工面できるほど、なまやさしい額ではない。
結局、Yを挟んでT本人とO.S家との三者面談で解決してくれと、Yに後事を託して、無責任だが手を引かせてもらった。

結局のところ、O.S家では大量のコーリャンは入手したが、金の方は宙に浮いてしまい、手にすることは出来なかったと思う。馬鹿を見たのは叔父御殿で、入金をアテにしてからの歓待だった(と思う)がアブ蜂取らずに終わったのは、なんとも申し訳なかった。

Tの奴は同窓の一年後輩だった。卒業後不良仲間に身を投じ、タチのよからぬ悪だったことは、この一件で知ったが、後の祭りだった。
混乱期の当時でも、いまだ年配者と若者、先輩と後輩間の仁義は健在で、彼も我々に対しては従順で礼も尽くし、不遜な態度・行動は見せなかった。
また、人間よくしたもの、悪は悪でも何かひとつ取り得はあるもので、どこで覚えたかTのペラペラの中国語には感心した。
混乱期の当時、中国語の話せる人は、対中国人関係で絶対の強みだった。危険な道中、万一の場合をおもんぱかって、中国語の達者なTに大金を預けたのだが、これが間違いだった。
この小悪党、この後にいずこともなく姿をくらまし、現地への復帰はしなかった。

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八路軍入隊!?~O君の死

11月頃だったか、天気のいい日だった。その日は朝から弾薬運搬のため、最寄の駅に駆り出された。八路がトラックで運んでくる木箱詰めの弾風を担いで、駅構内にある貨車への積み込み作業だった。
木箱にぎっしり詰まっている弾の重さはかなりのものだったが、そこは若さも手伝って、「鞍山行」と貼り紙されている弾箱を見て
「鞍山行きとは懐かしや」
などと言いながらセッセと運んで積み込んだ。これはのちに嫌な後日談となる。

夕闇迫る頃、ようやく作業も一段落したが、かなりの重労働で腹はペコペコ、体はクタクタだ。「さあ帰って飯だ」とばかり、一同20人くらい、全員立ったままトラック荷台に乗り込んだ。
正式資格があるのかないのかわからん八路の運転手が、フルスピードでむやみやたらと夕闇の中を突っ走る。へたくそな運転に加えて右側のライトが故障でつかないという、片目運転のおまけまでつくのだから無事ではすまない。ましてや人通りの多い夕暮れ時である。
果たせるかな、中国人の引く、荷物満載した馬車(ラバ車)と、右側面が衝突した。
「ドスーン」という音とショックで、右側荷台のアオリがはずれ、乗っていた右側半分の我々は何がなんだかわからんままおっぽりだされ、地面に叩きつけられた。
「ひでえことになりやがった」
と起き上がってみると、馬車は滅茶苦茶、散乱する積荷に取り巻く野次馬、八路の奴がやたらと鉄砲を空に向けてぶっ放す---など、蜂の巣をつついた有様だった。幸い中国人とラバは何事もなかった。
ふと我に返ると、体の方はかすり傷ひとつなかった。ただ上衣の腹部一面がガッポリえぐられて破れていたのにはびっくりした。
八路軍の一般兵の冬服は、国防色(カーキ色)で木綿の綿入れでできているので、防弾チョッキならぬ防荷チョッキの役割を果たしたらしい。猛スピードで走る車上から地面に投げ出されて、怪我のケの字もなかったのは、よくよくの幸運の一言に尽きる。
人間、運と不運は紙一重で、もしこの時トラックからほっぽり出されるタイミングがあと2,3秒遅かったなら、おそらく顔が馬車か積荷に叩きつけられ、命に別状はないまでも顔の造作がばらばらになり、ふた目と見られぬ様相に変形していたことは、服の様子から見て容易に察しがつく(もともとそういう顔だって?オキやがれ)。「悪運いまだ健在なり」を再確認した。

「やれやれ」と一息入れたところ、どこからともなく消え入るような声で「ヒーヒー」と泣き声が聞こえる。見ると運転席へのステップに立ったまましがみついている、1年後輩のO.Sである。
おそらく衝突の際、車と馬車の間に挟まったものと思われる。見たところ衣服など外見上は何の異常もない。地面に降ろしたが、立てず歩けず、ただ呻くだけ、足でも骨折したものらしい。
ともかく、先輩でもあり顔見知りでもあるNとTと俺、3人付き添って本鶏湖の会社の病院まで運んだ。
病院は、我々が勤めていた昭和製鉄(満州製鉄)の病院で、敗戦後はトップクラスの院長が中国人に替わっていたが、医師・看護婦などはそのまま業務を行っていた。

病院に着いた途端「手術だ」という。ついては輸血が必要とのことで、3人とも各々2~30c.c.血を採られた。
これではいまだ不足でもう1本採血したいと言われたが、こちらも朝からの重労働で疲労困憊、そのうえ晩飯にもありつけない惨状で、見かねた看護婦が勘弁してくれた。
手術に当たり「希望があれば立ち会ってくれ」と言われたが、目が回るほどの空腹時に手術見学もねえもんだと御免こうむった。物好きなTが立ち会って見ての話によれば、足の骨折かと思いきや、衣類を脱がせて驚いた。下腹部全体がズタズタにやられ腸が飛び出す惨状だった。大腸・小腸引っ張り出し、患部は切り捨て数箇所にわたって縫い合わせたとか---

何時間たったか-一応手術も無事終わり、痛々しい格好でO.Sが病室に戻ってきた。
うつろな目を開いてはいるが、むろん見えるはずもなく、無意識状態で荒く激しい呼吸をしながらベッド上でのた打ち回っている。
その日は我々3人が付き添いとして一夜を共にすることとなった。
付き添いと言ったところで何もすることはない。ただ騒ぎまわる患者がベッドから転げ落ちるのを防止するくらいのものである。それにしても腹へった-胃袋が騒ぎまわって処置ナシだ。怪我人も辛かろうが我々も辛い。

しばらくして、付添い人分として一人前の夕食が出るという。「地獄で仏」だ。一食分を三等分してムサボリ食った
元々病院から出る食事の量などたかが知れている。3匹の飢えた狼のごとき若者にとって物の数ではない。
食い終わるまでの時間が1分か2分か、とても胃袋を満足させるには程遠かったが、ともかく食い終わった3人、期せずしてため息ひとつ---。と---
「おや?」何かヘンだ。室内の空気が違う。今の今まで激しい息遣いでのたうっていたO.Sが、身動きひとつせず神妙に寝ているではないか---。
「??」と思って近寄り声をかけれど答えず、さすれど動けず、まったく反応がない。第一呼吸している様子がない。
「ありゃりゃ!!」
早速当直の看護婦を呼んだ。あわてて駆けつけた看護婦だが、時既に遅く万事休す。
あわれO.S花の18、無残な最期だった。

それにしても非道い話で、食うのに夢中でイマワの際を見届けてやれなかったとは-。
食い物の恨みは恐ろしい。わずか1,2分の間の急変だ。狐につままれた思いと慙愧の念で、しばし呆然立ち尽くすのみ---だった。

夜が明けた翌早朝、我々の窮状(すきっぱら)を察してか、当直の看護婦3人が街頭の立ち売りからいなりずしなど買ってきて我々に分け与え、6人一緒に食った。ただ、黙々と-
従来、看護婦は「白衣の天使」と呼ばれているが、この時の彼女らは「本当の天使」に見えた。

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八路軍入隊!?

終戦を迎えた昭和20年(満18歳)の、そろそろ寒くなりかけた10月下旬ごろ、八路軍が日本人に対して入隊の募集を行った。
魂消たものだが、後で進出してきた国府軍も同様のことをした。

このころ日本人のほとんどは、会社も閉鎖され収入の道も閉ざされ、たけのこ生活だった。
たけのこ生活のできる人はまだいい方で、剥ぐ物のない者は、中国人の経営する小規模な町工場や農家などへの出稼ぎで、細々と飢えをしのぐ有様だった。

匪賊集団の兵隊になど、心底なりたいわけもなく、ましてや共産主義に同調したわけでもない。第一共産主義などと言うものはまったく知らない。ただ食うための方便と面白半分で、同僚同輩20数人と応募した。
同じような身の上の人がけっこういるもので、血気の若者のみならず、かなり年配の人も含めて、総勢7~80人くらい集まった。
面接もなければ検査もなく、何かの大広間で歓迎会か入隊式か(?)の席に臨み、フルコースの中国料理をご馳走になった。

翌早朝、30人くらいずつグループに分散された。我々は貨車(無蓋車)に乗せられ、連れて行かれたのは宮原の兵工部だった。
大きな学校か何かの空屋に駐屯していた兵工部という連中だが、何人くらいいたのか何をやっていたのか全然わからない。およそ軍隊などと言うには程遠い、野合の集団だった。
隊長(?)は李という若い男で、日本語を話し、少々インテリ臭かったが、我々には好意的だった。その下に旧日本軍人崩れの中年男がいて、すべてその男の指示で行動した。
パーロとは寝食・作業などまったく別々で、元々食うだけが目的だった我々グループには大変好都合だった。

肝心の食い物といえば、大きな五右衛門風呂風鍋に、白菜、ネギ、豆腐に支那ソーメンと言われるシラタキ風のものなどに豚肉を入れ、さらに油を混入し岩塩でしょっぱくグタグタ煮た、汁とも煮付けともつかぬものがドンブリいっぱい、明けても暮れてもこれ一式である。
最初のうちは油のギトつきでうんざりしたが、慣れるに従いけっこういけた。だいいちそれよりほかに食う物もなく、食うや食わずやのこの時代、何を食ってもうまかった。
何よりもボロボロ飯ながら、まじりっけなしの白米を何杯でもおかわりできたのは幸いだった。当時の平均的日本人は、まじりっけなしの米飯に肉を毎日食っていた人など、そうはいなかったはずだ。

仕事と言えば別に決まったことをやるわけでもなく、その場その場の雑役だった。
最初のうちは大きな学校跡と思われる部屋に、旧日本軍が使用したと思える軍用品が山のように積まれていて、その整理などをさせられた。
軍用品と言っても武器はなく、めぼしい物は八路が使用し、残ったものは一山いくらのガラクタだけだったが、ただ木箱に詰められた弾丸だけはぎっしり山積みされていたのには驚いた。小銃弾をはじめ、サイズも大小色々、名称も知らぬ弾でかなりの量だった。

ある日この中に一丁の拳銃を発見した。
拳銃と言えば格好いいが、実は鞍馬天狗が持って現れそうな「種子島」然とした奴で、砲身が30センチもあり、手動6連(?)発の短銃で、お世辞にもスマートとは程遠い、無粋なシロモノだった。
こいつをちょっと失敬したが、大きすぎて拳銃の弾ではマにあわない。小銃弾を入れたところこれがドンピシャリである。
パーロや中国人に見つかるとヤバいので腰のベルト(ズボンの内側)に装着し、時折人目のないのを確かめ空に向けてぶっ放したが、これがまた何とも痛快だった。拳銃の「ターン、ターン」という玩具の音とは違い、「ズドーン、ズドーン」と手ごたえが違う。小銃弾だから音量も迫力も一枚上で、ある種の溜飲を下げるにはいくらかの効果があった。

この種の火炎銃砲などというものは、あれば一度は見てみたい、見れば一度は手にしたい、手にすりゃ一度はぶっぱなしたい-の図式は、野郎なら大方の一致するところだ。
「専守防衛」だから良いの合憲のとワメいている連中も多いが、一旦コトがおっぱじまれば、攻撃も防御も区別のつかないのが戦争だ。軍備も自衛隊も、無いに越したことはないのだが--。

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八路軍あらわる

ソ連軍が進駐してまもなく、通称「八路軍」と言われる集団が進出してきた。
正式名称は「東北人民自衛自治軍」という長ったらしい名前の、毛沢東指揮下の共産党軍である。当時、中華民国を代表するのは蒋介石の率いる国民党軍で(一名「正規軍」とも言われた)彼らから見る共産軍は「匪賊」とされていた。
当時の日本人は、八路軍を一般に字のとおり「パーロ」と呼び、この「パーロ」には大分苦しめられた。「時計と女」専門のロスケに対し、こちらパーロは金品専門だった。
もっとも山東あたりから出てきた本物のパーロ、即ち毛沢東から直接薫陶を受けた連中は、規則も厳しく統制も取れ、おそらく悪事は働かなかったと思う。彼らは戦闘中といえども決して農民の田畑には足を踏み入れなかったという。戦いも勇敢で強かったと聞く。始末の悪かったのは、終戦を機に一般から応募した速成のにわか兵だ。日本人に接していた奴らで、かつての恨みや、一挙に解放された成り上がりからの空威張りだった。
本物のパーロは質素で、風采も上がらぬ田舎丸出しの連中だったが、真面目で純朴だった。面白いのはゲートルを足の細い下部の方に2~3重余分に巻き、足の上下とも同じ太さにするもので、これが格好良かったものらしい。この巻いたゲートルの内側に箸2本差し込んでおくのを常としていた(携帯箸)

格好と言えば進駐当初のソ連軍も、変なおふれを出した。
「帽子のつばを取れ、ゲートルは巻くな、歩くときはばらばらに歩け」
戦時下の日本人は、一歩戸外へ出るときは必ず帽子(戦闘帽)をかぶり、通勤はもちろん、散歩・遊興でも必ずゲートルの着用を常とした。道行くときも、団体・グループ時はもちろん、ある程度頭数がまとまれば隊伍を組んで整然と歩いた。それらのクセが抜けきれない日本人が、ロスケやパーロの気に召さない、どうも日本陸軍人を連想するらしい(当時の着装具は頭のてっぺんから足のつま先までカーキ色一色だった)。
脚絆も巻かず三々五々、チャランポランと歩くのは気が楽で大賛成だが、帽子のつば除きには参った。つばを取り除いた戦闘帽は奴らソ連軍帽そっくりで、鼻が高く顔がゴツく大柄な奴らには粋な格好だが、日本人がコレを横っちょにかぶるとなんともサマにならん。さながら「支那手品」か「南方系コソ泥」然として締まらないことおびただしい。こればかりは勝手が悪く、早々にやめてしまった。

ソ連軍が引き揚げた後、しばらくは八路軍の天下が続いたが、半年後、徐々に形勢逆転し、いよいよ政府軍の鞍山市内への突入が目前に迫った。
市街戦でもおっぱじまったらコトだと一様に気をもんでいたが、作戦か予定の行動か、パーロの方が一戦を交えず順次前方の東方連山越えに総退却した。
ソ連軍引き揚げ後から、国・共双方とも、お互い相手に対する神経は、一方ならぬ異常なもので、道路の要所要所に検問所を設け、厳重な尋問、ボディーチェックなどを行っていた。すべて中国人が対象で、日本人はお構いナシだったのは有難かったが、日本人の間では、それとわかると質のよからぬ中国人からの被害を受けると警戒して、満服(中国服)を着て、あるいはなるべく粗末な格好をして変装するのが流行していた。
しかし政府軍が市内総攻撃の開始に際し、その前日、蒋介石御大の命令として、日本人に対し
「我々の敵は共産匪賊にある。日本人に対してはなんら危害を加えるものではない。従って日本人は日本人らしい格好をすること」
との通告があった。「中国人と間違われ、あらぬ疑いや被害を受けぬよう」との忠告である。
蒋大人の寛大な処置に感謝し、安心して中国服を脱ぎ戸外へ出て、東方連山麓をチョコマカ逃げ惑うパーロ兵に、追い討ちの大砲がドカンドカン破裂する様子を、拍手しながら見物した。

やがて無血入場してきた政府軍(国民党)の統治下となる。彼らはアメリカ方面からの援助の被服や装備で、すごくハイカラな連中から、わらじ履き半ズボンの土民兵もどきの集団と、服装はマチマチだった。しかしさすがは正規軍を名乗る手前、統制は取れ、ロスケやパーロと違い、日本人には好意的だった。

この期間中に引き揚げ移送が開始され、我々も21年8月、満州を後にするわけだが、引き揚げ後、再度共産軍が盛り返し、やがて全土を制圧し現在に至っている。
鞍山市は大会社があったため(ソ連軍の方針で)治安は比較的良く、国・共戦の渦中に巻き込まれることもなかったのは、不幸中の幸いだった。

ソ連兵の暴行や(その後連行された日本兵に対する非人道的な扱いを含め)八路兵の非行に鑑み、一部右翼方面の人たちが、ソ連(ならびに共産諸国)を忌み嫌う気持ちはうなずける。対照的に、国府軍が示した対応に蒋介石御大をトクとしている引揚者も多い。憎しみを超えた彼の温情に、一部の右翼のみならず、政府・有力者が台湾政府に好意を示すのも理解できる。

引き揚げに際し、心ある中国人が
「敗戦でも平和になった君たちは幸せだ。我々はこれからまた戦争だ(国・共戦)」
と、意味深に語った言葉が、妙に印象に残った。

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ハハ、シス

昭和8年4月5日(満7歳)、親父の手に引かれて入学式の場に臨み、晴れて小学1年生となった。
それから1週間後の12日昼頃、学校から帰ると母はコタツに入って迎えてくれた。俺はM家から頂いたという小魚型の駄菓子を食い、戸外へ遊びに出た。
薄暗くなりかけた夕方、家に入ると床に寝たままの母は異常な大いびきをかいていて、これには魂消た。親父のいびきは慣れっこだが、母のいびきなど聞いたことがない。しかも雷のごとき大音響だからタダ事ならじと不吉な予感がした。
分けても不審なのは、いびきの合間に「トントン・コロコロ」と銀の玉が転がるような・・・その玉が潰れるような・・・言語では言い表せぬ奇妙で不快な音を発するのである。もちろん、呼べど答えずゆすれど応ぜずの反応なし。おそらく半分死にかけているのだろうと空恐ろしくなり、行きつけのK家に行った。

行ったもののここが不可解なところで、あの心境は今もって解せぬ。「実は今、母がカクカクシカジカ」と話すべきところを、恐ろしいのと恥ずかしいのとで口が開かんのである。何食わぬ顔でいることしばし、やがて家から使いが来た。
「今しがた母が息を引き取った」
と-
苦難の末、誰からも見取られることなく、無情の風に誘われて一人寂しく逝った母は不憫だった。最期のその場に居合わせながら見捨てた俺は相当な罪深い子だった。母が死んでも別段、哀しくも寂しくもなかったのだから余計悪い。

後年、兄姉たちがよく口にしていたもんだ。
「かわいそうだはこの子でござる-母親の愛情も、家庭の温かさも知らずに育った哀れな奴-」
生前母が、出来損ないのこの俺が唯一の気がかりで、体の具合で何も出来ないこの身が恨めしい、と嘆いたいたと聞く。
この親兄弟の思いやりと甘やかしで、俺のその後の人生がますますいい加減になったことは間違いない。

事実俺には、肌で感ずる母とのふれあいや、一家団欒のぬくもりなど、一切無縁のものだった。
「田吾作やー、マンマだどー」
「ジンジロベーいつまで遊んどる、はよ帰って飯食わんかー」
夕飯時になると呼び出しが来る。遊びの輪から1人減り2人減り、最後に残るのは俺1人である。俺にはいつになっても迎えは来ない。ネグラに帰るカラスの群れをポカーンと眺めているのが毎度のことだった。
親父は俺が登校後に家を出て、日が暮れてもなかなか帰らない。生活の糧を得るためには、足手まといになる子供ばかりにかまっていられぬ側面もあった。
「そのうち帰るだろう」と近所をぶらぶらして、家を見下ろせるS家の前に立つと、家の明かりはついてない。
「まだ帰ってない」もう一巡りとぶらぶら歩く。近所の家々の窓には明かりがともり、ガヤガヤ話し声が聞こえる。楽しい夕餉のひと時だ。うらやましさ半分、情けなさ半分、沈んだ心で夜道を歩く。
「今度こそは」とS家の前に立つと、依然として我が家は真っ暗け。ガックリしょんぼり奈落の底に突き落とされた気分だ。
何回かぐるぐる廻った後、我が家に灯がついていたときの喜びは例えようがない。散々待ちわびた挙句でも、帰った親父にはひとことの苦情も言わなかった。ただ、うれしさいっぱいで-

春や夏はまだしも、これが秋風吹いて木枯らしが雪に変わる頃ともなれば、ひときわ切ない物語、である。
待って待って立ち尽くしても、必ず帰るとは限らない。外泊する日もたびたびだったからだ。あきらめてトボトボ帰るふぜいは哀れなもので、降る雪よりも心の方が寒かった。
そんな時、最後に行くのが決まってK家だった。K家の人も心得たもので
「またか-持ち金全部なくならねば帰ってこんよぉ。まあ上がれー飯食えー」
と笑って迎えてくれた。
当時の田舎は人情こまやか、親近感にあふれていた。K家の子供たちと年中遊びK家に出入りし、飯を食ったり泊まったり、時にはK家から登校したのも1度や2度ではなく、言語に尽くせぬお世話になった。今もってK家には足を向けては寝られない。

それにしても、日が暮れると家の中に入れなかったとはおかしな話である。いかにアバラヤとはいえ、生まれ育った家である。夜道をふらふら歩く分には何の恐怖も不安もないものが、我が家となると怖くて入れないのだから始末が悪い。後年の放浪癖も、ここら辺に遠因があるのかもしれん。
もっとも、一家の団欒もなければ憩いの場ともならぬ家など、何の魅力もなかったとしても無理はない。よしんば家に入っても、スイッチを押せば電気が、蛇口をひねれば水が、ガス栓開けばガスが出る、冷蔵庫開ければ何かしら入ってる-ような時代とは時代が違う。囲炉裏で焚き木を燃やし、鍋をつるして又は七輪で炭火をおこして煮炊きするにはあまりにも歳が若く、第一お菜が全然なかった。

一方、親父待ち待ち日が暮れて、夜の巷をさ迷い歩くのも度重なれば、昼とは違った風情がある。月も照れば星も瞬き、時によっては雲も綺麗で、四季折々の趣がある。第一、夜間では殺風景な雑物が目に入らず、無限の広がりを感じさせる。人目もなければ気兼ねも要らず、何ものにも束縛されぬ自由?の天地がある。暗闇の向こうには「何か」があるような希望さえ抱かせる。
夢のある夜の世界は格別で(昼間は現実)すっかり夜遊び大好き人間となってしまった。ドロボウ家業にでも就いていたら、案外成功していたかもしれない

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純情可憐な幼少時代

物心ついてからの我が家は、母親がいても寝たきり同然の身、上の兄姉3人は成人して近郷の農家へ出稼ぎまたは兵役で不在、年に一度顔を見せる程度で、親父と2人きりのさびしいものだった。実際、親父を除く親兄姉とは何の交流もふれあいもなく、母親の二文字は知っていたが、いわゆる「母親」は存在しなかった。

戸外での肉体労働しか能のない親父の、いい加減な家事で育てられた俺は、俗に言う親父っ子であった。親父いなけりゃ夜も陽も明けず、どこへ行くにも金魚のフン、冠婚葬祭その他雑用の日雇いにもついて行き、晩飯は2人でご馳走になった。
祝言で貰って帰る折り詰めや、不祝儀の俗称「葬式饅頭」などは最高の楽しみだった。紅白の寒天やかまぼこ、黄色いナルトのきれっぱしが入っている折り詰めはこの世の最高級品で、現在のマツタケやフグの比ではなかった。

隣の新発田、中条などには自転車に乗せられてちょいちょい行った。それがまた、運悪く駐在(警察)にしょっちゅう見つかり、その都度、お目玉、説教、時には罰金を取られた。1日2~3回乗り合いバスに貨物自動車とその外では馬車かリヤカーが通る閑散とした田舎道で、自転車の2人乗りはことのほか厳しかった。現今の都会の状況に照らし不思議でならない。

警察の目をごまかし、2人乗りで近郷近在の催しにも数回お供をしたが、中に近所の連中が額をあわせてニヤニヤと話の種に上る催しがあった。×歳以下入場お断りのイワクつきだったが、後年考えるにどうも「衛星博覧会」のごとき物だったようだ。「素っ裸の姉ちゃんが寝そべっている等身大の人形」のワンカット以外、全然記憶にない。
「女角力」の触れ込みで見た角力も、果たして女がふんどし〆て相撲を取ったかどうか覚えてない。
草競馬も見たが、馬がかけっこしているだけ(当たり前)だけで何の興味もなかった。そもそも珍しくもない農耕馬を見るのに大勢の人が集まるのが不思議だった。
以上3つはおぼろげながら思い出に残るほんの一場面だが、普通子供ではお目にかかれなかったモノだけに、もっとよく見ておくべきだったと、7~8年経って後悔したものだ。

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俺、誕生

母は十余人の兄弟姉妹のバッチ娘(末娘)であった。
父は豪雪で知られる能生あたりの出身である。父の戸籍謄本を見ると父親の名が記されていない。母親サンの連れ子で、昔で言う「私生児」だったらしい。出だしからして多難な前途を漂わせている
そのせいか父は若くして家を飛び出し、無頼の徒に身を投じ、土方を職業として他県を転々と流れ歩いた。事実浅草で撮ったというカンカン帽を横っちょにかぶり、分厚い本を小脇に抱え、着流しで粋な格好の写真を見た覚えがある。
米坂線の工事、加治川堤防の工事や桜苗木の植え付けなどにも参加したらしい。上越線がなかった当時、東京から新潟まで歩いたと聞いた。
当時の我が村ではよほどの大農家は別として、小作農の家ではその片手間に娘やおっかあ連が近くの土木作業=ヨイトマケ等に就労することがしばしばあったらしい。我が母もこのアルバイトに行って桜を植えていたところ、父に出会ったのである。
桜が取り持つ縁で2人は互いに想い想われる仲となった。桜をバックに恋を語り合うなど、ガラにもなく気が利いている。当然の成り行きで話は結婚へと進んでゆく。
が、母の生家は至って実直で堅物。末娘の結婚話については一様に、相手男の氏素性その人柄に対して全幅の不信を捨てきれず反対の大合唱だった。
四面楚歌、周囲の反対にもかかわらず当人同士の絆は固く、時既に彼女の体内には愛の結晶とやらが宿っていたのであった。
ここに至っては詮方なし、さしもの反対側もしぶしぶながら引き下がるしかなく、帰る場のない男の方が入り婿となり、まずはめでたく一件落着の運びとなった。
それにしても我が父母もなかなかヤルものである。当時結婚と言えば見合い結婚と限られていた。見合いと言ってもほとんど見合わず、結婚翌朝になって初めて婿殿の顔を見たとか、初めて見たその顔が見合い写真とは似ても似つかぬ別人のようなくずれ方だったとか-甚だしいのは当人同士は相手のことは一切知らず、親が一存で決めた婚約者にそのまま従ったとか-が当たり前の時代であり風土でもあった。
こうした状況の中にあって我が親たちは、時代の先端を行く恋愛結婚を、しかも周囲の反対を押し切ってやってのけたのである。偉いというか図々しいというか、その根性たるや見上げたものである。
念願かなって一緒になった2人だが、田地田畑があるわけでなし、祝福されて世帯を持ったわけでもない。周囲の白目にさらされての生活は平坦なものではなかった。
父の本業としてきた「土方」などというものは、今日はこっち明日はあっちと、工事ごとに現場を流れ歩いてこそ花も実もある商売である。田畑のない家にのほほんと、家庭の人に納まっていては生活が成り立たない土地柄だった。従って経済的には極めて厳しく辛いものだった事は容易に想像できる。
しかもその苦しい生活の中にあって次々と6人の子供を製作した。その方ばかりは別物らしい。
長男、長女、次女はつつがなく成長したが、三男、四男は5,6歳の頃、百日風邪が原因で亡くなった。当時の田舎では医者も薬もなく、あったところでそれに費やす金がなければ、病気になったら死ぬより他に仕様がなかった。三女は生まれてすぐ死んだという。おかげで今もって「名無しのゴンベエ」である。
続けて3人育って3人死んだ。生活苦もあり区切りのいいところで2人は打ち止めとした。
ところがーどう間違ったか7番目の子が出来てしまった。が、元々欲しくて出来た子でもなし、前例もあることで「遠からずこの子も死ぬだろう」とロクな育児もしなかった。否、したくとも先立つモノがないのが本音だった。
悪いことにその子を産み落としてすぐ母が高熱で倒れ、挙句の果てに半身不随の寝たきりの身となってしまった。乳も出なければ、ミルクなどという気の利いた物もない-あっても手が出ない。お粗末な「生活の知恵」で、米のとぎ汁やスリコギですった米汁などをば与えて急場をしのいだ。その赤子はさぞ目を白黒させて飲んだことであろう。
子供は望んで生まれたわけではない。初手から期待もされずほったらかされて育ったのは災難だったが、その分気楽な立場でもあった。
世の中とは皮肉なもので「蝶よ花よ」と育てられて早く死ぬ子もあれば、「トンボよ蛙よ」とほっぽりぱなされても図々しく育つ子もいる。この「蛙やでんでんむし」でスクスクと因果を背負って成長したのがかくいう俺なのである。

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本の街・新発田

今年はKK&Uも大きくなり、帰省時はず~っとジジババと遊んでいたので、親は手が離れて大変ラク~~~なお正月でした~(ジジババお疲れ!
ダンナと「なんか今年はTVと本をいっぱい見れたよな~」とシミジミ

新発田に帰省した時、よく寄る本屋さんが「コメリ書房」。
昔はコメリ跡地だったのですが、去年、本屋として復活してるのを発見!
なんでまた、よりによって先細り産業っぽい本屋さんをあえて選択??と、その蛮勇に敬意を表して入ってみたら、これがすごい!!新発田の紀伊国屋書店と言っても過言ではない!!(←半分はJAROだけど半分はホント)
それまでは、グリーンコートウオロク向かいの栄佳堂書店が一番と思ってましたが、軽くけり落として堂々1位です 栄佳堂は、雑誌や郷土系は多いけど、普通の文庫やハードカバーがちょっと品薄なのよね;
ちなみにコメリ書房、店舗は今んとこ柏崎と新発田のみだそうです。このまま長続きしてくれると良いのだけど。

中高生の頃の新発田は、私にとって「本の街」でした。
当時はまだマンガもビニール被ってない頃で。
休みの日には、お昼を食べたら自転車に乗って(冬は歩きで)本屋さん周遊。
1時間くらい立ち読みしてると、さすがに罪悪感が芽生えるので、次の本屋さんへ向かうわけですが、半日は立ち読みの旅が続けられるほど、本屋さんは町じゅうにありました。
当時は大通りにあった栄佳堂書店でマンガ10冊くらい読んだら、成文堂書店(だったかな?もはやうろ覚え)にも寄り道して、次のまりも書店では心ゆくまで。
ついでに隣の四季でレコード見て、麦ばたけでスイートポテトパイも買って。
「古本を定価で売るお店」万松堂もちょろっと流し見して(あれだけ一等地であれだけのスペースがありながら、教科書買うしか用がないという本屋さん。にもかかわらず決して潰れないという謎のお店
さらに北上して一精堂書店で続きを読破し、古本屋のあらい堂では立ち読みの傍ら、めぼしい古本を大量購入。この近くにはもう1軒、古書に強い古本屋さんもあったっけ。
たまには足を延ばしてぽぷらまで行って。あの頃まだ出来たばっかりで、本もいっぱいあったのよね。
帰る頃にはもう暗くなってて。

いや~体力あったなあ
今ではほとんどが思い出とシャッターになっちゃった、本の街。

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年末びっくりしたこと

あけましておめでとうございます。

年頭1発目の話は、去年知って驚いたちょ~~どーでもいいこと。
去年のうちに書くつもりだったのに、気づいたら年明けてたというダハハ

ちょ~~どーでもいい驚きその1
こないだ「デスノート」読み返してたら、2009年紅白歌合戦のシーンで、司会の清楚・高田が
「2010年の大河ドラマ「坂本竜馬」の~」
って言っててビックリ!
って今更ですか?ですよねえ~~~ しかも「竜馬伝」なんか総集編見ただけで終わっちゃったし(「ほたえな!」がカッコよかったですね♪)
ちなみにマンガ発行は2006年。これは偶然かしら?それともNHKにデスノートファンがいたのかしら??
 
ちょ~~どーでもいい驚きその2
NHK教育で放映してるアニメ「バクマン」。
もともとダンナとKKが好きで、私は流し見程度だったんですが、年末の一挙大放送を見てたら、ええっこれ原作が「デスノート」コンビじゃないですかあ!!
って今更ですか?ですよねえ~~~ いや~しかしうれしいわ~「デスノート」大好きだったもんで。
そう知って見てみると、エンディングのシルエットなんかほとんどライトとLに見えてきて あの2人が転生して仲良く肩を並べて走ってるみたいで、これまたうれしいわ~~
話も俄然面白く思えてきて「俺らが面白いって言ってる時は鼻で笑ってたくせに」とダンナに突っ込まれつつ、4時間くらいぶっ続けで見ちゃいました。
話そのものも面白いけど、細かいギャグもまた面白いですね。通行人役で「メリーちゃん」って犬を連れた紫の毛皮婦人が出てきてたけど、あれは安全地帯・玉置のパロディじゃないかしら?とか(詳しくはナンシー関の本をどうぞ)
「デスノート」ではネーム段階でほとんどボツにされたという(笑)原作者の細かいギャグが今度は残ってる感じ。

「バクマン」は「デスノート」と違って(?)、わりと少年ジャンプの王道、すなわち「友情と戦い」がテーマ。
が、その舞台は少年ジャンプそのもの、友情=マンガ原作者と作画担当、戦い=賞取り(から連載を勝ち取るまで)という、いわば現代版「まんが道」。
その、王道でありつつも内実バクロ系な内容がまず面白い。「サルまん」の感動を思い出すというか。
絵が素晴らしいのでリアリティに拍車がかかるのも「デスノート」同様です。あ~ほんとうれしいわ~このコンビのマンガをまた見れて。
主人公2人もまた「明るく健全な高校生」という王道キャラでありつつもリアルでグー
王道をリアルに描ける作者って、人間性の根っこがしっかりしてるような気がして、信頼感が増します。
そう、この年末番組で一番興味シンシンだったのが「作者を直撃!」という新聞の見出しだったのですが、な~んだ手元とFAXだけじゃん
でも大場つぐみさんの直筆を見れたのはうれしかったな~~

次回はいよいよ天才ライバル(私の中では「メロ」)と主人公たちが初顔合わせ。これからの展開に乞うご期待!
ってマンガじゃとっくに「今更」だろうけど

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