八重の桜・好きなキャラ&シーンリターンズ

好きなシーン&キャラをごった混ぜにして、ベスト10
正直、6位以下20位くらいまでは、ほとんど順不同、さらに5位以上でも個人キャラじゃなく団体で入ってたりしてなんだかななリストですがほんとに決まらなくて
できればキャラすべての皆様に花束を捧げたいのですが、書ききれないので無理やり10コに

1位:山川大蔵
「あなたは・・・会津そのものだから!」とめっちゃオーバーアクションで言ってた大蔵こそが、いつしか会津そのものになっちゃってたとゆう ミイラ取りがミイラ状態?
そんな感じでミイラになったり、一人カッコよく洋装で駆けつけて「なんじゃあその格好は」と目を剥かれたり(しかし意に介さず洋装を貫く)、そのくせ一番カッコいい見せ場シーンはことごとく削られたり、自ら彼岸獅子を踊る気マンマンだったりe.t.c.と、実際の大蔵と、演じる玉鉄さんと、ドラマでの扱われ方が見事にミックスして、あんましよく知らない人だったのですが、いつの間にか、豪快さと愛嬌と哀愁を兼ね備えた私的愛すべきキャラ№1になってました 
豪快さんであると同時に「知恵山川」と呼ばれるほどの頭脳。身は新政府の陸軍に置いて、おそらくネチネチ言われながら出世街道を驀進しつつ、プライベートではもう会津藩もなくなって役職からも解放されたのに「元会津藩家老」を貫いて会津人たちの面倒を見る生涯、・・・なななんという萌え設定 この人の一代記を見たい!と激しく思いました。個人的には西南戦争の恩賞時ですら「賊軍出身なんだから死ぬ気で働けよ。つか死んでいいよ(意訳)」とネチネチ言われるシーン及びその後大山への「会津の気持ちがお分かりいただけたかな?」シーン、及び西南戦争で西郷を通して「メインテーマの中で会津魂を叫ぶ」のシーンがたまりませんでした!ドラマでは八重ちゃんが会津を背負う役目を降りちゃったので、その分この人の肩に会津の心情すべてがかかっちゃって、その意味でも本当にお疲れ様でした山川玉鉄m()m  

2位:おとっつぁま&会津のおやじたち
「そもそも、そもそも会津には、なんも、なーーーんも非はねえんだ」
言葉を二度重ねたのは、おそらく松重さんのアドリブだと思うのですが、それが普段口ベタなおとっつぁまの心境ダダモレという感じで、グッと心をつかまれたシーンでした。そもそも、そもそもこれは風評被害まっさかりの頃の福島県民の心境を代弁してくれたようなセリフってこともあり。
おとっつぁまだけでなく、この大河は「昔かたぎのオヤジたち」の魅力が素晴らしかったドラマでした。それに気づいたのは、私的今作好きなシーン№1「八重の就職がポシャった時、羽織の紐を結びかけたまま時間が止まるおとっつぁまの姿」でしたがその他にも「お前らに会津は渡さねーーっ」と最期の槍を構える黒河内先生の郷土愛、「切るか」とサバっと言っちゃう神保&田中土佐の、武士としての年輪、「ほんとは女の方がいいけどな」と、相手の身を案じる時にはくっだらない冗談を交えずにはいられない林権助のテレ、「こんないい役目をお前らに譲れるか」と笑ってみせる萱野の気遣いe.t.c....うちのおとっつぁまは昭和2年生まれなんですが、まさにこのオヤジたちを地で行くような、無口でテレ屋で独自のダンディズムみたいなのを持っていて、反骨精神旺盛なんだけど人を気遣うあまり遠慮しーで、それらがミックスされた結果オチャメで笑えるというそういう感じのオヤジだったので、会津のオヤジたちがすごく「懐かしい人々」という感じに映りました
特に神保&土佐の自刃シーン、「生まれ変わってもまた会津で」はよかった!!日新館で什の仲間だった時代(←妄想設定)、湯川に飛び込んで鯉取ったりしてた2人の姿(←妄想設定)が思い浮かんで 個人的には、以前は仲良く語らってた頼母に対し神保が「京都にいなかったお前に何がわかる」と静かに言うシーンも、ターニングポイントとして忘れられないシーンです。

3位:殿
総合3位ですが、「キャラの成りきり度」としては堂々1位!!今作はとにかくキャスティングが絶妙だったと思うのですが、その中でも群を抜いて成り切ってる、容保公そのものだったと思います。あの陣羽織姿はもう「本人近影」として鶴ヶ城で売ってもバレないレベルだと 慶喜に裏切られた時、呆然としながら「大君の義・・・」とつぶやくアドリブシーンは、「憑依している」以外の何者でもありませんでした。綾野さんの演技のおかげで、会津の苦悩がすごい説得力持って迫ってきたのもさることながら、ここまで気合入れて演じて下さったことそのものが、本当にうれしくも感動でしたm()m

4位:ジョー
「キャラのなりきり度」堂々2位!!この人のことは放映前「ジョーの生まれ変わりだ。絶対ハマる」と言いつつもハマるかどうか不安だったのでその意味でも「ここまでハマるか」といううれしさと感動がありました。この人はやっぱし、悪ぶった役より虐げられる役とかの方が光を放つんじゃないかしらん?元々が濡れた子犬のような目だし
ちなみに私の生まれ変わり説は、「オダジョーの前世は江戸時代、海外で勉強をしたくて日本を脱出した武士。その後哲学を修めて日本に戻ってきた」「その前はイタリアの修道士で、「海外協力隊になりたい」とか「弱い者を助けたい」という気持ちが強いのもそのせい」という、オーラの泉での鑑定結果によるものですが最近、ご本人のインタビューから「僕がアメリカに留学したのは、新島襄と同じ年の頃なんですよね~」という生まれ変わり発言をまた1つゲットしました(まだ言うか

5位:西郷千恵&会津のおなごたち
キナくさくなる中、「塩蔵は大丈夫か」といった冷静な判断力により常に女たちの精神的支柱となり続けた照姫はじめ、「家老の娘が率先して働かないでどうする」と、悲しむ娘をあえて叱りつける山川母、それで立ち上がる二葉さん、壮絶な最期を遂げたお登勢さんや神保雪や中野竹子、山本家やその近所のおなごたち、いつも優しかったお吉e.t.c...会津の強く優しいおなごたちに、ここでまとめて花束を 「降伏」の文字をどうしても書けない二葉さんと一気に書く照姫はとりわけよかったです
が、中でも思い出すのは、自刃する時の西郷千恵。「今日は何をするのですか?」と思わぬムジャキ爆弾を投げつけられて、「・・・いい~~い処へ行くんだよ~~~」と、声を裏返らせながら笑顔で答える千恵さんがもう・・・私的・会津戦争を象徴するシーン№1です。
(ちなみにUの小学校では、千恵の辞世の句にメロディがついて伝わってます。U@小1がブロックとかで遊びながら「な~よおた~けえの~~」と口ずさんでる光景はけっこうシュール) 

6位:斎藤一&オニカン
私的には2人とも、この大河で知ったようなもんです。なので他の作品によるイメージがなかったのですが、そんな真っ白状態の目には、カッコよかった!!ドラゴンアッシュも獅童さんもハマって見えました
斉藤一はやっぱり新撰組時代、池田屋事件あたりの頃がよかったですね~野良犬ぽくて。新撰組といえば、この事件の時に土方が「現場の人間」として極めてクールに会津藩に相対するところ、及びそんな土方をして後に「さすがは会津藩士の子弟だ。俺たちが同じ年の頃は悪さばっかりしてた」「ここの殿様はいい人だ」等々言うようになってて、新撰組と会津藩の間にうっすら通じ合うものが芽生えたあたりで退場するのもよかったです。
オニカンもまた、野良犬斎藤に負けず劣らずの野性味あふれるキャラなのがよかったですね~、田舎のヤンキーみたいで しかし慶喜へのあてつけ舞いとか、じりじりと大山に近づいていくところとか、ここぞという時にピシッとキマって雰囲気満点なのは、さすが伝統芸能

7位:徳川慶喜
総合7位ですが、キャラなりきり度は堂々3位!!個人的に、この大河のキャスティングの絶妙さを確信したのは、この人を見た時でした(殿だけだとまだマグレかなと) 小泉Jr.の、造りは決して悪くないのに、どこか薄っぺらさがつきまとう外面、でありつつもう1~2枚は皮かぶってそうな底知れなさ、しかし根っからの悪人とも見えない雰囲気e.t.c.などが、二心殿にジャストフィット タイプはまったく違いますが、やはり偉大な父を持ちつつ自身はボンクラと言われ続けた長島Jr.を思い出します 慶喜もそうですが、家名に縛られすぎて、ハタ目にはどれほど家名の重みをわかってるのかとすら思わせる飄々とした佇まいが共通してるような気が。

8位:尚さん
実は私、尚さんには特に思い入れはないのですが(好感はあるけど大蔵ほど心をつかまれず)、好き嫌い度とは関係なく、この大河で忘れちゃいけない人だと。この大河の大きな意義が、無実の罪を背負ったまま歴史に名前も残さず、ひっそりと亡くなっていった川崎尚之助という人に光を当てたことですもんね(同時に、歴史にうずもれて消えた人が他にもいっぱいいたんだろうということにも思いを至らせ)。
長谷川さんの、清潔でペラペラとしたしゃべり方、及びどっか色気のある佇まいも、尚さんにぴったりだったと思います。相方が、当時は無骨で泥臭いあんつぁまだったのも、お互い引き立てあってベストコンビでしたね。って八重ちゃんでなくあんつぁまを相方扱い

9位:徳富兄弟
京都編をもやもやっとさせたまま終わらせた要因2人。これはそのまま、京都編=明治編の息吹を伝える存在でもあったということだと思います。明治という時代に対する、強く明るい光射すイメージと、その分確実に色濃く存在する影。久栄ちゃんとか徳富姉とか、時代の息吹を伝える存在は他にもいましたが、一番それを思わせるキャラということで。
幕末~明治という変換期の中で、殿への忠義心をゴッド信仰に置き換えて、迫害されつつ学ぶ場所を見つけた熊本バンド。その中で、新島襄の理念に感銘を受けて成長しつつも、新時代の空気を若さゆえにかもろに吸収して、やがて「新しくできた近代国家」ならではの、国家主義と個人主義という左右の道に分かれていく徳富兄弟。しかしその対立の底には(主に蘆花による)いつの時代も変わらない極めて人間くさいコンプレックスが・・・なんて、つくづく面白い存在ですね~~~。山川大蔵に引き続き、大河で見たい登場人物です。しかし今作での徳富蘇峰は、山川健次郎と並んでいつまでも若々しいキャラでしたね~。最後まで新聞社の使いっぱ少年みたいなルックスでした

10位:二本松少年隊
これまた尚さんと同じく、好き嫌い以上にこの大河で忘れちゃいけない存在だったという理由により。白虎隊はすごーく有名ですけど、二本松少年隊はその影に隠れ気味で、ドラマでこんなにフィーチャーされたのは、ほとんど初めてなんじゃないかしらん?
実際NHKの試みどおり(?)二本松少年隊のシーンは今でもかなり忘れられないものになってます。八重ちゃんに死の達磨をもらって「あ~お前ズル~~」みたいな歓声が聞こえてくるといったムジャキ爆弾から始まって、蜂の巣になって死んでく若先生とか、自分の刀が抜けないので死んだ友人の背中から刀を取ってとか、子供に斬られながら「子供を殺すな」と言い続けて死んでいく敵兵とか、一つ一つのシーンがどれも印象深かったという感じ。彼らが登場した後だと、白虎隊が「インターハイ出場に沸く高校生男子」くらいお兄さんに見えたのも新鮮でした(白虎隊が、お城に向かって拝礼するのも個人的に好きなシーンでした)

と、やっぱし会津編に偏った結果になってしまいましたがm()m
槇村はじめ、岩倉、木戸、そして西郷等々、キャスティングの妙があいまって好きだった登場人物は他にもいっぱいいるのですが、キリがないので 主人公八重ちゃんも残念ながらm()m いや八重ちゃんの、篭城戦前後の演説2種は、個人的好きなシーンベスト5には入るんですけどね~。
八重ちゃんも残念だったけど、個人的に一番残念なのは大山&捨松カップル。特に捨松なんか、華のある役どころなだけに、照姫様ばりの存在感があったら、たまに出るだけで「おお今日は捨松が見れた♪」とうれしいキャラになったかもしれないのに、無念。やっぱしこの2人は、日本でも会津でも異邦人なままの捨松と、そこを救い上げた外国かぶれ・大山との心の通じ合い、及び官軍賊軍としての口喧嘩みたいなのも、もちょっと描いた方が印象深く、かつ感情移入しやすく「出てきたらうれしい」カップルになったと思うなあ。腕相撲なんかで逃げずに。

最後に、思ったことをつらつらと。
自身も学生時代に洗礼を受けて以来キリスト教徒である曾野綾子さんは「キリスト教的善悪と人間社会における善悪は違う」とおっしゃってます。
すなわち、神と人間は垂直に繋がっている、人間と人間は水平に繋がっている。垂直に繋げているのがキリスト教的価値観(善悪)で、水平に繋げているのが人間社会の常識・法整備等(善悪)。
その善悪にはどうしてもズレが生じる場合があって、例えば神には「善」として許されることも、人間社会では罪として罰せられることもあるし、逆に人間社会では大いに褒め称えられることも、神から見れば許されないこともあると。
神とか信じない私から見ると、「神様なんて、社会をうまく循環させるために人間によって作り出されたものなんだろうに、そこにズレが生じるのが面白いよな~」と、その皮肉さが面白いばかりなんですが、それはともかく。
で、幕末の新政府と会津も、この構図に当てはめることができるな~と。人間社会の水平価値観に従ったのが新政府側で、神との垂直価値観に従ったのが会津という具合に。
司馬遼さんは容保公のことを「宗教団体の跡継ぎになったようなもの」と評されてましたが、納得です。「どちらにも義はあった」って覚馬は言ってて、それはそのとおりなんですが、もうちょっと言うと「義」のステージが違うんですよね。比べようがないというか、神の判断を至上のものとして判断しても人間社会には都合が悪いし、人間社会の法や常識で判断しても判断しきれないし、という。その思い、言ってみれば、「個人の倫理と社会の善悪の齟齬」を、キリスト教徒でなくても人間社会に生きる者は大なり小なり感じているので、この会津藩の物語がいまだ語られ続けているっていうことが、あるんでしょうね。幕末会津(に限らず、戦争などの非常時)は、この齟齬を凝縮して体現したようなもんだから。
ともあれ1年間、興味深く見た大河ドラマでした。改めて皆様ありがとうございましたm()m
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八重の桜・好きなキャラ&シーン

「僕はカットしたくない。全部が大事なシーンのセリフだから。これが収まる速いテンポで撮って下さい」
とお願いするけど、
「撮ってみたが、尺がオーバーしたので編集でこれとこのシーンはカットしました」
とか結局言われるわけです。こっちは全部を計算して書いた台本なのに、大事なセリフやシーンが抜けてしまってる。そのストレスがすごくて。


と語るのは脚本家・山本むつみさん。ではなく三谷幸喜さん。今までのご自分の作品をインタビュー形式で語った本「三谷幸喜 創作を語る」の中の一節です。
しかしこの本読んだら、ああもう「八重の桜」も、山本むつみさん絶対こうだったんだろうなとか、勝手に思えて仕方なく
「やっぱしあれは、途中でブレまくったあげく迷走した大河だったんだ」と、この本を読んで勝手に確信しました

「(脚本がカットされるのは一般的に)台本の段階で長くなってしまい、どこか削らなきゃいけないって時。それから、僕はちょっとイヤだけど俳優さんの意向で、このセリフはいらない、このシーンはいらないと言われて削られるケース。それから、撮影してみたけど尺が伸びちゃったから最終的に編集でカットする場合」
「出来上がりを観ると、「なんでゆっくり芝居してるんだろうな、このシーンをもっとスピーディにやれば削られたシーンも入ったのに」と思う」
「丸ごと削られたそのシーンがないとこの物語は成立しないのに、そのことに僕以外のスタッフが気づいていないということが良くあった。(略)やっぱり削ったシーンは必要な気がしたな。ドラマ自体がぎこちなくなっていた」
「(「総理と呼ばないで」では)局側は心温まるいい話を期待していた。僕はシットコムのようなスピード感あふれる演出をして欲しいとお願いしたけど、意図が伝わってなかった。その時点でもう意思統一ができてないわけですね」
「僕とスタッフの意思統一ができていなかった。僕以上に思い入れを持った人が現場にいなかった」
「もっとこうすればいいのにって、映像的ではなく芝居の演出について思ってましたね」
「自分が演出してプロデュースするなら別だけど。脚本家の思いが強すぎると、出来上がったものはギクシャクしちゃうのかもしれない」
「(「合言葉は勇気」は、制作会社のプロデューサーと局のプロデューサーと自分の)3人がやりたいものを集めて、それから創ったわけです。気心も知れてたし、相反するものがなく、好きなものが一緒だった。僕以上にこのドラマに強い熱意を持ったプロデューサーが現場にいた。それがやっぱり求心力というか現場全体をまとめていく力となる。ドラマに「まとまった感」が出たのは、波多野プロデューサーのおかげなんですよ」
「(「新撰組!」は)いっぱいクレームもきたけど、それでもプロデューサーは「一切テコ入れする気はない。三谷さんは好きなように書いてください」と言ってくれた」
「「あまちゃん」があれだけ世間に受け入れられたっていうのは、もちろん宮藤さんの力が大きいけど、脚本家だけの力じゃないとも思うんですよ。脚本を現場で具現化する人、それから全体を引っ張っていくプロデューサーがいるんだと思う。宮藤さんがよっぽどディレクターと打ち合わせてるか、それとも宮藤さんの描く世界が本当に大好きなスタッフがいるってことですね。それはとても幸せなことだと思うなあ」
「(「振り返れば奴がいる」で)あのラストを思いついた織田さんはすごいと思う。役者は、全身全霊で入り込んだ役は、その作品の中で完結させたい。これはどんな役者でもそう思う。織田さんは司馬先生を演じるということにあの時の自分の人生のすべてを賭けてたと思う。すごく気迫があったし、やり切った感覚もあったと思う。だから中途半端に去っていくよりは、死にたいと思ったんじゃないかな」

「八重の桜」って私思うに、例えばウヨクには「これほど血を流してもまだ戦争という手段をあなたは保持しますか?」と問いかける一方、反戦サヨクには「敵が攻め滅ぼそうとやってきたらあなたはどうしますか?」と問い、薩長好きには「会津を犠牲にしたことについてはどう思いますか?」と問いかける一方、会津好きには「会津には他のやり方もあったのではないですか?」と問う、どの視点から見ても居心地悪く、しかも正解を出せないドラマだったと思います。すごく大げさかもですが、いわば「この世界がこの世界であるのはなぜか」を描いているような。描きたいのはキャラじゃなく世界、平たく言えば群像劇。
加えて、脚本家さんの「誰も悪くないから断罪できない」という信念あるいは体質。これらが醸し出す内容は、「八重の桜」というタイトルや綾瀬はるかちゃんから想起して、キャラに感情移入するドラマとして見ようとしていた人には、「あれっ?」て感じだった気がします。
キャラに感情移入するドラマ、すなわちほぼ主人公の一人称視点で進み、主人公との関係ですべてが敵味方に分けられ、誰に感情移入すればいいのかわかりやすく、批判や賛同はキャラの性格上の欠点や成長などに還元される、そういうドラマと「八重の桜」は正反対な印象を受けます。批判や賛同といった視聴者の感情は、キャラに還元されるよりも、そのキャラを成り立たせている「世界の構造」そのものに向かいがち。それこそが「歴史ドラマ」の面白さ、視野を広くして歴史を見る楽しさでもあると思うのですが、そういう作り方をしつつもキャラに感情移入させるドラマを作るのは、非常~に難しく、かつバランス感覚が要るものだと思います。キャラの魅力を見せる話なら、「多少のデフォルメ」も「キャラの新たな魅力」と力づくで済ませられるところも、こういうバランスに依って立つ世界の話だと、極言すればほんの1つの見せ方、1つのセリフの切り取り方で、ドラマ内での意味が変わり、危ういバランスで成り立っていた世界のどっか根本が崩れてしまいかねないといったような。そしてもしも、そのバランスを取りながら行く道筋が、脚本家さんにしか見えてなかったら。そのバランスの果てに見える世界に、脚本家さん以上に思い入れを持つ人がいなかったら。さらにはそれが1年間積み重なったら。
思い入れがない、というのは別に「この作品を大切に思わない」ってんじゃなく、目指す方向性が脚本家さんとは違う、というくらいの意味です。製作する側が、自分の製作物を大切に思わないわけがありません。ただ目指す方向性が、「関係性を見せる話じゃなく、主人公がどかーんと活躍する話にしよう」とか、「辛気臭い戦争の話じゃなく、視聴率が取れるような方向を目指そう」とか、その製作物を愛するがための方法論が、脚本家さんと現場のスタッフその他で食い違ってると、ストーリーのつじつまがあわないところが出てきたり、最悪当初描きたかったものはまったく骨抜きにされちゃったり、とかいったことにもなりかねず。
この「現場スタッフとの意思統一」は、上に挙げたように三谷さんもおっしゃっていて、本の中にはその忸怩たる思いを語るところが何度も出てきます。どころか極端な話、三谷さんはそのために映画製作に向かったとも言えるくらいで。
「三谷幸喜 創作を語る」を読むにつけ、山本むつみさんも、きっとそうだったんだろうな~と思えて仕方ないです。あるいは上記のような問いを投げかけられて怒る層からのクレームとかもあったのかなあ??私的には後半の「個人的にありえない3部作」すなわち「薩摩の女学生への土下座」と「腕相撲で遺恨解消」と「最終回及び前回の、殿の名誉回復系セリフ一挙削除&セリフ差し替え(というかぶっちゃけ、最終回と前回のすべて)」は、どれくらい当初の企画に沿ったものだったのか、ぜひ知りたいところです。

というわけで(?)前フリだけで早くもこんなに尺が伸びてしまってるわけですがそんなこんなありつつも、およそ30年ぶりに1年間見続けた大河ドラマでした。改めて、関わったすべての皆様にありがとうございましたm()m
ここで1年間を振り返り、去っていった皆様に花束を捧げるつもりで、好きなキャラ&シーンベスト10を!
と思ったのですが、それにしてもあまりにも尺が長くなっちゃったので、さらに長くなりそうな好きなキャラ&シーンは次回にします タイトル詐欺すみません;;

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八重の桜・最終回

会津の町を桜色に染めた大河ドラマ「八重の桜」も、ついに最終回~~~
会津在住としても、個人的には異例なことに1年間ドラマを見続けた視聴者としても、昨日は放映前からなんだかソワソワしちゃって ある種の興奮をもってTVの前に陣取るという「特別感」が昨日はありました。
が、最終回の内容そのものは「普通」でしたね~~ 八重の人生がまだ道半ばなせいか〆方のせいか、このままもう数話続いてもおかしくなさそうな感じ。ここぞとばかり盛り上げようとしないところが、いかにも「八重の桜」らしい終わり方ではありましたが

今回は長くなりそうなので、心に留まったシーンだけ(と言っても長いですがm()m)
さて最終回は、日清戦争での負傷兵を看護するところから始まり。
病院の様子は、圧倒的にノベライズより画面の方がよかったですね。ノベライズってやっぱり小説ではないんで、「描写力」という点で画面に負けちゃうんですよね。患者さんを動かす「1,2,3」とか、臨場感あってよかったです。
その後の、看護婦さんたちが口々に不満→「初めてのことにはいつでも反対する人がいる。私たちがまずやってみせよう」と教え諭す八重、このシーンも素直に良かったですね~~♪ 前編から引き継いでる意志がセリフの背景としてあるので、八重が言うのも説得力あって(セリフの説得力って、やっぱしこういう積み重ねよね。突然出てきたようなセリフだけ言ってもあんましね

という病院生活の中、取材に現れた徳富君。今回徳富君がらみのところが、見ていて面白く、かつ最終回が「普通」と映った原因でした。「徳富君によるこの問題提起は次回どうなるのか」と思わせながら、そのまま終わっていくので、結果的に「この話はまだ何も終わってない」という、最終回っぽくない印象が。

ここで、勇ましい話ばっかじゃなく現実も書いてと頼む八重ちゃん。ここも、先週までの流れなら「反戦平和に役立つ話も書け」になりそうなところ、「戦地の衛生向上に役立つ話を書け」というのがとことん現実主義な考え方だなあと。こういうところは筋が通ってる気がするんだけど、全体を通してみるとなんだかちぐはぐな印象を受けるのよね。「戦争にならないようにしよう」というのと、「起こってしまった戦争の中で力を尽くそう」というのは、決して矛盾しないはずなんだけど、何か矛盾を感じるのは「戦争にならない方法もあったはずだ」→「こんなバカげた戦争をしてしまったんだから、いくらその中で力を尽くしてもそれはすべて無駄」という、しかもどっちも主語を「会津は」のみとして語られたという印象が、先週植えつけられたせいだと思います(個人的印象)

さて八重ちゃんに「戦病死のことも書いて」と言われた徳富君はしかし、「今は士気を鼓舞する記事が優先」と反撃。こうしてマスコミにより戦争が煽られる時代になりました、という描写ですね。
ま徳富君の新聞は、同じ新聞でも現代の大手マスコミ読売朝日とかより、どっちかといえば「赤旗」みたいな「思想紙」に近い(主張は真逆だけど)と思うので、イデオロギー丸出しの記事が多くなるのは致し方なし。
しかし最近「新聞と「昭和」」という本を途中まで読んだら、大手マスコミはマスコミで難しい立場だなと。
この本、昭和初期の恐慌や満州事変などの「歴史的転換点」を、報道がどう扱い、世の中がどういう流れになっていったかみたいなのを、朝日新聞の取材班が軽めに検証しているのですが、途中まで読んだ感想としては「報道するも地獄、しないも地獄」みたいな
5.15事件に顕著ですが、例えば犯人側の陳述・言い分などを事細かに報道することで逆にテロへの同情を煽ってしまう。テロに同情した人々からのリアクション(小指を送りつけるとか、なんと19歳女子による飛び込み自殺まで)を報道することで、ますます同情は大きくなる。実際、同情の余地は大いにあったのでしょうが、その同情が大きな輪になることが、結果的に第2第3のテロを呼ぶという悪循環に。
かといってマスコミも、すべてを報道していたわけではなく、例えば「満州某重大事件」。
現地記者などはわりと「これは中国側の仕業じゃない、日本軍が仕掛けた」という情報もゲットしていたようなのですが、あえてそれを紙面で追及することはなし。もちろん言論統制などもあったのでしょうが、同時に「それをスクープすることが国益に反するかも」という自粛が働いた面も大いにあると。戦時も同様ですが、いかに個人が「戦争反対」と思っていても、実際に戦争の中でそれを言ったら、状況の足を引っ張るだけじゃないか、何もならないどころか逆に害悪にしかならないのではないか、という、「保身」とはまた別の、「現実的な考え方」がそうさせることもあるわけですね~。どんなに政府あるいは軍部に反対意見を持っていても戦争反対でも、1人の日本人として日本が潰れていいなんて思ってるわけありませんから、報道したことによる対内・対外的な影響を考えると、ついつい「自粛」の文字が浮かんでしまう。そしてそれが結果的に軍部の追従となり、やがてはどんどん言論統制という形で首を絞めることになっていってしまう。
しかし、じゃあ日本が世界中から反感買うのを恐れず、どんどん真相スクープすればよかったかというと、やっぱり私としては一概にそうだとも思えず。難しいなと思います。つまり、報道した結果ある方向に煽ることにもなれば、報道しなかった結果ある方向に煽ることにもなるというわけで。これはもうその時の世の流れとかそういうのの関係性でしか言えず、それを言えるのは後世になってからだという。
(この本、時系列ではなく「統帥権干犯」「テロの時代」といった具合に、かぶってる時代をテーマ別に語っているので、世の中の流れを頭の中で再編集しなきゃいけないのがめんどくさいのと、「朝日はこの時これには加担してなかったんですよ~」という言い訳くささが最初のあたり鼻につくのが難点ですが読み進むにつれて引き込まれます。昭和に興味のある方にはオススメ♪)

徳富君に関してはもう1コ、板垣死すともと対面した時もよかったですね~。強硬外交を唱える徳富君に、死すともが「おんしゃあ、若いの」としみじみ言うと、徳富君は一言「ええ」withスマイル
この時の徳富君のニヤ~~がよかった!視野は狭いけどパワーだけはある若者特有の(?)強硬論。これからは徳富君たちみたいな若者が時代を動かしていくんだという、恐ろしさと旧時代との決別が、このニヤ顔一発で

そうして日清戦争は終わり、八重も久しぶりの帰宅。
「ジョーが目指した、敵を憎まず、苦しむ人、悲しむ人に寄り添う世界-私はちっとでも継げているべか」
とジョーの写真に語りかける八重ちゃん。しかし思うんですけど、「敵を憎まず」って、八重ちゃんみたいに、敵を倒そうと戦い、しかし倒せず、家族から故郷からすべてを敵のために奪われたって人が、「敵を憎まず」っていうのは相当大変なはずで、なのにこのドラマではその大変さを、八重ちゃんを通してあまり描かなかったなあという印象がひしひしと
単に憎むべき敵に出会ってないから「敵を憎まず」と簡単に言えることも普通にあって、というかそっちの方が現代ではむしろ普通かもで、でも八重ちゃんの「敵を憎まず」は全然そんなレベルじゃないんだけど。なんかたまたま運が良くて「敵を憎まず」と言ってられる人が、敵を憎む八重ちゃんを「憎しみに囚われてる残念な人」と見ないよう、ドラマで「敵を憎む」描写を封印した(ように見える)のが、それこそ残念でした。そんなお気楽な人の脳みそぶんなぐるくらい敵を憎んで、そしてそこから解脱する様子を描いて欲しかった(腕相撲で解脱なんかしないでさ~

一方、戦後の三国干渉が納得いかんと怪気炎を上げる徳富君
「新聞の使命たい!」と炎上する兄貴を、「しょせん大勢に流されて酔ってるだけたい」とクールに見る弟・蘆花。
これはまったくもってそのとおりだと思うのですが(私はどうも徳富兄みたいな、煽り系体質は好かんたい)、しかし蘆花がこの時クールにそう言えてるのは、単にそれに興味ないからであって。
興味ないから流されずに済んでるのと、その渦中にあって流されないよう踏ん張ってるのとは、これまた同じ「流されない」であっても、「罪を憎まず」同様もうまったくレベルが違いますよね。蘆花はたまたま酔う対象が違うから、この問題に関しては酔っぱらってないだけで。まあそういう人が増えれば国家主義に関してはいい歯止めになるかもしれませんが、そのかわり別の形で国の破滅に結びつく可能性だってあるかもしれないので、なんというかまあ、どっちが正しいって問題じゃないですよねみたいな

そして佐久さんのラストシーン
衰えた~~って感じの佇まいが、まさに「歴史の生き証人」という風情を醸し出してましたね~。
あまり口を開かずぼそぼそしゃべる年寄り演技のせいか、母音子音すべてがファジーで、結果的に中間音や濁音が多くなり、会津弁もなんだかめっちゃリアルに聞こえて!
「当分こっちに来るなと言ってる」「ゆっくりしてってくなんしょ」は、しみじみといいシーンでした

そして八重さんは一人に-----

藤田五郎&時尾ちゃんが出てきてくれたのはとってもうれしかったのですが、しかしあのなぎなたシーンはいらないな~と いや「うれしくて体がはしゃいじゃう」「会津を思い出す懐かしい」「会津女はこういうふうに強いのよ」等々を伝えたいシーンだとはわかるのですが、単純に長かった
さらに、喜びを伝えたいシーンなら「こらっ」で終わるのもなんだか後味悪し ノベライズどおり「笑っている3人の目に涙が光っていた」でよかったと思うんだけど、なぜあえてあんなシーンを?ドラゴンアッシュはかっこよかったんですけどね~~ あそうそうこの後の山川もカッコよかったです。って1行で終わっちゃったけどほんとに、この大河における山川浩の存在は大きかった。色んな意味で「玉鉄ありがとう」です

慶喜・勝・春嶽(回想)も出てきましたが、ここで気になったのはお久しぶりの慶喜よりもその内面よりも、二葉ちゃん「こらっ」シーン同様、またまたノベライズとの違い
会津が京都守護職を受けたという報告を慶喜にする春嶽いわく「会津の主従は、都を死に場所とすると、覚悟を決めたのでございましょう」に続き「わが身の損得で動かぬ者ほど強いものはございませんぞ」とノベライズでは言うはずが、「その強い絆が仇にならねばよいのですが」(うろ覚え)
またまた記憶だけで書いてるので、録画した方、どうぞご確認くださいませm()m
しかし私はこれ見て「うわ~最後まで「会津の自業自得」を印象付けようとしているな~」と、またまた思っちゃいました 先週みたいに「尺が足りなくて削りました」じゃなくて、「同じくらいの長さのセリフに差し替えました」ですもん。なぜわざわざ差し替える必要があるのか。その言葉を慶喜が回想してるんなら、出てくる言葉は「そんな主従の絆が自分も欲しかった」じゃなくて「言葉通り仇になっちゃった主従の絆なんて、手に入らなくてよかった~」にしかならないでしょうに

その他、大山vs.健次郎や、頼母との再会や、八重vs.徳富君や、色々ありましたけど、さほど心に残るってこともなく。
「捨松ヘタだな~。たぶん口元がマズイんだな(モデルならともかく)」とか、「「勲章もらったけどうれしくない」のセリフは全カットか」とか、「「人を動かすその大きな力は、未来を切り開くために使わねばなんねえよ」と八重は諭すけど、徳富君はそのつもりでやってんだろうから、言葉としては意味なしでは」とか、断片的に思うことはあったけど、なんか「ああこれで終わりかあ」という感慨深さのようなものが先に立って。
最後、空に向けて銃を撃ったところから、光が射して、メインテーマどーーんというのは、やっぱり「おおっ」と感動でしたね~~ そのシーン自体にあまり説得力は感じなかったけど音楽の迫力というか、もう条件反射で。
そう、「未来を切り開くために」とかもそうだけど、説得力がね 「私はあきらめねえ」も、「どんなに戦況不利でも私は戦うことをあきらめねえ」という、戦争推進にだって使えちゃう言葉だし、なんかセリフだけ「いい感じなもの」として独立してて、そのセリフに込められた背景とかが、1年間の間に途中でひっくり返っちゃった感があるので、効果的に伝わってこないというか、どうにだって言えるというか。
空に向けて銃を撃つシーンも、「いい感じなもの」としては伝わるけど、具体的には空を撃つだけで何らかの形には結びつかないみたいな。あっもしかしてそういう「空しさ」を伝えたかったのかイヤマサカ
もしかしたらこのラストシーンはロールシャッハテストみたいに、この大河をどういう思いで見ていたかが人によって反映されて見えるものなのかもしれませんね 「人を撃たない=戦争をしないことで、雲を裂き光で照らされるような世界が来るといいたい話なのね」と思う人や、「結局戦争はとめられないという、空を撃つような空しさを描いていた話なんだな」と思う人、「ところで会津戦争はどういう位置づけなんだ」としつこくこだわる人とか人により色々あって、結論はないみたいな。
この、単純に1つの結論に落とさない感じ、そのため生じるカタルシスのなさ、これは今回の大河ドラマ「八重の桜」の性格そのものだったと思います、良くも悪くも。煽り系嫌いな私としては、こういう性格、決して嫌いじゃないけど・・・う~ん自分が会津とまったく縁がなかったら、もっと純粋に、製作側の意図どおりに考えることを楽しんで見れたドラマだったかも、という気はします。

しかし会津在住としては、会津の観光客が増えたこと、そもそもTVドラマで会津連呼されること自体が、非常~~~~にうれしかったことは間違いないところで。
色々文句言っちゃってすみませんでしたが、何はともあれ1年間、製作スタッフ&出演者の皆様には、本当に感謝でいっぱい!ありがとうございましたm()m
(そういえば今回、協力地に「川俣町」の名前がありましたけど、ロケ地だったのかしら!?川俣シャモの名産地♪)

けど、これで終わりなのはなんだか寂しいので、次回あと1回、好きなキャラやシーンベスト10をやらせてください

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49話は色々微妙

第49話は、ノベライズを読んだ時から「こ、これは感想を書きにくいな~」と困っていた回でした。会津好きとしては「これをどう受け止めればいいのか」感が、そうちょうど「薩摩の女学生」みたいで。

というのは今回、覚馬によって「前半の会津編全否定」ともいうべきテーマが出されるんですよね。さらにはそれが最終話まで引き継がれるという。ええっそれって「今年1年かけて言いたかったことはこれですよ~」ってことですよね!?まさかの会津編全否定が今年のテーマだったとは

まあ役者さんを通して見ると、印象が随分変わること多々だし、と、ちょっとハラハラドキドキしつつ見てみたわけですが。
思ったより全否定っぽく見えなかったです。役者さんのパワーってすごいわ~ まあ先読みしてたので耐性ついてたってのもあるでしょうけどTVで見ると「覚馬は、会津うんぬんよりもそれを通して日清戦争を止める方法はなかったのか考えてたんだな」というのが、ノベライズ時よりスーッと伝わってきて。

もちろんノベライズで感じた根本的な違和感は変わらずありました。
「勤皇の志は薩長も持っていた。国の見取り図もあった」うむ、それはわかります。前半でもそう描かれていました。しかしそこから「戦をせず、国を滅ぼさない道もあったはずなのだ」「会津は間違っていたというのですか!?」という流れになるのが、すべての違和感の発生源です。
「どちらにも義はあった」それはよくわかる。別にそこにケチつけたいわけじゃない。私がケチつけたいのは、「どちらにも義=理由があった結果としての戦争なら、その戦争責任だってどちらにもあった」なんじゃないのかってことです。なのになぜ両方の義は認めるのに、結果としての戦争だけは「会津が受けて立ったのが悪い」いわば「敗者側の自業自得」になるのか。まったく「薩摩の女学生」と同じ構図です。これじゃ「強者は戦争を仕掛けても何してもOK」という「強者の論理」を後押ししてるだけだと思うんだけど。そういう人がいくら卒業式で「弱い者の盾になってください」と演説しても、おっかさまみたいに泣けるほど感情移入はできないのよねん 「忠勤を尽くした大殿と会津の人々を貶めるのか」「亡くなっていった人たちを思ったら、会津が間違っていたとは言えない。これは理屈じゃない」と、健次郎君&八重ちゃんみたいに弱い者、この場合は会津の側に、あんつぁまが感情面で立ってないから。

いやまあ現実世界は「強者の論理」で動いてるんでしょうけど。だから弱者としてはせいぜい知恵を絞って戦を避けるしかしょうがない。覚馬が感情面で寄り添うんじゃなく、現実として弱者に処世術を施すことで弱者を救おうとしている人だというのも、だからよくわかりますよ~。わかるけど、強者が戦争を仕掛けてくることには何も言わず、弱者が負けたら自業自得で済ませてオシマイって、それが「反戦平和」なの?現実では役に立たないだろうけど、せめて言論として、あるいは教育者として、「強者が力を盾に戦争を仕掛けてくること」への異議申し立ても同時にして欲しかった。
(「現実では役に立たない」と書いたけど、しかしまったく役に立たない絵空事とも思いません。「戦争を仕掛けること」への戒めが共有されてるから、あの手この手で仕掛けられる側の理由を作るのが開戦の常ですし。だからこそそんな仕掛ける側の理屈に安易に乗って欲しくない)。
これはドラマの覚馬へというより、このドラマ全体への違和感です。ぶっちゃけ、「強者の論理」で抗弁してくる薩摩の女学生(としか私には見えなかった)に、会津の八重ちゃんが謝るシーンはあっても、「攻めていってすまなんだ」と薩長の誰かが謝るシーンはなく、「負けてうれしかったことは初めてだ」と会津の八重ちゃんが笑っても、「勝って悲しかったことは初めてだ(なんじゃそら でも描きようもあったと思いますよ。大山と捨松あたりで)」と悔いる薩長の誰かはいず。当たり前ですけどね 薩長は「あの戦は仕方なかった」とは思いこそすれ、戦をして済まなかったなんて、思いも寄らぬことでしょう。だから見事な応戦をした会津に、心ある人は「敵ながらあっぱれ」とも思ったわけで(あの磨きぬかれた開城後の鶴ヶ城とかね)。

余談ですが、海のおかげで鎖国することで領土を守れてきた日本と違い、戦って領土を広げてきた西洋では基本、戦って勝つことは「正義」以外の何者でもなく。というか「正義だから勝ったのだ」という意識すらあるそうです(あくまでも「そういう傾向がある」程度ですが)。
日本はまあ敗戦ショックもあるのでしょうが「勝った方が正義」と、若干の皮肉も込めて思ってるとこがありますよね。「勝てば官軍」なんてそれこそ戊辰戦争の頃から言われていたそうだし。
これはもう、どっちが正義かよりも「場」を重視する日本の伝統と、キリスト教的一神教的価値観が根付いてる西洋の伝統、そういう身に染み付いた伝統の違いでもあるのでしょうか。西洋はもう「勝者の論理」が身にしみついてるというか。

鎖国で国を守ってきた日本は一転、ロシアなど海外の脅威に対抗するため、いわば「日本を守るために海外を侵略する」という膨張政策を、この時代に取り始めますが、これはつまり「勝者の論理」に乗ったとも言えるわけですね。そして私思うに、これは明治政府が戊辰戦争で「勝者の論理」を手に入れてた勝者側だかからじゃないかと(なので会津側も勝ってたら同じようにしていたかもしれません)。戊辰戦争を戦い、勝ち、そうした自信と「正義は我にあり」感が次の日清戦争への推進力となり・・・そうして繰り返し膨張していった先に、1945年があった・・・とも言えるんじゃないかと。
「戦は始まるだろう。知恵や知識じゃ戦は止められないのか」と覚馬は嘆きますが、そりゃ無理でしょう。覚馬が自国のために他国を侵略する「強者の論理」を後押ししている以上、「清や朝鮮は弱かったから自業自得」どまりなわけで。ドラマの覚馬のような人なら、こういう考え方、もっとも忌み嫌いそうですけど、ドラマの覚馬(を作った人)はその矛盾、どう思ってるのか?

現代はしかし覚馬が望んだとおり、「人間の知恵や知識(を授ける教育)で戦は止まってる」ようにも若干見えますね、経済の力で。
人間の知恵や知識が経済を発展させ、国同士がお互い繋がりあったために、もう戦争なんかリスクが大きすぎて(今んとこ)できない。んがその知恵や知識が、おそらく覚馬やジョーが夢見たような「「戦争をやめよう」という人間の理性や道義心」といった崇高なもんじゃなく、もっと現実的な、例えば「もっといい暮らしをしたい」といったような自分本位で即物的なもんの賜物であることが皮肉です 「助け合い」という崇高な理念を前提とする共産主義が、その崇高さを維持するあまり強圧的な監視社会となりダメになっちゃった一方、人間の下種な欲望大肯定の資本主義が、結果的に国同士が相互扶助する世界を作っちゃうんですもんね~ あくまでも「結果的に戦争できなくなった」だけで、根本は戦争と変わらない、むしろ代理戦争みたいなもんでもありますけど。それともこれから、覚馬やジョーが夢見たような世界になっていくのかな?その時は下種な欲望の源泉である「生存本能」はどうなるのかな??

おっと妄想が膨張してしまいました
「望んで戦をしたわけじゃない。敵がご城下に土足で踏み込んできたから」と、会津の心情を代弁する八重さんに、覚馬は「大君の義」。
この時思わずという感じでズザザと土下座してしまう健次郎&八重がよかった 洋服を着ていても洋学を専攻していても、身についてる江戸時代はそうそう取れないという感じがとってもグーです。洋服着た明治人がこれなんですから、そりゃもう当時の「大君の義」の重さときたら。
この「会津はご家訓に引きずられた」というのは、後世の目から見てまさにそうで(ただし家臣たちはもちろん、殿も再三断って断って、でも結局は貧乏くじとわかっていながら引き受けたってのは念押し)、前半・会津編でもそれはしつこく描写されてましたね。
だからそのとおりなんだけど、「でも理屈じゃない。亡くなった人たちを思ったら間違いだったとはとても言えない」というのも、またそのとおりで。こういう、理性と感情の対立みたいなことはよくあって、どっちかをどっちかに無理やり従属させてオシマイにすると、反動が来てエライことになるというのも、またよくあることだと思います。覚馬が言ってた「近代化を推し進めてきたことに対する揺り戻し」というのも、この構図に当てはめることができるのかもしれませんね。

この「大君の義」問題(!?)を本家本元にぶつけてみましたというシーン、殿&山川兄弟。
ここでの山川浩、よかったーーー。ほとんど「八重の桜」に浩がいてよかったーーーーーと同義です
「あの時、会津までが徳川を見捨てていたら、この国にまことの武士はいなかったことになります」
そうです!!そのとおり!!司馬遼太郎さんと同じこと言ってる浩ですがいいのそれを言って欲しかったの
こういう「会津魂」が、後の皇民化教育に一役買ったことも事実ですが、しかし江戸時代の武士っていうのは、やっぱり良くも悪くもそれが「正義」だったわけで。それをひたすら忠実に守ろうとしたのはやっぱし、どう考えても「悪」とは言えず、そう納得して死んでいったなら、それを「間違い」とも言い切れないというか、言っちゃいけないんじゃないかという気が、個人的にはしてならず(というか、納得できないことを「これは正しいことだから」と納得させるのが「正義」とも言えますね)。
もっともこれは会津に肩入れしながら見ているからに他なりません。特に放映決定時「大河の舞台が会津!?マジで!?」と喜んでいた私とかは、「会津が舞台になる=会津へのシンパシーを描いてくれる」と思い込んでいたところがあったわけで 
それが、どうもそうじゃない、「会津のあそこが間違ってましたここが間違ってました。この過ちを繰り返さないようにしましょう」という教材にされてしまったのか?っていうのは、理性としてはわかるんだけど、感情としてはやっぱり寂しいんですよね この言葉あんまし好きじゃないんだけど、もうちょっと「寄り添って」ほしかったというかね。
もともと私とかは「フランス式に幕政改革をしていた慶喜のもと、一致団結して公武合体の道もあったんじゃないか?」「江戸は避けられたあの内戦は、本当に必要だったのか?」等々を今でも疑っていて、「しかしそんなことを言ってもしょうがない。それもこれもひっくるめて「時の流れ」だった」と思うことで、薩長会津どちらも悪くないと思ってるので、よけいにね~
というわけで、この作品の中でそこら辺の思いを引き受けてくれる浩は、ほんとによかった!個人的には上の司馬遼な浩と、その前、健次郎が「薩長にも義が・・・」とか言った途端「・・・なにい?」とあくまでも静かーーに言う浩が「That's HIROSHI」という感じで最高でしたコワカッタヨ

と、「思ったより全否定ぽくなかった」と言いつつも、散々あれこれケチつけてきたわけですが。
思ったより全否定ぽく見えなかったのは、上記のように「役者さんの力」「ノベライズ先読み済」というのもあるのですが、もう1つ、「戦をせず、国を滅ぼさない道もあったはずなのだ」のところで、あれっ?と思ったからなんですよね。
確かここ、ノベライズでは「会津は戦をせず~」になってたはず。そこで「会津は」を抜くとこのシーン、直前で薩長のこと話してたんで、「薩長は戦をせず~」というふうにも取れたんですよね。(その後を八重ちゃんたちが「会津のこと」ととして受けていたので、「それよ覚馬にそれを言ってほしかったのよ」というセリフにはなりませんでしたけど)
で放映後、改めてノベライズを見返してみたら、うわ~~~~あのセリフもこのセリフも削られてる~~~!!しかも「どうしてこれを削るよ」っていうセリフ、最大限に被害妄想をたくましくすれば「会津側に立つフリしてとことん腰が引けてんな」と思ってしまうセリフの削り方してる!
もっともこれは今に始まったことじゃなくて、会津編でも「なぜそこを削るか」というシーンやセリフはいっぱいあったそうです(私の記憶が確かならば、降伏式と、神保&土佐の切腹シーンでの「あんなお殿様に仕えることができて我らは幸せだ」みたいなセリフが、痛恨の2大削除
なので、今更目くじら立てることでもないのでしょうが、ノベライズ見直してみたらその削られっぷりに寂しさ2割増というか単純にビックリだったので、一挙ご紹介して鬱憤晴らし(と言いつつ記憶に頼ってるテキトーさなので「このセリフは言ってたよ」という記憶違いがあったら平にご容赦をm()m)

・まず最初、教育勅語のところで「内村鑑三先生は、教育勅語への礼拝をためらったために一高を辞職に追い込まれた」というセリフカット(wikiによると実際は「礼拝はしたが最敬礼をしなかった」とのこと。それで辞職するしないという大事件に)

・浩が「京都守護職始末記」を書く決意をしたのは、尚さんの「会津戦記」を引き継ごうという思いと、「もう1つの理由は政府が作った「復古記」」だった。「復古記」は王政復古史観が基調になっており、薩長の明治維新に功労があったものを顕彰するためにまとめられ、会津は逆賊として扱われていた」のくだりが全カット。

・浩が健次郎に対し「京都守護職始末記」を書く決意を語る中で「殿には、尾張松平家ご相続のお誘いもあったのだ。それを、会津を捨てて己一人の栄達を望むことはできぬとお断りになられ、朝敵の汚名を着せられたまま、亡き家臣たちを弔い続けておられる」のセリフカット

・「文久3年8月・・・」から始まる覚馬の回想、「三条が箱根で幕府討伐の兵を挙げようとしていると聞いて覚馬びっくり」のシーンがカット(これは私が見落としただけかも)

・八重と健次郎が角場の思い出話をして「女物理学者になったかも」と冗談で笑いあうシーンカット

・覚馬が八重に「学問など無駄なのか」と弱音を吐くシーンで「憲法ができ、議会が開かれても、それが人を守り、自由にするのでなければ何の意味があるんだ」のセリフカット

・続いて教育勅語をつかみ八重に渡して「「一旦緩急アレハ、義勇公に奉シ」この一文が人を縛りかねない」と覚馬が言うシーンカット(ここから「人を戦に駆り立てる力を止めねばならない。だが俺は無力だ」に続く)

・覚馬の臨終シーン「言い残すことはそこに書いた」と遺言状を示すシーン及び「遺言状には、残る資産の一部を旧会津藩主・松平家のために使って欲しいと書かれていた」のくだりカット。

・なぜご宸翰を世に出さなかったかと浩に問われた殿が、八重の思い出語りをするところカット。

・「会津を死地に追いやった」と自責する殿に浩が言う「会津に生まれ、殿にお仕えできたことは、我が生涯の誉れにございます」のセリフカット(以下「あの時会津までが徳川を見捨てていたら~」に続く)

・殿の最後の言葉「(会津がいかに誇り高く戦ったかを訴え)死んでいった者たちの名誉を回復せよ。ただし一国を滅ぼしたわしの過ちは(再び同じ道をたどらぬための戒めとなせ)」の部分カット。

・清国への派兵を決定する閣議で、伊藤の「やるにせよ、日本から仕掛けちゃならん」カット(これは私の見落としかも)

・徳富蘇峰の「これは、朝鮮を清国の支配から独立させる、正義の戦いたい」カット

・地の文「欧米流の文明を取り入れた日本が文明のための戦争をする、と捉えている知識人も多かった」カット
(これは大山と対峙する時の「それが文明というものではないですか?」という八重のセリフにつながってたはず)

・巌を説得する捨松の「(看護婦たちはよく訓練をつんでいます)会津の戦の時のように、女たちの手がきっと役に立ちます」のセリフカット

たぶん他にも見落としがあったり、逆にちゃんと放送されてたのに勘違いでここに入れちゃったのもいくつかあるかもしれませんがm()m 録画した方、もしよろしかったら見比べてみてくださいませ
まあねえたぶん尺が足りないから、言わなくてもわかるセリフや、論議を呼びそうなところはもうバンバン削られるのは致し方なし。八重ちゃんがらみも削っちゃっていいや、主役だけど
ただなーんか、教育勅語や明治政府や清・朝鮮などに対する配慮なのか遠慮なのかという腰の引け方、そのくせ会津=殿に配慮したセリフは遠慮なく削る(会津の話なのに!)と感じてしまうのは困ったもんです
まあこう感じてしまうのはたぶんに被害妄想でほとんどは尺の問題なのだろうとは思ってますが、しかし寂しいんですよね。会津や八重を描きはしても、会津や八重に愛情はないんだなとしみじみ感じられることが。そもそも主人公・八重の描き方からして、「従来の悪評」をくつがえしちゃるという義侠心というか「愛」はなく、おそらく善意のつもりでスルーまたは正反対に描くことで、結果的に「従来の悪評」そのものを固定化している印象が、一貫してこの大河にはあったのですが、会津に対しても同じように感じてしまいます。「愛情のない善意」がどんなにハタ迷惑か、そういや311以来よーく目にしたよなあとか、あさってのことまで思い起こしちゃったりして
何よりも、会津目線からするといっちばん大事なところ、すなわち「この時代は、故郷=会津=殿であり、会津の再興と殿の名誉回復はほとんどイコールだった」とか「会津が一貫して訴えていたのは、戦前も戦後も「会津は逆賊じゃねえ」。すべてはここに繋がるといっても過言ではない」とか、そういうなんというか「根幹」の部分にあまり注意を払わない(ように見える)というのがね。「わかってない」感が増してしまって。根幹部分を美化しろってんじゃなく、根幹を根幹として描いてくれ、当時のことを伝えようとするならっていう。
少なくとも会津編ではそれが根幹として描かれていた気がします。だから最終回目前のここに来て、それにまつわる部分を削除しまくり(に見える)っていうのが、どうも割り切れない

被害妄想が嵩じるあまり、気づけば長々と文句ばっか書いてしまいましたが
覚馬の臨終シーン「会津に帰れるな」は、そうは言ってもやっぱしうるっと来ちゃったし(おっかさまの「長いことご苦労だったな」に泣かされたー)、続く殿の、一目見ただけで「あ、もう長くないな」と思わせる迫真の演技は、覚馬臨終シーンの時に、一目見ただけで「あ、やっぱヘタだな」と思わせるツワモノ久栄ちゃんとかいたもんだから、ますます目が釘付けだったりと、色々心に残る名シーンはあったのですが、予想外に長くなっちゃったのでこの辺で

あっもう1個心に残る名シーン、ジョーの幽霊
あれノベライズでは声を聞くだけで、「ありがとう・・・ありがとなし」といった、あんなに長くも感動的なシーンではなかったんですよね。これはドラマの方が圧倒的に良かった
(他に、ノベライズだと最後大山が八重の肩をポンと叩くシーンだったのが、ドラマでは長々と握手するシーンに変更されてましたが、これは長すぎな上に、腕相撲とか早く忘れたい私には逆効果でした あそこはもうちょっと削ってもよかったであろうに。あそうそう、「日本から仕掛けちゃならん」の前に、ロシアの脅威としてシベリア鉄道に言及するセリフも、ドラマでは追加されてましたね)

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八重~会津の花

大河ドラマ「八重の桜」も、残すところあとわずか2回。
八重ロスの予感におののく方のために(?)、こんなマンガが発売されました♪

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「八重~会津の花」
作者は、このブログでもしつこいほど紹介させていただいた「清らにたかく」の著者・松尾しよりさんです
しつこくてすみませんが、私ほんとにこのマンガが大好きで 今年の大河ドラマを、時に文句たれつつ1年間楽しく見続けられたのは、最初にこのマンガに出会っていたおかげです。

「八重~」は「清ら~」と違って、会津編のみ。特に尚さんとのお話が大きな主軸になっています。いやもうこの尚さんが、泣けるほどカッコようて(そもそもしよりさんの描く男性キャラって、クールな悪役が妙~に色気あってカッコいいんですよね いや尚さんは悪役じゃないけど
いまだ尚ロスに苦しむ方には特にオススメしたいです!この別れシーンを大河でやったら、尚さんファンの数は桁違いになってたかもしれんと思うほど、印象深い別れのシーンで

印象深いといえば、会津戦争シーンも。大河では、そして「清ら~」でも描かれなかったエピソードがいくつか出てきます。これが史実なのが、やりきれない・・・ おそらくどんな戦争でも、こういうことはいっぱいあって、今私たちに伝わってるのは、ほんの一部なんだろうな、そして自分がその立場だったらe.t.c...といったことを思わずにいられません。

「清ら~」とはまた違う、独立した話なので、両作品では設定が微妙に違うところもありますが、私はどちらもそれぞれに、時に2つの話を頭の中であえて総合したりして楽しんでしまいました♪ また史実に忠実なのでほんの細かいところもリアリティをもって伝わってくるのは「清ら~」同様です。山川大蔵の子供時代は、NHK風優等生じゃなく、きっとこっちの方だったんだろうな~とか(後に尚さんと並んで「会津2大イケメン」と称されてたのがウケてしまいました♪) たぶん作者しよりさんの手には、いまだ描かれていない八重さんエピソードがもっともっと膨大にあって、作品に描かれているのはそのほんの一部なんだろうな~という感慨が、両作品を読むと湧き上がってきます。ああそれら膨大なストックを全部読みたい!

しよりさんが八重について描くのは、残念ながら今作品が最後とのこと
「天国の八重さんが笑顔になってくれるような作品を」という思いで、描かれたのだそうです。大河の話だけで八重さんが語られるのは無念すぎると思っていた方には、ぜひぜひ!
(大河では、八重さんの(特に京都時代での)「悪評」を、「悪評だからスルーしましょう」あるいは「悪評だから変えちゃいましょう」としているようにしか見えず、結果的に「悪評」として固定化されていきそうな雰囲気なのが、かえすがえすも残念でした 「悪評に見えるのは、こういう見方をしているからだ」と、リアリティをもってひっくり返してくれたしよりさん作品は、大河にはない、本当にありがたい視点を私に教えてくれました)

ただし、内容に無念な点はあるものの、大河として1年間会津人を主人公に放送してくださったのは、もう本当に「NHKありがとうm()m」の気持ちオンリーです。こと会津の風評被害に対しては、大河が、八重が、どんなに威力を発揮したことか!あのガラ~ンとしていた2年前の鶴ヶ城がウソのようです
風評まっさかりの中でも会津を走っていた県外ナンバーに、大河の舞台を見に来て下さることで風評を蹴散らしてくれる頼もしい方々に、こないだ「会津が好きだ」と、乗ってる間中熱く語ってくれた新発田のタクシー運転手さんに 今日も鶴ヶ城会館に停まっていた観光バスに、そしてそして素晴らしい作品で八重さんを私に教えてくださったしよりさんに、その他会津を愛する皆様に(単なる転勤族がおこがましい気もしますが)ここで改めてアリガトウ
「八重~会津の花」には、語り部である会津図書館のお姉さんが見た、震災直後~現在の会津の姿も出てきます。
人の思いは、八重の時代も今も変わらず、そして会津は今日も元気です

ちなみに会津の親善大使でもあるしよりさんの次回作はなんと!只見が舞台だそうです
どんなお話なのか、今から楽しみです♪

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