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じーちゃんの昭和

お前たち人間には信じられない光景を俺は見てきた
オリオン座の肩の近くで炎を上げる戦闘艦・・・
暗黒に沈むタンホイザーゲートのそばで瞬くCビーム…
そんな記憶もみな、時とともに消えてしまう
雨の中の涙のように・・・


私の父ことじーちゃんが、83歳で亡くなりました。
昭和2年1月1日生まれ(と公式ではなってますが、昔はいい加減だったらしいので実際はどうだか
昭和元年は12月最後の1週間しかないので、実質昭和の始まりとともに人生の幕が開いたようなもの。

7歳で母親を亡くし、父親との、ちょー貧乏&侘しい2人暮らしの中で見た、戦前新潟(紫雲寺)の、のどかな農村風景。
戦雲高まる中で渡った満州。その光景、生活。終戦後の混乱。
親戚に置いていかれ仲間たちと必死の思いで日本に帰り着くまでのドタバタ劇、等々・・・

じーちゃんの記憶の中にあった、これら「かつては確かにあった光景」が、じーちゃんの死とともに消滅してしまうのはもったいない!

だってあまりにも興味深い光景なんですもの。
こういう時代を、ついこないだみんなで経験したなんて、信じられない。
ついこないだ、だけどあまりにも違いすぎるからあまりにも遠くて、つい忘れてしまう時代の出来事。
けどどっか確実に地続きな光景も存在する時代の出来事。

「ブレードランナー」のレプリカントが見た光景は、レプリカントの死とともに永遠に消え去ってしまったけれど、幸いじーちゃんは、生前に思い出あれこれを書き残していました。
なので、じーちゃんが消えた今でも、その光景は蜃気楼のごとくではありますが、読むたびウッスラとよみがえります。同時に娘としては、見たことなかった若かりし頃の父親の姿もね(書き残すって大事ですね!!)

ということで(?)じーちゃんの書き残しをぽつりぽつりとアップしたいと思います。
あくまでも個人の主観たっぷりの記録ですので、史料的価値があるかどうかはギモンですが、「昭和史」にほんの少しリアルな色を足すための、画材の1つになることができたら幸いです。
(尚、タイトルは私が勝手につけたものです。また、旧仮名遣いや漢字表記は現代式に改めました)

昭和2年~15年
「俺、誕生」
「純情可憐な幼少時代」
「ハハ、シス」
・「泣き笑いビンボー暮らし~入学はしたけれど
「泣き笑いビンボー暮らし~悟り」
「泣き笑いビンボー暮らし~学用品」
「泣き笑いビンボー暮らし~学校生活」
・「小学校時代は神童!?」
・「I.C先生の思い出」
「明治男のど根性~盗電騒動」
「明治男のど根性~おカイコ様騒動1」
「明治男のど根性~おカイコ様騒動2」
「明治男のど根性~不倫騒動」
・「越後の四季」

昭和16年~20年
「高等科卒業~訓練所へ」
「満州鉱工青少年訓練所」
「満蒙開拓青少年義勇団の思い出」
「ヤマトバタラキ」
「一路満州へ」
「昭和製鋼・実教寄宿舎」
「実教寄宿舎・教習生の生活」
・「寄宿舎の思い出」
・「新入生はつらいよ」
「鞍山昭和製鋼所~鉄の都よ高炉の炎」
「昭和製鋼~頭が良くてはつとまらぬ!?」
「昭和製鋼~金と命の交換仕事」
「昭和製鋼~二き三すけ」
「悠然たり赤トンボ~鞍山の空襲1回目」
「悠然たり赤トンボ~鞍山の空襲3回目」
「徴兵検査」
「ついに赤紙!?」
昭和20年~
「ソ連軍との遭遇~時計編」
「ソ連軍との遭遇~女編」
「八路軍あらわる」
「八路軍入隊!?」
「八路軍入隊~O君の死」
「O君の死~続き」
「八路軍からバックレろ!その1」
「八路軍からバックレろ!その2」
「今度は国民党!?と思ったらブタ箱へ!」
「いよいよ引き揚げ!」
「ついに引き揚げ!・・・と思ったら」
「祖国目前・・・斃れた人々」
「さらば満州!」
「闇屋稼業」
以下続く
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テーマ : 歴史大好き! - ジャンル : 学問・文化・芸術

じーちゃんの肖像

「じーちゃんの昭和」ということで、父ことじーちゃんが書き残したものを、ランダムにポツポツとアップしてるのですが。
いや~~笑えるというか、楽しいです♪じーちゃんが若気の至りてんこもりで、ハツラツとしてて(まティーンエイジャーですしね)
もちろん本人の脚色も多少はあるでしょうし、カンペキに昔話となったからこそ笑って話せる、伸びやかな語り口のおかげもあるでしょうけど、それにしても。

だって私の覚えてるじーちゃんは、まるっきり正反対なんですもの!
じーちゃん、というか「お父さん」は、いっつも物静か~にどっかと座って、映画見てるか本読んでるか音楽聴いてるかで。
冗談なんかめったにとばさないし、そもそも口数からして少ないから、会話らしい会話もそんなになく。
無口で、マジメで、歴史や文化の造詣に深くて、なんというか「文科系リベラル」?そんな感じ。

そんでいて時々「この人オチャメね~」なところもありつつ
後年思うに、たぶん、無口でマジメな人柄の奥底に隠し持った、反骨精神のゆえだったのでしょうか。

基本おとなしい人だけど、新聞は朝日、政党は社会党、野球はロッテ(オリオンズ)、そしてそういう「マイノリティ」ぶりを誇り(?)にしていたようなとこがあったので、根はかなり反骨だったように思います。まあ、子供の頃から貧乏・家庭環境等で、ある種の「疎外感」を持ったままあの戦争に巻き込まれちゃって、弱い立場の人間たちが先に死んでいくのを目の当たりにしたら、それが背骨になるのは当然と、思想的にはお父さんに近い私なんかは、やっぱり思っちゃいますけどね~

けど「お父さん」の場合、それが正義臭くなく、押し付けがましくなく、かわりにオチャメと結びついていました。そう、ちょうど「じーちゃんの昭和」の語り口同様に。
思い起こすと、なんか時々、オチャメなこと言ったりしたりしてたんですよね

子供の頃、京浜東北線で川崎を通ったら、普段あまり話しかけないクールな(?)お父さんが
「おい前見てみろ。ロッテの帽子かぶってる奴いるぞ。ヘヘヘ
と、ヒソヒソうれしそーに話しかけてきたり
川崎以外じゃ、なかなかロッテファンなんかお目にかかれなかったですもんね

あるいは高校の合格発表。帰宅して「みんな受かったけど、友達の1人が落ちちゃった」と報告したら、普段あまり長々と話さない無口なお父さんが
「あのよ。長い人生なんだから遠回りしたってどおってことないから~~ウンヌン~~。と伝えろ」
と、何度頭の中で練ったのかってくらい滑らかな長文を、待ってましたとばかり語りだしたり

私が上の子の陣痛でうんうん言いながら、それでもガッツリすき焼き食べてたら、お父さん一人箸が進まず
「今日のすき焼きは甘すぎる」
とかすき焼きに文句つけて、途中で食べるのやめちゃったり(親の心子知らずだった私は「そお?じゃあ醤油かけて食べれば?」

お父さんのガンがわかった時、私に突如「車買ってやる」と言い出し、しかももったいぶって
「ここが俺の変わったところだが(←と、なぜか得意げ)、俺が選んだ車じゃないと買ってやらない。自分の好みに合わないなら、自分の金で買え」と言ってみたり
(結局それは「これからお金がかかるから、治ったらね」と、ばーちゃんと2人で阻止しましたが。気持ちはとーってもよくわかる、ような気はするけどね;;)

元気なうちにと親戚と行った小旅行で、観光地を訪れた人が一言書き残していくような備え付けノートをパラパラめくって
「みんな「○○ができるように」とか「××がうまくいきますように」とか小さい小さい。俺ならこうだ」と言って
「世 界 平 和」
と書いてきたとか

無口だったのは、話すことがないからじゃなく、照れ屋だから。
マジメだったのは、別にそれが正しいと思ってるからじゃなく、人に遠慮して辛抱してしまうタチだから。
照れ屋で遠慮深いと、反骨が陥りがちな「はた迷惑な正義」に堕さず、かわりにオチャメになるんですね。

最後に入院していた頃、回診で「今日はどうですか~?」と聞かれると、毎回、まるで昔の映画俳優のように一言
「可も無く不可も無く」
と答え、「私もそんな境地になりたいです」とお医者さんに言わしめたあたり、辛抱強い昭和ヒトケタ男の面目躍如、といったところでしょうか??

そんなお父さん、好きでした。
照れ屋さんで遠慮しーで忍耐強くて、本や音楽や映画が好きで、型に属さない自由な精神と同時に和の精神が好きで、そしてオチャメ。お父さんの娘に生まれてよかったよん

テーマ : ひとりごとのようなもの - ジャンル : 日記

昭和製鋼・教習生の生活

寮内における生活は、すべて時代を反映して軍隊式、ベルを合図の時間刻みの団体行動でカゴの鳥。設備はともかく、快適な生活など望むべくもなかった。

朝6時、ケタタマしいベルの音でたたき起こされ洗面その他。6時半から朝食、7時半ごろ全員寄宿舎前の広場に集合し、順次4列縦隊の隊伍を組んで、会社本館前の教習所へと登校する。
帰宅の時間は一定でないが、だいたい4~5時ごろ、各課ごとに帰る。

帰ったらまず部屋の掃除で、これが一年生に課せられた任務である。
掃除を終えて入浴。入浴時間は4~6時ごろまでと定められ、その間に済まさねばならない。
上級生もボツボツ帰ってきて、6時半ごろ、一同揃って夕食となる。
夕食が終わって8時までの1時間くらいが、一応自由時間である。自由と言っても寮内だけの話で、玄関から外へは一歩も出ることはできない。

8時になると自習時間である。9時までの1時間は各自の机に向かい、神妙な顔をして勉強(する振り)しなければならぬ。小便に行く以外、席を立つことはできない。
9時で自習時間が終わり、ホッと息抜きの時間。10時が消灯時間だが、その前に点呼という奴がある。全員各室前の廊下に一列横隊に並び、舎監の検閲を受ける。舎監が1号室から25号室まで回って歩くが、自室前に差し掛かると室長が
「何号室、総員何名、異常なし」
といった具合で、それが終わると就寝、1日が終わる仕掛けである。

教習所内での授業は、一般的な普通科目と、その課に応じた専門科目だった。
教師は現場(会社)の部課長クラスの人がこれに当たった。最初の頃は英語の科目もあり
「イッティズ ア ペン」
「ジスイズ ア ブック」
などとやっていたが、段々と戦争が本格的になるにつれ、敵国語の学習は自然沙汰止みとなった。
かわりに登場したのが支那語(中国北京語)で
「ポポモファパォー」(日本流で言えばアイウエオ)
てなことを言っていたが、あの流暢で独特なアクセントを聞くと眠気が先にたち、支那語の時間となると居眠り専門だった。
今にして思えば英語はムリとしても(頭の方が)、中国語は完全とまではゆかぬも、ある程度マスターしておけばよかったと悔やまれる。今となってはショマショマ・メーファーズである。

週に1回「武道」の科目もあった。
尚武館(道場)は少々離れていて、そこに通うには市外の繁華街を通り抜けなければならぬ。
後に2年生になった途端(恐い上級生がいなくなった)、道場に通う道すがら、市外の目抜き通りにさしかかるとドロンを決め込む。つまり隊伍を抜け出し、映画館の暗闇の中にと消え失せるのである。
柔道部に属していた俺は、試合では5人抜きなどやらかし、そこそこの腕前だったが、映画の前には柔道も形無しだった。武道の時間となるとトンズラの常習犯で、危険を冒して(未成年の入場お断り)ひとり映画を堪能していた。飲兵衛が酒屋の前を素通りできぬごとく--

食事についての待遇はすこぶる良かった。特に夕飯は吸い物のほか、肉や魚が欠くことはなかった。
草深い田舎に育ち、青物(野菜)以外食ったことのない、否、食いたくとも食えなかった身にとってはまさに山海の珍味で、盆と正月の連続だった。
ただ昭和17~8年となると、徐々に食糧事情が悪化し、飯の盛り具合が悪くなり、オカズに不足はなかったが、米飯の量はとても胃袋を満足させるには程遠いものだった。
そのうち、芋・大豆に小豆、うずら豆、果ては大根まで飯に混入されるようになったが、余すところなく平らげた。大根以外はけっこううまかった記憶がある。何を食ってもうまいほど、腹の皮がヨジレかかっていた頃で、質より量の時代だった。

「じーちゃんの昭和」目次

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

昭和製鋼・実教寄宿舎

鞍山駅に下車、右手方向を車で15分くらい、中心市街地はずれに初音街がある。
鉄道路線を右側一帯が広大な、東洋一を誇る製鉄所-昭和製鋼所である。
左側一帯が住宅街で、その全域が社宅、その一角に我らが憩いの殿堂-実教寄宿舎があった。

3階建て3棟に、5~60人が一度に入浴できる大浴場、全寮生700余名が一度に食事できる大食堂兼講堂からなり、当時としては近代建築の粋を極めた豪華版だった。
各棟、定員8名の部屋が25室、そのほかに舎監室、寮母室、休養室、娯楽室があり、各階にはこれも当時としては珍しい水洗便所、蛇口の片方が水、片方がお湯の出る洗面所兼洗濯場と、至れり尽くせりの設備だった。

寮母室とは、野郎ばかりの中での紅一点(?)、といっても中年過ぎのオバサンがいて、野郎っ子ではできない裁縫や、休養室の人(入院するほどでもない軽い病人)の面倒を見るのが仕事だった。

室内は板張りの床で、真ん中に4個の腰掛机が向かい合い、その真ん中に本立てが8個並ぶ。
両側には1段高く、畳敷きの寝床(押入れつき)が2人分、それにハシゴがかかり、その上に2人分の寝床と、合理的に設計され、8畳~10畳くらいの広さだったと思う。3年生2名、2年生2~3名、我々新入生が3~4名の8人暮らし、同室者は同課員の構成だった。

室内にはスチームが設置されていて、冬期間は自動的に稼動され、寒さはまったく感じられなかった。
しかしさすがに当時はまだ冷房はなかった。もっとも満州は大陸性気候で、夏でも夜は涼しく、冷房などは不必要だった。

支給される必需品も豪華(?)なもので、外出用の制服・制帽・制靴に、作業服に作業帽、作業靴、夏服用の下着類に各シャツから、外套(オーバー)に雨合羽、手袋、靴下、巻脚絆(ゲートル)、耳覆に至るまで、およそ身に付けるものの必需品一式で、これが半年に1度支給される。
さらには教科書、参考書、文房具一式、鞄からコップ、箸に至るまで、至れり尽くせりの待遇で、大会社(半民半官)ならではの大盤振る舞いだった。その上、月10円也の手当を支給され(2円は強制的に貯金させられた)、自分で買うものと言えばパンツ(もしくはふんどし)くらいの物だった。

もっとも全員同一型の同一色(国防色)に統一されている手前、変わったものなど身にまとう余地も必要もなかった。
ただその中にあって異色だったのは、我々1年生に支給された外套で、本来国防色の予定が、染色過程でのミス(?)か何かで緑色となった。
カーキ色全盛の時代に鮮やかな緑色は、宝塚のオネエチャン然として、ひときわ目立つ存在だった。それが為、一目で教習生と判明し、不都合な点もないではなかったが、おかげですごくモテた。もちろん全部が全部と言うわけではない。

「じーちゃんの昭和」目次

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徴兵検査?~カンエツテンコ

「カンエツテンコー」あるいは「ケンエツー」だったかもしれぬ。いずれにしても未だに字も意味もよくわからない。軍隊用語で、定期的に行われる検査のごときものだったらしい。
昭和19年か20年ごろ、月も定かでないが、終戦少し前のことだった。当時満州では徴兵検査を来年に控えた19歳の男子全員に、この「何とかテンコ」でしかるべき場所に出頭せよ--との通達が来た。

当時19歳男子は「第二国民兵」と呼ばれ、在郷軍人の一員とされていた。と同時にその筋から
「戦況もますますエスカレートしている折柄、いちいち徴兵検査などやっている暇はない。それに替わるものを前もってやっておき、必要に応じて赤紙でドシドシ引っ張るのであーる」
と宣告されていた。それがこの「カンエツテンコ」だった。出頭にあたっての心得は
「奉公袋持参のこと、必ず越中ふんどしを着用のこと」
の2点だった。

戦争も激しくなり物資の不足も手伝い、生地が不経済でもあり、パンツ発祥の地が敵性国家のためか、多くの人が日本古来の「ふんどし」を着用していた。
当時衣料店などで売っていたかどうか知らないが、ありきたりの手ぬぐいに紐をつければ一丁上がりで、チョンガーにとってはありがたく重宝な物だった。
第一あの「越中ふん」は、事に望んで便利この上もなく(?)、唯一の欠点は夜中に息子が勝手に一人歩きすることである。就寝前いくらしっかと締めても、翌朝起きると、不肖の息子のその又息子が必ず顔を覗かせているから困ったものだ--。

偉い人(と思われる)が大勢見守っている中、例の越中ふん1枚の素っ裸で順次、身体検査が始まる。
身長、体重、胸囲など型どおりの体力測定が、時たま気合をかけられながら行われる。気合の主は軍医である。
一通りの検査が終わりに近づき、最後にいかめしい顔つきの軍医が椅子に腰掛けて控えている前に、直立不動する。すると軍医の奴、無礼にも我が越中様を無造作にサッと下に引っ張り、「親にも見せない玉手箱」をサラケ出す次第となる。当時はまだ「男子の逸物」にはほど遠かった?
軍医が我がモノを握ったり引っ張ったりして、異常(性病)がないとわかると、「廻れ右」の号令だ。
床には白墨で丸が4つ書いてある。その上に両手両足を着き、犬猫同様の姿勢をとらされる。つまり四つんばいになって尻(痔)の検査だ。「異常なし」を確認すると、「よし!!一丁上がりー」と尻をピシャリと叩かれ、これで身体検査の部はすべて終了となる。

ふんどしを締めなおし、上座の一段高いところに、机を前にデンと腰掛け、方々に睨みをきかせて控えている関東軍のお偉方(大佐か少将だった)の前に、恐る恐る進み出て一礼後、あらん限りの声を張り上げて
「第二国民兵--何の何兵衛!」
と怒鳴る。するとこのお偉方、ジロリと顔や身体を見回し、なにやら机上の書類にハンコを押していた。

これで終わりと出口に向かうと、出口手前の通路片側に、机を並べて5~6人の偉い人が、関所よろしく待ち受けている。
カイゼルのごとき立派な鼻ひげをたくわえ、「俺より偉い奴はいない」とそっくり返っている在郷軍人の偉方(M大佐だったと思う)や、金モールでベタベタ着飾り、泥棒を見るような目つきの悪い警察署長を始め、市内の各所高官や、白エプロンに「大日本国防婦人会」というたすきをかけ、「嫁いびりが最高の趣味」といった意地悪い顔つきのオバハンなどが控えている。
これらの人々の前に順次一礼して立ち止まり、彼らの品定めにさらされるわけである。
彼らの手元には我々の本籍地、現住所はもとより、生長過程、家族の状況から頭の程度、特技に賞罰、趣味嗜好に至るまで、こと細かく記載された身上書がある。誰がいつどこで製作したものか、本人にはわからない。プライバシーもヘッタクレもあったものじゃない。
この書類と我々の顔と身体をジロジロ見比べながら、必要に応じて質問する。俺の場合
「うむ--お前には母親が無かったのか」
と、とぼけた奴もいたもんだ。幼い時に死に別れたまでのこと、最初から無かったわけじゃない(もっとも親父からは年中、川流れとか木の股から生まれたとか言われてはいたが-)

小一日後、無事徴兵検査も終わった。
戦争も激化の一途をたどり、「シコの御盾」がいくらあっても足りぬ折柄、よほどのことが無い限り「甲種合格」間違いナシだった。
先輩諸氏の話によればこの時、だいたいの兵科が決まるという。
帰路、検査も終わった気安さから、同僚5~6人と勝手なオダあげながら三々五々歩いた。
「俺は歩兵がいいなァー」「工兵だけはご免だ」とか「俺は憲兵になりたい」「そらームリだ」から「騎兵が格好いいなァー」といった調子だ。第一その当時「騎兵」などという兵科は廃止されていたはずだ。近代戦争のさなか、馬にまたがり「やアやア遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ」でもあるまいて--その中の一人が俺に向かって
「お前はおそらく砲兵だ。その身体では間違いない」
と言う。砲兵と身体とどう関係するのかわからんが、それならまんざらでもないと内心ほくそ笑んだ。
実は我が家と砲兵は比較的縁が深く、親父が砲兵だったらしい。「俺は38式速射野砲だ」と言っているのを小耳に挟んだ記憶がある。若き日の蒋介石が留学か留兵?かしていて、一緒の連隊とかで時々見たとも言う。次兄も仙台あたりの砲兵だった。
尚、当時各連隊番号を表す襟章の色は、砲兵は黄色、歩兵は赤で、憲兵は黒だった。

さて得手勝手な熱を上げながら歩いてきた我々を、後からつけてきたゴツい奴が呼び止めた。
代表の1人がその人相のよからぬ奴と、なにやらゴソゴソ話していたが、後で聞いたところ、これが何と私服憲兵だった。つまりは
「いい若い者がデレデレしないで、シャンと歩け」
との小言だった。

「じーちゃんの昭和」目次

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